今日の講壇(抜粋) -77ページ目

説教“誰も知らない”より

「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、…「本当に、この人は神の子だった」と言った。」
(マタイ27:54)

■キリスト教はなぜ、消滅しなかったのか
 今日の聖書は受難の一番クライマックスと言える、イエスが十字架につけられる箇所です。イエスの十字架刑を目の当たりにした人々は、それをイエスの運動、伝道の挫折としか受け取れませんでした。「イエスは志半ばで倒れたのだ、それは神に見捨てられたからであり、すなわちイエスの教えは正しくなかったのだ」、そのように、イエスの死を受け止めたとしてもおかしくありません。だから、本来ならば、キリスト教というものは、イエスの死と共に消滅していたはずなのです。それなのに、イエスの死後、キリスト教はますます盛んになり、イスラエルの民族宗教を越えて、世界に広がって行くことになります。
 このことは、キリスト教最大の謎なのです。人間の頭でどれだけ考えても、わかりません。イエスが復活した、という事実抜きには、説明できないのです。イエスは復活して、永遠の命を受けられた。それは神の御心にかなったからであり、すなわちイエスは正しい方であったのだと、解釈されたのです。そのように、復活がイエスの死のすべての意味を覆すのです。どうやったら復活なんてことが実現するのか、合理的に解釈することは置いといて、まず信じる、ということをおすすめします。


 何より不思議なことは、イエスの十字架の死を見て信じた人々がいたということ。キリストに生涯をゆだね、満ち足りて世を去った人々、そういう人々がいたということが、証しなのです。

 目に見えるものが、悲惨なことしかないとしても、誰も希望をもてないように思えても、信じる者は希望の光を見るのです。その人自身がキリストを映す世の光となって、世界を照らすのです。

説教“仕える幸い”より 

聖書「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(マタイ20:26-27)

■「偉くなりたい」という思い
 イエスが受難予告をされるのは、これで三度目になりますが、それを聞いても、弟子たちはイエスの受ける苦難と死の意義についてよくわかっていないことが明らかになります。ここで弟子ヤコブとヨハネの母が息子たちと一緒にイエスのところに来て、ひれ伏してあるお願いをします。それは、イエスが王さまとして君臨するとき、王に次ぐ重要ポストを二人に与える約束をしてほしいという願いでした。それは非常に世俗的な利益、権力を求めるものでした。イエスがこれからなられるメシアとは、昔のダビデ王のような王様だと、弟子たちも母親も信じ込んでいたのです。
 しかし、神の国での地位は、人間が優秀な成績を修めたり、知恵を尽くして手に入れるものではないのです。それはただ神がご自分の意志で決められるということです(23節)。もっとストレートに言うならば、神の国で上とか下とか関係ないだろう、ということだと思います。
 だから、イエスは他の弟子たちも呼び寄せて、一般の権力者がしているような支配ではいけないのだと教えます。しかし人間にはどうしても、偉くなりたい、いちばん上になりたいという欲があるので、いっそそれを原動力として、もっといい使い方をしなさい、と言われるのです。こうして弟子たちに、仕える道にこそ幸いがあることを教えるのです。

 そしてそれは、イエスご自身がなされたことを、模範として行いなさい、ということです。28節「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」主イエスの十字架は、私達の行いの最もよい動機となるでしょう。


説教“夜明けは近い”

■人間を超えたものへの恐れ


「弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。」(マタイ17:6)

 キリストはいつも小さく貧しくされた人と共におられ、わたしたちを招いておられるのです。そこに希望があります。同じように現実を見ても、それに意味を見出すか、見出さないか、心がけひとつで変わります。

 弟子たちは神の声を聞き、非常に恐れて、目を固く閉じ地面にひれ伏しました。神を見た者は死ぬと信じられていたからです。聖書にも怒り、滅ぼす神のイメージが描かれているように、神は厳しい方であると思われていました。

 しかし、この恐れるという感覚は、大事です。人間をはるかに超えた大きな存在に対する恐れ。計り知れないお方に対する恐れ。今、現代人に決定的に欠けているのは、そういう恐れの感覚だと思うのです。


 神さまへの恐れという考えを強調した人に、シュヴァイツァー博士がいます。ドイツ出身のシュヴァイツァー博士は、信仰によって、イエスにならってアフリカの貧しい人たちの医療に生涯を捧げました。この人は、アフリカの雄大なジャングルの中でふと、創り主である神さまへの恐れを感じたそうです。そこで、畏敬の念、という言葉が生れました。

 箴言1:7にもあります。「主を畏れることは知恵の初め。」恐れから始まる信仰もあると思います。そして、その方が創り主であるということを受け入れるなら、自分が神の深い配慮によって作られた、かけがえのない存在であることがわかるのです。神の恐ろしさとは、御自分が創った命に対する真剣さ、誠実さに他なりません。