Pamela Colman Smith 6報酬と著作権,ウェイト博士とパメラ
Souce)National Portrait Gallery, London
アーサー・エドワード・ウェイト(Arthur Edward Waite、1857年10月2日 - 1942年5月19日)は、隠秘学、秘教、魔術に関する多数の著書を執筆した文筆家。ウェイト版タロットの制作者として著名。
出所)アーサー・エドワード・ウェイト - Wikipedia
パメラのイラストのデッキ、ウェイト版もしくはライダー・ウェイト版と呼ぶのが一般的ですよね。ライダーとは「ライダー・アンド・サン社」、出版社の名前です。
そのことについてLisaさんという方が書いている記事がかなり面白いです。
このデッキは1909年にライダー・アンド・サン社から6シリングで出版された。しかし、デッキの名前そのものを少し考えてみてほしい: ライダー・ウェイト・タロット・デッキ。パメラ・コールマン・スミスへの言及があるだろうか? そう、私もライダー・ウェイト版と呼んでいる。
ピクシー(パメラ)は6ヶ月で80枚のデッキを完成させたが、彼女の言葉を借りれば(友人への手紙から引用)、報酬は「ほんのわずかな現金だった」のだ。アーサー・エドワード・ウェイトと出版社のライダー・アンド・サンは、彼女の貢献によって快適な生活を楽しんでいたに違いない。
Source)International Women’s Day: Celebrating the story of Pamela Colman Smith (Pixie),Lisa,MMUNIC, #IWD22: Celebrating the life & work of Pamela Colman Smith | mmunic ltd
ウェイト博士とライダー社は、パメラのおかげで贅沢できたということを辛辣に書いてますね。私はこの記事を読んでから意図的に「ウェイト・スミス版」と呼ぶようにしています。
さらにパメラにはこのデッキの著作権すらなかったそうです。Lisaさんはパメラにデッキの著作権が無かったことを皮肉まじりに以下のようにコメントしています。
ピクシー(パメラ)が数十年後に存在していたら、多分彼女はエージェントを持っていて、十分な給料をもらっていて、彼女にふさわしい評価を与えられていたでしょう。
もしかしたら、注目すべき新進気鋭のアーティストとして雑誌に彼女の顔が掲載されるかもしれないし、タブロイド紙でデヴィッド・ボウイやトレイシー・エミンとつき合っているのを見かけたかもしれない。誰にもわかりませんが。
Source)International Women’s Day: Celebrating the story of Pamela Colman Smith (Pixie),Lisa,MMUNIC, #IWD22: Celebrating the life & work of Pamela Colman Smith | mmunic ltd
イラストへの報酬というと、パメラ本人の面白い言葉が残されています。
1901年3月の アルフレッド・ビゲロー・ペインへの手紙に (1861-1937)彼女(パメラ)はこう書いている。「出版社はみんな豚だ!?!」 彼女の作品が出版されたとき、または 購入されるとき、彼女の労働に対しての報酬が低く、彼女はしばしば出版社との交渉を余儀なくされた。
当時のパメラは人気イラストレーターで、作品をかなり量産していましたが、出版社が支払う報酬がとても少なく、いつもお金が不足していたそうです。そして著作権に関しては、こんな驚愕のエピソードもありました。
1907年、彼女は写真家アルフレッド・スティーグリッツに、彼の写真分離派の小さなギャラリーで彼女の絵画とドローイングのコレクションを展示するよう依頼した。~中略~
1907年後半にショーが開かれたとき、それはギャラリーの2年間の歴史の中で最も人気のある展示であり、ピクシー(パメラ)の作品はすべて完売した。
スティーグリッツはピクシーの作品を自分で撮影し、ピクシーにクレジットやロイヤリティなしでポートフォリオを作成し販売した。言うまでもなく、スティーグリッツは大金持ちになった。
Source)The woman behind tarot’s strange beauty, Jessica Mesman,Christiancentury,
https://www.christiancentury.org/print/pdf/node/41955
現代だったら絶対考えられないですよね! この当時のアートに関する著作権て、全然守られていなかったのですね
話をライダー・ウェイト版デッキのイラスト制作の報酬に戻しますが、パメラの報酬が低かった一因として、パメラが女性であること、31歳とウエイト博士よりかなり年が若かったためにパメラの権利が軽視されたことがあるかもしれません。
ウェイトは定評のある学者であり秘教学者であり、黄金の夜明け団の支部の指導的人物だった。タロットカードが出版されたとき、彼は52歳だったが、31歳のパメラは彼の後輩であり、難解な伝承の経験が浅かったのである。ウェイトが主導権を握るのは当然の帰結だった。
Souce)A Pixie in Bude – Pamela Colman Smith, Tarot Artist、BY CHERRYGILCHRIS
確かに「タロット象徴辞典」などを読むと本当に難解な図像学やキリスト教などの知識が必要だったことがわかります。そのためパメラがウェイト博士の指導のもと、イラストを制作したのですね。
さてさて、ウェイト博士はとんでも強欲野郎だったんでしょうか・・・。
たしかにウェイト・スミス版デッキのイラスト制作費はバカみたいに安かったようなのですが、ウェイト博士も誰もみなここまでヒットすると思っていなかった、「少ない予算で作らねばならない」という思い込みがあったのかもしれないです。
そして報酬はめっちゃ安かったかもしれませんが、パメラはウェイト博士を尊敬していたのではないかなと思います
ウェイト博士は当時のイギリスとしては珍しいカトリックの家庭で育っています。
パメラはタロット制作の2年後の1911年にカトリックに改宗するのですが、それはウェイト博士からの影響のためだと個人的には思っています。
もしもパメラがウェイト博士のことを大嫌いだったら、カトリックに改宗しなかったのではないかな・・・
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