今日の講壇(抜粋) -74ページ目

説教『幼な子のように』 ~三位一体主日~

聖書「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(マタイによる福音書11:25)


 少女ヒーローものアニメにプリキュアというシリーズがあって10作ぐらい続いています。プリキュアという名前だけが継承されてキャラクターも世界設定も毎回変わるのですが、よくもまあ毎回新しいものを作り続けていられるなあ、というシリーズです。
 今放映中のドキドキプリキュアはジコチューという敵と戦っているのですが、その名の通り、人間の自己中心的な心が形をとってあらわれたものです。悪魔が人の心をそそのかすように、謎の存在が人を自己中心的な生き方に導き、暴れさせる。そして平和な町を混乱に陥れるのが毎回の共通した筋立てです。その怪物は誰でも心に抱くような怒りや嫉妬などをきっかけにして生まれるのです。それに体を張って立ち向かい、説得して、浄化するのが我らがプリキュアの任務ということになります。
 人間の陥る、負の感情にとことんつきあうということ、そういうことでしか癒やせないものがあるのだと思います。
 最近は何か教育的な意味を直接的に表現することが多いですが、子ども向け作品をそういう視点で見るということは、実は子ども番組のできた当初からありました。漫画家の永野のりこという人は、子どもの頃にウルトラマンを見て強烈な影響を受け、大人になってからその想いを書いています。
 (私なりにまとめたらこうなりますが・・・)人間の世界に放り出されて暴れるあの怪獣というのは、自分ではどうしようもなく暴れてしまうのではないか。孤独で誰にも愛されずに、憎まれて自分でも自分が嫌いで、やけになって暴れることしかできない人の心ではないか。その怪獣と戦ってくれるウルトラマンというのは、孤独な怪獣に向きあってくれる唯一の存在であり、怪獣はウルトラマンに倒されることで暴れることから解放され、救われているように見えた、ということです。

 そんなふうに子ども番組を見ながら、子ども以上に真剣に見てしまうのをオタクと言いますが、私たちはジコチューという心の怪獣を倒されることで、やっと本当の自分になれるのではないかと思います。
 それはつまり、古い自分が神さまにうち砕かれることで、罪から解放され、新しい自分になるという聖書のメッセージと似ている気がします。


説教『どこにでも行ける』より ~ペンテコステ~

聖書 使徒言行録 2:1~11


 ペンテコステおめでとうございます。
 昨日は青年部のネパールワークキャンプ報告会がありました。京都教区ネパールワークキャンプは1979年に始まり、24回目を迎えます。最初のきっかけは、日本キリスト教海外医療協力会の岩田昇博士が、ネパールの生活環境の整備を訴えられたことです。
 ネパールの農村部には、トイレがありませんでした。それは、ごく少数の人間が暮らしていくのであれば、自然の中で循環できたと思われます。しかし、人口の増加と共に、トイレが無いことは深刻な状況をもたらしました。それが乾期には土ぼこりと共に宙に舞い、雨期には井戸の水を汚染し、結核をはじめ、多くの病気の原因となっていました。博士は、病気への対処が追いつかない事態に直面し、根本的な予防方法として、トイレの建設を、京都教区で提案されたのです。そして京都教区の青年たちがそれに応えて、ワークキャンプが始まったのです。
 最初は奉仕のために始まったワークキャンプですが、34年経った今、その意味はだいぶ変わって来たようです。
 今でも、学校に行って子どもたちに教えたりとか、働きがないわけではないのですが、どちらかというと住民との交流に重点が移って来ています。その中で気づかされるのは、他所から来た人間を村全体で歓迎するような温かい交流があるということです。
 日本でも昔はそうであったかもしれない、でも役に立たない、面倒なこととして忘れられてきたものが、そこにあるそうです。参加者の感想では、振り返ってみれば、精神的な面ではこちら側が受ける側だった、ということに気づかされたということです。
 はるばる遠い国へ出かけて見つけたものは、日本が見失っていた人間のすばらしさ、理想の社会とは何かということを考えさせられるものでした。それは、心に火が灯され、熱く燃えるような体験であったと思うのです。
 今の私たちはどうでしょうか。社会に失望し、希望もなく毎日を過ごしていないでしょうか。ペンテコステは神さまから聖霊が与えられ、心が燃えるような、活力を与えられることを求める祭であります。
 夢や希望が与えられるように求めましょう。

説教『共に成長する』より

「わたしたちは皆、…成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」(エフェソ4:13)


■一人では、自分の欠点しか見えない、しかし

 この教会でも、先日は五人の役員が選出されました。それは人間による選挙でありますが、やはり神の導きがそこにあると信じることが大切だと思います。今日の聖書では、平和のうちに一致することのすすめが語られ、キリストの権能の大きさ、広さというものが語られます。高きに昇り、低きに降りられたことをもって、昇天されたキリストが万物に関わっておられること、キリストにおける神の働きのおよばない場は存在しないということを証ししているのです。そしてこの同じ方、すべてに関わり、行き届いた配慮のできるお方が、教会のひとりひとりに役割を与えられたのです。何よりそれは、恵みとして与えられているのです。


 そして、奉仕は、何も役職についた者のみの務めではありません。「キリストの体」のメンバーとしての働きのひとつに過ぎないのです。キリスト者であるならば、皆が奉仕に携わるべきなのです。プロテスタントではとくに「万民祭司」という理念に基づいています。すべての信徒が、キリスト者の代表であり、キリストの名を背負っているのです。役員は教会の維持・発展のために基本的なことをするのであって、誰でも新しい風をどんどん送り込んでほしいのです。みんなで成長するのです。


 わたしたちは成熟した人間になれるのです。一人一人は不完全ですが、キリストにおいて共に生きるとき、互いに欠けた所を補い合い、成長していくのです。たとえこの社会があなたをどう評価しようとも、ここではすべての者が、神のわざに必要な者なのです。人の思惑、予想を越えて、キリストの体なる教会は成長するのです。だから、祈ること、話し合うことを大切にして、キリストを頭(かしら)としていただき、共に歩んでいきましょう。