『春と修羅』序アラカルト(3)
                               『春と修羅』出版100年記念



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2024年現在の(WEB記事)から選別   短編三題
 
・春と修羅序の詩        (壺齋氏)
・「春と修羅・序」の自負    りっぱなブログ  
・『春と修羅』序の私的理解   ジネント山里記
・佐藤勝治氏、木村圭一氏、石川朗氏の『春と修羅』序コンパクト




春と修羅:序の詩(壺齋氏)

宮沢賢治は、賢治は宗教家の端くれであったことは否めないが、またアインシュタインの相対性理論を読みかじっていたとおり、自分の世界観を科学的な知見に立脚させようとするところもあった。彼の世界観というか宇宙観、そしてそれを根底のところで規定している時空感覚は、法華経をよりどころにした宗教的な時空感覚と、相対性理論から思いついた壮大な時空感覚とが融合したようなものだ。
そうした賢治の世界観というか、宇宙観は、独特の輝きに包まれている。「春と修羅」の序にあたる詩は、この世界観・宇宙観あるいは時空感覚の一端を闡明しているものだ。この時空感覚が理解できないと、賢治の詩を読み解くのはむつかしい。
以下原文にそって、賢治の世界観を特徴付けるものを、いくつかのキーワードに即しながら、読んでいこう。

  わたくしといふ現象は
  仮定された有機交流電燈の
  ひとつの青い照明です
   (あらゆる透明な幽霊の複合体)
  風景やみんなといつしよに
  せはしくせはしく明滅しながら
  いかにもたしかにともりつづける
  因果交流電燈の
  ひとつの青い照明です
 (ひかりはたもち その電燈は失はれ)

いきなり、現象、有機交流電燈、照明、幽霊の複合体、因果交流といった耳慣れない言葉が羅列される。文字面だけを見ていたのでは、はたして何が言いたいのか、わからなくなる。
まず「わたくしといふ現象は」といっている。「わたくしは」でないところがみそだ。何故あえて現象なのか。
賢治にとっては、「わたくし」という実体が存在して、その表れとしてのわたくしの想念や行動が、現象としてあるのではない。「わたくし」とは日々刻々、わたくしの行動や想念として展開するその現象そのものの総和である。現象を離れてその背後に本体を求めるのは無意味である。逆に本体としてのわたしの肉体がこの世から死んでなくなったとしても、わたくしという現象はこの世とは別の次元で明滅し続けるかもしれない。
賢治にとっては、人間という生き物も、その対象世界としての自然も社会もみな、現象の相互作用がおりなすものなのだ。現象の背後に何か特別なものを見ようとしても、それは無益な試みなのだ。
わたくしには実体や本体と呼ばれるものはなく、ただただわたくしという現象のおりなすものがわたくしというものを意識させる。この現象はそうしたものとして、生まれもせず滅びもしない。なぜなら現象は本体の仮の姿なのではなく、まさしく現象として不生不滅の縁起にしたがって継起するだけだから。
本体という考えにこだわるならば、本体が滅した後のことが気になろう、だが現象は、ややくだいていえば、幽霊のようなものだ。幽霊とは時空にこだわらず、それがあるところにあり、あらぬところにあらず、見える人にはみえ、見ない人には見えない、要するにいつでも目の前にあるものとはかぎらないが、かといって完全に消え去ることもない。どこかでかならず存在しているものなのだ。
このように宮沢賢治がいうところの現象とは、非常にユニークな概念だ。わたくしを含め、宇宙や世界はこの現象の総和としてある。そのなかでこのわたくしという現象は、交流電燈のひとつの青い照明のようなものである。といって交流電燈という本体が光を放っているのではない。電燈は失われており、光が自ら青く光っているだけだ。この光はせわしく明滅しながら、たしかにともりつづける。そのともりつづける光として、わたくしはある。

  これらは二十二箇月の
  過去とかんずる方角から
  紙と鉱質インクをつらね
  (すべてわたくしと明滅し
   みんなが同時に感ずるもの)
  ここまでたもちつゞけられた
  かげとひかりのひとくさりづつ
  そのとほりの心象スケツチです

賢治はついで、詩集に収められた作品の由来を紹介する。これらの作品は22ヶ月間の間の過去と呼ばれる世界から蘇ったものだ。それはわたくしと一緒に明滅し、みんなが同時に感ずるもの、あるいはわたしの心の中で明滅していたものの、そのままの姿のスケッチだという。

  これらについて人や銀河や修羅や海胆は
  宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
  それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
  それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
  たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
  記録されたそのとほりのこのけしきで
  それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
  ある程度まではみんなに共通いたします
   (すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
    みんなのおのおののなかのすべてですから)

これらの作品を読んで、読者は人や銀河や修羅や海胆が宇宙塵を食べたり、または空気や塩水を呼吸しているのを読み取り、それらの事象の背後に本体があると感じたりするかもしれないが、これらはあくまで現象、つまり作者の心の中に生起していた「けしき」をスケッチしたものに過ぎない。それを虚無と呼びたければ、そう呼んでもよいが、だからといって現象が鮮やかさを失うわけではない。

  けれどもこれら新生代沖積世の
  巨大に明るい時間の集積のなかで
  正しくうつされた筈のこれらのことばが
  わづかその一点にも均しい明暗のうちに
    (あるいは修羅の十億年)
  すでにはやくもその組立や質を変じ
  しかもわたくしも印刷者も
  それを変らないとして感ずることは
  傾向としてはあり得ます
  けだしわれわれがわれわれの感官や
  風景や人物をかんずるやうに
  そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
  記録や歴史 あるいは地史といふものも
  それのいろいろの論料(データ)といつしよに
   (因果の時空的制約のもとに)
  われわれがかんじてゐるのに過ぎません

読者がこれらの作品を読んで、作品の中で描かれているさまざまな事柄が、不変の事実としてあったと感じるとしたら、言い換えれば、現象の担い手としての本体が存在したと考えるならば、それは余り意味がない。
記録や歴史というものも、場合によってはそうした事実を引き起こした実体があったと考えられがちだが、実際にはいまそれらを読んだり感じたりしている、われわれひとりひとりの、心の中にあるのに過ぎない。

  おそらくこれから二千年もたつたころは
  それ相当のちがつた地質学が流用され
  相当した証拠もまた次次過去から現出し
  みんなは二千年ぐらゐ前には
  青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
  新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
  きらびやかな氷窒素のあたりから
  すてきな化石を発掘したり
  あるいは白堊紀砂岩の層面に
  透明な人類の巨大な足跡を
  発見するかもしれません

ひとは現在を生きている人間というものの本質が永久不変で、何時の世においても変わらぬ行動や考え方をするものだと思いがちだが、もしかしたら2000年後の人類は、今の人類とはまったく違ったように考えるかもしれないのだ。
2000年後の人間は、2000年前には「青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たと」思ったり、「白堊紀砂岩の層面に透明な人類の巨大な足跡を発見するかも」しれない。
そして最後に賢治は言う。

  すべてこれらの命題は
  心象や時間それ自身の性質として
  第四次延長のなかで主張されます

第四次延長とは、時空についてのアインシュタインの相対性理論の考え方を思い起こさせるが、賢治が言いたいのは、人間や自然の存在性格は、我々が思っているようなものとは異なるのだということだ。
我々が生きているのはいうまでもなく三次元の世界だ。三次元の世界として、我々の見慣れた空間や時間の流れが存在していると我々は考える。だが二次元の平面で生きているものに、三次元の世界が理解できないであろうと同じ意味で、三次元で生きている人には四次元の世界は理解を超えたものだろう。
しかし理解できないからといって、それが存在しないとは断定できない。実際賢治は、この四次元からやってきたと思われる信号を、「すきとほった」風の匂いの向こう側に感じたりするのだ。                                    (了)



りっぱなブログ
「春と修羅・序」の自負


 春と修羅の詩が書かれたのは」の詩が描かれたのは、妹の死をはさむ、賢治にとっての精神的な危機の時期である。「心象スケッチ」という方法で、心象のあり様を直視し、記録することを通じて、心の危機を対象化し、克服していったとも言えるだろう。そして、こうした心象の記録の試みの積み重ね通じて、斬新な哲学的な視点をえたという自負を賢治はもった。
「春と修羅・序」では、こうした哲学的な視点を、とぼけた、ユーモラスな語り口の詩の形で表明した。ここでは、ラディカルで、野心的な哲学的な問題意識が、遠回しで暗示的な表現で描かれている。あまりに、迂遠な形で提示しすぎたこともあって、彼の議論は同時代人にはほとんど理解されなかったようだ。現代の読者にとっても、「序」は、魅力的な部分はあちこちにあるが、結局、何を言いたいのかを読みとるのは困難な迷路のような詩である。
「「すべて」と「わたくし」と「みんな」「序」の中でも、一番、ユーモラスで壮大、かつわけがわからないのは、つぎの部分 だ。
「これらについて人や銀河や修羅や海胆は/宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら/それぞれ新鮮な本体論もかんがえませうが/それらも畢竟こゝろのひとつの風物です」
銀河は宇宙塵をたべ、人は空気を呼吸し、海胆は塩水を吸いながら、それぞれが「俺は本当に存在するのだろうか」などと考えるけれど-----といった何とも途方もない話だ。
しかし、この部分で何を言いたいのかを考える鍵は、この節の最後の括弧でくくられたやはり難解なつぎの文にあるようだ。
(すべてがわたくしの中のみんなであるように/みんなのおのおののなかのすべてですから )
 この論理学の練習問題のようなややこしい命題は、華厳経に出てくる「インドラの網」のモデルを思い浮かべると合点のいくものになる。「インドラの網」は、世界を構成する要素の相互依存関係を現すモデルで、インドラの網の結び目には無数の珠玉があり、それぞれの珠玉はたがいに映しあい、ひとつひとつの珠玉には、世界全体が映されているという。このモデルと対応させると、「すべて(=all)」は全体としての世界であり、「みんな(=everyone, everything)」は無数の珠玉ということになり、「わたくし」もひとつの珠玉である。
そう考えると、「すべて」つまり世界とは、「わたくし」というひとつの珠玉から見れば、「わたくし」の中にほかのたくさんの珠玉である「みんな」が映されていることだが、他方で、「みんな」のおのおのの珠玉のなかにも「すべて」つまり世界が映されている、と言っていることになり、この括弧の中の表現は無理なく納得できるものになる。
(華厳経の「インドラの網」のモデルは、ライプニッツのモナド論ととてもよく似ている。そのため、賢治もモナド論に共感をもったのか、賢治の詩には、モナドという言葉がしばしば使われている。)
 とすると、この節の前半の「人や銀河や修羅や海胆」も、珠玉つまり「みんな」に対応すると考えるのが自然だろう。そう考えると、「銀河は宇宙塵をたべ、人は空気を呼吸し、海胆は塩水を吸いながら、本体論を考える」という途方もない話は、「みんな」がそれぞれの仕方で自分をとりまく世界と関係し、それぞれの仕方で世界について認識すると言っていることになるだろう。
この節よりひとつ前の部分では、やはり括弧で括られた「(すべてわたくしと明滅し/みんなが同時に感じるもの)」という表現が出てくるように、心象スケッチとは「わたくし」の中に映された「すべて=世界」の記録であり、「すべて=世界」とは「みんな」が「同時に感じる」ものだと賢治は言う。しかし、「同時に感じる」のであって、「同様に感じる」のではない。「みんな」は、それぞれの仕方で、世界と関係し、世界を認識するのだ。
 このように、「序」では、ある時点での世界の認識について、多様な認識の仕方、認識の視点があることが強調され、心象スケッチが記録する「わたくし」にとっての「心の現象」は、ひとつの視点からのひとつの仕方での世界との関わりあいであることが示されている。
記録や歴史 地史の覚束なさでは、異なる時点の間の世界の認識についてはどうだろうか。認識の時間的なつながりという点については、「序」の冒頭の「わたくしといふ現象は------」というところから、微視的な現象のつらなりと「わたくし」の関係が問題にされている。
「わたくしといふ現象」を記録した心象スケッチには、時間をどう扱うかという問題がつきまとっている筈だ。「二十二箇月の/過去と感ずる方向から/紙と鉱質インクをつらね」て「心象スケッチ」を書きついだものの、「わたくし」は、前の時点の「わたくし」とはそうとは意識しないままに変わっているということが、「正しくうつされた筈のこられのことばが/----/すでにはやくもその組成や質を変じ」というところで示唆されている。
そして、話は、大きな視野から見た認識の時間的な連なりに転じる。
「けだしわれわれがわれわれの感官や/風景や人物をかんずるやうに/そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに/記録や歴史 あるいは地史といふものも/それのいろいろの論料(データ)といつしよに/(因果の時空的制約のもとに)/われわれがかんじてゐるのに過ぎません」
 つまり、心象スケッチによって記録される「心の現象」が覚束ないのと同様に、「歴史あるいは地史」といった学問や科学の真理も動じやすいものだというのだ。
「記録や歴史 あるいは地史」はある時代の人たちにとって確かな真理であるように見なされるかもしれないが、それは論料(データ)を解釈する枠組みをその時代の人たちが共有しているためにすぎず、時代が変わるとその枠組みも変わってしまい、論料(データ)の解釈も大きく変わってしまうと賢治は言おうとしている。
共時的、通時的な認識批判このように賢治は、一方では、ある時点での世界の認識について、人の視点とそれ以外の生き物や動的なシステムの視点といった多様な認識の視点が共存することを指摘し、他方で、異なる時点の間の世界認識の変化について、時代とともに人々の間で共有される解釈の枠組みが変わるために世界のイメージが大きく変わってしまうという問題に目を向ける。
つまり、共時的な認識と通時的、歴史的な認識の両方について、大きな文脈からの認識についての批判の視点を示している。普通に人々があまり疑わずに依存している、認識を秩序だてる枠組みは、じつは移ろいやすく、きわめて頼りないことが強調されている。
「心象観察官」としての姿勢「序」では、このように言わば大風呂敷を広げた議論をしているのだが、結局、「心象スケッチ」は何をめざしていると言っていることになるのだろう。
「心象スケッチ」という言葉で示される賢治の姿勢は、自らを「心象観察官」に任じたということだ。「心象観察官」というのは、賢治が詩のタイトルに使っている「風景観察官」という言葉を少し変えたものだ。「心象観察官」は、経験するさまざまな事象を「心の現象」として観察し記録する「観察者」であろうとする。経験を観察し記録するということと経験する事象を「心の現象」として観察し記録するのとは同じようだが、じつは大きな隔たりがある。単に経験を記録するという場合には、経験するモノやコトが「心の現象」という経路を通じて私に現れているということはとくに意識しない。しかし、経験する事象を「心の現象」として観察し記録するという場合には、外部の世界と「心の現象」とはどういう関係にあるのか、という問いかけがつねに含まれることになる。「心象観察官」は、そういう問いを強く意識した観察者なのだ。
(この姿勢は現象学的な心理学の方法と共通するところがある。)  賢治がこうした「心の現象」に執拗な探究を行う姿勢をもったのは、彼が「幻想」と呼んでいる特異な心的現象をしばしば経験したということと関係が深いと思われる。「春と修羅・第1集」の詩は、感覚データを解読する知覚の枠組みのひずみや不安定さ、それにともなう不安を感じさせるものが多い。他方で、「幻想」と呼んでいる、普通の感覚の枠組みを逸脱した特異な心的な現象を通じて、時には、深い意味をもった元型的なイメージが現れることを賢治は体験した。
「春と修羅・第1集」の心象スケッチは、こうした「心の現象」を直視し、記録するという姿勢をとっている。(賢治は森佐一への手紙に「春と修羅」は詩ではなく、「心理学的な仕事の支度」のための「粗硬な心象のスケッチ」だという言い方をしている。)  そして、死んだ妹の行方を賢治の心がどう感じるかについての執拗な探究や、「幻想」を通じて現れる元型的なイメージの記録によって、賢治の「心象の時空」が描き出 されている。この「心象の時空」は、古典物理学的な等質な時空とはまったく異なる複雑な性格をもっている。
(賢治がE.フッサールの「内的時間意識の現象学」について知っていた形跡はないが、古典物理学的な時空とは区別される、心が経験する「時空」の観察と記録というテーマに、現象学派の研究者たちとは違った形で彼は挑戦したと言ってもいいだろう。)
感覚や認識を秩序だてる枠組みの多様さこうした「春と修羅・第1集」の心象スケッチのつみ重ねを通じて、「序」で述べられているような、大きな文脈からの認識批判の視点が生まれてきたのだと思われる。
つまり、同時代の人々があまり疑うことなく依存している感覚や認識の枠組みにとらわれず、感覚や認識を秩序だてる視点や枠組みは多彩であることを知ることが必要であり、そうした多元的な秩序を包み込むような視点をめざさなければならない、というのが「序」で賢治が言おうとしたことだと思われる。
「序」の最後の部分の「すべてこれらの命題は/心象や時間のそれ自身の性質として/第四次延長のなかで主張されます」という宣言は、そういうメッセージとして読むことができる。
特異な感覚の持ち主であった賢治は、同時代の人たちが常識と感じる感覚を安んじて共有することができなかった訳だが、そうした条件をつきつめることによって、こうしたラディカルな批判的な認識に行き着くことになった。



『春と修羅』序の私的理解
             ジネント山里記

子どもたちの「解説」のあとに、パパ(私)の「解説」です。
宮沢賢治著『春と修羅』は難しい作品で、特に「序」は難解です。
下に載せたのは、『春と修羅』序の「私的理解」です。まったく私の勝手な解釈であり、かなり敷衍もあります。もしかすると、だいぶずれているかもしれませんが、宮沢賢治自身が「序」の詳しい解説を残していない以上、読む人によって様々な受取り方があるのはある程度やむを得ない、と言えるかもしれません。(原文は前回引用)わたくしというものが確かな実体として存在しているのかどうか、実は、疑わしい。
多くの人は、自分自身の存在を疑ってもみないのだろうが、突き詰めて考えてみれば、「自分という実体が存在する」と何をもって断定できるのだろうか。
かつてデカルトは「我思う故に我あり」と言ったが、自分が思うということが、自分の存在の根拠になりうるのだろうか。
わたくしというものは、実体というより、むしろ現象と考えたほうがよいのではないか。それすら、仮定なのだけれど。
そもそも、人間とは何だろう。人生全体を考えれば、春のような穏やかな日々もあれば、苦しい修羅の日々もある。人間とは、「春と修羅」の繰り返しを生きている現象とも言える。この一瞬の中にだって春と修羅がある。今、幸せだという人も、百パーセント幸せなのだろうか。恐れや悩みや苦しみなどか一パーセントもないのだろうか。そんなことはあるまい。逆に、今苦しんでいても、百パーセント苦しみだけで希望はゼロというわけでもないだろう。また、わたくしたちには良心もあるが、心の中の隅々を見渡せば、どうしようもない邪悪な面や欲もある。人間の一瞬を切り取ってみれば、必ずと言っていいくらい春と修羅とがある。
そうした個人レベルのことだけでなくて、わたくしたちが生きるこの地球上には、さまざまな喜びも苦しみもある。自分は幸せだと感じていても、飢えや貧困や病や紛争などに苦しむ人たちも少なからずいる。そうした現実を知りながら、自分は完全に幸福だなんて言えるんだろうか。明日のご飯もない人がいるのを知りながら、自分は満腹に食べている、蓄えもたっぷりある、だから幸せだなんていう話になるんだろうか。
理想を言うなら、世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえないと言える。それは究極の理想であって実現不可能だと言われそうだが、わたくしたちが日々、世界がぜんたい幸福になることを願って生きる中に、個人の幸福も広がってゆくのであり、個人が、まったくの完全な幸福になれるのは、世界がぜんだい幸福になったときであろう。
交流電流は一瞬の中でプラスとマイナスが入れ替わりながら流れるというが、わたくしはまさに、春と修羅が流れる交流電燈のように生きている。わたくしは、自分自身を実体ではなく現象だと思っているが、この地上においてわたくしたち人間は生命体とされ、身体の主成分は有機物と呼ばれるから、わたくしは自分のことを、有機交流電燈と呼ぼうと思う。因果の中の現象だから、因果交流電燈と言ってもいい。実際は、あらゆる透明な幽霊の複合体程度のものかも知れないが。
そのようなわたくしは、ひとつの青い照明となって、風景やみんなといっしょに、せわしくせわしく明減しながら、それでも、いかにもたしかにともりつづけたいと思う。
電燈であるわたくし自身が失われる日が来ても、ひかりがたもたれることを願う。
わたくしというものが確かな実体ではなく現象に過ぎないように、時間や空間も、確かなものではない。かつて、時間や空間はゆらぎのないものと信じられていた。しかし、こんにちの科学が明らかにしたとおり、時間や空間さえ、絶対的なものでないことがわかってきている。
過去と言っても確かなものではなく、ひとつの方角に過ぎないのかも知れない。過去というのは、過ぎてしまって終わったことではなくて、わたくしが感ずる方角だと考えることもできる。その、過去と感ずる方角から、二十二ヶ月の間、紙と鉱物性インクを使って書きつらねてきた心象スケッチを、ここに公開したいと思う。
みんなが春と修羅を生きている。わたくしと同じように明減し、同時に感じている。
今、わたくしがペンを手にしているこの瞬間まで、ここまでたもちつづけられた、かげとひかりのひとくさりづつ、そのとおりの心象スケッチを公開したいと思う。 
人や銀河やウニについて論じるなら、対応するものとして、空気や宇宙塵や塩水がある、となるが、そのような対応を考えるのは、それらが確かな実体として存在すると思っているからだ。世に存在するとされているもの(そこに修羅も混じっているのだが)に、実は、確かさなどない。どのような本体論を考えようが、確かな実体などどこにもない。すべては空(くう)である。
わたくしの心象スケッチは、記録されたそのとおりのものであり、それが虚無ならば、虚無それ自体が、ある程度までみんなに共通のものなのだ。
わたくしの中にみんながあるとも言えるし、みんなおのおのの中に世界のすべてがあるとも言える。春と修羅の中に生きる人類が、ある程度まで心象を共有するが故に、わたくしがあり、みんながあると言えるのだ(もっとも、「ある」と言っても、それは確かな実体ではなくて、現象と呼んだほうがよいのだが)。
みんながカムパネルラになれるし、みんながカムパネルラだとも言えるのだ。
めいめい自分が信じる神様を本当の神様だと主張しても、違う神様を信じる人がしたことでも涙がこぼれるのはこのためだ。
時間も空間も絶対的なものではない以上、わたくしたちは新世代洪積世を生きているとも言えるし、白亜紀を生きているとも言える。時代や場所の区分は、終わってしまった過去や遠い彼方ではなく、方角の違いなのかも知れない。
わたくしが今いるこの地点は、史上類を見ないほど、巨大に明るい時間の集積の中だと感じられる。その中で、わたくしのことばは正しくうつされたものだと思われる。でもそれも、人間の感覚として感じ、思うだけであり、実は絶対性などない。
わたくしが今いるこの地点の中の、わずかその一点にも均しい明暗のうちにさえ、ことばの組立や質は変わってしまうかもしれないし、わたくしも印刷者もそれを変わらないとして感ずることは傾向としてはあり得ることである。時間も空間も絶対的なものでない以上、わずか一点にも均しい明暗さえ、あるいは修羅の十億年なのかも知れない。
感じるということも、絶対的なものではない。身体の器官も、風景や人物などを感ずるわたくしたちの認識も、絶対的なものではない。客観的で、絶対のものであるかのように語られていること、例えば、記録や歴史、あるいは地史、それのいろいろな論料といったものも、因果の時空的制約のもとに、われわれが感じているのに過ぎないのである。
存在も、時間も、空間も、認識も、絶対的なものでない以上、今後、第四次元やその延長のさらなる高次元などが明らかにされる日が来るのかも知れない。
だとすれば、おそらくこれから二千年もたったころは、それ相当のちがった地質学が流用され、相当した証拠もまた次々過去から現出し、みんなは二千年ぐらい前には、青ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもい、新進の大学士たちは気圈のいちばんの上層、きらびやかな氷窒素のあたりから、すてきな化石を発掘したり、 あるいは白堊紀砂岩の層面に、透明な人類の巨大な足跡を、発見するかもしれない。
すべてこれらの命題は、心象や時間それ自身の性質として、この三次元世界を超えた第四次延長のなかで主張されるのである。                        (了)
 

 

 


    『春と修羅の序』大意(コンパクト表記)   佐藤勝治

わたくしといふ現象は   あなたの眼に見えている  このわたくしは  たとえてみれば
假定された有機交流電燈の          ある限られた生命を持った  有機交流電燈という一時的仮りの姿をして
ひとつの靑い照明です            青くかがやいている照明(あかり)です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)(有機交流電燈は一つの生活体でありますが、ここに交流する陰陽の電流は『意識、観念』
風景やみんなといっしょに        あるいは『空』などとよばれる、いわば『透明な幽霊』の複合体であります。)
せはしくせはしく明滅しながら     また別の角度からたとえるならば  樹木や風や海や雷や電柱など│風景をつくる
いかにもたしかにともりつづける       自然界のあらゆるものや  人間であるみなさんといっしょに
因果交流電燈の               せわしくせわしく明滅しながら  どなたにもはっきりわかるように
ひとつの靑い照明です           しゃんとともりつづけている  因果交流電燈の  ひとつの青い照明です。
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)(仮定された青い証明であるわたくしはある時期がくればこの世から消え去ります
                      けれどもわたくしという青いかがやきはいつまでもけっして消滅しません。
                (それは霊とよばれ、詩とよばれ、文学とよばれ、仏とも絶対精神ともよばれるもの
                 に帰一して、いつまでもみなさんの心の中、また大自然界にともりつづけます
これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から             これらの詩は  大正十一年一月六日から 二十二箇月の期間に亘って│われわれが
紙と鑛質インクをつらね    ふつう過去とかんじている方角から、  原稿用紙に鉱質インクを用いて書きつらねてき
(すべてわたくしと明滅し  た、(すべてはわたくしといっしょに明滅し、みんなが同時にそれと感じているものなの)
みんなが同時に感ずるもの)  ですが)ここまでたもちつづけられた  かげ(暗・無明・修羅)とひかり(明・春)の
               交代するここまでたもちつゞけられた ひとくさりづつの詩であり そのままの心象スケ                                                                                              
               ッチです
これらについて人や銀河や修羅や海膽は
これらの詩(心象スケッチ)については 人間や銀河や修羅や海胆は宇宙塵をたべ
宇宙塵をたべ、または空氣や鹽水を呼吸しながら たりまたは空気や塩水を呼吸しながらそれぞれ、思い思いに  新鮮な                                         本体論な
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが   どもかんがえるでしょうが  それらもつまるところ  それぞれのいだ
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です    く心象にすぎません  ただとにかく二十二ヵ月間に亘って  記録され              たこれらの心象風景は、記録さたゞたしかに記錄されたこれらのけしきは   れたこのとうりのこういう風景で  これこそが虚無というべきものであるならば
記錄されたそのとほりのこのけしきで     虚無というものそのものがまったくこのとうりであり  あるていどまではみなさんと共
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで   通するものでありましょう。  (すべてがわたくしの中のみんなであると同じく
ある程度まではみんなに共通いたします    みなさん(そしてすべて)のひとりひとりひとつひとつのなかのすべてでありますから)
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)


けれどもこれら新世代沖積世の けれども  地質学上新世代沖積世といわれる  巨大でどこまでも明るい
巨大に明るい時間の集積のなかで 無限の過去と無限の未来とを集めている  現代の一時点で  正しくスケッチされた筈
正しくうつされた筈のこれらのことばが のこれらの  詩とよばれることばの並列が  その巨大な時間の中のわづか一点にも均
わづかその一點にも均しい明暗のうちに しい点滅のうちに
 (あるひは修羅の十億年) (しかしまたその一瞬は修羅の世界にとっては十億年の長年月にあたるかもしれませんが)
すでにはやくもその組立や質を變じ 気がついた時にはもうその詩集の組み立てがこわれ、
しかもわたくしも印刷者も 紙やインクが変質してしまっているのに、 それでも尚、作者のわたくしも印刷者も、い
それを變らないとして感ずることは や、なにも変っていないのだと、そんなふうに感じたりかんがえたりすることはよく
傾向としてはあり得ます      あることであります。
けだしわれわれがわれわれの感官や まったく、  わたくしたちがおたがいに  自分自身の感官がたしかだと思い、
風景や人物をかんずるやうに その延長として、眼に見え音にきこえる風景や人物を  たしかに見え、
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに たしかにきこえ、あれはああだと自分で信じているように、そしてただみんなが共通に信
記錄や歴史、あるひは地史といふものも じているだけであるように  記録や歴史、あるいは地史というものも
それのいろいろの論料といっしょに それらに関する種々な論料といっしょに
(因果の時空的制約のもとに) (因果の歴史的地理的制約のもとに│因果関係によるその時の条件のもとで)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません われわれがそう感じ、そうしてそう信じているのに過ぎないのです
おそらくこれから二千年もたったころは (ほんとうのことはいつでもわからないし、またいつでもその時はほんとうのことでもあります)
それ相當のちがった地質學が流用され 相當した證據もまた次次過去から現出し わたくしはかんがえるのですが  今から               二千年もたったころは
みんなは二千年ぐらゐ前には その時代相当の今とはちがった地質学が  一般に行われ信じられて、
靑ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ その学問に相当する化石や地層や透明な足跡などといった裏付けとなる資料が次から次へ
新進の大學士たちは気圏のいちばんの上層 過去│つまりわれわれがいま生息している新世代沖積世の空や地層から出てきて
きらびやかな氷窒素のあたりから 二千年ぐらい前には(つまり今のわたしたちの時代には)これから二千年後の人たちは すてきな化石を發堀したり 青空いっぱいの無色の孔雀が居たんだと思ったり
あるひは白堊紀砂岩の層面に  その頃の新進の大学士さんたちは  気圏のいちばんの上層
透明な人類の巨大な足跡を   きらびやかな氷窒素のあたりから  すてきな化石を発掘したり、
發見するかもしれません   あるいは白亜紀砂岩の層面から  透明な人類の巨大な足跡を発見するかも知れません。

すべてこれらの命題は     さてわたくしが  いまここに述べたようないろいろな議論は  (それを断定したこと

心象や時間それ自身の性質としてばは)心象や時間そのものにもともとそなわっている性質として第四次元のなかで成立し第四次延長のなかで主張されます 主張されます。(この詩集の一つ一つの作品は、すべてこのような主張のもとにつく                                                         

                られたものであります。)
大正十三年一月廿日  宮澤賢治




 『春と修羅』の序について(コンパクト表記) 木村圭一 


わたくしといふ現象は  「解」私宮澤賢治といふ者は太古から生物体の中を流れてやまぬ生命の具体形としてあらはれ

假定された有機交流電燈の          た一人の人間です(目に見えぬ幽霊があつまって出来たもの)。
ひとつの靑い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに 「解」自然の風景や皆さんといっしょに、せわしく明滅しながらも決して消えることなくた

せはしくせはしく明滅しながら しかにともりつゞけて行く因果律による生物電燈の一つの青い照明といっていいでせう。いかにもたしかにともりつづける   (形体はたとへ失はれてもそれから発する光、精神産物はどこまでもたもたれ)。
因果交流電燈の
ひとつの靑い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)


これらは二十二箇月の   「解」ここに記された春と修羅一巻の内容は二十二ケ月前から、紙にインクでかきつらね(ど過去とかんずる方角から    れもみんな私自身の生命と一緒に明滅し、私以外の皆さんも大切な同時性をもって私と同紙と鑛質インクをつらね    じ様に感ずる者即ち一般共通のもの)ここまでかきつずけられた私の生活のうつりかわり                                         の一くさり一こまづつの、嘘いつわりなしのその通りの心のすがたのスケッチです。
(すべてわたくしと明滅し

 みんなが同時に感ずるもの)
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです


これらについて人や銀河や修羅や海膽は 「解」これら記録されたこの心象について、人や銀河や修羅や海胆といふような森羅万象は、宇宙塵をたべ、または空氣や鹽水を呼吸しながら     この広大な宇宙の中に住み、空から降りそそぐ天体の小破片をたべたり、又空気を吸ったそれぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが   り塩水を呼吸しながら、それぞれに物の奥にある唯一の新しい根本原理も考へませうが、それらも畢竟こゝろのひとつの風物です    それらもつまり心のひとつの自然現象です。
たゞたしかに記錄されたこれらのけしきは 「解」ただとにかくこの一巻に記録されたこれらの自然現象は、ここに書いてある通りのあら記錄されたそのとほりのこのけしきで     はれであり、それが何にも意味のないがらんどふであるといふならば、その虚無さえもこそれが虚無ならば虚無自身がこのとほりで   の通りで、何も価値判断や善悪判断を意識、することなしに、全くありのままの記録であある程度まではみんなに共通いたします    る、個人の差というものがある以上全然同じということはあり得ないのですが、何も突飛(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに     な事ばかりでなく、ある程度は私以外の皆さんと共通してゐるのでありませう(ここに記 みんなのおのおののなかのすべてですから)     したすべては私の中にある皆さんであるように、皆さんの銘々の中のすべてでありますか                      ら、科学のように一般共通的といっていいのでありませう。)

けれどもこれら新世代沖積世の「解」けれども太古から今にいたる迄明るくつみかさなったこの現代といふ巨大な時間の中で巨大に明るい時間の集積のなかで       正確にうつしたと私が信じたこれらのことばが、それがありのまま精密微細に記したので正しくうつされた筈のこれらのこと   なにもかもみんなうごいてやまぬ流転のせかいであるからわずかまばたき一つする位の時わづかその一點にも均しい明暗のうちに    間のうちに(修羅の時間になおせば十億年の長年月)もうはやくもその組立をや性質が変  (あるひは修羅の十億年)        って了っているといふ事は容易にうなずけるのであるが、それにもかかわらずいつまでもすでにはやくもその組立や質を變じ      この通りであるように感じそう信ずる事はあり得ることです。
しかもわたくしも印刷者も
それを變らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます

けだしわれわれがわれわれの感官や    「解」思ふにわれわれがわれわれの感官即ち視聴味臭を感じ、それによって自分以外に存在す風景や人物をかんずるやうに         る自然の風景や人といふものをそこにあると信ずるように、そしてそれは皆が同じ様にそそしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに   うであるとたゞ信ずるだけであるように色々の記録や歴史あるいは地史といふものも、論記錄や歴史、あるひは地史といふものも    の材料となるいろいろなものといっしょに(時間や空間の因果関係の制約のもとに)われそれのいろいろの論料といっしょにわれが信じているのに過ぎません。
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません

おそらくこれから二千年もたったころは  「解」おそらくこれから二千年もたったころは、それ相当のちがった地質学が一般に行はれ、それ相當のちがった地質學が流用され     それに相当した証拠もまた次々と過去から現れ皆は二千年前即ち我々の住んでいるこの現相當した證據もまた次次過去から現出し    代には宮澤賢治の心象の中に生きている大気即ち青空いっぱいの無色の孔雀がいたと想ひみんなは二千年ぐらゐ前には また賢治が求め歩きそれを幻想の中に見出した透明な人類の巨大な足跡を白亜紀砂岩の層面から       面から発見するようになるかも知れません。
靑ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ  発見するようになるかも知れません。
新進の大學士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を發堀したり
あるひは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
發見するかもしれません


すべてこれらの命題は   「解」すべてこの様にここに書きしるしたものは宮澤賢治の心象であり時間であるが、その性

心象や時間それ自身の性質として 質上時空連続の世界即ち第四次元の世界のなかでその存在が主張されるのであります。
第四次延長のなかで主張されます
大正十三年一月廿日  宮澤賢治




『春と修羅』序はカント哲学のパッチワークだった

               (コンパクト表記)                                                                                石川 朗

   『春と修羅』序             カント風意訳の図式
わたくしといふ現象は              カントが「現象の世界」といいショーペンハウエルが「世界
假定された有機交流電燈の            は私の表象である」とした、この自然的世界。
ひとつの靑い照明です              有機生命体として、この世界に生きるわれわれは、あらゆる
(あらゆる透明な幽霊の複合体)         生物と共に、広大無辺なこの自然界で、それぞれの生態系を
風景やみんなといっしょに            形成しています。
せはしくせはしく明滅しながら          (カントの「現象」と「物自体」という二元論的世界観のこと)
いかにもたしかにともりつづける         多様な有機生命体の生長のロゴスは、目に見えぬ相互因果に
因果交流電燈の                 満ちていて、みんながせはしくせはしく、たしかにともりつ
ひとつの靑い照明です              づける、複合体としての、共生の存在なのです。

これらは二十二箇月の              この詩集は、過去22ヶ月間のわたくしと対象との出会い、わ
過去とかんずる方角から             たくしの身に起こったさまざまな出来事のその時々の思考と
紙と鑛質インクをつらね             経験を書き留めたものです。
(すべてわたくしと明滅し            (すべての対象はいつどこでという、アプリオリな時間・空
 みんなが同時に感ずるもの)          間の形式をもち、みんなに共通です)。
ここまでたもちつゞけられた           絶えず湧き出す今という現象、その明暗のひとくさりづつ、
かげとひかりのひとくさりづつ          「感性的直観」と「時空のアプリオリな形式」による「現象
そのとほりの心象スケッチです          」であり、そのとおりのスケッチです

これらについて人や銀河や修羅や海膽は      有機生態系の多様な生命世界、有機体は発生するとなぜか各
宇宙塵をたべ、または空氣や鹽水を呼吸しながら  有機体にとっての世界が開かれるのだ。その一部は見えるよ
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが     うになる。そしてさらにその一部は言語を学ぶ。私たちは正
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です      しい認識、リアルな認識とは、私たちが本当にあると思って
たゞたしかに記錄されたこれらのけしきは     いるもの、緑の木々や光り輝く太陽や青い空、これらは、私
記錄されたそのとほりのこのけしきで       たちとは無関係にまずちゃんと実在していて、だから私たち
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで     はそれらを見たり聞いたりすることができると考えています。
ある程度まではみんなに共通いたします      しかし(カントは外界をそのままの客観として認識できるの
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに   ではなく、対象がわれわれの認識に従う)=新鮮な本体論=
 みんなのおのおののなかのすべてですから)   「コペルニクス的転回」の領野を拓いたのでした。

けれどもこれら新世代沖積世の          ところで私がこれまで書いてきた童話に見るように、私の感
巨大に明るい時間の集積のなかで         性と思考の対象は、もともと自然や人間のみではなかった。
正しくうつされた筈のこれらのことばが      よだかやカラス、熊や鹿、自然の風景や木々、小さな草花な
わづかその一點にも均しい明暗のうちに      どの有機体の生命をもつものの一切と言葉を交わすことが出
  (あるひは修羅の十億年)          来た。そればかりではない。無機物の石ころや土壌、岩石や
すでにはやくもその組立や質を變じ        その下の地層さえもがわたくしには、かって命あったものい
しかもわたくしも印刷者も            まも生命ある者のごとく見えていた。
それを變らないとして感ずることは        太陽や銀河や星、宇宙、コスモスさえもが生命体であるかの
傾向としてはあり得ます             ごとくに見えたのだった。(『よだかの星』や『烏の北斗七星
けだしわれわれがわれわれの感官や        』あれらの物語は、ひとりわたくしだけの「アプリオリな総
風景や人物をかんずるやうに           合判断」に過ぎなかったのか。まさかそんな筈はない。あの
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに     トランクいっぱいの、イーハトヴのほんとうの物語は、世界
記錄や歴史、あるひは地史といふものも      の真理の論料として、確かにこのわたくしが書き残したもの
それのいろいろの論料といっしょに        だった。)
(因果の時空的制約のもとに)          デカルトによって中世のスコラを脱し、明晰さを取り戻した
われわれがかんじてゐるのに過ぎません      理性の力。「ひとそれぞれ」、私たちのだれもがもつこの主観
おそらくこれから二千年もたったころは      という場所は、近代になって人間が手に入れた自分で考える
それ相當のちがった地質學が流用され       ための大切な足場だ。このとき人間は「わたくし」から「世
相當した證據もまた次次過去から現出し      界」を考える力を獲得した。これは人間にとって古代ギリシ
みんなは二千年ぐらゐ前には           ャ2000年来の、第2の火の獲得と言っていい。斯くして、
靑ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ    単なる純粋悟性や純粋理性からする物の認識は、すべて単な
新進の大學士たちは気圏のいちばんの上層     る仮象にほかならず、真理は経験のうちにのみ存する。真理
きらびやかな氷窒素のあたりから         は体系のうちに存するのではなく、経験のうちに、対象との
すてきな化石を發堀したり            出会いによって得られるものであり認識にとって感性的契機
あるひは白堊紀砂岩の層面に           がぜひとも必要なのである。
透明な人類の巨大な足跡を            この度、新進の哲学士のこの小論が、膨大な賢治論料のなか
發見するかもしれません             で小さな発見の足跡になればと願うばかりです。

すべてこれらの命題は              すべてこれらの命題は感性的直観と時間・空間のア・プリオ
心象や時間それ自身の性質として         リな「現象」として、私の理性が的確に判断、処理し、四次
第四次延長のなかで主張されます         元連続体という相貌の図式をもって、主張されます。
                   [別訳] すべての現象は、時間のうちにあり現象の変易(量、質、関
                                                          係、様相=第四次延長)は時間的諸相として、先験的図式(
                                                            カント)をもって主張される。
         大正十三年一月廿日  宮澤賢治