一昨日(22日)
中日新聞;地名さんぽで「東区百人町」を取り上げてありました。
お知らせです。
私のブログ「洋ちゃんのひとりごと」でも『百人町』について下記の日に書きました。
こちらも是非ご覧ください。
・2018年9月3日にタイトル「名古屋市東区百人町の町名の由来」…追記しました
・2016年1月31日にタイトル「百人町の散りツバキ」
・2012年5月12日にタイトル「百人町・黒門町筋街並み 」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以前にブログした記事より
狭い路地を歩いていますと時代の変遷を感じさせる町です。
(古い家、屋敷風の家、分譲住宅、鉄筋の建物等さまざまな建物多々)
車の往来は少なく…静かな雰囲気!!
私、好みの街並みです。
*東区史跡散策路・ひがし見聞録より一部引用
・百人町は江戸期の初め、
同心組屋敷地として軍事上の目的を持って造られ、下級武士の屋敷が連なって
いた。
・明治維新によって組屋敷地から一般住宅に変わった地域である。
・現在も、細街路、路地が残っていて、いまだに昔の雰囲気を感じさせている。
*「なごやの町名」・平成4年名古屋市発行の本より 一部引用
明治11年(1878)に北百人町・南百人町・出雲小路の各一部より成立。
(昭和17年に一部が車道町となる)
・北百人町・南百人町は、江戸時代、建中寺東の百人組屋敷を挟んだ二本の町筋であった。
・百人組は、もとの関東百人組で、慶長16年(1611)尾張藩に付属し、
渡辺半蔵百人組となり、町名もこれに由来する。
・百人組同心の組屋敷は、はじめ呉服町、次に矢場町を経て、元禄7年(1694)以降に
この地に移される。
・南百人町の東端の一画を、出雲小路といい、二代尾張藩主徳川光友の子、松平義昌(出雲守)
に属する足軽の屋敷地で、享保年間(1716~36)に出雲守が絶えたのちも、小路名として
残る。
・戦災をまぬがれ、昔ながらの街並みを保っているが、近年変貌を遂げつつある。
百人町の石碑。
吉田小路の碑~同心組屋敷をつなぐ昔ながらの迷路のような道の入り口
百人町にてデジカメ
左)百人町の「枡形」道路
防衛上の配慮から、
敵の侵入を防ぐため
明治24年の地形図:四角く赤で囲ったあたりが百人町です。
現在の百人町の地図です
西面…吉田小路
南面…百人町 東面…吉田孟辰氏寄付ニヨリ此道ヲ造ル
大正六年三月 百人町総代