『春と修羅』序アラカルト(1)
                           『春と修羅』出版100年記念


    目   次

・『宮沢賢治の肖像』 昭和23年6月
 『春と修羅』の序の大意     佐藤勝治

・『農民芸術』第八集 昭和二四年七月
 「春と修羅」の序について    木村圭一

・ 跡見学園国語科紀要5 昭31
 『春と修羅』の序の主張     恩田逸夫





『宮沢賢治の肖像』昭和23年6月
『春と修羅の序』大意     佐藤勝治


わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの靑い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの靑い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

あなたの眼に見えている
このわたくしは
たとえてみれば
ある限られた生命を持った
有機交流電燈という一時的仮りの姿をして
青くかがやいている照明(あかり)です
(有機交流電燈は一つの生活体でありますが、ここに交流する陰陽の電流は『意識、観念』あるいは『空』などとよばれる、いわば『透明な幽霊』の複合体であります。)
また別の角度からたとえるならば
樹木や風や海や雷や電柱など│風景をつくる
自然界のあらゆるものや
人間であるみなさんといっしょに
せわしくせわしく明滅しながら
どなたにもはっきりわかるように
しゃんとともりつづけている
因果交流電燈の
ひとつの青い証明です。
(仮定された青い証明であるわたくしはある時期がくればこの世から消え去ります。
けれどもわたくしという青いかがやきはいつまでもけっして消滅しません。
それは霊とよばれ、詩とよばれ、文学とよばれ、仏とも絶対精神ともよばれるものに帰一して、
いつまでもみなさんの心の中、また大自然界にともりつづけます。)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鑛質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです

これらの詩は
大正十一年一月六日から
二十二箇月の期間に亘って
われわれがふつう過去とかんじている方角から、
原稿用紙に鉱質インクを用いて書きつらねてきた、
(すべてはわたくしといっしょに明滅し、みんなが同時にそれと感じているものなのですが)
ここまでたもちつづけられた
かげ(暗・無明・修羅)とひかり(明・春)の交代する
ひとくさりづつの詩であり
そのままの心象スケッチです。

これらについて人や銀河や修羅や海膽は
宇宙塵をたべ、または空氣や鹽水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記錄されたこれらのけしきは
記錄されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

これらの詩(心象スケッチ)については
人間や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべたり
または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ、思い思いに
新鮮な本体論などもかんがえるでしょうが
それらもつまるところ
それぞれのいだく心象にすぎません
ただとにかく二十二ヵ月間に亘って
記録されたこれらの心象風景は、
記録されたこのとうりのこういう風景で
これこそが虚無というべきものであるならば
虚無というものそのものがまったくこのとうりであり
あるていどまではみなさんと共通するものでありましょう。
(すべてがわたくしの中のみんなであると同じく
 みなさん(そしてすべて)のひとりひとりひとつひとつ のなかのすべてでありますから)

けれどもこれら新世代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一點にも均しい明暗のうちに
 (あるひは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を變じ
しかもわたくしも印刷者も
それを變らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記錄や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料といっしょに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたったころは
それ相當のちがった地質學が流用され
相當した證據もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
靑ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大學士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を發堀したり
あるひは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
發見するかもしれません

けれども
地質学上新世代沖積世といわれる
巨大でどこまでも明るい
無限の過去と無限の未来とを集めている
現代の一時点で
正しくスケッチされた筈のこれらの
詩とよばれることばの並列が
その巨大な時間の中のわづか一点にも均しい点滅のうちに
(しかしまたその一瞬は修羅の世界にとっては十億年の長年月にあたるかもしれませんが)
気がついた時にはもうその詩集の組み立てがこわれ、
紙やインクが変質してしまっているのに、
それでも尚、作者のわたくしも印刷者も、いや、なにも変っていないのだと、
そんなふうに感じたりかんがえたりすることは
よくあることであります。
まったく、
わたくしたちがおたがいに
自分自身の感官がたしかだと思い、
その延長として、
眼に見え音にきこえる風景や人物を
たしかに見え、
たしかにきこえ、
あれはああだと自分で信じているように、
そしてただみんなが共通に信じているだけであるように
記録や歴史、あるいは地史というものも
それらに関する種々な論料といっしょに
(因果の歴史的地理的制約のもとに 因果関係によるその時の条件のもとで)
われわれがそう感じ、そうしてそう信じているのに過ぎな
いのです(ほんとうのことはいつでもわからないし、また
いつでもその時はほんとうのことでもあります)
わたくしはかんがえるのですが
今から二千年もたったころは
その時代相当の今とはちがった地質学が
一般に行われ信じられて、
その学問に相当する化石や地層や透明な足跡などといった裏付けとなる資料が次から次へと
過去 つまりわれわれがいま生息している新世代沖積世の空や地層から出てきて
これから二千年後の人たちは
二千年ぐらい前には(つまり今のわたしたちの時代には)
青空いっぱいの無色の孔雀が居たんだと思ったり
その頃の新進の大学士さんたちは
気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり、
あるいは白亜紀砂岩の層面から
透明な人類の巨大な足跡を発見するかも知れません。

すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます
  大正十三年一月廿日  宮澤賢治

さてわたくしが
いまここに述べたようないろいろな
議論は(それを断定したことばは)
心象や時間そのものにもともとそなわっている性質として
第四次元のなかで成立し
主張されます。
(この詩集の一つ一つの作品は、すべてこのような主張のもとにつくられたものであります。)
大正十三年1月廿日       宮沢賢治

 

『春と修羅の序』大意(コンパクト表記)  佐藤勝治

 

わたくしといふ現象は             あなたの眼に見えている  このわたくしは  たとえてみれば
假定された有機交流電燈の          ある限られた生命を持った  有機交流電燈という一時的仮りの姿をして
ひとつの靑い照明です            青くかがやいている照明(あかり)です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)    (有機交流電燈は一つの生活体でありますが、ここに交流する陰陽の電流は『意
風景やみんなといっしょに  識、観念』 あるいは『空』などとよばれる、いわば『透明な幽霊』の複合体であります。)
せはしくせはしく明滅しながら     また別の角度からたとえるならば  樹木や風や海や雷や電柱など│風景をつくる
いかにもたしかにともりつづける       自然界のあらゆるものや  人間であるみなさんといっしょに
因果交流電燈の               せわしくせわしく明滅しながら  どなたにもはっきりわかるように
ひとつの靑い照明です              しゃんとともりつづけている因果交流電燈のひとつの青い照明です。(仮定
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)  された青い証明であるわたくしはある時期がくればこの世から消え去ります。

これらは二十二箇月の                      けれどもわたくしという青いかがやきはいつまでもけっして消滅しません。
過去とかんずる方角から       (それは霊とよばれ、詩とよばれ、文学とよばれ、仏とも絶対精神ともよばれるもの
紙と鑛質インクをつらね        に帰一して、いつまでもみなさんの心の中、また大自然界にともりつづけます      
(すべてわたくしと明滅し       これらの詩は 大正十一年一月六日から二十二箇月の期間に亘って │われわれ  
みんなが同時に感ずるもの)       ふつう過去とかんじている方角から、原稿用紙に鉱質インクを用いて書きつらねてき
ここまでたもちつゞけられた           た、(すべてはわたくしといっしょに明滅し、みんなが同時にそれと感じているもの
かげとひかりのひとくさりづつ   なの)ですが)ここまでたもちつづけられたかげ(暗・無明・修羅)とひかり(明・
そのとほりの心象スケッチです   春)の交代するひとくさりづつの詩であり  そのままの心象スケッチです。


これらについて人や銀河や修羅や海膽は  これらの詩(心象スケッチ)については人間や銀河や修羅や海胆は宇宙塵をたべ
宇宙塵をたべ、または空氣や鹽水を呼吸しながら たりまたは空気や塩水を呼吸しながらそれぞれ、思い思いに新鮮な本体
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが   ど論なもかんがえるでしょうがそれらもつまるところそれぞれのいだく心
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です    象にすぎません  ただとにかく二十二ヵ月間に亘って  記録されたこ
たゞたしかに記錄されたこれらのけしきは   れらの心象風景は、記録されたこのとうりのこういう風景で  これこそ
記錄されたそのとほりのこのけしきで     が虚無というべきものであるならば虚無というものそのものがまったくこ
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで   のとうりであり  あるていどまではみなさんと共通するものでありまし
ある程度まではみんなに共通いたします   ょう。(すべてがわたくしの中のみんなであると同じくみなさん(そしてす
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに  べて)のひとりひとりひとつひとつのなかのすべて)でありますから
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

けれどもこれら新世代沖積世の けれども   地質学上新世代沖積世といわれる  巨大でどこまでも明るい
巨大に明るい時間の集積のなかで     無限の過去と無限の未来とを集めている現代の一時点で正しくスケッチされた筈
正しくうつされた筈のこれらのことばが   のこれらの詩とよばれることばの並列が  その巨大な時間の中のわづか一点
わづかその一點にも均しい明暗のうちに   にも均しい点滅のうちに
 (あるひは修羅の十億年)  (しかしまたその一瞬は修羅の世界にとっては十億年の長年月にあたるかもしれませんが)
すでにはやくもその組立や質を變じ   気がついた時にはもうその詩集の組み立てがこわれ、
しかもわたくしも印刷者も    紙やインクが変質してしまっているのに、 それでも尚、作者のわたくしも印刷者も、い
それを變らないとして感ずることは   や、 なにも変っていないのだと、そんなふうに感じたりかんがえたりすることは  
傾向としてはあり得ます         よくあることであります。
けだしわれわれがわれわれの感官や   まったく、  わたくしたちがおたがいに  自分自身の感官がたしかだと思い、
風景や人物をかんずるやうに      その延長として、眼に見え音にきこえる風景や人物を  たしかに見え、

そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに たしかにきこえ、あれはああだと自分で信じているように、そしてただみんなが
記錄や歴史、あるひは地史といふものも 共通に信じているだけであるように  記録や歴史、あるいは地史というものも
それのいろいろの論料といっしょに    それらに関する種々な論料といっしょに
(因果の時空的制約のもとに)    (因果の歴史的地理的制約のもとに│因果関係によるその時の条件のもとで)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません   われわれがそう感じ、そうしてそう信じているのに過ぎないのです
おそらくこれから二千年もたったころは (ほんとうのことはいつでもわからないし、またいつでもその時はほんとうのこと
それ相當のちがった地質學が流用され   でもあります)
相當した證據もまた次次過去から現出し わたくしはかんがえるのですが  今から二千年もたったころは
みんなは二千年ぐらゐ前には    その時代相当の今とはちがった地質学が  一般に行われ信じられて、
靑ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ   その学問に相当する化石や地層や透明な足跡などといった裏付けとなる資
新進の大學士たちは気圏のいちばんの上層  料が次から次 過去│つまりわれわれがいま生息している新世代沖積世の空
きらびやかな氷窒素のあたりから   や地層から出てきて二千年ぐらい前には(つまり今のわたしたちの時代には)これか
すてきな化石を發堀したり      ら二千年後の人たちは青空いっぱいの無色の孔雀が居たんだと思ったり
あるひは白堊紀砂岩の層面に     その頃の新進の大学士さんたちは  気圏のいちばんの上層
透明な人類の巨大な足跡を      きらびやかな氷窒素のあたりから  すてきな化石を発掘したり、
發見するかもしれません    あるいは白亜紀砂岩の層面から  透明な人類の巨大な足跡を発見するかも知れません。

 

すべてこれらの命題は      さてわたくしが  いまここに述べたようないろいろな議論は  (それを断定したこと
心象や時間それ自身の性質として   ばは)心象や時間そのものにもともとそなわっている性質として第四次元のなかで
第四次延長のなかで主張されます   成立し主張されます。  (この詩集の一つ一つの作品は、すべてこのような主張                   
                  のもとにつくられたものであります。)
大正十三年一月廿日  宮澤賢治





『農民芸術』第八集 昭和二四年七月
「春と修羅」の序について    木村圭一


わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの靑い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)

「註」
 「わたくし」宮澤賢治自身。「現象」形而上学上の言葉で本体に対す。我々の感覚によって認識される者。この場合は人間。「仮定」或る現象を解するため最も都合のよいように付けられた説明で、これに対して実験的証明が下されない内は科学的真否は確実でない。
 「有機交流電燈」有機体は生活体。交流電燈とは一定の周期をもって流れの方向の変わる電流にともった電燈。電気は目に見えないが之が電燈という具体形を取って初めてよく我々の目に見え、生活と密接するように、生物体の中を太古から現在に電燈の様のように流れている生命も人間の形をとって初めて具体化される。自分宮澤賢治もその具体形の一つである。「青い照明」電燈にたとえたから照明といふ。青はこの第一集時代の基色でであるように思われる。(略)。「透明な幽霊の複合体」すきとおって目に見えぬ精神作用の色々と組合って出来上がったもの。
「解」
 私宮澤賢治といふ者は太古から生物体の中を流れてやまぬ生命の具体形としてあらはれた一人の人間です(目に見えぬ幽霊があつまって出来たもの)。

風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの靑い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

「註」
 「風景」我々が感官に感ずる自然のすがた。「みんな」自分以外の人。「せはしくーーー明滅しながらいかにもたしかにともりつゞける」明滅しながらともりつゞける事は矛盾のようだが明滅して初めてうつり続けると感ずる映画と同様にこの表現によって波打つ生命感が切実にうつって来る。「因果」過去の時間的、心理的の原因が色々と組み合はされて現在の結果を来してゐるといふ考へ。「ひかりはたもち、その電燈は失はれ」電燈の光、人間の精神産物は次々と伝わり保たれて行く。例えば星自体が消滅しても何万光年かの後にその星から出た光がこの地球上に到達すると同じ様に、電燈や人間が失われてもそれから出る光は次から次へと保たれる。
「解」
 自然の風景や皆さんといっしょに、せわしく明滅しながらも決して消えることなくたしかにともりつゞけて行く因果律による生物電燈の一つの青い照明といっていいでせう。(形体はたとへ失はれてもそれから発する光、精神産物はどこまでもたもたれ)。

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鑛質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです

「註」
 「これら」春と修羅第一集にのせられた記録「二十二箇月」この心象スケッチは、「屈折率」から「冬と銀河ステーション」迄の約二十二箇月間の産物である。「過去と感ずる方角」我々が普通抱いている時間の観念といふものは或事は或出来事より前であったとか後であったとかいふ前後の観念、同時に起こったといふ同時の観念、長くつづいたとか短く終わったとかいふ長短の観念等が心理的に経験する事によって形作られる。しかし哲学的にカントは我々のこういう経験の有無にかかわらず時間といふものは、先験的に存在し之によって初めて経験を整序し得るといふ。又数学的の時間といふのは、無限に流れる純粋に一次元的数量である(ニュートン)。物理学的時間にはアインシュタインは地球上に於ける光学的並電磁気学的実験によって、今まで信ぜられて居た絶対空間や絶対時間を棄てた。時間と空間とは互いに離れて独立に存在するものではなく、常に密接に結びつくべきもので共に相対的なものである。(略)。このアインシュタインの理論はミンコフスキーに依って幾何学的に表現された。かれは間口、奥行、高さがおのおの垂直に交る空間の三次元に更にその三つの各に交る時間の一次元を加えて四次元の連続体を考え、具体的世界は必ずこの四次元の総合体のなかに現れなければならないので、時か処かのいずれが一つぬけてもそれは抽象に過ぎない。この様に一点から四つの互に垂直な線が引けるような世界が四次元であるが我々はそれを目で見る事は出来ない。然し解析幾何学の方法をもってすれば四次或はそれ以上の空間に於ける幾何学を組み立てることが出来る。四次元の世界に於ける一つの点即ち彼の世界点は物体の空間的位置を示すばかりでなく、これがどんな時刻にその位置にあるかを示すものである。賢治はこの四次元の世界点に立脚しこれによる心象明滅の表現を行ひ前人未踏の世界を開顕しようとしたと思はれる。(略)。
 「すべてわたくしと明滅し、みんなが同時に感ずるもの」ここにかいた凡ゆる物は私の生命と一緒に明滅しているもので、皆さんも全く同時に同じ様に感ずるものである。科学者が或特定のものを分析研究することの目的は或特殊の現象中に如何に一般の法則が行はれて居るかを知る事であり、又この我と物との関係に於いて一般共通(不変妥当的)の意味を質し、この性質を具備する「我」の性質を確かめるものが哲学であるといふ。
「解」
 ここに記された春と修羅一巻の内容は二十二ケ月前から、紙にインクでかきつらね(どれもみんな私自身の生命と一緒に明滅し、私以外の皆さんも大切な同時性をもって私と同じ様に感ずる者即ち一般共通のもの)ここまでかきつづけられた私の生活のうつりかわりの一くさり一こまづつの、嘘いつわりなしのその通りの心のすがたのスケッチです。

これらについて人や銀河や修羅や海膽は
宇宙塵をたべ、または空氣や鹽水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です

「註」
 「これら」心象スケッッチ「修羅」仏教の六道即ち天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄の一つで、我慢勝他の心、猜疑、嫉妬の念深く戦斗を好む鬼神。(。 )「宇宙塵」天空から地球に向かって降っている天体の小破片。「本体論」形而上学で本体といふのは現象に対するもので、宇宙の現象一切を抱擁し統括しその流転変化を説明するに十分なる根本原理。それには一元論、二元論、多元論あり、一元論は更に唯物論、唯心論とあり、前者は物質を宇宙の本体と見、精神は物質の働きにすぎぬといひ、後者は反対に精神を本体とし物質的存在はただ心が観念的につくり出したものともいふ。又物心いづれでのないが両者を包含する所の
ものを宇宙の本体となす論があり、それは自存自動の物で屡々神と名づけられる。又近世には化学的エネルギーの一元論もある。その他多数の論がある。
「解」
 これら記録されたこの心象について、人や銀河や修羅や海胆といふような森羅万象は、この広大な宇宙の中に住み、空から降りそそぐ天体の小破片をたべたり、又空気を吸ったり塩水を呼吸しながら、それぞれに物の奥にある唯一の新しい根本原理も考へませうが、それらもつまり心のひとつの自然現象です。

たゞたしかに記錄されたこれらのけしきは
記錄されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

「註」
 「たゞたしかに記錄されたこれらのけしきは記錄されたそのとほりのこのけしきで」これは著者の主張の根本であろうと信ずる。科学は事実から出発して事実の性質を究明するものであるが、そのためには必ず著者のいふ「そのとほりのけしき」が第一の問題となって来るのである。そして又その事実は全く平等の待遇を受けて居る訳であり、春と修羅の内容はどこでどう切りはなそうとその価値には何等影響を来すものではない。ただ、時空的関係により、そ
れが長短色々に区劃され、それに索引的に題目が付けられてゐるものであると思ふ。「ある程度まではみんなと共通でもありませう」物質現象に於ける一般共通の法則をもとめるものが科学であり、この外界現象と我との関係に於いて一般共通の意味を質すのが哲学である。
「解」
 ただとにかくこの一巻に記録されたこれらの自然現象は、ここに書いてある通りのあらはれであり、それが何にも意味のないがらんどふであるといふならば、その虚無さえもこの通りで、何も価値判断や善悪判断を意識、することなしに、全くありのままの記録である、個人の差というものがある以上全然同じということはあり得ないのですが、何も突飛な事ばかりでなく、ある程度は私以外の皆さんと共通してゐるのでありませう(ここに記したすべては私の中にある皆さんであるように、皆さんの銘々の中のすべてでありますから、科学のように一般共通的といっていいのでありませう。

けれどもこれら新世代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一點にも均しい明暗のうちに
 (あるひは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を變じ
しかもわたくしも印刷者も
それを變らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます

「註」
 「新世代沖積世」地質時代の名称。新世代は第三期と第四期に分れ、第四期は更に洪積世と沖積世に分れる。この最後の沖積世というのは氷河がとけ去った後の時代で人類新石器時代以後現代にいたる。尚人類の出現は洪積世と考へられている。「正しくうつされた」物の正しさ精確さと、その変転とについて考へて見よう。賢治は私心をさしはさまずに正しく記録して行くのだといふが、それが精密であればある程瞬間に変転を示すことを考へるのである。(略)。「あるひは修羅の十億年」我々の世界の一瞬は仏教の思想の世界では十億年の年月に相当するから、一点にも均しい短時間に変転するといへば、うそのようにきこえるかも知れぬが修羅でいへば十億年にもあたる甚だ長い年月であるから物の変る事はあたり前とだれでも考へられよう。「すでにはやくも・・・・・」科学的無常観といったらいいであろう。」この様に現象の正しさといふものは時間を離れては嘘になるので時間空間の連続体即ち第四次元の世界で初めて永遠の価値を生ずるものである。
「解」
 けれども太古から今にいたる迄明るくつみかさなったこの現代といふ巨大な時間の中で正確にうつしたと私が信じたこれらのことばが、それがありのまま精密微細に記したのでなにもかもみんなうごいてやまぬ流転のせかいであるからわずかまばたき一つする位の時間のうちに(修羅の時間になおせば十億年の長年月)もうはやくもその組立や性質が変って了っているといふ事は容易にうなずけるのであるが、それにもかかわらずいつまでもこの通りであるように感じそう信ずる事はあり得ることです。

けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記錄や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料といっしょに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません

「註」
 「感官」視聴味臭触等の感覚を司る器官。「共通に感ずるだけであるやうに精神を本体とみる唯心論の立場。
「解」
 思ふにわれわれがわれわれの感官即ち視聴味臭を感じ、それによって自分以外に存在する自然の風景や人といふものをそこにあると信ずるように、そしてそれは皆が同じ様にそうであるとたゞ信ずるだけであるように色々の記録や歴史あるいは地史といふものも、論の材料となるいろいろなものといっしょに(時間や空間の因果関係の制約のもとに)われわれが信じているのに過ぎません。

おそらくこれから二千年もたったころは
それ相當のちがった地質學が流用され
相當した證據もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
靑ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大學士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を發堀したり
あるひは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
發見するかもしれません

「註」
 「靑ぞらいっぱいの無色な孔雀」著者はこの孔雀について次の(略)。
「気圏」地球を被ふている大気「氷窒素」地球表面から約十㌔以上の高層は成層圏といはれ主として窒素より成る。温度は華氏零下六十七度に降下すると考へられる。「新進の大学士・・・すてきな化石を發堀したり」この章は「真空溶媒」の幻想を考えて見ればよい。(略)。「白堊紀砂岩の層面から透明な人類の巨大な足跡をーーーー」この空想も、現在の所人間出現以前と考へられる(略)。
 これらの章は現在の科学に於いては事実としては実証する事は出来ないが著者の心象の中に科学的な幻想として生きてゐるものであり、この心象を二千年後の人類の心象或いは科学にもとめてゐるのである。
「解」
 おそらくこれから二千年もたったころは、それ相当のちがった地質学が一般に行はれ、それに相当した証拠もまた次々と過去から現れ皆は二千年前即ち我々の住んでいるこの現代には宮澤賢治の心象の中に生きている大気即ち青空いっぱいの無色の孔雀がいたと想いひまた賢治が求め歩きそれを幻想の中に見出した透明な人類の巨大な足跡を白亜紀砂岩の層面から発見するようになるかも知れません。

すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます
  大正十三年一月廿日  宮澤賢治

「註」
 「命題」判断を言葉にあらわしたもの。「第四次延長」前述のようにこの世界のすべての現象は、時間空間の連続体としてあらはれる時に初めて具体的となるものである。
「解」
 すべてこの様にここに書きしるしたものは宮澤賢治の心象であり時間であるが、その性質上時空連続の世界即ち第四次元の世界のなかでその存在が主張されるのであります。

 

 

『春と修羅』の序について(コンパクト表記)  木村圭一


わたくしといふ現象は      「解」私宮澤賢治といふ者は太古から生物体の中を流れてやまぬ生命の具体形としてあら
假定された有機交流電燈の      はれた一人の人間です(目に見えぬ幽霊があつまって出来たもの)。
ひとつの靑い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといっしょに    「解」自然の風景や皆さんといっしょに、せわしく明滅しながらも決して消えることなく
せはしくせはしく明滅しながら   たしかにともりつゞけて行く因果律による生物電燈の一つの青い照明といっていいで
いかにもたしかにともりつづける せう。(形体はたとへ失はれてもそれから発する光、精神産物はどこまでもたもたれ)
因果交流電燈の
ひとつの靑い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)


これらは二十二箇月の     「解」ここに記された春と修羅一巻の内容は二十二ケ月前から、紙にインクでかきつらね
過去とかんずる方角から      どれもみんな私自身の生命と一緒に明滅し、私以外の皆さんも大切な同時性をもって
紙と鑛質インクをつらね      私と同じ様に感ずる者即ち一般共通のもの)ここまでかきつずけられた私の生活のう
(すべてわたくしと明滅し    つりかわりの一くさり一こまづつの、嘘いつわりなしのその通りの心のすがたのスケ
 みんなが同時に感ずるもの)   ッチです。
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです


これらについて人や銀河や修羅や海膽は   「解」これら記録されたこの心象について、人や銀河や修羅や海胆といふよう
または空氣や鹽水を呼吸しながら       な森羅万象は、宇宙塵をたべ、この広大な宇宙の中に住み、空から降りそ
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが   そぐ天体の小破片をたべたり、又空気を吸ったり塩水を呼吸しながら、そ
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です    れぞれに物の奥にある唯一の新しい根本原理も考へませうが、それらもつ
たゞたしかに記錄されたこれらのけしきは   まり心のひとつの自然現象です。
記錄されたそのとほりのこのけしきで                                                               「解」ただとにかくこの一巻に記録されたこれらの自然現象は、ここに書いて
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで   ある通りのあらはれであり、それが何にも意味のないがらんどふであると
ある程度まではみんなに共通いたします    いふならば、その虚無さえもこの通りで、何も価値判断や善悪判断を意
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに 識、することなしに、全くありのままの記録である、個人の差というもの
 みんなのおのおののなかのすべてですから) がある以上全然同じということはあり得ないのですが、何も突飛な事ばか                                         

                      りでなく、ある程度は私以外の皆さんと共通してゐるので   ありませう                         

                      (ここに記たすべては私の中にある皆さんであるように、皆さんの銘々の                                                                                                                                                                                       

                      中のすべてでありますから、科学のように一般共通的といっていいのであ

                           りませう。)

 

けれどもこれら新世代沖積世の 「解」けれども太古から今にいたる迄明るくつみかさなったこの現代といふ巨大な時間の
巨大に明るい時間の集積のなかで   中で正確にうつしたと私が信じたこれらのことばが、それがありのまま精密微細に記
正しくうつされた筈のこれらのことばが したのでなにもかもみんなうごいてやまぬ流転のせかいであるからわずかまばた
わづかその一點にも均しい明暗のうちに き一つする位の時間のうちに(修羅の時間になおせば十億年の長年月)もうはや
 (あるひは修羅の十億年)      くもその組立をや性質が変って了っているといふ事は容易にうなずけるのである
はやくもその組立や質を變じ      が、それにもかかわらずいつまでもすでにこの通りであるように感じそう信ずる
わたくしも印刷者も          事はあり得ることです。
それを變らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます

けだしわれわれがわれわれの感官や    「解」思ふにわれわれがわれわれの感官即ち視聴味臭を感じ、それによって自
風景や人物をかんずるやうに         分以外に存在する自然の風景や人といふものをそこにあると信ずるよう
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに   に、そしてそれは皆が同じ様にそうであるとたゞ信ずるだけであるように
記錄や歴史、あるひは地史といふものも    色々の記録や歴史あるいは地史といふものも、の材料となるいろいろなも
それのいろいろの論料といっしょに     のといっしょに(時間や空間の因果関係の制約 のもとに)われわれが信じ
(因果の時空的制約のもとに)       ているのに過ぎません。
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたったころは  「解」おそらくこれから二千年もたったころは、それ相当のちがった地質学が
それ相當のちがった地質學が流用され     一般に行はれ、それに相当した証拠もまた次々と過去から現れ皆は二千年
相當した證據もまた次次過去から現出し    前即ち我々の住んでいるこの現代には宮澤賢治の心象の中に生きている大
みんなは二千年ぐらゐ前には         気即ち青空いっぱいの無色の孔雀がいたと想ひまた賢治が求め歩きそれを
靑ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ   幻想の中に見出した透明な人類の巨大な足跡を白亜紀砂岩の層面から発見
新進の大學士たちは気圏のいちばんの上層   するようになるかも知れません。
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を發堀したり
あるひは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
發見するかもしれません


すべてこれらの命題は       「解」すべてこの様にここに書きしるしたものは宮澤賢治の心象であり時間であるが
心象や時間それ自身の性質として  その性質上時空連続の世界即ち第四次元の世界のなかでその存在が主張されるので
第四次延長のなかで主張されます       あります。
  大正十三年一月廿日  宮澤賢治

 

 



(昭和31・11、跡見学園国語科紀要5)
『春と修羅』の序の主張        恩田逸夫


「宮沢賢治の詩論の根幹は、『春と修羅』(大13・1.20)の序において、端的かつ体系的に述べられている。(略)。
 この序文は五つの聯によって構成された詩の形式を採っているが、各聯の要旨を整理すると次の如くになる。
 1・賢治という人間存在の自己規定。
 2・「心象スケッチ」の所以。
 3.賢治の唯心論の立場と万人相通思想。
 4.歴史性と永遠性
 5.人類の言動を価値あるものたらしめる条件ーーー第  四次延長における「時間」と「心象」
 この中、第五聯は、第一聯から第四聯までの所論が成立するための条件であって、次の如きものである。

すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます
  大正十三年一月廿日  宮澤賢治

 このように、「精神」の様相や、「時間」の意識は、「第四次延長」という観点に立脚するものである。したがって『序』において考察すべき重要な対象としては、「精神」と「時間」と「第四次延長」という三つの概念である。
 この中、基底となる「第四次延長」ということばに先ず着眼してみると、彼が「第四次」を時間の意味に使っていることは、他の箇所の用語例に徴して明らかである。全「空間」は上下、左右、前後、という三つの次元で表されるが、さらに第四番目にあたるもう一つの次元を加えることによって、世界や宇宙の構造は一層確実に把握されることになる。このように賢治は、空間の三次元に、「時間」意識の一次元を加えて世界を把握しようとするのであるが、彼の唱える時間は「第四次延長」というのであるから、これは「時間」の特殊な状態を意味するものである。瞬間瞬間に移ろいゆき、二度と同じ繰り返しのないような一般的な時間を指すのではない。彼の考えているのは、このような計量的・相対的・歴史的な時間ではなく、超軽量的で絶対的な、「永遠」という意識に基く時間である。かくして「第四次延長」とは「永遠性」のことと理解される。
 彼の考えている「時間」は、「永遠性」に基くものであって、あらゆる空間や時間を超越して、しかもそれらすべてを包含し、それらすべてに偏在する「時間」である。「現在」に感ぜられた意識がそっくりそのまま寸分の違いなく「過去」におけるそれと一致する如き神秘的なる「時間意識」である。因果関係の制約を脱した超越論的なる「時間意識である。「序」において賢治をとらえている問題は「変化と不変」という対立概念であって、「不滅なるもの」に真の価値を見出している。彼は、変化するはかなさ「現象」の奥にあって、これらを統一支配する永遠なる「本体」、すなわち宇宙の根源的原理を「宇宙意志」と称し、このような「宇宙感情」を自らの中に意識して、これに応じてゆく生活を希求したのである。「序の主張は、右のように「第四次延長=永遠性が「時間」と「心象」にはたらきかけたとき、それらは真実の「時間」となり、真実の「心象」となるというのである。
 この「序」は、いうまでもなく、彼の所謂「心象スケッチ」集に冠せられた序文である故、当然「心象」の性格が問題となる。単に一般的な「心理現象」ではなくして、永遠性を有する心象である。つまりこの特殊な「心象」と、同じく特殊な「時間」(永遠)との交渉が所論の中心となる。第一聯から第四聯まで、「心象」の主体である「人間」をいかなるものと見るか、「心象」が「永遠」の中でいかなる価値を有するかが主張されているのである。以下彼の考えている「心象」の性格について各聯を検討してみよう。

わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの靑い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの靑い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

 彼は先ず第一に「心象こそ人間そのものである」という立場をとっている。第一聯においてそのことを次ぎの様に言っているのである。
 ここで、「わたくしといふ現象は」という主語に対して、「ひとつの青い照明です」といふ述語が繰り返して強調されている。「照明」は「仮定された有機交流電燈」の照明であり、「因果交流電燈」の照明である。電燈(精神を盛る現身)が彼なのではなく電燈の発する照明(精神)が彼なのである。彼は自然界、人間界におけるあらゆる優れた精神(あらゆる透明な幽霊)をその身一身に備えている「複合体」であり因果の現象をその霊に具(ぐ)現(げん)して行(い)く一(いち)個(こ)の「有(ゆう)機(き)体(たい)」である。その肉(にく)体(たい)は失(うしな)われても、その精(せい)神(しん)は永(えい)遠(えん)である。そして自(し)然(ぜん)や人(じん)事(じ)にふれてせわしく明(めい)滅(めつ)する彼(かれ)の心(しん)理(り)現(げん)象(しよう)は、「透(とう)明(めい)」な霊(れい)とか「青い」照明とか言われるように、純粋で知性的な感じを持つと同時に、繊細で憂愁を帯び、静寂な情熱というべき心理的傾向である。

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鑛質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです

 次の第二聯では心中に去来したさまざまな心象をスケッチしたものが『春と修羅に収められた諸篇であることを述べる。「心象スケッチ」という用語の概念規定である。
 「心象スケッチ」ということに関して『春と修羅』に収めたこれらのスケッチはイ、一年十ヶ月間にわたるロ、明暗さまざまな心象のハ、写実的(そのとおり)なるニ、言語表現(紙と鉱質インク)であると説明している。さらに、これらの心象は、他の人々も同時に感ずるもの、という万人相通感に触れているが、この思想は、芸術の普遍性・永遠性ということばかりでなく、やがて彼の理想社会建設の根本条件をなすものとして重要な思想である。なお「過去と感ずる方角から」というのは、ここで既に第五聯の時間意識を暗示しているもので、彼にあっては、過去や現在を超越した時間意識が問題とされるからである。したがってここでは「一般には過去といわれている時期から」ぐらいの意である。(略)。

これらについて人や銀河や修羅や海膽は
宇宙塵をたべ、または空氣や鹽水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記錄されたこれらのけしきは
記錄されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

 これは、われわれが対象を認識する根源は、われわれの「精神事態に在る」こと、「精神」は万人の相通であることという、前の二つの聯の主張の敷衍であり、続く第四連の前提となっている。
 彼が書き記した「心象スケッチ」について各人はさまざまな受け取り方をして、各自の本体論を築くであろうが、それも「精神」によって描き出した一つの様相であると言っている。
 この場合、「人」「銀河」「修羅」「海胆」などが現しているのは、万物であり、万人である。平常一般の「人」、それよりはるかに高度な精神状態にある「銀河」、「人」の下位にある「修羅」、または、天上的な「銀河」と海底にある「海胆」など、人間における種々な精神的段階や、環境について、両極的、対照的な位置にあるものをとりあわせて「万人」を意味させた詩的表現である。「宇宙塵」「空気」「塩水」などは、「銀河」や「人」や「海胆」に対する援護であって、「人おのおのの各自の生を営みつつ、その境遇に応じて、本体論を考える」ということである。各人が、各別各個の現象として、たち現れながらめいめいの本来的な生き方と信じているものも、結局はめいめいが感じた「こころの風物」すなわちその人の「心象」なのである。
 そして万人の感じ考えることは「ある程度」までは共通であるという、このような彼の自他万物一体感は、古代印度思想などに由来すると想われる。(略)。根源は一つで、万物はそれの現れであるという考え方である。したがって、永遠普遍なる「宇宙感情」を体得しての言動であればそれは、万人に通ずるはずである、というのである。このような思想は、近くはヤスパースの「実存交通」の考え方にも相い通うものと想われる。
 ところで賢治は「記録されたこれらのけしき」は、ありのままの心象記録(記録されたこれらのけしきは記録されたそのとおりのこのけしき)であって、それが「虚無ならば虚無自身がこのとほり」だというように、この聯では「心象スケッチ」の性格について述べているのであって、その価値や効用についてはまだ触れていない。ただある「程度までみんなと共通」という点に、彼の思想の表現が、読者の共感をよび精神を交流させ、何らかの影響を与えるであろうことは期待しているのである。心象の写実、万人の相通については、彼の童話『注文の多い料理店』発刊のさいの刊行趣意書にも見える。(略)。

けれどもこれら新世代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一點にも均しい明暗のうちに
 (あるひは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を變じ
しかもわたくしも印刷者も
それを變らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記錄や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料といっしょに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません

 第四聯は「序の」の中で、もっとも長い聯であり、内容的に言っても「「序」の中核となる永遠性に立脚した心象の意義」を細叙している。第三聯の叙述を「けれども」という逆接の接続詞で受けて、前聯を一たん抑えた形で展開させ、「しかもわたくしも・・・」というように再転して、強調している。
 前半は「心象」の機能を、「唯心論」と「歴史認識」との面について考察し、後半においては、「永遠性」に基く「歴史」(心象に由来する人間の業績?)の真価についてのべているのである。
 「永遠」ということを明確にするまえに、彼は先ず、人間行為のむなしさ、はかなさについて述べる。万人相通を信じ、真実の感動を記録したはずのこれらのスケッチも、悠久の時の流れの中においては、ほんの一瞬ともいうべき極めて短い間に変化し消滅してしまうむなしいものなのかもしれない、という疑問を提出する。人間が永遠性を信じている業積や「歴史とよばれる過去幾世代にもわたって営々と築き上げてきた人類文化の集積なども大宇宙の中では「わづか一点」に過ぎぬとも考えられる。『龍と詩人』のなかで「人の千年は龍にはわづか十日に過ぎぬ」といっているように、卑小な人類が信じている永遠性は、実はきわめて微々たるもので、まして「人」の下位にある「修羅」が十億年ほどの永遠性を想定することがらは、これまた、きわめてはかなきものであるかもしれないのである。にもかかわらず、彼が、真実をこめて書いた「心象スケッチ」の永遠性を確信することも可能だ、というのである。何となれば、唯心論の立場からすれば、我々が確信するからこそ、対象はそのような存在として、われわれの心中に認識されるものだからである。
 だが一般的な認識は不確実なものであって、永遠性を主張することはできない。一体、われわれが対象を信ずるのは、われわれの感官を信ずる事によって、そこに映ずる対象が確実なものであるように想いこみ、ひいては世人一般もそのように信じる。かくして「期間意識」に関係のある「記録」「歴史」「地史」などというものをも信ずるようになるのであるが、このような人類の過去の業績の真価や、自然界の様相の変化などについての認識にしても、時間や空間の制約下にあって、現象の因果関係の考察からそのように信じるだけのことである。それは千年とか、十億年とかいう計量的な時間意識や、地域的に考えられた有限な空間意識に束縛されているし、また理知をもってとらえた因果関係という論理性にも制約されているものであるから、永遠不易確実なものということはできない。それは、偽りではないが、このような相対的真実ではなく、絶対的真実を獲得するには如何にしたら可能なのであろうか。時空を超えてしかもそれら全体を包んでいる根源的・永遠なる時間意識に立脚することである。『農民芸術概論綱要』によれば、「宇宙感情」や「銀河系意識」を体得することである。このように「永遠なる時間を体得しこの「心象」が、いかなる様相を呈示し、いかなる機能を有するかについては、第四聯の後半に次の如き美しき比喩によって表現されている。

おそらくこれから二千年もたったころは
それ相當のちがった地質學が流用され
相當した證據もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
靑ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大學士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を發堀したり
あるひは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
發見するかもしれません

 将来二千年も経った頃は、この「永遠なる時間の意識」に基ずく人類の生活の真価が理解されて、その頃の人々は「二千年くらい前」(賢治の生存する現代)の世を「靑ぞらいっぱいの無色な孔雀が居た」というように、その価値の理解されることを期待しているのである。さらに「気圏の上層」(空間)や「白亜紀」(時間)など、遙遠なる時空世界からも人類の業績のすばらしさを発見できるであろうといっているのである。(略)。
 序においても、あらゆる時代、あらゆる箇所から(透明で巨大で)(きらびやかですてきな)「真実(まこと)」と「美」とを具現した人間生存の在り方を待望しているのである。「あたらしい世界の造営の方針」を樹立することが「心象スケッチ」を公にしようとした抱負であったのである。そしてこの抱負を実践にまで推進させたのが『農民芸術概論綱要』を掲げて開始した「羅須知人協会」の活動である。
 なお、第四聯の後半の用語の上で、「それ相当のちがった地質学」とは「因果の時空的制約」を脱した別の観点すなわち「永遠なる時間の意識」である。この場合「地質学」「すてきな化石」「白亜紀砂岩」などの語は、この聯の前半の「新世代沖積世」や「地史」などと連関するもので、やはり広大な時間意識や、文化現象の様相を表そうとする賢治らしい修辞上の縁語である。
 要するに序の主張は『春と修羅』に収められたありのままの心象スケッチの一つ一つが彼の「本体論」の具象化であって、根源的な宇宙感覚に基くこれらの心象は太古の昔にも二千年後の未来にも通ずる「永遠の時間」の中に偏在し、万人の精神に交流して、人間生存の正しいあり方を示そうとする点にある。かくして心象をスケッチした「これらのことば」はまさしく「正しくうつされ」て「変らない」意義を有することになるのである。彼の「心象スケッチ」主張の当否はなお今後によって明かにされるであろうが大正末年において宮沢賢治という一詩人が、『序』に述べられたことを真剣に考えていたという事実は確実なことなのである。
                                        (了)