プールサイドの人魚姫 -6ページ目

プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。

Nikon Z7Ⅱ,Mモード,WB晴天,ISO200,SS1/50秒,f/6.3 Z24-200mm f/4-6.3VR

 

 

 この写真は昨年12月、九品仏浄真寺へ紅葉の撮影に行った際の一コマである。この寺に野良猫が数匹棲みついている亊など知らなかった私はこの場面でかなり驚いた事は想像だにしない。「えっ!」ともう少しで声が出るほどだった。浄真寺は九つの阿弥陀如来像が安置されている事でも有名だが、この寺の紅葉も言葉を失うほど見事である。
 紅葉の撮影に夢中で猫の存在に全く気付く事なく帰ろうとしたその時、猫の姿が眼前に飛び込んで来た。しかも石の上に正座しているではないか!。その猫の目線の先には数人の観光客がおりスマフォを猫に向けて記念撮影。そして撮影が終わるのを見計らったように、石の上から「ひょいっ」と飛び降りるとゆっくりな足取りで閻魔堂の方へ消えて行った。猫は石の上に居れば訪問客が写真を撮る事を知っているのだろう。何とも賢くサービス精神旺盛な猫の姿に微笑ましくなった。
 さて、『石の上にも三年』と言う諺があるが現代ではもう通用しない化石のような諺になってしまった気がする。我慢や辛抱は日本人特有の美徳とされていた時代は遥か昔の事で、現代人は変化を求め様々な分野にチャレンジするようになった。時代の流れに沿っていないと取り残されると言う一抹の不安を抱える人々も増え、より一層のストレス社会が精神を蝕む混沌の時代とも言えるだろう。
 私は16歳で就職し社会人となった。養護学校を卒業した後、清水市駒越(現・清水区)に在った療養型職業訓練施設で一年半ほど過ごした。三保の松原や久能山東照宮が徒歩で行けるほど近い距離にあり、駿河湾と富士山を毎日眺めながらの日々で良い環境下であった。実習で最も興味を持ったのは豚の飼育。子豚の頃から育てるのだが豚が綺麗好きで非常に繊細な動物だと言う事も知った。一匹の豚が食中毒で死んでしまった時は心が折れるほど悲しかった。施設を出る時期(就職)が迫って来ると、親を呼んで三者面談が行われる。私の父はヤクザで前科者だったため、伯父が父親代わりとなって色々と相談に乗ってくれた。
 そして静岡市沓谷に在る『中央工芸静岡支社(本社・名古屋)』に就職した。16歳の少年が右も左も分からず世間の荒波の中へと飛び込み、人生の帆を張って歩み出したのである。会社の規模はさほど大きくはなかったが、私以外の社員はみな30歳を越えており、私のように10代の少年・少女はまさに『金の卵』と呼ばれていた時代で、『若さ』それだけで十分通用していた。
 優しい先輩たちに囲まれ最初の職場としては理想的だったと思う。先輩の中でひとり、顔を合わせる度に「とにかく三年頑張れ」「貯金をしろ」が口癖のような人がいた。それらは私の将来を思っての助言であるのは分かっていたが、16、17歳はまだまだ子どもの部類。ただ、本人は早く大人になりたくて背伸びするから時々それが暴走し、羽目を外す結果となる。
 最初の給料で、真っ先に購入したのはポータブルプレコードレーヤーだった。レコード盤は大量に持っていたがそれを聴くためのプレーヤーが早く欲しかった。中学時代からロックばかり聴いて育ち、ラジオで『オールジャパンポップス20』を聴くのが愉しみだった。そして2回目の給料でモーリスのフォークギターを購入。ロック少年はいつしかギターを弾くようになり、仕事が終わるとギターをかき鳴らしボブ・ディランの『風に吹かれて』を歌いまくっていた。「3年経ったら俺は駿府会館のステージに立っている」と本気で夢を描いていた。然し、それらの夢の前にたちはだかったのが『心臓病』だった。就職して3年が経った頃、静岡市立病院で最初の心臓手術を受けた。
 手術すれば完治するんだと信じていた・・・。だが、その想いは儚くも切り捨てられた。そして始まった青春の暴走は周囲の人々を巻き込みながら、思わぬ方向へと転落の一途を辿る事となる。ところで、私の愛猫タラ(キジトラ)の事だが、もう14歳の高齢だが今も元気である。現在は埼玉の元妻の所にいるが夜になると野生の本能をむき出しにして、部屋中を走り回って居ると言う。タラに癒されて酷かった不整脈が収まった時の事は今でも忘れない。

 

 

 

Nikon Z7Ⅱ,Mモード,WB晴天,ISO200,SS/10秒,f/16 LAOWA FFⅡ 14mm f4.0 

 

 

行方知れずの恋心
川面に揺れて流されて
破り捨てても戻される
あなた恋しや隅田川
橋のたもとに立ち尽くす

一夜限りの恋ならば
他人の体に身を任す
波の灯りに照らされて
浮世の風に流される
馬鹿な女の独り言

揺れる心にあなたの影が
今夜も映る刹那の川に

想いの欠片を流します

 

 

 隅田川のクルーズ船を撮影した後、中央大橋を新川方面に渡り、隅田川テラスを散策しながらスカイツリーのある方向に暫く歩くと永代橋に着く。隅田川に架かる橋の中で青くライトアップされる橋は築地大橋など幾つかあるが、やはり私は何と言っても永代橋の青が好きである。青と言うより瑠璃色と表現すべきかも知れない。
 永代橋の歴史を紐解いて見ると、元禄9年頃でなんと江戸時代にまで遡る。広重などの浮世絵で当時の永代橋を見る事が出来るが、名前が付く以前から橋はあったらしく、「深川の大渡し」と呼ばれていたようだ。「忠臣蔵」の赤穂浪士が吉良邸から泉岳寺へ引き上げる際に渡った橋としても有名。
 撮影したこの日は確か「ピンクムーン」だったと記憶しているので4月中旬辺りだろう。陽が沈み辺りが夜の帳に包まれると、その風景は一変する。超広角レンズと三脚を使用するようになってから、夜景撮影がより一層愉しくなった。
 瑠璃色に輝く永代橋の灯りが川面に反射して、果てしなく拡がる蒼茫とした海が紺碧の空にまで続いて行く…。300年前、江戸の人々が様々な想いを馳せてこの橋を渡る姿が垣間見えて来るようで、私は暫く橋の袂に立ち竦み物思いに耽っていた。

 

 

Nikon Z7Ⅱ,Mモード,WB晴天,ISO64,SS1/320,f/3.5 NIKKOR Z MC105mm f/2.8 VR S

 

 

人はなぜ争うのだろう
美しく清らかな花のように
優しい気持ちになれたなら
どんな過ちも許せるのに
地球が丸いのは
世界が一つに繋がっているから
どんな土地にも花は咲く
例えそれが
戦火の中であったとしても

 

 

 ウクライナ私物化を企む利己主義の塊、プーチン大統領。『ウクライナの同胞を解放する』を大儀名分とし、軍事侵攻の正当性を国内外へ向けてアピールする。強かな彼の脳裏にはこの戦争への『勝利宣言』と『打倒ゼレンスキー政権』しか存在していないのだろう。
 戦後70年、平和な国に生まれ変わった日本に私たちは育ち、激動の昭和から~令和へと逞しく生き抜いて来た。この国にとって戦争は非日常の出来事へと戦争の歴史と共にページを閉じた。戦争そのものを体験した年代の人口も激減し、過去の遺物として時折、語られるに過ぎない。然し、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が非日常を日常へと激変させたのである。
 日々、激しい攻撃に晒されているウクライナの現状は、この地球上のあらゆる国の未来の姿なのかも知れない。北方領土問題を抱える日本は、この戦争を対岸の火事として捉える事は到底出来る筈もない。
 旧ソ連の貧しい時代を体験しているロシア人にとって、欧米各国の経済制裁はさほどのダメージを与えるには至っておらず、今後数年先まで見通す必要性があり十分な効果を発揮するまでにどれほどの時間が掛かるのか、ロシア国内の経済動向を注視し、徹底分析を続ける意外にないのが現状だ。
※近所に咲いていた椿?を撮ってみて、薔薇に似ていると思ったが、赤い薔薇と根本的に違うのは、その花の持つ存在感と色である事に気づいた。薔薇は艶やかで、激しい情熱を秘めているが、椿はその真逆で、目立つ事を嫌う慎ましい姿…。それゆえ、散り行く椿が最も美しいのはそのためだろうと思った。
(5月8日の入院前に下書きしておいた記事。加筆・修正せず執筆時のまま投稿する事とした。)
※※コロナが急拡大しております。皆さま、油断せず十分注意してこの夏場をお過ごし下さいませ。

 

 

Nikon Z7Ⅱ,Mモード,WB晴天,ISO64,SS1/160秒,f/5.6 LAOWA FFⅡ 14mm f4.0 

 

 

 6月上旬、2度目の入院と共に関東地方が梅雨入り。5月も殆ど病院暮らしだったので、カメラを触る時間も殆どなかった。そして予想外の再入院で更にカメラの時間が遠のいて行く。「梅雨で当分はぐずついた天気だし」と自分に言い聞かせカメラの虫が騒ぐのを抑え込む。
 そして2週間の点滴と検査三昧の日々を終え退院。入院中は「退院したら〇〇へ撮影に行く」とそんな事ばかり考えていた。ところがである…。腎臓が悪化する一方でブレーキが掛らないのである。クレアチニンの数値を見た担当医が渋い顔で言った。「撮影は当分禁止ですよ…」。今、腎臓に必要なのは安静だと言う。確かに両足は赤ん坊の足のように「ムチムチ」して肉付きが良いように見えるがそれは「浮腫み」。だが、心不全は起こしていなため、私自身は元気。撮影に行きたくてウズウズしている状態…。眼には見えないが腎臓が大声で泣きじゃくっている姿を想像出来るだろうか…。
 兎に角、ここはグッと堪えて我慢するしかない。透析を目前にして首の皮一枚で辛うじて繋がっている状態。あれこれと騒ぐ心を落ち着かせ6月もそろそろ終わると思いきや、なんと関東地方が梅雨明けだと言う!しかもここ数日の35℃を超える猛暑は一体どうしたと言うのだ?今年の梅雨は一か月も経たない内に終わってしまったのか…。これからの数か月うだるような暑い夏が延々と続いて行くのか?炎天下での長時間歩行や撮影は健康な人でさえ危険であるから、退院したての私なんかがフラフラ出歩いてよい訳がない。ならば夜景撮影ならどうだ?と思いきや節電のため、スカイツリーや隅田川の橋はライトアップ中止…。隅田川の花火も中止となり、私から撮影の機会を根こそぎ奪って行くこの夏が憎い…。
 当分の間は過去に撮ったpicが中心となる。煮え滾る暑さの中で、一服の清涼剤となるだろうか?この隅田川とクルーズ船。この日の目的はクルーズ船の撮影ではなく、本命は永代橋のライトアップ。だから14mmの超広角レンズ1本しか持っていなかった。ズームレンズがあればもう少し船に寄った迫力ある写真が撮れただろうと思うと、少し残念な気がする。中央大橋の上からの撮影である。そう言えば、知床半島沖で起こった観光遊覧船の沈没事故、あれから2ヵ月以上が経ちニュースでも殆ど聞かれなくなったが、未だに安否不明者が多く残っている。残された家族たちの悲しみは消える事なく知床の海に今も漂っているに違いない。

 

 

 

 

 6月6日、救急搬送にて再入院となった。5月28日の退院から僅か10日余りで病院へ逆戻り。長い闘病生活の中で、これほど短いサイクルでの入退院は初めての経験である。前回と同じく『うっ血性心不全』の急性憎悪であるが、今回は症状の現れた方が少し違っていた。
 元凶が心臓疾患である事は言うまでもないが、退院から4日目を過ぎた頃から体重が増え始め、両足が浮腫み始めた。これはどちらかと言えば、腎機能の急激な低下による『ネフローゼ症候群』に似ていると思った。それを顕著に体感したのは顔の浮腫み。これまで幾度となく心不全を繰り返して来たが、顔にまで浮腫みが及んだのは初めてだった。
 クレアチニンは4.5まで上昇し、eGFRは11.0。末期腎不全で透析一歩手前の状態。壊れかけた腎臓が最後の雄たけびを上げ、必死に心不全と闘っているのである。私は主治医に「写真撮影が出来る身体に戻して欲しい」事と「透析を出来るだけ先延ばしする」この二つをお願いした。今回の入院は2週間、6月21日、ワーファリンの効果が漸く安定し退院の運びとなったが、病気が治癒した訳ではないので自宅に戻っても暫くは病院と同じような日々を送らなくてならない。落ちた体力・筋力を取り戻し、撮影出来る身体に早く戻したいと思っている。

 

あの世に咲く花

あの世の陽射しをたっぷり含んで
極彩色の花が咲く
この世のものとは思えぬ美しさで
咲き誇る
あの世の花が
私の代わりに咲いている
枯れかけた命の代わりに
思う存分咲いている

 

 

 

 

NIKON Z7Ⅱ,Mモード,WB晴天,ISO64,SS1/200,f/4.5 NIKKOR Z MC105mm f/2.8 VR S

 

 入院数日前、無茶を承知で隅田公園へ出掛け、この紫陽花たちを撮って来た。地下鉄の地上へ出るほんの少しの階段が立ちはだかるモンスターに見えた。何度も何度も休憩を取りながら、やっとの思いで地上へ出る。私の影を多くの人々が追い抜いて行く。足取りは軽く、健康そうな肉体が燦々と注ぐ太陽の陽射しを受けて活き活きと踊っていた。
 花は来年も咲くだろうからいいじゃないかと思うだろう。だが、今年の花が来年咲くとは限らないし、同じ花ではない。今年咲いた花は今年の内に撮っておきたい、私には約束された未来がない、だから自分の命のある内に出来るだけ多くの被写体と出会い恋をしたいと思っている。撮影は私にとって恋愛と同じだから。

 

 

5月8日撮影、肺に水がかなり溜まっている     18日撮影、肺の水がかなり抜けた右肺にまだ残っている

 

 

 もっと早い段階で病院を受診すべきだった。限界まで我慢に我慢を重ねた結果、回復の遅れと長期入院を招いてしまい、猛反省している。ある方から「我慢はいけません」と諭されて本当に馬鹿だったと後悔している。

 5月8日、うっ血性心不全の増悪により三井記念病院の救急外来へ駆け込んだ。20代と思われる女性医師と男性医師の数人が交互に診察。呼吸が苦しいため、ベッドに仰向けになれない。最も楽な姿勢は直立不動。心電図、心エコー、レントゲン、採血など、救急で出来る限りの検査をする。安静時の脈はなんと140を超えており、頸動脈は今にも破裂寸前まで怒張していた。心房細動、期外収縮などで脈は踊り狂ったようにバラバラだった。

 若い医師が言った「BNPが1200です!」普段は400だからその3倍。これは重度の心不全を意味していた。即刻入院となり7階の『循環器病棟』へ移動。担当の看護師が私を見るなり声を掛けて来た。「神戸さん、数年前に奥の病室にいましたよね…」。私の事を覚えていてくれた看護師がいた事に驚いたが、過去に何度も入院しているからそれも当然かも知れない。

 さて、一眼レフを始めてからずっと調子が良く心不全も起こさず入院から遠ざかっていたにも関わらず何故、このような状況になってしまったのか…。それは3月初旬の循環器内科外来時での事。採血で腎機能の数値を示すクレアチニンが3.4まで跳ね上がっていた。驚いた主治医が強心剤のジゴキシンの服用を中止したのである。子どもの頃から私の心臓を長い間守ってくれていた薬である。このジゴキシンは腎臓に大きな負担を掛けてしまうリスクがある。その為、腎機能が低下した患者には禁忌となっている。

 腎臓を守るため主治医の判断は仕方の無い事だった。薬を止めてから1ヵ月が過ぎた辺りから身体に異変が生じ始める。それは左足の浮腫みで始まった。薬を止めたからだと、私はこの時点ではさほど深刻に受け止めていなかった。写真撮影も普段通りに行っていたが、調子の良い時と比べて明らかに息苦しさが増しているのを感じていた。本来であれば、浮腫みが現れた時点で病院へ連絡すべきだったのである。

 酸素吸入、点滴、ベッド安静のため、トイレに行くのも車椅子だった。5月12日、状態がある程度改善したため16階の一般病棟へ移動となる。心臓の働きを助け頻脈を抑える薬のメインテートが増量された。だが、中々脈が100を切ってくれない。少し動くと120辺りまで跳ね上がる。私の中に入っている機械弁は脈が120以上になるとその早さに付いていけず人工弁心不全を起こす事があると言う。

 5月18日、担当医からこれまでの治療経過と今後の治療について説明を受ける。アップした胸部レントゲンはその時のもの。入院時、肺に大量の水が貯留していたため、白く写っているが、18日には水が抜けて肺の黒い部分が目立って来ているのがお分かり頂けるだろう。体重は約1週間で5キロ落ちた。それは身体に溜まっていた余分な水分である。

 但し、右肺にまだ水が残っており抜けきれない状態だが、症状が落ち着いているため、このままでも問題はないらしい。もし、心不全症状が出た時には肺に針を刺して直接抜くようだ。心臓がかなり肥大しているのも見て取れる。心胸郭比63%、これは35年前に余命一年を宣告された時よりも悪いが私はあまり気にしていない。

 メインテートが功を奏し始めて来たのは24日辺りからで脈も100を下回るようになり、酸素もヘパリン点滴も外れた。ワーファリンの効果が安定するまでかなり時間が掛かったが、退院の話しが出始めた頃にはINR2.3辺りで落ち着き始めた。退院前日の27日、骨髄採取を受けた。これは白血球、赤血球、血小板が正常値の半分程度しかないため、その原因を突き止めるためだった。次回外来で検査結果が出るが、もしかすると新たな血液の病気が見つかるかも知れない。

 今回はメインテートで何とか乗り切ったが、再び心不全を起こした時はワソランを使う事になるだろう。それまでワソランは最後の切り札として温存しておく。それでもだめだった場合は腎臓を犠牲にするしか手立てはない。人工透析も視野に入れておかなくてはならない。だが、この先どんな困難が待ち受けていようとも私は絶対諦めたりはしない。自分のやるべき事を全うするため、この命を守ってみせる。それまで皆さん、このボロボロな私を温かく見守って頂けると有難い。

 

 

 

 

Nikon Z7Ⅱ,Mモード,WB晴天,ISO100,SS/10秒,f/16 LAOWA FFⅡ 14mm f4.0

 

 ここ数ヶ月の風景写真はNikonやSIGMAのレンズではなく、中国ブランドの『LAOWA』を使っている。以前から超広角の単焦点レンズが欲しいと思っており、ネットでZマウントのレンズを探している内にこのLAOWAに辿り着いた。購入の決めてとなったのは、5枚の絞り羽。風景、特に夜景撮影を得意分野としている私としては、絞り羽5枚のレンズは初めてであり、Nikonのレンズでは7~9枚の絞り羽では光芒が少し煩すぎる(個人差はあるものの)と感じており、LAOWAの織り成す10点の光芒は実に美しく斬新で、夜景撮影が更に愉しくなった。

 更に気に入ったのは全長59mm、重量228gと小型軽量である事。これにより、レンズを2本持ち歩く事が可能となり、花をMC105mmで撮影した後に、LAOWAに取り替えて風景を撮ると言った、一日で選択の幅が広がった事はカメラライフの更なる充実へと、また一段ギアを上げる事が出来るようになった。但し、電子接点部分がないため、焦点距離、絞り値はレンズのリングを回して合わせる必要がある。最短撮影距離は0.27mであるが、本レンズは風景専用としているので全く問題ない。

 このレンズで初めて撮影したのが、アップした辰巳ジャンクションである。有楽町線の辰巳駅から徒歩数分でこの撮影スポットに出る。到着した時はまだ明るい時間帯だったので、周辺を散策して時間を潰した。丁度良い夕景も相まって、美しく優雅なジャンクションの姿を撮影出来、この日は良い達成感を味わう事が出来た。

 

 

NIKON Z7Ⅱ,Mモード,WB曇天,ISO64,SS/2秒(100),f/14(11) Z14-30mm f/4 S

 

 

 昨年の6月下旬、撮影中に転倒し右脚に全治4ヶ月の大怪我を負った。一ヶ月間は腫れと痛みで撮影を断念し治療に専念。撮影許可が出たのは7月下旬だった。満を持して出掛けた場所が竹芝埠頭。都営大江戸線・大門駅から徒歩10分も掛からず、幾つかの撮影スポットが点在するこの場所が私は好きである。

 勿論、右脚の違和感は残ったままなので、出来るだけ体重を掛けず引き摺るように歩いた。東京湾を渡って来る潮風に吹かれながらシャッターを切る。カシャ、カシャ、その音が実に心地よく、溜まりに溜まった写欲が迸るように悠然と拡がる青い世界を捉えて行く。心臓病や慢性腎不全など大病を患っていると、自分が取る行動の殆どがリハビリの一環となる。

 思い起こせば2019年の3月下旬、掛かり付けである三井記念病院の裏にある公園で桜の写真(夜景)を撮った事が私の撮影本能に火を付けた。それ以来、写真の世界へと深く深くのめり込むようになった。レインボーブリッジを徒歩で往復したり、最もハードだったのは自宅のある西台から荒川の上流にある『彩湖』まで徒歩で往復した時の事。2万5千歩を超えていたと記憶している。そんな無謀な行動が出来たのも只管、写真を撮りたいと言うシンプルな気持ちだけだった。カメラはスマフォだったので重量など気にする必要もなかった。そうして一年が経った頃スマフォカメラの限界を感じ、どうしても一眼レフが欲しくなった。中古のNikon D700を2万9千円で手に入れた。

 生まれて初めて一眼レフカメラに触れた時のあの胸踊る高揚感は今も忘れない。分厚い取説なんぞは邪魔臭く、好き勝手にカメラをいじりまわし、自己流でカメラのイロハを覚えて行った。被写体に向かう時は好きな人を口説くようにシャッターを切った。

 循環器の主治医が言った。「神戸さん、カメラ始めてから調子いいみたいだね」。「はい!先生、撮影している時は病気の事や悩みなど一切忘れる事が出来るんですよね」主治医は笑って「うん、うん」と頷いた。

 カメラと出会っていなかったら私は相変わらず心不全に悩まされ、入退院を繰り返す人生を送っていただろう。「病院のベッドが恋しい」と冗談を言っていた頃が懐かしい。帰港中だった東海汽船の『さるびあ丸』に乗って、いつか太平洋の船旅に出て、小笠原諸島の自然をカメラに収めてみたいと思っている。

 

 

 

 

Nikon Z7Ⅱ,Mモード,WB晴天,ISO200,SS/10秒,f/16 LAOWA FFⅡ 14mm f4.0

 

 

 黒海と繋がるアゾフ海に面した港湾都市として栄えたマリウポリ。観光地としても有名で、年間を通して数多くの観光客が訪れる美しい街であった。ロシア軍の軍事侵攻によって、現在は以前の面影を残す事もなく、ロシア軍の無差別攻撃により街は瓦礫の山と化し、見るも無惨な姿に変貌してしまった。

 ロシアがウクライナへ軍事侵攻を開始してから既に約2ヶ月余り。当初はロシア軍の圧倒的な軍事力を持ってすればキーウ(キウイ)を3日で制圧出来ると高を括っていた盲目の暴君、プーチン大統領の目論見は屈強なウクライナ軍の徹底抗戦を前にして、大きく崩れ、作戦の甘さと方向転換を余儀なくされる事となり、親ロシア派が実効支配する東部ドンバス地方の掌握を最優先させる作戦へと舵を切った。南東部の要衝マリウポリへの攻撃は日毎に激化し、要塞化した製鉄所に立て籠もるアゾフ大隊との激しい戦闘が連日連夜続いている。

 マリウポリには未だに数多くの民間人が避難する事も出来ず、爆音と飛び交う銃声の中で恐れ戦きながら電気も水も食料さえもない極限状態を必死に耐え忍んでいる。ロシアの旗艦『モスクワ』がウクライナ側の対艦ミサイル『ネプチューン』2発が命中し、結果的に沈没した事について、ロシアはそれを認めてはいないものの、ロシア軍にとって大きな打撃になった事は間違いない。その報復として一時は平穏を取り戻していたキーウへ再びミサイル攻撃を開始。

 ゼレンスキー大統領の強気な姿勢も依然として健在で徹底抗戦の構えを変えておらず、今後の状況によってはアフガン戦争のように長期化し泥沼の戦いになる様相を指し示している。最も気がかりなのはロシア側が劣勢に陥った時、プーチンが化学兵器の使用或いは核のボタンを押すと言う最悪のシナリオが現実のものとなる事である。

 何れにせよもうこれ以上の市民、特に女性や子どもの犠牲が増える事があってはならない。ウクライナに本当の意味で自由と平和の鐘が鳴り響く事を切に願うばかりである。

※冬の間は寒さで行けなかったお台場へ久しぶりに行った。お台場は広く撮影スポットが多数存在しており、全てを周り切るには一日では物足りない。桜も満開でその下でランチを広げお花見を愉しんでいる家族やカップルを見て、日本の平和が永遠に続くようにと自由の女神像を見詰めながら祈った。

 

 

NIKON Z7Ⅱ,Mモード,WB晴天,ISO64,SS1/200,f/6.3 NIKKOR Z MC105mm f/2.8 VR S

 

満天の空を泳ぐように

咲き誇る

それは

桜のプラネタリウム

遠い記憶の向こうで

微笑んだ

あなたの

優しい眼差し

今年もあなたの心に

桜は満開ですか

 

 

 今年は花曇りの日が多く、桜の撮影に適した天候に中々恵まれなかったが、ギリギリ何とか間に合う事が出来た。昨年と同様、千鳥ヶ淵へと出掛ける。コロナ禍ではあるが、桜の名所だけあって凄い人出。流石に酒を煽って宴会に興じるようなマナー違反者はいなかったが人の流れが多いため、見物の邪魔にならないよう周りに気を遣いながらの撮影だった。

 桜にも色々と種類がある事は知っていても、代表的なソメイヨシノがどんな桜なのか見ただけでは判別が付かない。撮影した桜は多分ソメイヨシノだと思う。そう言えば、先に投稿した芝桜だが、あるご婦人から『サクラソウ』だと教えて頂いた。サクラソウと芝桜、似て非なるものだが、いい加減花音痴から卒業しないと恥をかくだけである。知らぬが花とは別問題で、自分の知識の無さを曝け出す事ほど恥ずかしいものはない。撮影の前にその被写体について『知識を得る』をポリシーとして撮影に臨んでいる訳で、今年は沢山の花を撮影するつもりだから、何としてでも花音痴から脱却したい。