今日の講壇(抜粋) -76ページ目

説教『新しいはじまり』より

「ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある」(マタイ12:41)


■信じてるつもりが・・・
 律法学者やファリサイ派の人々は、イエスにまた無理難題を引っ掛けてきました。「先生、しるしを見せてください」 しるしというのは、証拠のことです。イエスが神の元から来たというのなら、その証拠を見せてください、そうすれば信じます、と言うのです。古来、イスラエルは神を信じられなくなるたびに、しるしを見て、神がいつもおられて守ってくださることを信じました。しかし証拠を見たから信じる、というのは本当に信仰と言えるのでしょうか。しるしを求めるということは、イエスに関心を寄せているように見えても、実はイエスを信頼せず、他の何かを頼りにしているということです。イエスとの人格的な関係ではないわけです。イエスはそういうファリサイ派の意図を見抜き、しるしを拒否しました。神を信じていても、いつの間にか違うものに頼ってしまうことがあるのです。
 神との関係は、人格的なものでないといけません。イエスは神を父よ、と呼び、私たちにもそう呼ぶことをゆるされました。子が親を慕うように、信頼するのです。厳しいときもあるけれど、それは自分を教育するためなのだと信じていれば、耐えられるのです。だから、ここでイエスが「裁き」について語るときも(41)、信頼をもって聞くならば、ただ恐れさせるための話しではないことがわかるのです。恐怖によって従わせようとしているのではないのです。
 本当の信仰は、他者の痛みを知ろうとします。私達も、故意ではないにせよ、知らずに人を傷つけているかもしれない。しかしそれはおそらく一生解決しない問題です。それは神さまにすがり、ゆるしてもらうしかないのです。罪からの救いを望むならば、裁きの日も私達にとって希望となり、平安となるのです。

説教『すべての民への愛』より

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ28:19)

■力が無いからできること
 キリスト教は、始まった時から常に伝道を妨害されていました。力のある者にとって都合のよい話のほうが、広く知られてしまうのです。しかし、このように不利な状況でも広く世界に伝えられたということが、神のわざであるのです。伝道は計算どおりには行かないのです。神様が私たちを通して働かれている、ということをおぼえながら、主の伝道命令を聞きましょう。
 ガリラヤに呼ばれた弟子たちは、山に登り、そこで復活したイエスと出会いました。復活によって示されたのは、イエスが預言者によって告げられた、神からの救い主メシア=キリストであるということ。弟子たちはいよいよそのことを受け入れ、イエスの前にひれ伏すのですが、ここでも疑う者はいたのです。復活したイエスに実際に出会っても信じない。人間はどこまでも不信仰を抱えて生きているのかもしれません。
 イエスはこのような、まとまりのない群れである弟子たちを信頼して、伝道/宣教のわざを託されました。対象は、すべての民です。あまりにも大きすぎる目標に感じられます。それにユダヤ教当局、権力からの妨害があります。なんというはてしのない、険しい道でしょうか。しかし、力のある者には想像もできないようなことが、わたしたちにはできるのです。
 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」現実の権力からの抑圧というものをわかった上で、なお、本当の勝利者はわたしキリストである、ということを言っているのです。力も、お金も、一番たいせつなものではありません。身一つで出かけて行って、出会う。友人、隣人になるということです。人間らしい関係の中でこそ、人はいやしを感じるのです。信頼関係が生まれるのです。

説教『死の支配を覆す』より

「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」(マタイ28:4)

■本当に強いものは何か
 ここに登場する兵士たちは、武力によって威圧するわけですから、人々を死で脅す者を代表しています。彼らを雇う人間は、武力によって他を威圧しなければ生きていけない、武力で平和を維持していると考えているのでしょう。しかし、平和をもたらすものとは、決して武力ではないのです。
 死を振りかざして支配する者は、もっと強い者が来てこれを無力にします。それは命の神です。それは人間の目には見えないのです。キリストの復活はまずここで、空の墓として示されました。墓の中でよみがえる瞬間は誰も見ていないのですから、証拠としては不十分だと思われるかもしれません。しかしこれは、神に属する良いものは、見えないということを示しているのです。愛や、希望というものは、目に見えません。信じなければ、無いとしか思えないのです。
 見えないものを信じないならば、人々は、権力や富こそが人間を生かすと信じ、それを求めて奪い合い、傷つけ合うだけです。見えるものである「死」を恐れ、死を武器にして、生き残ろうとするのです。しかし、その先に何があるでしょうか。殺戮は憎しみを生み、憎しみは報復を生み、報復はすべてを破滅させるのです。戦争の傷は永遠に癒えることはなく、解決できない問題を残しています。
 人間が人間らしく生きることを保障され、他の国の人たちとも人間として出会えるような社会をつくり、交流することこそが大切なのです。このような平和の教えは、イエス・キリストご自身が実践された生き方です。イエスは正しく生きたために十字架につけられ殺されますが、神はイエスを復活させ、愛は決してむなしくならないことを示されたのです。