マイケルジャクソンが白人コンプレックスなのか顔の色が白いのは色素の病気だからとか、噂が乱れ飛び、真実は本人しか分からない。整形を重ね素の顔が思い出せないほど変わってしまった彼の幼い姿を思い出す。ジャクソン5でデビューした天才的なボーカルは古いレコード盤の溝に沿って今でも踊っている。白人に憧れていたかどうかは知らないし、様々な問題行動で世界を揺るがすマイケルジャクソンの心はやはりR&Bの原点が詰っており、ソウルフルで白人には到底真似の出来ない飛び抜けたリズム感と雄叫びの如きボーカルは世界でもトップのアーティストである事は間違いない。色に拘る人間に音楽は似合わないだろう。
私は長い間不眠症に悩まされている。心の病に罹っている人だけでなく、ストレス社会が産み落とした生活習慣病の一つかも知れない。睡眠導入剤は手放せず、床に着く30分ほど前に飲む。1時間も経たない内に睡魔がやって来て私を夜の闇に誘ってくれるのだが、時々薬の効果が全く現れない時がある。ここ三日ほど、私は殆ど寝付けないまま夜明けの無い朝を迎えてしまう。睡眠を充分取れなかったその朝、そして一日私はすっかり元気がなく、それでもパソコンの電源を入れブログを確認する。夜は非常に重いのでその作業はもっぱら明るい時間帯に集中する。疲れている時は記事の事は考えず休めば良いと思うだろう。だが、私は必死である。ブログ中毒と言われればそれまでだが。今やライフワークになりつつあるブログ。これは一つの自己表現だから私は自分を確認する意味で出来るだけ毎日記事をアップする。書き手がありそれを読んでくれる読者がいてこのネット世界は成り立っている部分もある。夜はやはり快適な眠りが欲しい。月の優しい光が子守唄。私の窓辺にそっと眠りの口づけしておくれ。
日本人が最も好んで口にする代表と言えばカレーライス。子どもから大人まで年齢を問わず人気がある。日本で最初に作られたのは大塚食品の「ボンカレー」1969年に誕生した画期的食品で話題を呼んだ。パッケージは確か女優の松山容子だったと思う。私が子どもの頃はカレーやバナナ等は高級食品で滅多に口にする事は出来なかった。レトルトカレーも今では非常にバラエティに富んでおり、味も様々ではあるが、毒入りカレーだけは御免である。1998年7月和歌山で起きた青酸入りカレー事件。林真須実被告が毎日ワイドショーでTVに映し出され、報道陣に向かってホースで水を撒いている姿が今でも脳裏にくっきりと焼きついている。青酸とは別に砒素までも混入している事が分かり、この悲惨な事件では多くの被害者が出た。自治会に恨みを持った犯行としか思えないが、これは無差別テロと同じである。夏祭りを町内で楽しむ季節がもう直ぐやって来るが、出店を見るたびにこの事件を思い出してしまい自分も被害者の一人なのかとさえ思ってしまう。>
先日起きたジャワ島の直下型地震。一瞬にして人間が築き上げてきた過去の遺産を容赦なく奪い去って行った。そして想像を超える多くの人々が地球自身の起こしたテロによって犠牲となった。リゾート地ジャワ島、神々の宿る島は常に自然の驚異と人間自身が起こすテロ行為の標的にもなっている。美しいが故の運命に晒されて、この島の住民は古くから言い伝えられている神の声を守って来た。自然災害を防ぐ手立てはまだないが、予知する事は可能である。大地に耳を傾けよ、動物の声を聞け。自然と共存する事を忘れた人間には聞こえない自然からの贈り物がある事に気がつけば我々は更に賢く進歩する事が出来るであろう。
ハリーポッターシリーズ6作目となる「謎のプリンス」が最近発売され、シリーズの中でも最高の売れ行きとなっているようだ。ファンタジーが好きな子どもたちだけでなく大人も充分楽しめる傑作であり、我が家の本棚にも分厚い本がずらりと並んでいる。但し、私は読書嫌いなのであまり読まないが。ハリーポッターも青年となり物語はいよいよラスト第7巻に向けてラストスパートと言ったところか。さて、この画像の老人、おそらく若い方は知らない人が多いと思う。怪優・名脇役の「左ト全」もうかなり昔1970年には「老人と子どものポルカ」で歌手としてもデビューし「ズビズバパパパヤー」と言う流行語を置き土産にこの世を去った。黒澤明監督作品には脇役としてよく登場している。「どん底」「七人の侍」等である。もっと古い話になると1966年に映像化されTVで放映された「忍者ハットリ君」にも登場している。当時私は10歳で流行っていた番組「オバケのQ太郎」「怪物君」「丸出だめ夫」「パーマン」等の中に実写版の「忍者ハットリくん」があった。左ト全がどんな役だったかは流石に覚えていない。デビューした時60歳近かったので彼は既に老人役ばかりだったのではないだろうか。それにしても台詞の要らない俳優としては彼の右に出る者はいない。存在感の塊だったとも言えるだろう。
長州小力がTVに登場したばかりの頃、私は彼が余りにも長州力本人に似ているので爆笑した。大元の長州力を知っていれば通用するし、プロレスファンには受けたであろうが、長州力或いはプロレスに興味がない人にとって見れば「何コイツ?」となる。長髪に上から下まで黒姿、おまけに腹は出ているしただのデブとしか思えない。しいてあげれば通用する言葉は「切れてないですよ」くらいだろう。今はお笑いからバラエティ、アニメ、CMと長州小力は長州力より知名度は高いかもしれない。小力パラパラは年齢に関係なく人気があるし、おそらく本人はこんなに売れるとは思っていなかったと思われ、一番ほっとしているのではないだろうか。思えば22年ほど前1984年頃になると思うが新日本プロレスが絶頂期を迎え、開場はいつでも超満員。実況アナウンサーは古舘一郎、リングを湧かせていたのはアントニオ猪木はもちろんの事、初代タイガーマスクがリング狭しと飛び回っていた。初代IWGPのチャンピオンを決める決戦では猪木とハルク・ホーガンの一戦。シナリオは猪木が初代王者となりベルトを腰に巻く筈だったが、結果は猪木が失神し一時は命まで危ぶまれていた。ベルトを取り王者に輝いたホーガン、喜びに飛び上がってもよいはずが顔は神妙で笑顔などなく、リング上で舌を口からだらりと出した猪木の姿を心配そうに見詰めていた。闘魂伝説を受け継いだレスラーは数多い。猪木・藤波・長州と3人でタッグを組んだ試合で何を血迷ったか長州が藤波に行き成り張り手一発。猪木はそれを呆然と見ていたが仕掛け人のプロでもある猪木の事だから、これも計算の内だったのかも知れない。長州は当時アメリカ遠征から帰国したばかりでリングネームも違っていたと思う。アマレス出身のエリートコースを歩んで来た長州とは対象的に藤波辰巳は中学を卒業後間もなく猪木に弟子入り。叩き上げの職人レスラー。身体はまだ小さくジュニアで活躍していた。猪木のプロレスを見事に受け継いだ一人でもある。そしてこの藤波と長州の熱き闘いが始まったのである。「俺は藤波の噛ませ犬じゃない」と宣言。絶好のライバルがこうして誕生したのである。最近プロレスを殆ど見ていないので日本のプロレス界はどうなっているのだろう。前田明日や高田延彦がまだ細くて可愛く見えた時代が懐かしい。
あまり良い天候に恵まれなかった5月も終わりに近い。今日も朝から小雨が降り続き、秋葉原駅近くにある三井記念病院までの足取りも重かった。昨日の疲れも多少残っており、眠気を振り払いながらの循環器外来だった。これまでの人生を締めくくるには丁度よい霧雨が心の中にまで染めて行った。湿気を払拭するように青空がポッカリ白い雲と同居した5月のある日、私は見慣れた新宿の街並みを横目にしながら会社へと急いでいた。少し早歩きしただけでもかなり息が切れ、心臓の拍動が踊り狂ってビル街の街路樹にもたれかかりたがっていた。最新式のビルには警備員と監視カメラが常に個人の行動をチェックしている。ISMSって何の為?と虚しい疑問が湧いてくる。矛盾だらけの世の中で、溺れながら情報に踊らされている人たちのなんと多い事か…。休職中の私は元の部署から移動し、人事部付となっている。社内には複数の応接室があり、それぞれの部屋には座り心地のよいソファと白い壁には10号ほどの絵画が飾られている。これまで一体何回この応接室を訪れただろうか。そしてこの部屋を利用するのも今回が最後となる。人事部の担当者は常に同じK次長で、これまで私の職場復帰に関して尽力を注いでくれた上司。一通りの会話を済ませ、退職願の書類に記入をする。会社のマニュアルに沿った退職手続き。私は以外と冷静で、笑みさえ浮かべながらペンを走らせていた。鬱が酷かった時は手が震えて字もまともに書けなかったのに退職届けだけはまともに書けるとは皮肉なものである。退職理由は、休職中に病気の回復が認められない故の自主退職ではあるが、これは事実上の肩たたきであった。一度復帰に失敗し、二度目の休職、職場の椅子には2年以上座っていない。企業はそれ程お人よしではないが、これまで私をサポートしてくれた会社の恩情は充分感じていた。元いた部署に挨拶回り、社員は私がいずれ復帰するものと思っていたらしく、リタイヤを告げると唖然としていた。別れの挨拶を済ませ、私物をバッグに詰め込む。大した物はなく印鑑と筆記用具、参考書程度とあっさりしたものだ。そして再びK次長と応接室へ。私が詩集を出版した事は社内には知らされておらず、知っている人達はごく一部に限られていた。人事部のA副部長が「小椋桂」の前例があるしね。と笑顔で出版を祝ってくれた事を思い出す。最後の挨拶はやはり緊張するもので、喉がカラカラに渇いていた。実に気の利くK次長がアイスコーヒーを用意してくれた。会社で飲むコーヒーも最後、だがこの味は忘れない。最後にガッチリと握手を交わした時、K次長が涙を流しながら無念そうに一言「影ながら応援しています」この言葉で私の瞼から堰を切ったように5年9ヶ月分の涙が溢れ出した。涙の退職、拍手と笑顔よりもっと心に残る一日となったのは確かであった。


