名古屋市東区百人町の町名の由来 | 「洋ちゃん」のひとりごと

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私「洋ちゃん」の住む名古屋市東区の町名の由来シリーズです。


今回は、

東区百人町の由来について調べました。

狭い路地を歩いていますと時代の変遷を感じさせる町です。

(古い家、屋敷風の家、分譲住宅、鉄筋の建物等さまざまな建物多々)

 

車の往来は少なく…静かな雰囲気!!

私、好みの街並みです。

 

*東区史跡散策路・ひがし見聞録より一部引用

・百人町は江戸期の初め、

 同心組屋敷地として軍事上の目的を持って造られ、下級武士の屋敷となっていた。

・明治維新によって組屋敷地から一般住宅に変わった地域である。

・現在も、細街路、路地が残っていて、いまだに昔の雰囲気を感じさせている。


*「なごやの町名」・平成4年名古屋市発行の本より 一部引用
明治11年(1878)に北百人町・南百人町・出雲小路の各一部より成立。
 

(昭和17年に一部が車道町となる)

・北百人町・南百人町は、

 江戸時代、建中寺東の百人組屋敷を挟んだ二本の町筋であった。

・百人組は、もとの関東百人組で、慶長16年(1611)尾張藩に付属し、

 渡部半蔵百人組となり、町名もこれに由来する。

・百人組同心の組屋敷は、はじめ呉服町、次に矢場町を経て、

 元禄7年(1694)以降にこの地に移される。 

・南百人町の東端の一画を、出雲小路といい、

 二代尾張藩主徳川光友の子、松平義昌(出雲守)に属する足軽の屋敷地で、

 享保年間(1716~36)に出雲守が絶えたのちも、小路名として残る。 

・戦災をまぬがれ、昔ながらの街並みを保っているが、近年変貌を遂げつつある。

 

百人町の街並みをデジカメ

百人町の石碑。

 吉田小路の碑~同心組屋敷をつなぐ昔ながらの迷路のような道の入り口
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   ↓ 百人町に老朽化した長屋残る。
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 ↓ 細い(狭い)路地

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左)百人町の「枡形」道路

防衛上の配慮から、

 敵の侵入を防ぐため 

 道を鍵の手に曲げて見通しを 

 さえぎる構造になっている。

 

 

 

↓ 昭和前期の地図…建中寺の右に百人町と記載あり。

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↓ 明治24年の地形図:四角く赤で囲ったあたりが百人町。
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↓現在の百人町の地図

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石碑及び詠み

東海中・高校の校門すぐ東にあり

         西面…吉田小路

       

 ↓南面…百人町       ↓東面…吉田孟辰氏寄付ニヨリ此道ヲ造ル

                        大正六年三月 百人町総代           

↓中日新聞記事をスキャン

 

(付記)

百人町・黒門町筋街並み

 

(21,705歩)

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(追記)

👅2024年3月31日に追加

☟昭和62年3月頃の資料より

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追記)

👅2024年5月28日に追加

↓ネットより引用

 

町名の由来

百人組が1611年(慶長16年)に尾張藩に転じ、渡部半蔵百人組となった。

家康の家臣・半蔵率いる足軽百人の組屋敷は当初呉服町(名古屋市)にあったが、

矢場町を経て1694年以降に当地に移転し、地名の由来となった。

組屋敷は明治時代に一般の人が住む長屋として使われるようになった。

沿革

1878年(明治11年) - 北百人町・南百人町・出雲小路の各一部により、

           名古屋区百人町として成立する。

1889年(明治22年)10月 - 名古屋市編入に伴い、同市百人町となる。

1908年(明治41年)4月 - 東区編入に伴い、同区百人町となる。

1942年(昭和17年)10月 - 一部が車道町に編入される。

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