プールサイドの人魚姫 -50ページ目

プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。


プールサイドの人魚姫-タラ001

 愛猫タラは♀なので「吾が輩」ではないですが、このわたしにとっては5人目の家族がいるお陰で随分と救われたと思っている。

 読者の方々には随分と長い間待たせてしまい申し訳なく思うと同時に、励ましのコメント等を頂きありがとうございました。

 心臓病の方は薬が効いて浮腫みが取れれば、通常の生活に戻れるのだが、心の方はそう簡単には行かないようで、それは長年に渡り経験済みであったから出来るだけ焦らず、気長にトンネルの先が見える日を待つつもりでいても、一ヶ月以上も仕事を休み、下界から遮断された生活(引き篭もり)を続けていると、自分自身を完全に見失ってしまうものである。

 飼い主が病気で元気がなかったり、精神的に落ち込んでいたりすると、それが一緒に生活しているペットにも伝染するようで、タラもいつになく元気がなかった。

 お腹が空き餌をくれとわたしの寝ているベッドの横に座り込み、わたしの顔をじっと見つめて、訴えてくるが、わたしは起き上がる気力すら失せていた。しかし、餓死させてしまう訳にはいかないし、自分は食べなくとも、何とかこの子にはご飯を上げないといけないし、わたしだけが頼りのこの猫に申し訳なく思ったりもして…。

 ベッドとトイレの往復の日々が続き、危険信号の点る毎日は実に酷であった。食欲はあっても食べる元気もないのである。ある意味義務感のみで味すら受け付けなくなった口の中にレトルト食品を放り込んでいた。

 心を痛める原因は色々あるが、「うつ」と言うものはある日突然に全く予兆もなく回復するものだ。薬の効果でセレトニンが増えたと医学的に説明してしまえば簡単なことであるが、心と脳はもっと複雑で奇々怪々な部分が多くあり謎だらけである。

 本日はあいにくの雨であったが、午前中から忙しく、三井記念病院の歯科外来へ行き、その後江東区大島にあるメンタルクリニックへ。

 一週間前に処方された抗うつ剤の「リフレックス」が功を奏したと主治医に笑顔で報告した。そしてまた秋葉原に戻りヨドバシカメラに寄り、息子から頼まれていたギタースタンドを買って帰宅した。

 人はやはり外に出るべきである。外はあらゆるエネルギーが渦巻いている。それを吸収し、自分の活力とするのだ。人の声、電車や車の音、電話のベル、食べ物の香り、空、雲、雨、太陽、連立するビル群、山や川、そして海など等。

 全ては宇宙のエネルギー、そして自分自身の中にも存在する「生」そのものである。


プールサイドの人魚姫-tesuto

いまだ自宅療養中の為、通常記事が更新出来ません。

体調回復まで、いましばらくお待ち下さい。

プールサイドの人魚姫-モグラ

皆様、ご無沙汰しております。

 免疫力低下→エンテロウイルス感染→夏風邪→腎機能低下→心不全→肝機能低下→膵臓・脾臓腫大→胃・腸管浮腫→うつ状態…という悪循環に見舞われ、すっかり寝たきり状態になり活動力低下、思考力停止とほぼベッド上での生活をここ数日送っており、食欲も殆どなく冷蔵庫は空っぽで、近くのコンビニまで買い物に行く気力すら失せておりました。

 パソコンのスイッチは入れてもマウスを握る気にもなれず7年前の悪夢が脳裏を過ぎるばかりで、孤独死とはこんな風に訪れるものなんだろうか…と押し寄せる鬱の波に溺れそうになりながらも、この悪循環を何とか打破しなくてはと、停止した思考力を振り絞り先ずはブログを書くことだと言い聞かせ、南米チリのサンホセ鉱山で起きた落盤事故で、地下700mに閉じ込められた人たちと比べれば、クーラーや扇風機のある部屋で引き篭もっている自分はまだマシだと思い始めている。

 鉱山で働く人々はおそらく、強靭な肉体と体力を持ち合わせているのだろうと思うが、気温35度、湿度70%という、劣悪な環境下で既に一ヶ月以上も閉じ込められていれば、身体はどうあれメンタル面でかなりのストレスに晒されているわけだが、地上から届く声援メッセージや映像に励まされ辛うじて体調を保っているのだろう。

 24時間フル稼働で掘削作業は続いているが、実際に救出出来るのは2ヶ月先だと言う。それまで全員の体力が持つ保障は何処にもない。

 一刻も早い救出が急務であるが、日本の掘削技術は世界に誇れるほどのハイテク技術を持っているのだから、チリ政府から要請がなくとも救出チームを編成し、掘削作業に協力すべきではないだろうか。

 

プールサイドの人魚姫-ブランコ

 

 
 
 

夕陽が溶け込む砂漠の公園で

少年が独り

ブランコに揺れていた

影は何処までも長く

待ちくたびれて

飛ばしたズックは

砂に埋もれて戻らない

置き去りにされた悲しみを

揺れるブランコがなだめても

砂漠を抱いた少年の

心の乾きは癒せない

 
 
 

 


プールサイドの人魚姫-代表選

小沢一郎元幹事長が民主党代表選に出馬を表明して数日が経ち、党内では連日慌しい動きが目立ち始めている。

この代表選は菅直人現総理と小沢一郎との一騎打ちと言って差し支えないと思う。他にも立候補者はいるにしても影が薄い人たちばかりである。良くも悪くも「灰汁の強い政治家」となれば、小沢、菅、鳩山とこの三人に尽きる。

 小沢外しを前面に出し、「政治と金」からの脱却を目指し「クリーンな政治」を訴える菅直人陣営とそれでも小沢一郎の剛腕に期待を寄せる小沢陣営の舌戦は、民主党解体分裂のシナリオを見ているように思えて来る。

 先の参議院選挙で民主党が敗北した事が、今の小沢氏から見れば菅総理を引き摺り下ろす切掛けにもなっており、好都合である。

 鳩山前総理からインスタント内閣としてその場限りの政権を譲り受け、これといった仕事も残さないまま、9月の代表選を迎え撃つ菅総理にしてみれば、自分の存在を内外にアピールし、好印象を植えつける意味では反小沢体制なくしてその面目は保たれないという、ジレンマに陥っているのも確かであるだろう。

 野党時代には政権奪取という目標を共有し自分を殺しつつ、お互いを活かす方法で自民党に打ち勝った民主党であったが、獲物を手に入れ満腹になった寅は、しばしの余興に時間を費やした。

 その結果互いの主義主張の違いが生じると、党内で互いの批判が挙党体制を虚党へと変えて行く。日本に安定した政治が生まれないのは、人の揚げ足取りばかりに気をとられ、真摯に仕事に打ち込まない政治家が多すぎるからだ。

 「人のふりみて我がふり直せ」という言葉が最も似合うのは現代の政治家たち。人生の手本になるような人材がいないのは嘆かわしいことである。

プールサイドの人魚姫-温度計

 皆様 残暑お見舞い申し上げます。

 蝉の声に混じって夜ともなれば虫の羽音が夜の片隅に響き始め、秋の姿がすぐそこまで来ているというのに、この夏の猛暑は想像を遥かに超えて陽の照り返しが熱中症となって現れ、多くの人々が救急車のお世話になり、中には亡くなる方もおります。

 わたしは熱中症ではなかったのですが夏風邪をこじらせてしまい、激しい咳に悩まされ夜も眠れずすっかり体調を崩してしまい、土日も含め5日間寝込んでしまいました。

 熱中症対策にはこまめな水分補給が欠かせないのですが、わたしの場合それが裏目に出てしまう時があります。厳しい水分制限のあるわたしにとって、水は命に関わる問題。多く摂り過ぎれば浮腫みとなり、少なすぎれば脱水症状を引き起こす。

 循環器外来へ行き検査をする度に、主治医が「神戸さん、脱水起こしてますよ」と言う。夏は1.5リトッルまで、冬は1.0リットル。

 その決められた範囲で自分なりに気をつけているものの、夏場になると汗をかく分も頭に入れておかなければならず、その調節が難しい。

 計量カップを持ち歩いて計りながら飲んでいる人なんて見たこともないし、入院中のような管理下ならいざしらず、そう簡単にコントロールが出来ないことをこの1年で充分理解したものの、後は自分の勘任せという実に頼りない状況。

 夏冬限らずわたしは一年中熱中症のようなものと半ば諦めている状態。病気で身体が弱って来ると実に心細くなるが、あれほど入退院を繰り返していた数年前に比べれば、今は一人でもなんとか入院せずに頑張っていると思うものの、今まで家族に甘えすぎていたから病気もよくならなかったのではないかと考えるようになった。

 ただ、寝込んでしまうとあまり良い考えは浮かんで来ず、薬に命を支配されている自分がつくづく嫌になってしまったり、たまには病院の方から診察に来て欲しい等と病人特有のわがままを言ってみたり、憂鬱な時間の中で不整脈の音に耳を傾けながら愚痴を零す始末。

 わがままを言える相手がいるという事は幸せなことだ、そういう相手を大事にしていかなければ、幸せな人生は送れないと最近になって漸く解った。失って初めて気付く自分の手足のようなもの、それがきっと家族なんだろうね。


 

プールサイドの人魚姫-戦争

 

 

 1945年(昭和20年)1月9日、神戸信夫(父13歳)は、自宅近くにある蓮正寺の境内で日向ぼっこを楽しんでいた。

 

 戦時中の正月がどのようなものであったか定かではないが、食料の配給下では満足に腹を充たす事など皆無ではなかったかと思う。

 藤枝では有数の資産家だった神戸家にとって見れば、戦争の影響による衣食住に困窮する事は全く無かったが、家族二人が南方へと出兵し帰らぬ人となっている。この二人の戦死は後に神戸家衰退の大きな要因となった。

 日当たりの良い境内に胡坐をかき、高級もののタバコに火を点け一点の陰りもない正月の空を仰いでいた。この頃から不良少年だった信夫は町内のガキ大将で有名だった。

 朝の静寂を切り裂く空襲警報が町中に鳴り響き、青い空を恐怖で震えさせる。神戸家はお稲荷さんを祭っており、その裏側に家族全員が入れる防空壕があった。

 藤枝市(旧藤枝町)の片田舎にも米軍爆撃機B-29が飛来したのである。東から西に飛来した1機のB-29は5発の爆弾を投下し去って行ったが、その目的は単に機体を軽くするためだったという。

 この空爆で藤枝町役場の職員十数名が犠牲となった。一発の爆弾が落ちた場所は、藤枝市役所の直ぐ脇であり、そこは戦後埋め尽くされることもなく戦争の傷痕として残されたが、いつしか湧き水によって鯉が数十匹泳ぎ、夏にはここで水浴びを楽しんだり、釣りをする子どもたちの憩いの場へと変わっていった。

 子どもの頃、父からこのような戦争の話をよく聞かされたが、当時(昭和30年代)の子どもたちの間で流行っていたのは「戦争ごっこ」。ただし、太平洋戦争ではなく「日露戦争」「日清戦争」が遊びのモチーフになっていた。負けた戦争より、勝った戦争で遊べと大人から言われていたのかも知れない。

 そしてやはり子ども時代によく口ずさんだ歌が「軍歌」だった。「ラバウル小唄」「麦と兵隊」などは強く印象に残っている。そしてもう一曲が「酋長の娘」、こちらは軍歌ではないと思われるが、当時のわたしはこの曲も軍歌だと認識していた。詞の内容がそのように思えたのである。

―わたしのラバさん 酋長の娘 色は黒いが 南洋じゃ美人―

 この歌は「酋長」の部分が好ましい表現ではないとされ放送禁止歌になっており、現在歌われることはない。

 今年65回目の終戦を迎えたが、この戦争に直接間接を問わず多くの人間が関わって来た。人によっては、いまだ戦争を終わらせることが出来ず、悩み苦しんでいる人たちも多い。わたしたち現代人の生活の中にも戦争の影を垣間見ることがある。

 子どもたちがプールや風呂場で戯れ遊ぶ時に使う「水鉄砲」や冬になれば厚手のコートを羽織って外出するが、これは軍服がモチーフとなって今に至っている。人間同士が殺し合う戦争は絶対に避けるべきであるが、それ以外にも戦争と呼べるものは多くあり、いまだに「万歳」を叫ぶ日本人がわたしには理解不可能。

 戦争からわたしたちは一体何を学んで来たのか、本当の戦争の姿は何処にあるのか、もう一度歴史を振り返りつつ、後世に戦争の有り様を残し伝えて行かなくてはならない。



 第35回江戸川区花火大会が8月7日、江戸川河川敷で行われた。約14000発もの花火が夜空を乱舞するこの大会は、国内最大級の花火大会である。
 東京と千葉をまたぐことから観衆は約150万人にまで上り、会場近くの篠崎駅付近はこの日だけ別次元へと変貌する。同じ日に板橋花火大会もあり、わたしの住む西台駅も同様に浴衣姿の若い女性やカップルの姿が目立った。
 わたしにして見れば江戸川区は古巣であり、家族4人で暮らした地。瑞江駅から徒歩12分程度の所にマンションを構えていた。地理的に言えば、南篠崎と谷河内にまたがる場所だった。江戸川河川敷きまで足を伸ばしたのは10年ぶりだろうか。
 石井ひろあきさんと篠崎駅で待ち合わせをするも、神保町辺りから既に都営新宿線は大混雑。平日のラッシュ時を遥かに上回る満員電車の中で、身動きが取れないのと人の熱気でクーラーは役に立っていなかった。
 篠崎駅に到着するも、大混雑で前に中々進めない。石井さんと携帯で連絡を取り合いながら、やっとの思いで花火会場へと向かった。
 この混雑の中におそらく娘もいるのだろうと思いつつ、家族4人で自転車を漕ぎながら篠崎へ向かった日のことを思い出していた。
 予定通り19時15分、暮れかかる昼間の余韻を残した空に、待ちわびた大観衆の拍手と歓声に迎えられて花火の乱舞が始まった。
 今年この花火大会を友人や何処か近くにいるであろう娘と共に見られたことを感謝する。世の中の全ての災いも不幸もこの花火が消し去ってくれる。江戸川に浮かぶ屋形船の輪郭が提灯の灯りで揺れている。そして花火の音が心の奥に木霊し、人々の幸せを打ち鳴らす。
 大会の終わる30分ほど前に会場を後にして、篠崎駅近くのバーミヤンで石井さんと花火のことや音楽のことなどについて語り合った。
 来年もこのような幸せに満たされるようにと、群集の中に紛れて家路に着いた。ところで、この映像の中に未確認飛行物体(UFO?)が写り込んでいるのだが、それに気付いた人はいただろうか。


プールサイドの人魚姫-長生き

日進月歩の医療技術が日本を長寿大国へと導いて来たが、それを根底から揺るがすような事件が日本各地で続発している。

 その発端になったのが、先日東京足立区で発見された白骨遺体。都内最高齢(111歳)とされていた男性の加藤宗現さんである。

 実際には30年前に既に死亡していたというショッキングなニュースが日本列島を駆け巡ることとなり、100歳を超える高齢者の行方不明者が続出。

 女性としては最高齢の杉並区に在住していると思われていた113歳も行方が依然として掴めていない。しかも年金の不正受給という問題までが発覚し、これは家族ぐるみでの「誘拐詐欺」ではないかとさえ疑問を抱いてしまう。

 自治体や国の対応にも呆れてしまうが、高齢者の所在や安否確認があまりにもずさんで、事が起こってから慌てて高齢者探しに明け暮れるこの国が如何に「放置国家」であるかが浮き彫りになった。

 長生きは本来「幸福」なことで喜ぶべきなのだが、高齢者への配慮や環境が、自治体によってバラバラであり統一性が全くないのが現状。

 高齢化社会が目前に押し迫っている中でのこの事件は、日本の将来に大きな不安の影を落とす。核家族が進み、個人主義が間違った方向で蔓延し、他人に無関心な社会構図が人と人との絆なや繋がりの在り方を根底から崩し始め、厄介な事には出来るだけ関わりを持たないという、自己中心主義が他人への思いやりを閉塞させてしまうという悪循環に陥っているのだ。

 男女の平均寿命が延びるのは喜ばしいことでありながら、現実とは逆行する生きにくい世の中に絶望感を抱く人々のなんと多いことか。

 人は支え合ってこそ生きられる、助け合って生きていくこと。この人間回帰を今こそ各々が実現させなくてはならないだろう。


プールサイドの人魚姫-児童虐待

年々増え続ける児童虐待が今年最多とうい「子ども受難時代」が本格的に到来したようだ。明るみになっている数字は氷山の一角に過ぎず、隠れ虐待が日常的に日本の至る所で起こっており、子どもの発するSOSが途絶える事はない。

 子どもの背中にライターで火を点けたり、小さな木箱に人形を押し込むように閉じ込めて殺してしまったり、子育てが嫌になり放置した若い母親など虐待のパターンは様々であるが、最も悲惨な事は幼い命が紙くずのように奪われることだ。

 アルコール依存と同じで、虐待もまた依存という心に巣食う闇の病気であり、救うべきは子どもではなく、元凶の親である。

 一時的に子どもを保護したとしても、いずれまた親元に戻り再び虐待の日々に晒されることとなる。それをわたしは幼少時に嫌と言うほど味わって来た。

 酒を飲むと必ずわたしに暴力を振るう父。酔った父に対する恐怖心がピークに達したのは、初めて「殺される」と思った夜のことだった。

 父の右手にはわたしの頭ほどの大きさの石が握られており、酒で崩れた真っ赤な顔は鬼の如く頭には角が生えているように見えた。

 その鬼が石を持ちながらわたしを追いかけ回す。わたしはまだ小学4年生で、どんなに抵抗しても大人の男の力に敵うはずもなかったが、それでも必死で抵抗を試みた。

 殴られ蹴られながら逃げ回り、泣く暇もなかった。恐怖が身体を突き抜けると悲鳴も止まってしまう。「家の中にいたら殺される」そう思うと、障子戸を蹴破って裸足で裏庭に出た。足の裏に突き刺さる小石などはどうでもよく、わたしが逃げ込んだのは「服部さん」宅だった。

 顔を血だらけにして行き成り飛び込んで来たわたしに、菊枝おばさんは唖然としていた。わたしは「博ちゃん」の勉強机の下で丸くなり震えていたそうだ。

 父が刑務所に入っている間は、親戚の家で世話になる。三食小遣い付き、しかも毎日お弁当を食べられるから「登校拒否」にもならずに済む。

 父からの暴力を心配する必要もない日々は、本来の子どもの姿に戻れる一時だった。父が刑期を終えて出所する日が近づいて来ると、複雑な心境になった。

 父に会いたい反面、父との暮らしが、またあの辛い日々が始まる・・・そう思うと実にやりきれなかった。わたしを助けるよりも荒れ狂う父を何とかして欲しい、それが本音だった。

 ネグレクト(養育放棄)こんな言葉が普通に使われ始めた世の中で、大人たちの責任を検めて問い直してみる必要が迫られているのではないだろうか。