今日の講壇(抜粋) -78ページ目

説教『自分の十字架を背負う』より

■人間であることをわきまえる

「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(マタイ16:17)


 主イエスが苦しまれたのは、あえて苦難の道を選ばれたのは、いったいなぜかということが、ここで問われます。ここでもし主イエスが人間であったなら、自分のことを優先して苦難を避けたでしょう。ペトロのアドバイスは人間としてまっとうなものです。イエスを愛すればこそ無事を願うのが当然です。ここは押さえておかないといけない大事なことです。

 平凡な、幸せの感覚を養うということです。人間には、日々の喜びがなければ、生きていけません。子どもたちは、とくにそうです。遊びがなければ、生きていけません。生きることが、目標に向かって努力するだけのものになってしまっていないでしょうか。物事を役に立つか立たないかで振り分ける合理主義は、この問題を解決することができません。人間の命というものは、もっともっと尊いものです。人間自身にも究め尽くせないその奥深さ、不思議さは、創り主である神さまに由来するものです。

 人間と神さまとの決定的な違い、それは、造られた者と創った者の違いです。

 「人間ではなく、わたしの天の父(神さま)なのだ…」イエスの言葉は二度とも、神と人間の違いというものを強調しています。神は人間ではない。つまりそれは、人間のあらゆる常識・知識は通用しないということです。人間は、神の御心というものを計り知ることができません。それでも、神に問うことはできます。人は、苦しみの中にいるときに、神に問います。「神よ、こんなときにあなたは何をなさっているのですか。どこにおられるのですか、本当におられるのですか」と。
 十字架がその答えです。イエスの苦しみは、あなたが受けるはずだった苦しみを、代わりに引き受けてくださっている苦しみなのです。このことを抜きにして、私たちが何か宗教的な掟を守るとか、ノルマを果たすようなことをしても、意味がありません。普段平凡な日常にいれば、主イエスからの、十字架を背負って従いなさい、という勧めは、不可能とは言わないまでも、無理難題であるように思えます。そこに、「神が自分に対してしてくださったように、」という信仰と感謝がなければ、むずかしいでしょう。


 “死ぬ日まで天を仰ぎ、一片の恥なきことを”キリスト者詩人ユン・ドンジュが残した言葉です。天を仰ぐとは、神さまのほうを見るということ。神さまのほうを見るとは、神さまに見られるということです。神さまから見て恥でない生き方。悔いのない生き方、これは、自分の死ぬ日というものを考えた時、できないとは言えないのです。なぜなら誰にでもその日はやって来るからです。愛する者に、大切なものを残す。そのように日々を生きましょう。

説教『新しい歌をうたおう』より(入 治彦牧師/京都教会)

■新しい歌をうたおう


「新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。」(詩編96:1)


 「歌は世に連れ、世は歌に連れ」。歌には流行り廃りがあり、次から次へと新しい歌が産み出されています。その中にはスタンダードとして残るものもあれば、懐メロで終わるものもあります。それに対して、詩人が語っている「新しい歌」とはこの世界に対してどういう意味をもっているのでしょうか。
 詩編96編は、前半で神がこの世界の創造主であると言い、後半では神が裁き主であることを詠い、歴史のはじめと終わりを見つめています。さらに、これは終末論的詩編と呼ばれ、その最も古い形がイザヤ書42:10に見られます。そこでは「新しい歌を主に向かって歌え」と「地の果てから主の栄誉を歌え」が対の形で記されています。言い換えるならば、新しい歌とは何々と比較してより新しいということではなく、むしろ地の果てから、終わりから賛美する歌であることがわかります。
 終末についての教えを中世のキリスト教会は、<デ・ノヴィッスィマ>と言いました。それは終わりの中に最も新しいことを見る見方を表しています。「汝の死を覚えよ」という意味の<メメント・モリ>と重なります。


 ペースメーカーを入れる手術をした医師は、語っていました。「私は一度死んで甦らされたようなものです。電池を取り替える毎に、神様がもう数年生きることを許してくださったと感謝したくなります」
 であるならば、「新しい歌を歌う」とは今、主によって生かされているこの人生を感謝をもって受け取り直し、希望のうちを歩むことではないでしょうか。人が終わりと見るような所にこそ、主が来られ共にいてくださるからです。

説教『本当に欲しいものは』より

■見えるものではなく、見えないものを


「イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(マタイ4:4)


 悪魔の価値観は、現代人が良いと思うものと共通しています。強さや美しさや豊かさ、すなわち見た目の繁栄です。しかし私たちは見た目に惑わされず、見えない本質を見極めないといけません。
 聖書の言葉は、一般論として通用するものもありますが、その言葉が置かれている文脈をいつも確認する必要があります。単に、断食しなさい、食べ過ぎるな、などということが言いたいのではありません。また、聖書の言葉そのものに力がある、ということでもありません。
 働ける状況にある人は、働いて食べ物を得ています。そこで「自分の努力で生きている」という考えは一見正しいようで、多くのことを見失わせます。自分も誰かに支えられているということを忘れてしまうのです。(申命記8:3)「主は…あなたも先祖も食べたことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」

 「神さまに生かされている」ということを受け入れるならば、がんばれるのも、がんばれないのも、すべて神さまの計らいの中で起きていることなのだから、卑下することなく、慢心することなく、感謝して生きられるのです。
 大事なことは、あなたを養ってくださる、神さまへの信頼です。だから、無意味に何でもガマンするのがいいのではありません(人はそういう所に目を奪われますが)。人の持っている欲は、良い働きをする原動力でもあるのです。むなしくならない、天の宝物こそ、貪欲に追い求めようではありませんか。