『春と修羅』序アラカルト
  ー『春と修羅』出版100年記念ー


     『春と修羅』序アラカルトの序 に 代 え て

一、ある書のプロローグより
 本年(2024年)は宮沢賢治の詩集『春と修羅』出版百年である。この『春と修羅』の冒頭の序詩は、抽象的で難解であるとされ、膨大な賢治論料の中で臆面もなく素通りされてきた。盛岡市立図書館の郷土関係図書室の宮沢賢治コーナーは、6段の書棚が壁の2面にまたがって、一千冊を超える蔵書を有していたが、この書棚の中を丹念に「春と修羅・序」関連の文献を探してみると驚くほど少ない。20冊にも満たないのである。
 因みにその序詩の第一連を次に示してみよう。

 わたくしといふ現象は
 假定された有機交流電燈の
 ひとつの靑い照明です
 (あらゆる透明な幽霊の複合体)
 風景やみんなといっしょに
 せはしくせはしく明滅しながら
 いかにもたしかにともりつづける
 因果交流電燈の
 ひとつの靑い照明です
 (ひかりはたもち、その電燈は失はれ)


 いわゆる専門的な賢治研究者らの仏教的な論及も観念的、主観的でその理路の当否を含め詩集の序として正鵠を射た解釈はないままで今日にいたっている。序の六つの心内語(()書きの詩句)の解釈さえ定説がなく、殆どの解釈が断片的で、どれひとつとして序詩の通釈としての体裁ををなしていない。(別掲の本論の『春と修羅』序アラカルト(1)~(4)の9人の各論抜粋に明かなとおり)。
 その心内語である第一連の「あらゆる透明な幽霊の複合体」、第四連の「因果の時空的制約のもとに」などを直観的に説明できる論理は「現象」と「物自体」という二元論的なカント哲学しかない。その立証こそが第三連に明らかな本体論(形而上学)=風物として見ている賢治自身の視点だ。こここそはからずも露見した賢治の心内語なのだ。かって序の逐条的解釈を試みた佐藤勝治氏(1913~1992年『宮沢賢治の生涯と信仰』)も「この序詩は哲學的に區分して、前段十行が本体論(形而上學)、後段が認識論であるとみられます。たぶん作者もそのつもりであったろうと思われます。」とズバリと指摘していた。当に第1節の10行はカント形而上学、第2節以後はカントの認識論、『純粋理性批判』なのだ。本論は心内語と5連の全節について、論理と図式を駆使し、序は大西祝の『西洋哲學史』(明治37年1月、警醒社書店、私は国会図書館からダウンロード)下巻の「カント」を敷衍したカント哲学のパッチワークであるとして、体系性を視野に入れつつ、序詩全体を読釈したラディカルな、比類のないモノグラフである。

二、ある書のエピローグより
 ここまで見てくるとすでに、六つの「心内語」はカント哲学の主要な命題に対応する謂わばパッチワークであることが明瞭であるし、大旨『西洋哲學史』のカントに沿って書かれていることが明白である。詳細は同書をご覧頂けば納得できるであろうし詳細は次章「五、各節の補説」のなかで論究することとなろう。
 ここまでの考察は賢治にとっても筆者にとっても、その内実に深く関わっており、そもそもどういう味わいなのかということ自体が味わう者の内実とその成長により異なるだろうこと、カントを介した賢治と筆者の対決であって、読者、論者、判者のカントについての無知、無理解などは、筆者にとっては全く関わりもないことで、以下も同様であることを特にここで、一言しておきたい。ここでのお話は『春と修羅』序に対するこれまでの百年に及ぶ安易な思弁を厭い、それらの演繹に慊らぬ反論であること、謂わばこの『春と修羅』序の読解に関する限り仏教的考察、言及は一切不要なのであること、これまでとは全く未知の分野の「コペルニクス的転回」に似たお話であろうこと、必定なのである。
 このことと共に賢治は大西の『西洋哲學史』の他にもう一冊別のカント書を読んでいた可能性はある。それは第1節の「霊魂・不死」の書きぶりが大西の『西洋哲學史』47章だけでは不足かなと思うこと、さらに賢治には「合理的心理学」関係の論書が必要かなと思うことなどである。最もこっちのあの「心理学的な仕事の支度」は予告だけで終わったかなと思ったりもしていて・・・。

三、或る本の書評の抜粋より
 近年の賢治研究の衰退は、清六、イーハトーブ学会の『新校本全集』の固執に始まるようだ。この基本方針に明らかな誤りがあるのである。『全集』以外を賢治の虚像として認めない、排斥し尽くすという独断的な姿勢が払拭されない限り、今後の新しい賢治論の発展はあり得ないだろう。これまであまりにも多くの無能者が(清六、学会へのへつらい者ら)が賢治研究者として君臨してきた。今も、今後もまた同様の無能者ども・・・。 今年は実に賢治の『春と修羅』出版から100年目なのだ。この100年間、誰ひとりこの『春と修羅』序の六つの心内語(()書きの詩句)を読み解いた者はいなかった。『春と修羅』序の読解こそは今後の賢治論の再興の鍵(キー)である。アーアーアー、諸君、若い君ら・・・、ワレに続け・・・、栄冠は君に輝け、君に輝けーーー・・・。

            二〇二四年 八月二四日    石川 朗