Pamela Colman Smith 8パメラの晩年と最後の地ビュード
Souce)Reviving a Forgotten Artist of the Occult, Sharmistha Ray,Hyperallergic
この写真は、ブルックリンのプラット・インスティテュート図書館で開催された、"Pamela Colman Smith: Life and Work"という展覧会を紹介するSharmistha Rayさんの記事から拝借しました。
近年ではパメラの功績に光を当てる美術展がいくつか開かれているようです。
手前右下に座っているのがパメラですね
この写真は、パメラが家族ぐるみで付き合いをしていたエディ・クレイグが撮影したもので、シェイクスピアの妻の幼少期の家の前で、エディの母である女優エレン・テリーとその友人たちを映したものです。
この写真には、劇作家で作家のクリスタベル・マーシャルという、当時影響力のある女性活動家も写っているそう。
パメラの女性運動家としての活動については、よろしければ1つ前の記事をお読みください。
さて、冒頭の写真はロンドンで、個展を次々と開き、売れっ子イラストレータとして活躍していたころのパメラの写真と思われます。
ところがウェイト・スミス版タロットのイラスト製作後、徐々に彼女の創作活動は低下していきます。
多くの文献の中で、彼女の最後はとても貧しく、芸術家としての活躍も忘れ去られた中で亡くなったことが記されていました。冒頭の写真を引用させていただいた、 Sharmistha Rayさんの記事でも、そのことに言及しています。
初期の名声と決意とは裏腹に、スミスは無名へと転落していった。彼女が望んだ経済的な安定を得ることはなく、またそれに値する評価を得ることもなかった。
スミスは、実験的で、学際的で、共同作業が流行するずっと前から、知的で、世俗的で、独立した思想家であり、天才的な才能を持っていた。それにもかかわらず、彼女は無一文でイギリスのビュードで73歳の生涯を閉じた。まだ学生だった彼女がデザインした象徴的なサインがなかったら、彼女の名前は永遠に失われていたかもしれない。
Souce)Reviving a Forgotten Artist of the Occult, Sharmistha Ray,Hyperallergic
パメラが芸術家として無名になってしまった理由としては、彼女の創作活動が次第に低下していったことがあげられます。
第3回の物語で、コーンウォール州Bude(ビュード、バッドとも翻訳されます)という美しい海辺の町に引っ越してしまったことが、創作活動が低下した原因でないかと推測しました。コーンウォール州は美しく風光明媚な観光地なのですが、ロンドンから車で5時間もかかるのです。
この地に移住してからのパメラは、敬虔なカトリック教徒として、小さなカトリック礼拝堂の運営をすることでつつましく生計をたてていたそうです。
最後はお葬式代もないほど貧しく、パメラの借金を返済するために、40年間パメラと同居していたスピリチュアリストのノラ・レイクによってその作品は競売にかけられました。
こう聞くと、なんだかすごく貧しくて寂しい最後だったように思われますね・・・
しかし「パメラ・コールマン・スミス:知られざる物語」という本の書評を読むと、ちょっと違った見方もあるようです。作者のStuart R. Kaplan氏はこんな見方をしています。
彼女が貧困の中で暮らしていたと言うのは正確ではありません。スミスは、今日(こんにち)に至るまでほとんどのアーティストがそうであるように、苦労したアーティストでした。
その限りにおいて、彼女の物語はおなじみのもので、彼女は生き延びて家賃を払うのに十分な収入を得ていましたが、彼女の仕事が彼女を裕福にすることはありませんでした。~中略~
彼女は借金を抱えたまま亡くなりましたが、そのほとんどは所得税を払わなかったことが原因でした。
Source:Pamela Colman Smith: The Untold Story by Stuart R. Kaplan,The Argothald Journal
借金があったっていうのは、所得税の滞納なんですね。もちろん、裕福ではなかったけれども礼拝堂の運営できちんと生活はできていたのですね。ほっとしました
ところがです! 近年になってビュードの町の人達がパメラの功績に気づき、その功績を讃えるようになってきたようなのです。Cherry Gilchristさんという作家さんがそのことを報告しています。
しかし、以前にも訪れたことのある展示エリアを歩いていると、タロット・アーティストでビュードの元住民であるパメラ・コルマン・スミスを記念するパネルが設置されているのを見て驚いた。
彼女が人生の最後の10年間をビュードで過ごしたことを知る人はほとんどいないため、地元の歴史家やタロット・ファンが彼女の名誉を町に取り戻したのだ。私もパメラの生涯をさらに探求し、彼女とビュードのつながりを知る時が来たと思った。
Source)A Pixie in Bude – Pamela Colman Smith, Tarot Artist,Cherry Gilchrist
そして、なんと2020年にはパメラのコーンウォールでの生活やその他の伝記的詳細について、地元の歴史家Dawn G. Robinsonさんが「パメラ・コールマン・スミス:敬虔なピクシー」というタイトルで本を出版しました。
パメラ・コルマン・スミス(1878 - 1951)は、1951年9月25日、著名なローマ・カトリック司祭、ジョセフ・ヘンリー・デュ・ムーラン=ブラウンにより、聖マイケル&オール・エンジェルズ教会墓地に埋葬された。
彼女の墓標(おそらく木製か、あるいは無印のもの)はとうの昔に失われ、区画の記録も火災で失われてしまったが、現存する教区の記録と比較すると、周囲の墓標の日付と名前から、彼女が眠っている可能性が最も高い場所であることがわかる。
下の動画から、 聖マイケル&オール・エンジェルズ教会(St. Michael & All Angels Churchyard)を見ることができますよ。
先に記したとおり、多くの文献にパメラが貧困のうちにビュードで亡くなったことが書かれていました。そしてパメラが残した借金のためにその作品も競売にかけられたとも・・・。
世界で最も偉大なタロット・デッキの生みの親でもあるにかかわらず著作権すらなかったこと、晩年は田舎の町で貧困のうちに亡くなった、というようにパメラを悲劇の人のように語る記事が多くありました。
読んでいると、パメラが失意のうちに亡くなってしまったのではないかとすごく悲しくなってきましたが、私はStuart R. Kaplan氏の書籍「Pamela Colman Smith: The Untold Story」に書かれていたこと(生計をたてて家賃を払うのに十分な収入を得ていた)と信じたいです。
現在では世界中のあちこちでパメラの功績を讃える文献が執筆され、パメラの功績を再発見する美術展もいくつか開かれているようです。
それに、なんといってもビュードにパメラの記念碑ができたなんて、これはもう、パメラファンとしては、パメラが眠る聖マイケル&オール・エンジェルズ教会と合わせて、「パメラ詣で」に行くしかないですね!
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