ニュータウンに埋もれた旧街道
2023年11月2日午前11時30分、中原街道三日目のスタートはのちめ不動の交差点から。今回は自宅近くを歩く旅。普段もよく歩くいわばホームグラウンドのような道行き。改まって街道歩きなどとは面映ゆい感じがする。
今日は少し時間がある、では行ってみるか、といった軽い気持ちで歩きはじめる。
のちめ不動の交差点は旧街道部分の途中。これを南へ数分歩くとすぐに現中原街道に合流する。その右側には山田神社がある。岬のように突き出た高台だ。ここには前回触れた鎌田堂の主、鎌田正清の館というか城というか、軍事拠点があった。頼朝の父、義朝の側近であった鎌田正清。何度も触れているが、我が地元が彼の所領だった。
のちめ不動交差点から旧道を行く
5分ほどで新道と合流
山田神社は頼朝の側近、鎌田正清の城跡
高台で見通しがいいので、立地としては抜群と言える。鳥居の脇、街道沿いに六地蔵や供養塔がずらりと並んでいる。文化年間の日付が書かれているものがいくつかある。十九世紀初頭、化政文化の頃だから、いわゆる町人文化の時代のものだ。
そこから少し歩くと右側に中川中学校があり、その下あたりに馬頭観世音菩薩の石碑がある。寄進は下大棚村の名主たちだろうか。街道沿いの馬頭観音は、いつも往時の旅の困難さを想像させてくれる。
中川中学下の馬頭観世音
早渕川に架かる勝田橋の手前で、また右斜めに分かれる道がある。これもわずかながらの旧道だ。旧道側の橋が勝田橋で、新道側は新勝田橋である。こう新旧ふたつ橋が並んでいるのは珍しいのではないか。
勝田橋手前で旧道がはじまる
早渕川を渡る勝田橋、上流方面を見る
この旧道をずっと進んでいくとY字路があり、右側が旧道。右手に最乗寺への道があり、その後は急坂となる。
右が旧道、左へ行くとすぐに新道につながる二股路
最乗寺入口
急坂の途中、左の白い建物あたりが勝田杉山神社
坂の上から振り返ると一気に登ったことがわかる、遠くに武蔵小杉のマンション群
坂の中腹あたり、左に勝田杉山神社がある。道の勾配やうねり具合は、いかにも旧道である。登り切って後ろを振り返れば、武蔵小杉のタワーマンション群が一望できる。
坂を登りきり、右は畑、左は雑木林。そのまま進むと右に寿福寺の参道があり、左には馬頭観音が佇んでいる。その観音様、大切にされているのはわかるのだが、実に何というか、居心地が悪いのである。
坂を登りきると平坦な道
右手に寿福寺
その前に馬頭観音
雑木林側の道沿いには柵がずっと続いている。その柵がこの馬頭観音のところだけ凹型にくぼんでいて、そこにそれほど古くない文字だけの石が佇んでいるのだ。妥協の形のようで、何とも言えない。
そしてほどなく、この道はなくなる。正面には集合住宅群。道はその前のT字路となって旧道は途絶える。残念なことだ。
旧道はここで無くなってしまう、正面は大きなマンション
旧道を先ほどのY字路まで戻り、今度は左側の道を行く。すぐに現中原街道に合流する。この先からは緩やかな登り坂。
国指定重要文化財、関家住宅、後北条家に仕えた地侍の家と言われている
緩やかな登り坂がはじまる
上の写真の陸橋から来た道を望む、現在の中原街道
茅ヶ崎中学校の交差点を過ぎると、右側には大きなマンションが並ぶ。旧道はこの敷地内を斜めに進んでいたのではないか、と考えられる。と言うのも、新道をまっすぐ行くと向原のT字路にぶつかり、ここを右折。500メートルほど歩くと今度は大塚原のT字路で左折となる。大きなクランク状のルートだ。このクランク、つまり迂回ルートの部分を、旧道はショートカットしていたと思われるのである。
向原・大塚原間は片道三車線の新横浜元石川線と共用
先ほどの旧道が消えたT字路。そこで止まった道を地図上で伸ばしていくと、ほぼこの大塚原のT字路にぶつかる。つまり繋がるのである。
中原街道は最短距離で江戸と平塚を結んだ道であるのだから、ここは曲がり角を作る必要はない。マンションや公園の敷地となったことで街道が消滅した、と考えられる。
大塚原の交差点、中原街道は左の細い道へ
東方原で新道と合流
大塚原からは旧道となる。大きく下り、そしてまた登る。東方原でまた本道と合流。ここも大きく下り、大きく登る。
この沿道には庚申塔や供養塔がかなり残っている。
東方原から少し行って右側にある小祠には、もはや表情も凹凸もなくなりかけている野仏が収められている。かすかに多くの手が確認できるのと、足元に三猿らしき姿があることから、青面金剛と思われる。
右側の青面金剛
その先少し行くと左側に馬頭観世音の石碑。かなり新しいもののようで、これも小祠の中に収められている。近くで見ると背後に何かある。覗き込む。新碑のうしろには旧碑が残されていた。ごくたまにこういう形のものを見かける。新しいものを設置したものの、古いものを取り除くのが忍びないということか。うしろの碑は暗くかなり朽ちかけていたので、何が書かれているかはわからなかった。
古い碑の前に新しい碑が重なっている馬頭観音
開戸の交差点を過ぎ、緩やかに下る途中の右側には、トタン屋根の下に青面金剛。こちらは怖い表情をまだ十分に見て取れる。
表情がまだわかる青面金剛
伊勢社
さらには小さな伊勢社。覆屋の中の小社はまだ真新しい木の色だ。
その先には庚申塔などが四つ並んでいるのだが、その前にごみ収集用の緑の網カゴが置かれている。これは、ここしか集積場がないとしても、もうちょっと考えるべきなのではないか。
ごみ収集所の後ろの石像群、いろいろなことを考えさせられる
また少し緩やかな登りになって、右側に短い階段があり、その先に小さな鳥居が見える。その奥には斜めに間口を開けた小祠がふたつ。そのうちのひとつが第六天社だ。
第六天社ほかふたつの小祠がひっそりと
その先に山王前の三叉路がある。今は左側の道が主道となっており車の往来は多いが、中原街道はここを右。そしてほどなく佐江戸の交差点に出る。
山王前手前の下り坂、中原街道はまもなく右へ折れる
往時の継立場は小さな交差点なのだが
佐江戸というのは、今でも道路の青い距離標識などに現れる地名だ。この距離表示板、大概は主要な町や都市までの距離を案内しているが、なぜかこの佐江戸の名前をよく見る。昔から不思議に思っていた。私が幼かった頃も今も、道幅は狭くとくに何があるという場所ではないからだ。
「昔は重要な土地だったのかな」
くらいな想像はしていたが、それがどの程度のものだったのかは知る由もなかった。
だが中原街道踏を旅する以上は、きちんと知っておかなければならないなと思い、調べてみた。
戦国時代には小机城の支城である佐江戸城があり、北条氏の領土だった。江戸時代になり、ここに継立場ができる。これに関しては、隣りの中山村といわば誘致争いをした結果、幕府は佐江戸に継立場を置くことに決する。
継立場とは、街道の宿場間の休憩施設のようなもので、茶店や売店、あるいは馬や駕籠の乗り換え場などが設けられた場所である。
だが一方で、中原街道の宿場として小杉、佐江戸、瀬谷、用田と記されているものもある。継立場からはじまり、徐々に賑わっていって宿場並、となったと解釈していいのだろうか。
そのようなことから、佐江戸は小城下町として、また中原街道の継立場・宿場として人が集まり、発展した場所だったのである。その名残としてその名が交通関係の上では今でも使用されているのだ。
ではなぜ幕府は佐江戸を継立場としたのか。それはこの近くに鶴見川と恩田川の合流点があったことが大きな理由だったらしい。舟運にも利便性の高い地域だったということだ。
佐江戸の名前は、江戸よりも古いと言われており、江戸がらみで命名されたといういくつかの説は、あとになっての巷説だと思われる。
「江」が川を言い、「戸」が出入り口を言うことから、やはり先の舟運がらみの命名である線が強いような気もする。
もうひとつ、このあたりは庚申塔や道祖神が多い。これらを「塞の神」とも呼び、塞の土地、さえど、となったと言う説もある。
佐江戸交差点近くのお地蔵様
今ではコンビニ程度しかない小さな交差点。だが、交通量はこの狭い道にしては過剰と言えるほど多い。この交通量こそが、往時を偲ばせる唯一のものなのか。
このあたりはほとんど歩道もなく、歩くには全然優しくない細道が続く。小学校に通う子どもたちの姿も見られ、「気をつけて歩きなさいよ」といつもヒヤヒヤしながら見送っている。
細い道を注意しながら歩いて、地蔵尊前のT字路に到着
私も前後を気にしつつ歩いていく。佐江戸から1kmほどで地蔵尊前のT字路。ここで右折。この道は東側からここまでは県道140号、通称緑産業道路である。ここからは県道45号、中原街道だ。合流した細い道のほうの名前になるのだ。これが歴史というもの。
トラックをはじめとする車の量は多い。だが歩道は広く、あまり面白くない道だが気持ちは楽になる。
鶴見川を渡る、奥に見えるのは恩田川との合流点
ほどなく鶴見川を渡る落合橋。そこから左に緩やかにカーブしつつ登り坂。それが終わればゆるい下り坂。JR横浜線の線路の上を道は通り、宮の下の交差点に到着。ここがJR横浜線、横浜市営地下鉄グリーンラインの中山駅に一番近い場所なので、本日はここまで、短いが。午後1時15分。8.4km。
今回は近所のルート、散歩がてらあらためて旧道を辿った。次回はまた旅気分で新鮮に歩きたい。
宮ノ下交差点で本日は終了