今日の講壇(抜粋) -80ページ目
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説教『私について来なさい』より

■あずけられている

聖書 マタイによる福音書 25章14~30節(タラントンのたとえ)


 人間は皆、タラントンを神様から預かっています。それは一時的な預かりものであって、やがて返さなければいけない時が来るのです。タラントンとは一体何を指しているのでしょう。
 タラントン(賜物)は伝統的に才能(タレント)として解釈されて来ましたが、命そのものとして読むこともできます。神様から命をあずけられているのです。
 それぞれにあずけた額に5タラントン、2タラントン、1タラントンと個人差があるのは、神様が不公平であるというよりも、神様からの賜物を人間の基準で測って、あの人は多い、私は少ないと不満を言っている姿を表しているのだと思います。
 しかし、神様は常にあなたに必要な分を充分に与えてくださっているのです。
 そして、命は一時的に神様からあずかっているものであって、いつまでも自分のものにしてはおけないのです。
 命は本来、神様のものであるから、壊してはいけないのです。奪ってはいけないのです。
 命は偶然にできたのではありません。神様の意志がつくり、支えているのです。今私たちが生きていること、その一瞬一瞬が、奇跡なのです。

説教『人生はやり直せる』より

 先週から、大河ドラマ「八重の桜」が始まりました。八重の将来の夫となる新島襄が、どこまで描かれるのか、私、気になります。彼の行動の背後にキリスト教信仰がある、ということがちゃんと語られるかどうかが、気になります。
 新島襄が、教育とはどういうものであるかを、身をもって示したエピソードがあります。
 同志社英学校であるとき、生徒たちによる集団ボイコット事件がありました。
 9月に入ってきた新入生の数が少なすぎたため、翌年1月、生徒の再募集をしました。そのまま二つのクラスが存在すればよかったのですが、少人数のクラスを二つ設けておくのは不経済だから1クラスにまとめよう、ということが校長である新島の留守中に決定され、生徒たちに通告されました。上級生は、この一方的通告が頭にきたらしく、無届けの集団欠席を行ないました。
 新島校長は、悩みながら、解決の道を見いだそうとして、あることを実行します。
 新入生の原田たすくはそのことを日記の中で報告しています。(なるべく要約しようとしましたが、文語と口語が混じってしまいました)
(その出来事があったのは1880年、実に長浜教会創立まであと5年という頃です)
 「4月13日、チャペルにて新島先生の講和があった。
 二年生上級の者が、下級生と合同になったことに不平を鳴らし、二、三日欠席した。ただし、その欠席した罪は、決して二年生にあるのではなく我らの手抜けにある。また決して幹事に罪があるのではなく我にある。しかし、生徒らが多く不平を鳴らして欠席することを、何故罰しないのかと教員たちは言う。罰しなければ学校の規則は無益のものとなってしまう。よって我、自ら我を罰すと両眼に涙を浮かべて演説し、終わって杖をもって自ら手を撃った。
 そのため杖は折れて8、9本となった。上原君(ボイコットした側)がこれを止める。ようやくにして止む。先生いわく、我今我を罰す、願わくは諸君も規則を守られよ。
 実に先生の学校を愛し、真に学校の盛大を望むの心ある、感服感服、実に我々尚一層勉励を加えて、真に先生の心に報わずにおられようか。」
(和田洋一、『新島襄』(日本基督教団出版局)より。本の中ではこのように解説されています。)
 「教育の世界では、学校当局に手抜かりがあり、まずさがあっても、それはそれとしておいて、学生生徒を処罰することによって学校の秩序を守るというのがならわしになっている。それだけに新島の自責は稀有な事件であると言えよう。」
 この場面がどう映像化されるか、よく注目して見てください。大河ドラマの宣伝になってしまいましたが。
 これは小さな出来事かもしれません。その時に、同志社のチャペルにいた数十名の生徒しか目撃していない、小さな出来事です。
 しかし今、日本のすべての大人、特に教育者と呼ばれる人が聞かなければいけない教えだと思います。このような人物と出会えるならば、子どもたちは喜んで学校に行くでしょう。


 これはまさに、神の愛にならった行ないであります。人間を、その罪ゆえに罰しなければならない。そうしなければ、秩序は保たれず、平和にはならないというとき、神は、ご自分の独り子を罰することで、人間を赦してくださったのです。
 この愛こそが人間を心の底からつくり変えるのです。

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