所在地 京都市東山区泉湧寺山内町29
山号 -
宗派 真言宗
本尊 丈六釈迦如来
創建 安貞2年(1228)
開基 曇照忍律上人
赤松氏本家滅亡の地と云う |
東大路道のから泉湧寺道を登る。 しばらく登って行くと大きな総門がある。 この門を潜った先の左手に戒光寺があります。
説明板。
泉湧寺の塔頭の一つで、安貞2年(1228)、宋から帰朝した曇照忍律上人により八条大宮の東、堀川の西に創建され、後堀川天皇の勅願所となった。
その後、応仁の乱により一条戻橋の東に移り、三条川東を経て正保2年(1645)に現在地に再興された。
本尊の釈迦如来(重要文化財)は、運慶・湛慶父子の合作で、寄木造の極彩色で宋風を帯び、他に例を見ない木彫の大仏であり、鎌倉時代の代表作でもある。
首から上の病や悪いことの身代わりになって下さる身代わり釈迦と言われている。身の丈5.4m(一丈八尺)、光背と台座を含め約10m(三丈三尺)であるが、昔は大きな仏像を「丈六」と呼んだことから、「丈六さん」として親しまれている。
後陽成天皇の皇后の御信仰や、御水尾天皇の守護仏としても深く信仰され、再び勅願所となり、「身代わり丈六さん」と呼ばれ、皇室の祈願所として栄えた。
京都八釈迦の一つに数えられ、嵯峨清涼寺(嵯峨釈迦堂)、大報恩寺(千本釈迦堂)などとともに庶民にも深く信仰されている。
また、泉山七福神巡りの一つである弁財天像は最澄の作とされ、融通尊で、いかなる願いも必ず成就させるといわれている。
京都市
説明文のとおり、戒光寺は安貞2年(1228)に八条大宮の東、堀川の西に創建された。
現在は南区西九条戒光寺町となっている。
跡地は戒光寺公園となっている。
特に寺の痕跡はありません。
北側をJR東海道線が走っています。
線路脇に標識発見!
近づくと…
これでも、堀川に架かる橋という。
川など見当たりませんが…
どうやら堀川は暗渠になっているようだ。
堀川の西側に戒光寺があったという説明どおりでした。
堀川の東側にある公園は、寺の前児童公園。
町名にもなっている。
戒光寺公園の西側には、境内町、西戒光寺町、小寺町等の地名が残っています。
その後、応仁元年(1467)に勃発した応仁の乱により堂舎を焼失するが、本尊釈迦如来は兵火を逃れ仮に一条戻橋付近に移った。
現在は、上京区戒光寺町となっている。
行ってみたが、通りの右側に設置してある消火器の箱に町名が書いてあるのみ。
(京都の街に設置してある消火器の箱と、各町毎に設置してある掲示板は、場所を特定するのに大変役立ちます。)
その後、三条可東の地に移築されたと云う。
現在、町名すら残っていないが、安土桃山時代の地図によると、天性寺の南東にあったようだ。
赤松本家、赤松則房の次男であった赤松則英は、関ヶ原の戦いに西軍として参加し、佐和山城に籠城していたと云う。
しかし、東軍に寝返った小早川秀秋軍らの攻撃を受けて落城、その後福島正則を頼ったが、赦されずこの地で自害させられたと云う。
今は京都随一の繁華街である三条河原町の地が、赤松氏滅亡の地とは…
その後、戒光寺は正保2年(1645)後水尾天皇の発願により泉湧寺の塔頭とされ現在に至る。
現在の本堂。
この大仏には首の辺りに血の跡がある。
後水尾天皇が皇位継承争いの中で暗殺されかけた時、この大仏が身代わりになったとの言い伝えがある。
残念ながら撮影禁止。
その前にいたネコ。
「どうでもいいんだニャー」
境内にある泉山融通弁財天。
最澄の作と云う。
最後に、このお寺が有名になったのは、墓地に伊東甲子太郎以下14名の御陵衛士が眠っていることです。
お参りするためには事前に予約が必要
今日は外からちょっとだけ。
最後に御朱印。
今は泉湧寺の塔頭の一つに過ぎない寺ですが、勿体ない程の歴史を持ったお寺でした。
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