百社詣で・百寺詣で

百社詣で・百寺詣で

近しき者の病気平癒を祈願して歩いた百社百寺
疫病退散を祈り巡る続百社百寺
旧き街道を訪ね、昔日の旅を想う

 

ニュータウンに埋もれた旧街道

 

 2023年11月2日午前11時30分、中原街道三日目のスタートはのちめ不動の交差点から。今回は自宅近くを歩く旅。普段もよく歩くいわばホームグラウンドのような道行き。改まって街道歩きなどとは面映ゆい感じがする。

 

 

 今日は少し時間がある、では行ってみるか、といった軽い気持ちで歩きはじめる。

 

 

 のちめ不動の交差点は旧街道部分の途中。これを南へ数分歩くとすぐに現中原街道に合流する。その右側には山田神社がある。岬のように突き出た高台だ。ここには前回触れた鎌田堂の主、鎌田正清の館というか城というか、軍事拠点があった。頼朝の父、義朝の側近であった鎌田正清。何度も触れているが、我が地元が彼の所領だった。

 

のちめ不動交差点から旧道を行く

 

5分ほどで新道と合流

 

山田神社は頼朝の側近、鎌田正清の城跡

 

 高台で見通しがいいので、立地としては抜群と言える。鳥居の脇、街道沿いに六地蔵や供養塔がずらりと並んでいる。文化年間の日付が書かれているものがいくつかある。十九世紀初頭、化政文化の頃だから、いわゆる町人文化の時代のものだ。

 そこから少し歩くと右側に中川中学校があり、その下あたりに馬頭観世音菩薩の石碑がある。寄進は下大棚村の名主たちだろうか。街道沿いの馬頭観音は、いつも往時の旅の困難さを想像させてくれる。

 

中川中学下の馬頭観世音

 

 早渕川に架かる勝田橋の手前で、また右斜めに分かれる道がある。これもわずかながらの旧道だ。旧道側の橋が勝田橋で、新道側は新勝田橋である。こう新旧ふたつ橋が並んでいるのは珍しいのではないか。

 

勝田橋手前で旧道がはじまる

 

早渕川を渡る勝田橋、上流方面を見る

 

 この旧道をずっと進んでいくとY字路があり、右側が旧道。右手に最乗寺への道があり、その後は急坂となる。

 

右が旧道、左へ行くとすぐに新道につながる二股路

 

最乗寺入口

 

急坂の途中、左の白い建物あたりが勝田杉山神社

 

坂の上から振り返ると一気に登ったことがわかる、遠くに武蔵小杉のマンション群

 

 坂の中腹あたり、左に勝田杉山神社がある。道の勾配やうねり具合は、いかにも旧道である。登り切って後ろを振り返れば、武蔵小杉のタワーマンション群が一望できる。

 坂を登りきり、右は畑、左は雑木林。そのまま進むと右に寿福寺の参道があり、左には馬頭観音が佇んでいる。その観音様、大切にされているのはわかるのだが、実に何というか、居心地が悪いのである。

 

坂を登りきると平坦な道

 

右手に寿福寺

 

その前に馬頭観音

 

 雑木林側の道沿いには柵がずっと続いている。その柵がこの馬頭観音のところだけ凹型にくぼんでいて、そこにそれほど古くない文字だけの石が佇んでいるのだ。妥協の形のようで、何とも言えない。

 そしてほどなく、この道はなくなる。正面には集合住宅群。道はその前のT字路となって旧道は途絶える。残念なことだ。

 

旧道はここで無くなってしまう、正面は大きなマンション

 

 旧道を先ほどのY字路まで戻り、今度は左側の道を行く。すぐに現中原街道に合流する。この先からは緩やかな登り坂。

 

国指定重要文化財、関家住宅、後北条家に仕えた地侍の家と言われている

 

緩やかな登り坂がはじまる

 

上の写真の陸橋から来た道を望む、現在の中原街道

 

 茅ヶ崎中学校の交差点を過ぎると、右側には大きなマンションが並ぶ。旧道はこの敷地内を斜めに進んでいたのではないか、と考えられる。と言うのも、新道をまっすぐ行くと向原のT字路にぶつかり、ここを右折。500メートルほど歩くと今度は大塚原のT字路で左折となる。大きなクランク状のルートだ。このクランク、つまり迂回ルートの部分を、旧道はショートカットしていたと思われるのである。

 

向原・大塚原間は片道三車線の新横浜元石川線と共用

 

 先ほどの旧道が消えたT字路。そこで止まった道を地図上で伸ばしていくと、ほぼこの大塚原のT字路にぶつかる。つまり繋がるのである。

 中原街道は最短距離で江戸と平塚を結んだ道であるのだから、ここは曲がり角を作る必要はない。マンションや公園の敷地となったことで街道が消滅した、と考えられる。

 

大塚原の交差点、中原街道は左の細い道へ

 

東方原で新道と合流

 

 大塚原からは旧道となる。大きく下り、そしてまた登る。東方原でまた本道と合流。ここも大きく下り、大きく登る。

 この沿道には庚申塔や供養塔がかなり残っている。

 東方原から少し行って右側にある小祠には、もはや表情も凹凸もなくなりかけている野仏が収められている。かすかに多くの手が確認できるのと、足元に三猿らしき姿があることから、青面金剛と思われる。

 

右側の青面金剛

 

 その先少し行くと左側に馬頭観世音の石碑。かなり新しいもののようで、これも小祠の中に収められている。近くで見ると背後に何かある。覗き込む。新碑のうしろには旧碑が残されていた。ごくたまにこういう形のものを見かける。新しいものを設置したものの、古いものを取り除くのが忍びないということか。うしろの碑は暗くかなり朽ちかけていたので、何が書かれているかはわからなかった。

 

古い碑の前に新しい碑が重なっている馬頭観音

 

 開戸の交差点を過ぎ、緩やかに下る途中の右側には、トタン屋根の下に青面金剛。こちらは怖い表情をまだ十分に見て取れる。

 

表情がまだわかる青面金剛

 

伊勢社

 

 さらには小さな伊勢社。覆屋の中の小社はまだ真新しい木の色だ。

 その先には庚申塔などが四つ並んでいるのだが、その前にごみ収集用の緑の網カゴが置かれている。これは、ここしか集積場がないとしても、もうちょっと考えるべきなのではないか。

 

ごみ収集所の後ろの石像群、いろいろなことを考えさせられる

 

 また少し緩やかな登りになって、右側に短い階段があり、その先に小さな鳥居が見える。その奥には斜めに間口を開けた小祠がふたつ。そのうちのひとつが第六天社だ。

 

第六天社ほかふたつの小祠がひっそりと

 

 その先に山王前の三叉路がある。今は左側の道が主道となっており車の往来は多いが、中原街道はここを右。そしてほどなく佐江戸の交差点に出る。

 

山王前手前の下り坂、中原街道はまもなく右へ折れる

 

 

 

往時の継立場は小さな交差点なのだが

 

 佐江戸というのは、今でも道路の青い距離標識などに現れる地名だ。この距離表示板、大概は主要な町や都市までの距離を案内しているが、なぜかこの佐江戸の名前をよく見る。昔から不思議に思っていた。私が幼かった頃も今も、道幅は狭くとくに何があるという場所ではないからだ。

「昔は重要な土地だったのかな」

 くらいな想像はしていたが、それがどの程度のものだったのかは知る由もなかった。

 だが中原街道踏を旅する以上は、きちんと知っておかなければならないなと思い、調べてみた。

 

 

 戦国時代には小机城の支城である佐江戸城があり、北条氏の領土だった。江戸時代になり、ここに継立場ができる。これに関しては、隣りの中山村といわば誘致争いをした結果、幕府は佐江戸に継立場を置くことに決する。

 継立場とは、街道の宿場間の休憩施設のようなもので、茶店や売店、あるいは馬や駕籠の乗り換え場などが設けられた場所である。

 だが一方で、中原街道の宿場として小杉、佐江戸、瀬谷、用田と記されているものもある。継立場からはじまり、徐々に賑わっていって宿場並、となったと解釈していいのだろうか。

 そのようなことから、佐江戸は小城下町として、また中原街道の継立場・宿場として人が集まり、発展した場所だったのである。その名残としてその名が交通関係の上では今でも使用されているのだ。

 ではなぜ幕府は佐江戸を継立場としたのか。それはこの近くに鶴見川と恩田川の合流点があったことが大きな理由だったらしい。舟運にも利便性の高い地域だったということだ。

 佐江戸の名前は、江戸よりも古いと言われており、江戸がらみで命名されたといういくつかの説は、あとになっての巷説だと思われる。

「江」が川を言い、「戸」が出入り口を言うことから、やはり先の舟運がらみの命名である線が強いような気もする。

 もうひとつ、このあたりは庚申塔や道祖神が多い。これらを「塞の神」とも呼び、塞の土地、さえど、となったと言う説もある。

 

佐江戸交差点近くのお地蔵様

 

 今ではコンビニ程度しかない小さな交差点。だが、交通量はこの狭い道にしては過剰と言えるほど多い。この交通量こそが、往時を偲ばせる唯一のものなのか。

 このあたりはほとんど歩道もなく、歩くには全然優しくない細道が続く。小学校に通う子どもたちの姿も見られ、「気をつけて歩きなさいよ」といつもヒヤヒヤしながら見送っている。

 

細い道を注意しながら歩いて、地蔵尊前のT字路に到着

 

 私も前後を気にしつつ歩いていく。佐江戸から1kmほどで地蔵尊前のT字路。ここで右折。この道は東側からここまでは県道140号、通称緑産業道路である。ここからは県道45号、中原街道だ。合流した細い道のほうの名前になるのだ。これが歴史というもの。

 トラックをはじめとする車の量は多い。だが歩道は広く、あまり面白くない道だが気持ちは楽になる。

 

鶴見川を渡る、奥に見えるのは恩田川との合流点

 

 ほどなく鶴見川を渡る落合橋。そこから左に緩やかにカーブしつつ登り坂。それが終わればゆるい下り坂。JR横浜線の線路の上を道は通り、宮の下の交差点に到着。ここがJR横浜線、横浜市営地下鉄グリーンラインの中山駅に一番近い場所なので、本日はここまで、短いが。午後1時15分。8.4km。

 今回は近所のルート、散歩がてらあらためて旧道を辿った。次回はまた旅気分で新鮮に歩きたい。

 

宮ノ下交差点で本日は終了

 

環八を越えると旧道が復活して多摩川へ

 

 洗足池から中原街道はまた緩やかな登りとなる。右側に庚申塔を見つける。かなりごっつい石の角柱で、背後に説明板がある。簡単にまとめる。

 建立したのは品川の御忌講、文化十一年(1814)のこと。御忌講とは法然上人の忌日に浄土宗の信仰者が集う講。角柱型の庚申供養塔は江戸後期の特色という。

 

 

 元々は延宝六年(1678)に建てられたものの再建と背面の銘文からわかる。また、右には浄真寺への道標となっている。浄真寺は九品仏。つまりここが中原街道から浄真寺への分岐点だったのだ。往時の人の行き来が目に見えるようで、こういう説明は実に有意義だ。

 登り切るとまた緩やかに下っていき、石川台の信号、その近くに小さな川が流れている。これは呑川。ここに「清流の復活」という説明版がある。東京都環境局自然環境部によるものだ。かいつまんでみる。

 呑川は世田谷区新町を源として大森で東京湾に注ぐ。灌漑や舟運に利用されていたが、都市化とともにその需要が減り、水質も悪化した。そこで平成七年(1995)に清流復活事業を始めた。水は現在、新宿区上落合にある落合水再生センターから送水管を通ってここに流れてくる。

 

呑川、もはや水路と化している

 

 潤沢に費用があるのならこの事業も意義があるとは思うが……。都民が憩う場所の樹を切るよりはいいとは思うが。どうなんだろう。

 その呑川、コンクリートで固められて、人々が立ち止まって喜ぶような川にはなっていないみたいだが、汚くはない。あくまでも治水なのだろう。安全は相当に確保されているとは思うが、これに清流という印象は持てない。

 まあ、それを言っても仕方ない。

 それよりももうひとつ、ここには石橋供養塔があり、きっちり説明してくれている。

 

石橋供養塔、誰にも気付かれずに

 

 安永三年に石橋の安泰を願って建てられた供養塔で、石橋供養塔は民間信仰供養塔と兼ねたものが多いのだが、これは純粋に交通安全を祈ったもので、珍しいという。今では供養塔になんと書かれているか判然としないが、「南無妙法蓮華経」と刻まれているという。このあたりは日蓮宗の寺が多いらしい。それも洗足池や池上本門寺の圏内だからだろう。

 何より、江戸時代すでにこの中原街道に石橋が架けられていたという事実に驚く。木の橋ではないのだ。往来が多い街道で、水害も多かった、ということから望まれた橋だったのだろうか。

 石川台という地名も、この石橋がある川というところから来たものなのだろうか、とちょっと調べてみるが、そういうことは見つからない。『新編武蔵風土記稿』にはこの川に触れる記述があり、呑川を当地の人は石川と呼んでいた、とある。だから何故石川と呼んでいたかが知りたいのだが、それはわからなかった。でも石橋があったことによる可能性は高い。

 余計なことも含めて、いろいろと考えてしまった。余人は通り過ぎていくだけだろうが。

 

二日目のルート概念図

 

 ここからまた緩やかに登っていき、ほどなく左側に池上線の雪が谷大塚駅が中原街道と接する。それと同時に、街道に車の列が並びはじめる、ことが多い。その先にあるのが環八の立体交差なのだ。西角には田園調布警察がある。

 

環八との立体交差

 

 環八下の横断歩道を渡ったら、中原街道のひとつ南側に細い道があり、これが旧中原街道。ここから多摩川にぶつかるまでは旧道が残っている。

 

環八立体交差からは旧道がしばらく続く

 

 わずかな傾斜の下りを数分歩くと、「さくら坂上」の交差点がある。この坂が例の「桜坂」である。信号を過ぎると道が三つに割れる。中央が形としては切り通しとなって下っており、両サイドの道は下らずに左右の住宅に沿っている。途中に両サイドを繋ぐように歩道橋があり、桜坂を見下ろせる。その名の通りに桜の木が繁り、日中でも仄暗い感じだ。

 

桜坂に架かる陸橋から下り方面を見る

 

 ここは桜坂通りと名付けられている。坂はそれほど長いものではない。下りきったところに東光院という寺があり、手水鉢の背後にあるステンドグラスが異様ながらも美しい。その横の水路は六郷用水の名残として整備され、遊歩道も設置されている。

 

東光院の手水背面のステンドグラス、火の鳥だ

 

 そこからすぐに東急多摩川線沼部駅横の踏切を渡る。このあたりの道は狭く、そのくせトラックなどが走っている。しかしすぐに多摩川の土手に出る。

 

沼部駅横の踏切を渡る

 

 このあたりに当時は丸子の渡しがあったようである。もちろん現在はない。上流方向に丸子橋がある。全長約400メートル、現在の橋は二代目で2000年に片側2車線の橋として完成した。そう、昔は1車線だった。

 

丸子橋、東京と神奈川の県境

 

丸子の渡しがこのあたりにあった、今は目の前にタワー・マンション群

 

 丸子橋まで来た。ここを渡れば神奈川県。このあたりまでは時折歩いてくるので、我がテリトリーに帰ってきた感が強い。

 

 

ほぼ昔の街道が残るが、狭くて歩きづらい

 

 丸子橋を渡るとすぐにY字路。左が綱島街道、右が中原街道。綱島街道のほうが交通量も多く、本線扱いだ。Y字路手前の青い道路標示には、中原街道側に「✖︎ 大型」とはっきり書かれている。それだけ厳しい道なのだ?

 

 

 右の中原街道を進む。ここから県道45号、寒川まで続く。しばらくはまっすぐな道で、歩道もあり、普通の都市近郊の町という印象。だが、この通り沿いには実に多くの街道案内や説明板が設置されている。ここは川崎市中原区。中原街道が通っていたから中原区と名付けられただけあって、この街道に対するエネルギーをひしひしと感じる。歩いている身としては、何やら楽しくなってくる。

 まずは「川崎歴史ガイド 中原街道」の表示。かなりくたびれており、そこそこ昔から設置されていると思われる。

 

 

 すぐに真新しい木標「中原街道」。設置は武蔵中原観光協会。武蔵中原に観光協会があったのか、というほうが驚きだ。

 

 

 次に現れるのが国登録有形文化財の「原家旧住宅表門(陣屋門)」と「原家旧住宅稲荷社」。明治後期の近代和風建築という。ここは現在「GATE SQUARE 小杉陣屋町」というマンションになっており、一階には歴史関連のギャラリーなっている。上記の文化財をそのままにデザインされた集合住宅という、なかなか斬新な試みなのである。

 

原家旧住宅表門(陣屋門)

 

 原家というのはこのあたりの豪農で、氾濫する多摩川の水害を守るために石橋をかけるなど尽力していたため、屋号は石橋だった。江戸末期から商売をはじめ、肥料から材木、醤油、味噌などを扱い、明治期には銀行を創業する。東横線開業時にはその用地を提供するなど、開通の一翼を担った。神奈川県議も複数出しており、土地の名士なのだ。今は上記マンションなどを扱う不動産業を営んでいる。なるほど、ルーツの土地を守るためにデザインされたマンションだったのだ。

 

洒落た灯にも遊び心が

 

 その近くには「中原街道」の石標がある。「右 江戸 十粁」、「左 平塚 五十粁」とあり、なかなか味があるがそれほど古いものではなさそうである。

 

 

 間髪入れずに「旧名主家と長屋門」の案内板。このあたりの名主の代表であった安藤家の長屋門や高札などが残っている。

 まっすぐな道を行き着くと、中原街道と言えばここ、というほど良くも悪くも名物のカギ道だ。いわゆるクランク。しかも細くて歩道もなくて、歩くにも車を運転するにも厄介な場所なのだ。

 カギ道は城下町でよく見られるが、ここにあるのは何故なのか。それはここに徳川家の小杉御殿があったから。

 

 

 中原街道を下るにあたり、いくつかの御殿があるのだが、そのひとつ。休憩したりときには宿泊した御殿である。不意の襲撃などに備えたカギ道なのである。

 それが未だにそのまま残っていて、中原街道として現役、車の通行量も非常に多いのだ。

 

 

 これを解消するために随分前からショートカット、ストレートに結ぶ道を作っている。2025年開通予定とも言われているが、工事が捗っているようには見えない。土地の確保もできているのだろうか。

 このバイパスが完成し、しかしカギ道はそのまま残して車の危険がなくなった状態で歩けるようになればいい。

 ちなみにこのあたりの住所は小杉御殿町、小杉陣屋町である。

 

右へ曲がるのが中原街道、歩くにはなかなか用心がいる

 

 さて、前後に首を振りつつこのカギ道を歩く。横を走る車とは腕が当たりそうである。カギ道を無事に過ぎるが、しばらくはまだ道は狭く危ない。途中にある庚申塔は道標も兼ねており、「東江戸道」、「西大山道」、「南大師道」と掘られていることから、当時は追分だったと思われる。

 

かなり立派な庚申塔

 

 そのすぐ先に小杉十字路。中原街道と府中街道が交差する場所だ。だから東横線武蔵小杉駅が開業するまでは、こちらがこのあたりで一番賑やかな町だった。今では想像もつかないが、旅館や料理屋、劇場が立ち並んでいたということだ。

 

 

川崎市から横浜市へ、このあたりは勝手知ったる

 

 小杉十字路を越えると幾分道が広くなり、歩道も整備されているので緊張が解ける。すぐに二ヶ領用水の橋を渡る。

 

二ヶ領用水

 

 二ヶ領用水は川崎市の西から東をほぼ網羅していると言っていいほどの長い用水路で、江戸初期には完成している。多摩川から水を引き、先ほど通ってきた六郷用水を手掛けた用水奉行・小泉次大夫によって開削された。稲毛領と川崎領に跨ることから二ヶ領用水と呼ばれ、先の六郷用水と合わせて四ヶ領用水とも、また治太夫堀とも呼ばれた。

 

JR南武線武蔵中原駅手前

 

 ほぼまっすぐな道を数百メートル行くとJR南武線の武蔵中原駅の高架が見える。これを潜り少し行くと右に大戸神社。室町末期創建で、当初は戸隠明神と呼ばれていた。

 

大戸神社

 

 このあたりもずっとまっすぐ。マンションや店舗がまだらに並んでいる。下新城の交差点を過ぎ、千年の交差点まで似たような街並みの中を歩く。

 千年の交差点に斜め右に細い坂道がある。こちらが旧中原街道。だが300メートルほどでまた現中原街道に合流する。

 

千年交差点の先、右に短い旧道が残る

 

 合流地点の右の高台の上に、橘樹官衙遺跡群がある。10年ほど前に国の史跡に指定され、2024年5月には飛鳥時代の倉庫を復元した「橘樹歴史公園」がオープンした。ここは七世紀以降、武蔵国橘樹郡の郡役所が置かれた場所で、いわば地方行政機関の跡だ。飛鳥時代の倉庫が再現されるのは全国初という。

 

橘樹歴史公園、飛鳥時代の復元倉庫(2024年5月21日撮影)

 

 そこからはなだらかな下り坂。だが車の通行量は多い。つい近年、ここもようやく歩道ができたのだが、それ以前は車を気にしながら歩かなければならないエリアだった。

 野川の交差点を過ぎると、また道は細くなる。一応歩道はあり、ガードレールも備えられているが、相当に狭い。人が行き違うのがやっとで、自転車など来ると双方余程身を縮めなければならない。

 

野川交差点からは歩道はあってないようなもの

 

 そのガードレールも途中からなくなり、路面から少し嵩を上げた細い歩道となる。しかも途中にバス停があり、大概結構人が並んでいて、そうなると歩く余地などなし。車を気にして車道に降りざるを得ないということがよくある。これは何とかしてほしいものだ。

 総じて、中原街道の川崎市部分は歩くには適さないかな、という印象になってしまう。残念なことだ。少しずつ改善はされているとは言え。

 久末のT字路を越えると、横浜市都筑区に入る。すると、言いたくないのだが、歩道が広くなるのである。

 

川崎市から横浜市へ

 

 ほどなく第三京浜の下を潜り、左側に鎌田堂。これまで二度も紹介している小さなお堂。頼朝の父、源義朝の郎党であった鎌田正清の屋敷がこのあたりにあり、そこに建てられたお堂である。一礼。

 

第三京浜の下をくぐる

 

鎌田正清の屋敷跡に建てられたという鎌田堂

 

 そのすぐ先に道中坂下の信号があり、ここを斜め右に小道が分かれる。これもわずか100メートル余りの旧道。

 

右の細い道が旧道、ほんのわずかな距離

 

 本道に合流し、そしてまた右斜めに小道。これは次に本道に合流するまで1km弱くらいはある。この間の今の中原街道は私が若い頃にはなく、この旧道だけだったことを覚えている。ここは相当に細い道なのだが、車はほぼ本道を行くので、車通りは少ない。とは言え、気は抜けぬ。

 

上と似たような分岐、土地に詳しくなければわかりづらい

 

 少し行くと右に旧な階段があり、その上にのちめ不動。のちめの名はかなり古い記録にも書かれているので、中原街道の名の知られた土地だったのだろう。

 

 

 そこを過ぎると「のちめ不動前」の交差点。我が家に一番近い、わかりやすい地点として、この日はここを終着地とした。午後3時40分。歩行距離は19.82km。

 

のちめ不動の交差点で2日目を終える

 

 横浜市営地下鉄ブルーライン、センター北駅とセンター南駅を繋ぐ高架沿いの道を「みなきたウォーク」という。その間に流れるのが早渕川。両駅からほぼ同じくらいの距離。その右岸、道沿いにある堰の元不動尊。別名・子育地蔵。地下鉄の高架(不思議な言い方だが事実)と早渕川が交わるところ。

 

 

 大理石様の由緒書きによれば、昔は「堰のお地蔵さん」と呼ばれていたという。早渕川から取水する堰が近くにあったためにそう呼ばれていた。おそらく少し上流の左岸にある水神様のあたりの大棚堰のことであろう。

 毎月二十四日は地蔵縁日で、花や果物を供えて祀られた。また七五三やお宮参りの際にも家族で参詣された地蔵様だった。高さは2.07メートルで、享保八年(1723)の銘がある。路傍のお地蔵様としては大きなものだ。その表情は大陸的でもある。300年ほど前の仏様とは思えないほど、造形がよく維持されていると感じる。

 

 

 地蔵様に向かって右側にある庚申塔は、まだ細部が十分に確認できる。上に日月、宝具を持つ手が六本、踏まれる邪鬼、三猿。青面金剛の表情も怒れる様子がまだわかる。この庚申塔は元々、近くの正覚寺の裏にあったもので、寛政十二年庚申歳と刻まれている。

 

 

 今風に生まれ変わったニュータウンの一隅に、綺麗に建て替えられた社に納まっている地蔵様から考えることは多い。200年以上もこの土地を見てきており、今尚土地の人は地蔵様のお手入れを怠らない。新しい住民のほとんどの人は地蔵様を顧みることはないのだが。

[横浜市都筑区茅ヶ崎中央56]

 

 横浜市営地下鉄ブルーラインセンター南駅を西に出て、区役所通りに当たったらこれを右折、北へ。5分余り行くと早渕川にかかる境田橋、この手前を左折。ほどなく左の民家の前に小さな祠が樹々に囲まれている。これが社宮司社。

 周囲は垣のように低木に囲まれ、うしろに一本まん丸に葉を茂らせた高い樹があり、大いに個性的でアクセントになっている。その下に小さな祠。

 

 

 社宮司社と書いて、何と読むか。調べてみると社宮司でシャクジと読むケースが多いようだ。ザッと見た感じでは、関東と東海に分布している。

 この社宮司社には、一枚紙に楷書で書かれた説明書きが貼ってある。「咳の神 社宮司社」とある。

 

 

「俗称『おしゃもじさま』である。風・喘息・百日咳などで咳に悩む人が、この社に上げてあるおしゃもじを持って帰り、喉を撫でると効き目があるといわれる。快癒すると今度は二本にしてお礼する。」

 なるほど、咳の神である。咳ひとつに効験あらたかな神様。抽象的な幸福ではなく、咳の苦しみから救ってくれる神様なのだ。さらに続く。

「この神は、社宮司、社宮神、遮愚璽、杓子、舎句子、石護神、赤口神などと色々に書かれている神である。社宮司は音が杓子と似ているので『しゃもじ』に転じたので、このような様々な字で表現されているものであろう。」

 音から漢名がつけられたというのだから、原点はやはり「おしゃもじさま」なのだろう。何故しゃもじが咳に効くのか、ということはわからないまま。そして最後に。

「社宮司社は武蔵国を東限とし尾張・伊勢・飛騨の各国を西限とする地域に分布し、武蔵・相模の両国には四十社に近い数が見られた。御社宮司の祭は諏訪大社の重要な行事とされていることから知られるように、信濃国の諏訪大社の信仰圏内にこの神が分布している。」

 簡潔にして理解しやすい説明文に、またひとつ知識を得た。

 しゃもじが咳を封する、と考えてもいいのかもしれない。

 

 

 小祠に詣で、中を覗かせていただくと、大小のしゃもじがいくつか収められていた。残念ながら今はそれを自由に取り出すことはできないようだが、咳の症状を治めたいという人がここに詣でるという「神頼み」は続いていくといいと思う。

[横浜市都筑区茅ヶ崎中央60]

 

 JR南武線武蔵小杉駅西口を出て、南武線沿いの道を西へ。中原区役所を過ぎ、国道409号を越えると、二ヶ領用水を渡る。すぐに左折して用水沿いの小道を少し行くと曹洞宗・大乗院がある。

 寺を山門側から見ると、背後には小杉のタワーマンションが林立する。

 本堂の両脇には大樹が繁り、堂の全景を一望できるポジションはない。これはこれで絵になる。

 

 

『新編武蔵風土記稿』に記述がある。それによれば、開山は盧州呑匡で寛永二十年(1643)に寂している。開基は「松平土佐守の女、泡影院観窓幻夢大姉なり」とある。そして、「故ありて此一寺を建立せり」と。この「故ありて」が気になり、また開基の「泡影院観窓幻夢大姉」という名も怪奇小説っぽくて、気になった。だが結局、調べてみても何も出てこなかった。

 また、「本尊聖観音長一尺一寸の坐像なり。恵心僧都の作なりといひ伝ふ」とも。

 本寺は二ヶ領用水が渋川と川崎堀に分岐している場所にあり、両方の水の流れが寺を挟むような形になっている。ちょっとした堀の感じもする。上記の開山年にはすでに二ヶ領用水は開削されていたはずなので、この水路を利用して寺が置かれたと言えそうだ。

 

二ヶ領用水が分かれている場所、水門がある

 

 開基が松平土佐守の女で、小杉御殿も遠くないこと、堀のような用水に囲まれていること。これらを考えると、どんな「故」をもって建立された寺なのか、興味は尽きないだが。

[川崎市中原区今井南町2-1]

 

 東急東横線元住吉駅を東に出て、綱島街道を南へ。すぐに木月四丁目の交差点、これを左折。数分歩き、新幹線の高架を越えたらその右側に石神宮がある。

 小さな祠で、庚申塔のような感じなのだが、立派な鳥居があり、「石神宮」と記された石標も立っている。由来書きもきちんとある。

 道が斜めに交差するトライアングル・スペースに鎮座する石神宮には溶岩状の岩塊や蘇鉄が植えられてりしてかなり賑やかだが、雑然ともしている。

 

 

 平成六年(1994)に石神宮奉賛会が設置した由来書きを読んでみる。

「古来、各村々には神様を祀って、厄病が入らないよう、また村内の安泰を祈るため道祖神を祀り、石神宮もその一柱であります。(中略)石神宮は嘉永年間に建てられて三百余年を経て昔を偲ぶ町内唯一の史跡、文化財であります。(後略)」

 

 

 御祭神は石凝姥神(イシコリドメノミコト)。神話では天照大神の岩戸隠れの際に八咫鏡(ヤタノカガミ)を作った神として登場する。八咫鏡は三種の神器のひとつ。また、天孫降臨の際に瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に随伴した五神のうちの一柱でもある。

 由来書きの中に「嘉永年間に建てられて三百余年」とあるが、嘉永だと幕末で百七十年ほど前になる。三百年となると「寛永年間」ではないかと考えられるが、どうだろう。細かいことで恐縮だが。

 本殿と思われる小社のうしろに「年代不明 石神宮の遺石」という立派な石碑があり、その前にその石と思われる石が備えられている。いつのものなのかわからない、というのも甚だ曖昧で何とも言いようがない。小さな説明板があり、「境内改修工事に際し、地下より年代不詳のの古石が発掘され、これを奥殿に奉安したものなり」とある。これほど大切に扱われているのだから、これはこれでありがたくも感じる。

 

 

 溶岩の石の塊のようなのが手水になっている。龍の口から水が出るタイプなのだが、その水は石の中央あたりにあるボタンを押すと出てくる。こういうのは初めて見たかも知れない。

 

 

 ちなみにこの石神宮の横には二ヶ領用水(渋川)が流れている。この流れに沿っていっても元住吉駅に出られる。

 

 

[川崎市中原区木月4-48]

 

 

 

中原口から平塚橋までの旧道がいい

 

 2023年10月26日、午前11時15分、五反田駅を降り立つ。虎ノ門から中原街道を歩きはじめたのは3日前。間髪を入れずに第2日目の街道歩きを決行。大山道が全然終わらないので反面教師、こちらは短期間で踏破したいと考えた。

 

 

 国道1号線のひとつ東側の道を行く。すぐに大崎橋を渡る。江戸時代、このあたりの地名は大崎で、五反田は字名だった。

 

大崎橋

大崎橋から東急池上線の高架を見上げる、下を流れるのは目黒川

 

 大崎広小路で山手通りを越え、すぐに国道1号線と合流する。ここが中原口。鋭角のX様に交わった交差点、左が国道1号線で、右が中原街道。ここは車でもよく通った。

 

 

 中原口を過ぎるとすぐに首都高速の高架がある。高架下の横断歩道を渡ったらすぐに右へ。そしてひとつ目を左へ曲がる。これが旧中原街道。現在の中原街道の一本北側の道で、細い裏道だ。ここから平塚橋までの1km弱、旧道そのままの道筋が残っている。

 

ここから旧中原街道

 

 はじめは緩めの上り坂が少し。ここは一方通行になっている。商店もちらほらあるが、小さなマンションや住居が並んでいる。その途中に赤い帽子と前垂れをかけた大きめの地蔵様が一体。横に個人贈の由来書きがある。

「このお地蔵さまは享保十二年(1727)に建てられた『子別れ地蔵』と呼ばれる地蔵菩薩です。ここはかつて桐ヶ谷の火葬場に続く道筋で、子に先立たれた親が其の亡骸を見返った場所であったと云われております」

 

子別れ地蔵

 

 今でも桐ヶ谷に斎場はある。私も叔父の葬儀をそこで行った。およそ300年前のお地蔵さまが、道以外はすべて変わったこの場所に今も大切にされていることに、考えさせられるものも多い。

 道は平坦になり、また少し行くと左側に4体の仏様が静かに佇む。ここにある説明板は品川区教育委員会設置のものだ。それによれば「品川区指定有形民俗文化財」で、「旧中原街道供養塔群(一)」とある。(一)というのであれば、まだあるのだ。この道は供養塔もそのまま数多く残されているということだ。

 ここにある一番大きな地蔵菩薩は総高1.9メートルで江戸中期のものと思われる、とある。その右の地蔵菩薩は延享三年(1746)で念仏供養のためのもの。

 

左が「一番大きな地蔵菩薩」

 

 左奥は馬頭観音で元文元年(1736)造立、馬持講があったことがわかる。その前は聖観音、貞享年間(1684~87)に建てられた。

 

奥が馬頭観音


 この道には端々に「旧中原街道」の表示がある。電柱の住所表示にもきちんと「旧」の字が付いている。こういうところに、グッとくるのだ。

 

 

 この旧道は、微妙にまっすぐではない。少し行くとほんのわずかな角度で右に行き、また少し行くとちょっとだけ左に折れる。折れるというほどのものでもない。最後はゆるいS字状カーブ。これは何を意図しているのだろう。たまたまそうなっただけなのか。ちょっと調べてみるも、何も出てこない。

 

微妙なカーブは町が再開発されていない証拠か

 

 S字状カーブがはじまろうというあたり、左側に「戸越地蔵尊」がある。建物に併設された形で、屋根や提灯、屋根を貫くイチョウの大木と、異様な佇まいがどうしたって目を引く。

 

戸越地蔵尊

 

 ここには「旧中原街道供養塔群(二)」の説明板がある。ここには供養塔が六基残っており、それぞれ寛文六年(1666)、延宝元年(1673)、宝暦四年(1754)の庚申塔、髭題目が刻まれた寛文二年(1662)の墓碑、それに年代不明の子育て地蔵と供養塔。ちょっとした博物館の一角のようで、ただの供養塔群とは思えない手厚さだ。こちらもワクワクしてくる。

 

二つの石碑の下の三つの何かは、三猿なのだろう、上の仏様は風化してしまったか

 

 この先のS字状カーブを抜けると、平塚橋の交差点前で現在の中原街道と合流する。そのあたりにスタイリッシュな説明標示がある。「旧中原街道」がほぼその道筋を残している区間、約950メートルと書かれている。品川区の旧跡に対する「やる気」をここにも感じられる。

 

新旧合流点

 

洒落た街道説明標

 

 またこの合流地点の右側は、武蔵小山駅から続く長いアーケード商店街パルムのおしまいの地点でもある。東京一長い、800メートルあるという。ここもじっくりと巡ってみたいものである。だが、本日は街道を辿る。

 

武蔵小山のアーケード街「パルム」、キャラクターもいる、名はパル

 

 

 

洗足池では勝海舟と源氏が足止め

 

 平塚橋からしばらく現・中原街道を進む。中原街道は平日でも休日でも日中は車の通行量が多く、なるべくなら走りたくない道という印象。だが夜は意外とスムーズに進むことが多かったというこの50年ほどの記憶。まあ、よく利用した道なのだ。

 あまり面白くない街中の道をただ歩く。だいたい1キロ余りくらい行くと、右側に昭和大病院のビルが見えてきて、旗の台だ。この病院のあたりで街道は右にカーブしているのだが、旧道はその外側に沿って少し残っている。ほんの数分の距離だが。旗の台の信号部分でまた現・街道に合流。南へ進めば旗の台駅。

 

左の道が旧中原街道

 

 ここから少し登りになるのだが、歩道に「さいかち(皀莢)坂」という表示があった。坂というのは、名前が付いているものが多い。坂マニアも多い。

 

 

 さいかち坂のダラダラを登っていき、平坦になってほどなく、環七との交差点、南千束の立体交差。ここを渡ると道はまたゆっくりと下って行き、その底部分にあるのが洗足池だ。池の目の前には東急池上線の洗足池駅がある。

 

環七との立体交差、南千束

 

 駅からすぐ近く、池のほとりに妙福寺がある。もちろん日蓮宗で、何故もちろんかと言えば、「袈裟掛の松」があるから。日蓮がこの松に袈裟を掛けて手足を洗った、だから洗足池なのである。

 

妙福寺

 

袈裟懸の松

 

 この境内にある石仏のうち、馬頭観世音供養塔には東西南北方向それぞれに地名が書かれている。「北堀之内碑文谷道」、「東江戸中延」、「南池上大師道」、「西丸子稲毛」。池上大師は本門寺のことだ。ここ洗足池が交通の要衝であったことがわかる。

 

袈裟懸の松を描いた歌川広重「名所江戸百景」

 

 池の東側には「勝海舟記念館」がある。

 勝海舟と当地の縁は知る人ぞ知る、である。私も少し前までは知らなかった。

 勝といえば戊辰戦争時の江戸城無血開城、薩摩藩邸での西郷隆盛との会見は誰もが知るところ。なのだが、話し合いは数度に渡って行われており、新政府軍が本陣としていた池上本門寺もその会場のひとつとなった。勝は池上本門寺へ向かう途中に洗足池で休憩をした。そしてここの風景をいたく気に入った。

 怒涛の維新の季節が終わり明治二十四年(1891)、勝は「洗足軒」と名付けた別荘を当地に建てた。その8年後に亡くなった勝は、本人の意思によりこの別荘近くの墓地に葬られた。

 そんなことからここに「勝海舟記念館」が建てられたのである。令和元年(2019)のことである。建物は国の有形文化財である清明文庫を活用している。清明文庫は勝関連の図書の収集・閲覧を目的とした私設図書館のようなもので、講演なども行われたという。

 記念館はそれほど大きなものではないが、勝に関する資料や映像、CGなどの展示、放映など、勝ファンや幕末好きには刺さるものが多い。ゆっくりと回りたいものだ。

 

記念館内部は一部写真撮影可、勝海舟の胸像と対面す

 

 だが今回は中原街道の途上で立ち寄ったので、ひと巡りするのみ。

 この近くに勝夫妻の墓所があり、五輪塔が並んでいる。私も幕末関連の本や資料を読んだ時期もあり、また京都や長崎、萩などの幕末舞台になった土地を昔から旅するのが好きだったので、勝の墓所と言われれば何がしかの感慨が自ずと湧き上がってくる。深く合掌する。

 

右が勝海舟、左が妻の暮石

 

 さらにその側にある「西郷隆盛留魂詩碑」は、西郷の死を悼んだ勝が自費で建立した碑である。表には西郷が沖永良部島で読んだ漢詩が、裏には勝の漢詩が刻まれている。

 

西郷隆盛留魂詩碑

 

 もうこれだけでも十分にご満悦なのだが、ここからまた少し池畔を進むと、今度は八幡神社がある。その神社よりもまず目に入ってきたのが、大きな馬の像。名は「池月」。源頼朝の愛馬となった名馬。

 

名馬「池月」

 

 石橋山合戦に敗れた頼朝は安房に逃れ、再起して鎌倉へ向かう。その途次にここ千束池にに留まった。そこに野馬が走ってくる。郎党が馬を捕らえ、頼朝に献上する。逞しい馬体で、青毛白班が池に映る月のようだったので池月と名付けられた。これに陣は沸き返った。そのため、この千束八幡神社は「旗揚げ八幡」と呼ばれるようになる。

 寿永三年(1184)、木曽義仲を討つために源軍は京都・宇治川へ向かう。頼朝は梶原景季に磨墨(するすみ)、佐々木高綱に池月という、二頭の名馬を与えて先陣争いをさせた。勝ったのは高綱と池月。そこに至るまでの物語が『宇治川先陣物語』に詳しく描かれているのだが、長くなるのでここでは割愛。

 

歌川国芳「宇治川先陣」、中央が佐々木高綱と池月、右が梶原景季と磨墨、左の畠山重忠は馬を射られた大串重親を助けたために先陣争いから遅れた

 

 そんなこともあって池月は語り継がれるようになり、ここに像まで残されているのだ。ちなみに大井町線の北千束駅は、昔は池月駅だったという。

 それだけではない、承平五年(935)の平将門の乱のときに鎮守副将軍として乱鎮圧に向かった藤原忠方は、乱後ここに館を構えた。その館が池の上方にあったので、以降池上氏を名乗る。後代の当主が日蓮を招請したことで、袈裟懸の松の逸話が生まれる。

 さらに、八幡太郎・源義家が奥州征伐に向かうとき、いわゆる後三年の役の折に、この八幡宮で戦勝祈願の禊を行ったなどなど。垂涎の歴史秘話だらけなのである。

 

千束八幡神社

 

 またこの近くには洗足池弁財天もある。

 洗足池の周囲だけで一日遊べる。じっくりと歴史の時間と向き合える。豊かな時間ではないか。しかし今日はひと通り巡るのみ。それでもかなりの時間を池畔で過ごした。多くの歴史人と向き合ったことで、気持ちの高揚は尋常でなかった。ここに留まるべきか否か、とまで思わされるので、歩き旅する身にとっては乗り越えづらい大きな障害だ、皮肉にも。でも、楽しい気分にさせられるものが多いということでもある。今回は再び歩き出さねば。

 

 

 横浜市営地下鉄グリーンライン日吉本町駅を出で、東へ少し行き左折、すぐのY字路を右折、ひとつ目のT字路を左折して直進すると、駒林小学校に当たる。そこを学校の敷地に沿って左へ行き、3分ほどで右に天台宗・西量寺。

 十数段の階段を登ると本堂がある。本堂と住宅は棟続きとなっており、境内と呼べるほどのスペースもなく、一般住宅の庭程度の広さ。周囲も住宅地なので、この本堂の造りだけが異質な存在となって見える。

 

 

 創建年代は不詳だが、永享十二年(1440)と文明年間(1469-1486)の逆修碑があるという。応仁の乱前後の時期だ。

 逆修碑は、生前に死後の冥福を祈って供養を行うことをいう。

『新編武蔵風土記稿』にも少しだけ記載がある。

「前に石階十六級あり、本尊は千手観音の立像にて長一尺許、古碑四基あり(後略)」

 この古碑が逆修碑のことだろう。

 本堂の脇に小さな「水かけ観音」像がある。開眼が平成九年とあるので、まだ新しい観音様だ。

 

 

 私はここが学区の中学に通っていたので、この道は通学路ではないにしても、しばしば通っていたのだが、ここに寺があったという記憶がない。これだけ住宅地に馴染んでしまっていては、十代の若造には寺と認識できなかったのも、まあわからなくもない。

[横浜市港北区日吉本町6-16-31]

 

中原街道は平安の道でもあった

 

 坂を登りはじめる。何故聖坂、という疑問にすぐに答えてくれるように道の端に棒標が立っている。

「ひじりざか 古代中世の通行路で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所もあったためという。竹芝の坂と呼んだとする説もある」

 このしばらく行ったところに高野山別院がある。そのための命名かと思ってしまうが、高野山別院は江戸初期に当地に勧請されている。棒標には古代中世とあるから、それ以前から高野山とこのあたりは何かしらの縁があって、聖坂と名付けられたのだろう。

 緩くもなく、きつくもなくといった傾斜の坂を登っていく。途中右側に小さな社、亀塚神社がある。そこそこ登っていく。この高低差を考えると、まずこのあたりも海と陸の際(きわ)だったのだろうという感じだ。

 

亀塚神社

 

 東京、江戸はほんの何百年前まではかなり複雑に海が入り込んだ場所だった。今平地であるところのほとんどは埋め立てて土地にしており、東京の魅力的な坂の数々は武蔵野台地の端っこ、海に落ちていく、あるいは谷に落ち込む場所だったわけだ。

 聖坂をほぼ登り切ったあたり、左側に児童公園があり、亀塚公園とある。ここも亀塚だ。ここにかなり大きな「公園付近沿革案内」の説明板がある。それによれば。

「この公園付近は江戸時代、上野沼田藩土岐家の下屋敷で、明治維新後は皇族・華頂宮邸となった」

「ここは三田台から高輪、八ツ山に及ぶ一連の丘陵地の東端」

 そしてその後にさらに続けて。

「平安時代、菅原孝標の女が著した『更級日記』に紹介された竹芝皇女の物語の遺跡といわれ、亀塚の伝説が残されている。塚は古墳とみられるが、人口の築山であることのほか、その証拠は得られていない」

 

公園内のこんもりと盛り上がった築山

 

 この案内が設置されたあと、さらに発掘調査が行われたらしく、その結果、この築山は古墳ではないことが判明したという。『更級日記』に記載されている竹芝皇女の話は、衛士との恋愛話である。そのこと自体は珍しい話ではないが、ここで「おっ」と思ったのは、菅原孝標と女(むすめ)が東国から京へ戻るときにこの道を通っていたという点だ。

 ときは寛仁四年(1020)というから平安の半ば頃。まだおそらく東海道は整備されていない。この道が中原街道と呼ばれるよりも随分前から、この道は東西を結ぶ主要官道だったということである。「家康の鷹狩りの道」であるとともに、平安貴族さえも往来した道だったのだ。感慨が深まる。

 

『石山寺縁起絵巻』に描かれた菅原孝標の女、右上の馬上、緑の衣に笠を被った人がそれらしい

 

 亀塚公園の逆側、街道の右側には十数の寺が今でも密集する寺町だ。その中に御田小学校がある。御田で「みた」。つまり三田は元々御田だった。やはり平安時代のこと、このあたりには禁中に年貢を奉っていたためと考えられている。まだ江戸とも呼ばれていない時代だ。寺町の中を下っていく坂は「幽霊坂」。ちなみに東京には幽霊坂が10以上もあるという。

 そしてすぐに伊皿子の交差点。伊皿子はここだったのか、と。名前は知っていたが、場所は朧げだった。江戸開府前後に日本に来た明人が当地で帰化し、当時の外国人の呼称であった「エビス」に「伊皿子」を当てたことからこの名となった。

 ちなみにこの交差点を右へ折れると魚藍坂である。

 

 

「件」は一見の価値あり、そして五反田へ

 

 住宅街のような、まばらな商店街のような細い道が続く。すると左に東海大の高輪キャンパス。その下は赤穂浪士の泉岳寺がある。

 そのすぐ先、左側に奇妙な石像がある。これが実にいい。

 

 

 阿吽の狛犬のように向かい合っているが、明らかに人面なのである。ちょっとオリエンタルな雰囲気を漂わしている表情に、体がこれは何だ、と考えていてようやく「もしや」の思いが。足のたたみ方などを見ると牛のようなのである。足先は蹄だろう。するとそう、人頭牛体の異な生き物、いや妖獣、「件(くだん)」なのではないだろうか。ここに件がいるとは。相当にテンションが上がった。

 件は江戸時代から語り継がれている妖獣。生まれるとすぐに作物の豊凶や天災などの予言をして、すぐに死んでしまう。そんな伝説が各地にあるのだ。南方熊楠や水木しげるなども注目した、不可思議な存在であり、言い伝えなのだ。件はばらせば「人」と「牛」。

 これに出会えただけでも今日一日の意義がある、というくらいに満たされた気持ちになったが、街道はまだはじまったばかりだ。

 左右の件の間を抜けると、承教寺がある。広く大きな屋根に、宝珠が輝く美しい本堂だ。ここには江戸中期の絵師で、英派の始祖である英一蝶の墓がある。

 何よりここ承教寺と言えば、二本榎である。

 江戸の頃、寺の境内に日本の大きな榎の樹があり、旅人にとってはとても良い目印となっていた。いつしかそれが二本榎という地名になり、樹が朽ちたあとも地名は残った。第二次大戦後にここの地名は高輪に変わってしまったが、二本榎の名を忘れないために、再び二本の榎が植樹され、今でも当地の象徴としての役割を果たしている。

 

 

 次の交差点が高輪警察署前。その先左に高野山東京別院がある。境内は広く、本堂は奈良の大寺を彷彿させるほどの迫力で迫る。

 参道には「四国八十八箇所お砂踏み」と書かれた小さな仏像が八十八並んでいる。それぞれ四国の八十八ヶ所の本尊で、巡拝に行けない人がここで八十八箇所詣でをするのだ。また、仏足石や三鈷のモニュメントなどもあり、小休止がてら境内を巡るのもいい。

 

高野山東京別院本堂

 

 ここから少し進むと左側にグランドプリンスホテル新高輪があるのだが、中原街道はこのあたり、不分明なのである。右へ折れるとすぐに国道1号線にぶつかるので、ここはそちらを辿るほうがよさそうである。

 

グランドプリンスホテル新高輪前の信号

 

 広い国道はゆっくりと下っていく、これが相生坂。そしてほどなく五反田駅に到着する。五反田は江戸の検地帳によれば、その名の通り五反(約1,500坪)の田があったことから付いた字名という説がある。確かに目黒川が削っただろう谷間地で、昔はもっと平坦な部分は少なかったと思われる。

 

五反田駅

 

 午後3時30分、本日はここまで。歩行距離は、9.75km。仕事を終えたあとのスタートとしてはまずまずの距離。

 思っていた以上に収穫の多い道行きであった。

 

 

端から端まで踏破したい、はじまりは突然来た

 

 2023年10月23日、快晴の秋の朝、仕事で虎ノ門にやってきた。何年振りであろうか。地下鉄の駅を登って出ると、虎ノ門ヒルズなどの高層ビルが乱立している。これが2023年の虎ノ門なのか、と溜息も出る。

 郷愁もあるがそればかりでもない。こうして街が変わっていくということを目の当たりにするのも、自分がそれだけ齢を重ねてきたからだ。そしてそれは確実に我が人生の終わりのほうが近くなっていることの証でもある。街や社会、人心の変化は、甘んじて受け入れなければならないのだろう。いや、受け入れなくてもいいが、否定もしない。我は我で、我の一生を全うすればいいだけのことだ。それぞれの時代に生きてきた人たちがみな、晩年は同じことを思って後半生を送っていたのかもしれない。

 とそんなことを駅を出てからザザッと頭に巡らしたのだが、現実に立ち返って午前中は生業に勤しんだ。

 仕事をしながら、「虎ノ門、虎ノ門」とその言葉がやたらとチラつく。何かが引っかかっているのだが、その言葉に継がれるものが出てこない。

 正午を大きく回った頃に仕事を終え、街へ出たときにようやく堰が切れていくつかの言葉が飛び散った。

「江戸城」「虎口」「家康」「鷹狩り」「中原街道」……。

 そうだ、虎ノ門は中原街道の起点だった。

 私がよく歩く中原街道。もっぱら横浜川崎の街道部分ばかり歩いていて、その由来やエピソードなども見つけては読んで、いつか端から端まで歩いてみたいものだ、と思いを馳せていた中原街道。その起点は虎ノ門。そんな大事なことを失念していたとは、大いに不覚なり。

 すでに昼を過ぎてはいるが、虎ノ門に今いるのもこれは何かの思し召し。ここは短時間であろうとも、歩きはじめるべきではないのか。

 こうして突如として中原街道踏破の旅は何の準備も前触れもなくスタートしたのであった。

 

 

虎口は裏門であり逃げ口

 

 中原街道については2020年5月2日の記事で書いている。ちょうどコロナの外出自粛の時期だ。歩きたいけど歩けなくて、脳内ウォーキングに耽っていた。

 その記事で詳しく書いているのだが、改めてこの街道について簡単に記しておきたい。

 中原街道は江戸城虎ノ門から神奈川県平塚市にある中原御殿を結ぶほぼ直線の街道である。その距離はおよそ60km。東海道の脇街道の位置付けであるが、平塚から江戸までを最短距離で結ぶ道でもある。

 この直線で最短距離、という点が重要なのだ。

 

中原街道略図

 

 虎ノ門は江戸城の虎口、だから虎ノ門。虎口は「危機を逃れる場所」であり、つまり「逃げ道」なのである。つまり。

 江戸城有事のとき、家康(に限らず徳川将軍)が逃げるための虎口、それが虎ノ門。一刻も早く危機から逃れるために最短距離で平塚の東海道まで抜けられる道となった。

 

江戸期の古地図、上に「虎之御門」、左上が「溜池」とある

 

 だがその用途で使われるというよりは、家康は鷹狩りに出かけるときにもっぱらこの中原街道を利用していたそうだ。そのため、川崎市中原区には小杉御殿、平塚には中原御殿を造ってもいる。

 だからこの街道は徳川家とは切っても切れない道なのである。

 途中、五反田、洗足池、丸子の渡し、小杉御殿、佐江戸、下川井御殿、二ツ橋、用田、寒川、田村の渡しを通って平塚中原御殿を繋いでいる。その大半は神奈川の県道45号線である。

「相州街道」、「江戸間道」、「お酢街道」、「こやし街道」などの別名もあり、「お酢」や「こやし」のいわれについては前出記事を参照されたい。

 現在の中原街道も概ね旧道を辿っているが、かなり大胆な土地開発が行われて失せてしまった部分も多い。旧道のまま、不便なまま現在も利用されている道も少しはある。

 すでに中原街道についてはそこそこの知識を持っていたから、突然のこんなチャンスに乗っかってみようと思ったわけだ。

 ただ、ひとつだけ懸念、というかモヤモヤしたものが。

 それは大山道が途中で、まだ踏破していないこと。2022年末で大山の麓近くまで行って、そこで止まっている。これを終えてから中原街道、というプランがなんとなくあった。そうでないとなんだかスッキリしない。

 でもまあ、そんなことは気にしなくてもいいか、とも思い直す。何せ五十も半ばを過ぎ、あまり悠長に取り組んでいると、逃してしまうものも多いかもしれない。今目の前にあるものには、飛びついていかなければならない、と。

 大山道はひとまず置いておこう、とあっさり承知した。

 2023年10月23日午後1時半、突如として中原街道の旅がはじまった。家康とともに西へ逃げる旅路だ。ふふふっ。

 

 

まずは国道1号線が旧中原街道なのである

 

中原街道初日ルート

 

 虎ノ門の交差点は東京メトロ虎ノ門駅の上にある。ここを起点とした。北側には霞ヶ関の官庁街。桜田門の江戸城のお堀までは少し距離がある。だが江戸時代にはここ虎ノ門には滝があり、ちょっとした名所だったのである。

 時計回りに螺旋状の江戸城のお堀。虎ノ門あたりはいわゆる外堀だった。この堀に滝があったわけだが、滝の上にあるのが溜池だ。溜池という交差点があり、溜池山王という東京メトロの駅もある。

 溜池はその名の通り水を貯めるための池だ。外堀にこの溜池を作ったのは和歌山藩主だった浅野幸長。飲料用の上水ダムとして家康に進言して作られた池である。浅野幸長は関ヶ原の戦いで西軍から徳川軍に寝返った人であることは万人の知るところ。徳川新参者として幸長は家康のご機嫌を伺ってこの土木工事を請け負ったのでは、とも思える。

 その高低差を利用して滝があった。滝の横の坂は葵坂と呼ばれた。近くに松平肥前守の屋敷があったからと思われる。

 この滝と葵坂を広重も北斎も描いている。どちらもそれぞれのタッチをよく表している浮世絵だ。

 

葛飾北斎・諸国滝廻り「東都葵ヶ岡の滝」、滝の上に溜池

 

歌川広重・名所江戸百景「虎ノ門あふい坂」、北斎とほぼ同じ場所を描いている

 

 しかし今はその面影はまったくない。ただのコンクリートジャングル、アスファルトの道を歩きはじめるのみ。

 東京メトロ虎ノ門の出口を上がると、虎のオブジェがある。近くで像を眺めれば、確かに虎であるが、遠目には猫のよう。あまり大きな像ではない。昭和二十七年に町内会である虎ノ門会が設置した。

 

 

 

 ここから南へ伸びる道は国道1号線である。国道1号線といえば東海道と思いがちだが、東海道はしばらくは並走する国道15号線のほうである。東海道が国道1号線とほぼ同じとなるのは保土ヶ谷を過ぎて戸塚に至る間あたりから。

 国道1号線を南下する。とすぐに右手の高層ビルの前に鳥居が。虎ノ門金刀比羅宮である。昔、この金刀比羅宮は異彩を放っていた。霞ヶ関の官庁街を抜けてしばらく南下すると、この宮の敷地が突然現れた、ビル街の中に。それがなんとも面白くて、このあたりを歩くときには意識して巡ったものだった。

 それがたかだか数年前の話だった、と記憶する。しかし今、高層ビルの前に鳥居が立っている。ビルの名は「琴平タワー」。なんも言えねぇ。

 

 

 鳥居の向こうのビルの1階には扉がなく、そのまま抜けられるようになっている。すると金刀比羅宮の拝殿が現れる。そのまま移築してきたのだろう。社殿だけは古色蒼然としていて、近年できたビルの脇に違和感だけ。それでも二十一世紀の虎ノ門金刀比羅宮に参拝。中原街道の道行きの無事を祈る。

 

 

 金刀比羅宮からさらに南下、すぐに虎ノ門ヒルズのガラス張りの高塔に見下ろされる。周囲はまだ工事しているところも多く、雑然とした道を進む。

 そんな生まれ変わってしまった虎ノ門だが、いまだ頑張っている興味深い店がいくつかあった。

 まずは「東京カップ本店」。トロフィやカップなどの専門店である。ショーウインドゥにずらっと並ぶトロフィを見るのが楽しい。次に現れたのが「日本刀剣」。「JAPAN SWORD」の文字と刀の絵が描かれた看板が実にいい。恭しく刀が飾られていたり、鎧兜が座している姿にしばし思いに耽る。ここは江戸城も近い。諸藩の大名屋敷が立ち並ぶ場所でもあった。

 

東京カップ本店

 

日本刀剣

 

 それだけでも気分はかなり上がったのだが、極めつけが「石田琵琶店」。楽器の琵琶の専門店だ。創業144年、日本唯一の琵琶専門店とのことだ。あとで調べると、ここの主人は人間国宝。店外に向けて飾られている琵琶を見て、そこから放たれているオーラに足が震える。琵琶、弾いてみたい。これは終生の目標になりそうだ。

 

石田琵琶店

 

 虎ノ門ヒルズを過ぎて少し行ったところを左に折れる。愛宕神社に参詣する。海抜26メートルの都内随一の「山」だ。詳細は「百社百寺」本編を参照されたい。向かいにはNHK放送博物館がある。

 

愛宕神社

 

 その下には天徳寺。八角屋根の個性的な堂宇が目を引く。

 

天徳寺

 

 国道1号線に戻り、進む。すぐに東京メトロ日比谷線神谷町駅を過ぎ、緩やかな坂を登れば飯倉の交差点。1号線はここからまた坂を下っていくのだが、交差している外苑東通りは飯倉は坂の途中。いつもここを通るたびに、この妙な地形に多少の困惑がある。

 

飯倉交差点

 

 飯倉から下る坂は土器坂(かわらけざか)。この下の赤羽橋付近は土器職人が多く住んでいたことから土器坂、土器町と呼ばれていたという。赤羽という名も赤埴(あかはに・赤い素焼きの人形)から転じたものとのことだ。

 坂を下りつつ左を見れば、ビルの隙間から東京タワーが見える、相当間近に。

 

 

 左に東京タワーを見つつ、ふと右を向けばビルの隙間に板倉熊野神社。狭い中にも信仰が息づく。太田道灌が再建した社で、当時の武士たち、藩主の代替わりや士官のときなどこの熊野神社に詣でて、牛王護符を拝受されたという。

 

飯倉熊野神社

 

 土器坂を下り切ると赤羽橋の交差点だ。後ろを向けば東京タワーが綺麗に見える。首都高速の下には古川が流れている。

 

赤羽橋交差点

 

 このあたり、江戸初期は農村だったが、明暦年間に久留米有馬藩の上屋敷ができてから徐々に市街地化が進んだ。久留米有馬藩は水天宮を勧請した藩だ。のちに移転を繰り返して人形町に移っている。

 

古川にかかる赤羽橋の橋灯

 

 少し先の赤羽橋南の交差点には伏見三寶稲荷神社の赤い鳥居と小さな社が佇む。まっすぐ南下していくと右に慶應義塾のキャンパスがある。その手前に春日神社。

 

春日神社

 

 三田二丁目のT字路で右折するのがメインラインだが、ひとつ先の三田三丁目を右折するのが中原街道。すぐに上り坂になり、これが聖坂。雰囲気はここから一転して、旧道っぽくなってくる。

 

聖坂入り口付近