Nikon Z7Ⅱ,Mモード,WB晴天,ISO200,SS1/50秒,f/6.3 Z24-200mm f/4-6.3VR
この写真は昨年12月、九品仏浄真寺へ紅葉の撮影に行った際の一コマである。この寺に野良猫が数匹棲みついている亊など知らなかった私はこの場面でかなり驚いた事は想像だにしない。「えっ!」ともう少しで声が出るほどだった。浄真寺は九つの阿弥陀如来像が安置されている事でも有名だが、この寺の紅葉も言葉を失うほど見事である。
紅葉の撮影に夢中で猫の存在に全く気付く事なく帰ろうとしたその時、猫の姿が眼前に飛び込んで来た。しかも石の上に正座しているではないか!。その猫の目線の先には数人の観光客がおりスマフォを猫に向けて記念撮影。そして撮影が終わるのを見計らったように、石の上から「ひょいっ」と飛び降りるとゆっくりな足取りで閻魔堂の方へ消えて行った。猫は石の上に居れば訪問客が写真を撮る事を知っているのだろう。何とも賢くサービス精神旺盛な猫の姿に微笑ましくなった。
さて、『石の上にも三年』と言う諺があるが現代ではもう通用しない化石のような諺になってしまった気がする。我慢や辛抱は日本人特有の美徳とされていた時代は遥か昔の事で、現代人は変化を求め様々な分野にチャレンジするようになった。時代の流れに沿っていないと取り残されると言う一抹の不安を抱える人々も増え、より一層のストレス社会が精神を蝕む混沌の時代とも言えるだろう。
私は16歳で就職し社会人となった。養護学校を卒業した後、清水市駒越(現・清水区)に在った療養型職業訓練施設で一年半ほど過ごした。三保の松原や久能山東照宮が徒歩で行けるほど近い距離にあり、駿河湾と富士山を毎日眺めながらの日々で良い環境下であった。実習で最も興味を持ったのは豚の飼育。子豚の頃から育てるのだが豚が綺麗好きで非常に繊細な動物だと言う事も知った。一匹の豚が食中毒で死んでしまった時は心が折れるほど悲しかった。施設を出る時期(就職)が迫って来ると、親を呼んで三者面談が行われる。私の父はヤクザで前科者だったため、伯父が父親代わりとなって色々と相談に乗ってくれた。
そして静岡市沓谷に在る『中央工芸静岡支社(本社・名古屋)』に就職した。16歳の少年が右も左も分からず世間の荒波の中へと飛び込み、人生の帆を張って歩み出したのである。会社の規模はさほど大きくはなかったが、私以外の社員はみな30歳を越えており、私のように10代の少年・少女はまさに『金の卵』と呼ばれていた時代で、『若さ』それだけで十分通用していた。
優しい先輩たちに囲まれ最初の職場としては理想的だったと思う。先輩の中でひとり、顔を合わせる度に「とにかく三年頑張れ」「貯金をしろ」が口癖のような人がいた。それらは私の将来を思っての助言であるのは分かっていたが、16、17歳はまだまだ子どもの部類。ただ、本人は早く大人になりたくて背伸びするから時々それが暴走し、羽目を外す結果となる。
最初の給料で、真っ先に購入したのはポータブルプレコードレーヤーだった。レコード盤は大量に持っていたがそれを聴くためのプレーヤーが早く欲しかった。中学時代からロックばかり聴いて育ち、ラジオで『オールジャパンポップス20』を聴くのが愉しみだった。そして2回目の給料でモーリスのフォークギターを購入。ロック少年はいつしかギターを弾くようになり、仕事が終わるとギターをかき鳴らしボブ・ディランの『風に吹かれて』を歌いまくっていた。「3年経ったら俺は駿府会館のステージに立っている」と本気で夢を描いていた。然し、それらの夢の前にたちはだかったのが『心臓病』だった。就職して3年が経った頃、静岡市立病院で最初の心臓手術を受けた。
手術すれば完治するんだと信じていた・・・。だが、その想いは儚くも切り捨てられた。そして始まった青春の暴走は周囲の人々を巻き込みながら、思わぬ方向へと転落の一途を辿る事となる。ところで、私の愛猫タラ(キジトラ)の事だが、もう14歳の高齢だが今も元気である。現在は埼玉の元妻の所にいるが夜になると野生の本能をむき出しにして、部屋中を走り回って居ると言う。タラに癒されて酷かった不整脈が収まった時の事は今でも忘れない。