なおひとずの哲学カフェと観光日記

なおひとずの哲学カフェと観光日記

哲学カフェの開催記録と日帰り一人旅の記録をするブログ。

18歳でキックボクシングを始め、その後20年かけて色々な武道格闘技をやってきたら40歳過ぎに空手の研究と哲学に辿り着きましたとさ。

 

音声de対話*10 終了しました。

 

テーマ「哲学者ってどんな人?」

参加者 15人くらい

 

 

そもそも哲学者とは誰か?

 

哲学者と哲学研究者は同じなのか、

大学院を卒業した人はdoctor of phylophy なので哲学者なんではないか、

考えるほど暇な人が哲学者なんではないか

哲学者かどうかは周りの人や後世の人が決めるものである

 

などなど。

 

では哲学とは何なのか?

 

そもそも哲学って定義があいまいである。

自然科学や倫理学や政治思想と境界がよくわからない、

 

哲学的な問い、というのがあって

①今何時ですか?は哲学的な問いではないが

②時間とは何か?は哲学的な問いである

 

 

ソクラテスープラトンーアリストテレスの流れが正式な哲学である

という意見もあれば

ソクラテスとかと同じような事考えていた東洋の思想家も結構いるから

それも哲学でしょ、とか

仏教系の人は哲学者なのかとか

 

ニーチェは文献学者であって哲学者ではないとか色々でました。

 

 

ソクラテスの話が結構でており

「単に生きるのではなく善く生きたい」という彼の言葉について

 

存在論、認識論、倫理もとどのつまり「善く生きる」ための道具である、

いやいやそうではなく存在論、認識論もそれ自体として存在するのだ、

 

善く生きたいというのは人の本能か、

何をもって善いとするか、

善い生き方とは何か、

 

人それぞれの善い生き方がある、

でも人それぞれって言ったら議論する意味がなくなってしまうのでは

ないか、

 

などなど多くの議論がなされました。

 

 


 

若宮八幡宮に行ってきた。

 

ご祭神は仁徳天皇だそうです。

仁徳天皇は淀川の治水工事を完成させたことによって干拓事業の守護神とされて

いるそうです。

 

多摩川の治水を考えてまつられたとのこと。

 

資料館を見たかったのだが休館中でした。

  

 

 

境内のなかに金山神社というものがあり、かなまら様と呼ばれているそうだ。

 

 

こちらは安産や下半身の病気の治癒にご利益があるとされている。

 

まえに外国人がものすごく並んでいて何かと思ったのだがこちらでは

毎年4月に「かまなら祭り」というのが開催され、それが盛況なのだという。

 

男根の神輿が外国人にうけて大盛り上がりだそうです。

 

  

 

あの行列はそういう事だったのか。

 

 

 

続いて川崎大師・平間寺(へいけんじ)へ。

 

平安時代末期、無実の罪で川崎に流されていた漁師の平間兼乗(ひらまかねのり)の

夢のなかに弘法大師が現れ、

その後平間兼乗が海から引き揚げた弘法大師の木像が現在も川崎大師の

本尊であるという。

 

江戸幕府の第11代征夷大将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)が厄除け祈願を行ったことも有名。

 

  

 

写真は令和7年現在のもので絵は二代目 歌川芳宗(にだいめ うたがわ よしむね)のもの。

歌川芳宗は明治時代の画家だそうだ。

 

明治も令和もあまり変わらない気がする。

戦争で一度焼けているだろうが。。

 

 

この日は日曜だったが屋台はひとつも出ていなかった。

 

8月は閑散期なのだな。

 

テキヤさんも他の夏祭りとかに行っているんだろう。

 

年末年始はここが店と人でごった返しているのだが。。

 

 

 

 

 

せせらぎ館の対岸には多摩川決壊の碑がある。

 

昭和49年台風16号による激しい降雨の影響により、多摩川の堤防は決壊し、

家屋19棟を失うなど狛江市に大きな傷跡を残した。

 

 

当時の様子はこんな感じで

 

  

 

その様子が全国にテレビ中継されたのだという。

 

二ヶ領宿河原堰が洪水の流れを阻害し、せき止められた河川が左岸河川敷の小堤防を破壊したのだ。

 

なので最終的には二ヶ領宿河原堰を自衛隊が爆破して迂回路をなくさせた。

 

今から50年前の出来事である。

 

それからさらに海のほうへと歩くと

二ケ領本川。

 

江戸時代に川崎南部までの地域に水を引き入れた農業用水。

今は用水としての役割は終えている。

 

  

 

古くて緑に濁ったさまが歴史を感じさせる。

これは確かに農業用水だったんだなと。

 

そしてその先に久地円筒分水(くじえんとうぶんすい)。

 

この地点で流れてきた水を四つの堀(久地堀、六ヶ村堀、川崎堀、根方堀)に分水していたが

水量をめぐる争いが絶えなかった。

 

そこで、昭和16(1941)年に「久地円筒分水」が造られた。

 

  

 

要は水を正確に4分割する装置なのだが当時としては画期的だったそうです。