百社詣で・百寺詣で

百社詣で・百寺詣で

近しき者の病気平癒を祈願して歩いた百社百寺
疫病退散を祈り巡る続百社百寺
旧き街道を訪ね、昔日の旅を想う

 

 相鉄線天王町駅から北へ旧東海道を進むと、すぐに帷子川を渡り、ほどなく左に橘樹神社がある。この旧東海道は今は洪福寺松原商店街であり、この先の八王子街道を渡ると八百屋や肉屋、乾物屋などが並ぶ昭和の商店街が活気にあふれている。

 文治二年(1186)に京都祇園社の分霊を勧請して創建された。当時は祇園社、江戸期には牛頭天王社と呼ばれており、天王町の名の由来ともなっている。橘樹神社と改称したのは大正十年(1921)。大正十二年(1923)の関東大震災、昭和二十年(1945)の横浜大空襲の2度にわたって全焼している。祭神は素戔嗚尊。

 拝殿は唐破風が印象的なオーソドックスな造り。周囲に木や建造物がないので、拝殿とそれに続く本殿をぐるりと巡ることができる。神社後方からの眺めが好きな人(私)には嬉しい。

 

 

 境内には屋根に守られた庚申塔が三体並んでいる。いずれも青面金剛と思われる。案内には左から天和三年(1683)、寛文九年(1669)、明和元年(1764)の銘があり、この寛文九年の庚申塔は横浜市内最古のものであるという。この年はシャクシャインの戦いが起きた年である。なるほど、屋根に覆われているのも風化を極力避けるためなのだ。もう表情はわからなくなってはいるが。

 

 

 その近くには神田不動尊があり、銘には文化八年(1811)とあるが、昭和十年に再建塔複されたと刻まれている。一部修復、ということだろうか。こちらは素朴ながら強い意志を持った表情が残ってる。

 

 

 参道途中には茅の輪が設置されていた。茅の輪の潜り方の説明書きはほとんど必ずある。だが蘇民将来の話を掲示していることはあまりない。写真で紹介しておこう。

 

 

 蘇民将来については、一度別枠でじっくりとまとめたいものだ。

[横浜市保土ヶ谷区天王町1-8-12]

 

 

 相鉄線天王町駅南口を出ると、旧東海道がある。これを南西へ5分ほど。大門通りの信号を右折し、さらに5分ほど歩くと神戸神明社がある。

 旧東海道から神戸神明社へ歩いていると、真ん中あたりに古東海道の道標がある。家康が五街道を整備する以前はこちらが東海道だった。

 

古東海道と相州道が交わっている場所の道標

 

道標近くには青面金剛が。右の穏やかな表情の像にも手がいっぱいあるように見えるので、青面金剛なのか

 

 神戸は「こうべ」ではなく「ごうど」と読む。これも神明社が遷座してきたからこその地名らしい。

 保土ヶ谷は平安の頃は榛谷(はんがや)と呼ばれていたという。

 天禄元年(970)に伊勢大神宮がこのあたりに影向し、その後川井、二俣川と移ったのち、嘉禄元年(1225)に神託があり、神明の下宮を建立して神戸と号した。天正十八年(1590)に徳川家康が関東に入ってきたときに社殿が造営され、元和五年(1619)に神戸山の頂から当地に遷座された。

 道路からすぐ90度右に折れて鳥居がある。そのまま参道は横の道路にほぼ並行して続くが、少しずつ道路から離れていくから90度ではない。わずかに斜めに進んでいる。

 

 

 年末だったからか、社殿の手前に茅の輪があった。参拝者が多くなかったので、慣例通りに左右に潜ってから神明造の社殿に参拝。この本社はここでは天照太神宮と表記する。

 

 

 祭神は天照皇大神。

 稲荷社、厳島社、山神社、月神社、白鳥社、風神社、火人社、鹿島社、雷神社と境内社は多く、何ヶ所かにまとめて祀られている。

 

この社には四柱祀られている

 

 また摂社として豊受大神宮も鎮座している。豊受大神宮は伊勢神宮外宮の主祭神である。

 

豊受大神宮

 

 平成十年(1998)に平成の大改修が行われ、より往時に近い形で復元されたとある。

[横浜市保土ヶ谷区神戸107]

 

 相鉄線平沼橋駅南口を出て、ほんの数十秒。

 平沼神社は水天宮として知られている。そのいわれを少し。

 このあたりは江戸期に新田開発された土地である。帷子川下流に位置し、保土ヶ谷宿で酒造業を営んでいた五代目平沼九兵衛が天保十年(1839)に埋め立てをはじめ、七代目九兵衛のときに完成。そのため、のちに平沼という地名となった。

 平沼神社は五代目が新田開発をはじめた年に、その守護神として創建された。

 言い伝えによれば、この付近に流れ着いた水天宮の御札を祀ったのがはじまりとも。海や河川を埋め立てる新田開発ということもあり、水天宮を祀る理由はあったのだ。

 平沼神社と改称したのは明治になってから。村社に列格された。祭神は天之御中主大神と安徳天皇。境内社は稲荷社、荒神様、天満宮。

 広くはないが見るものはなかなか多いので、いろいろ紹介したいと思ったのだが、境内のあちこちに「撮影は許可を得るように」というようなものが貼られていた。相当に迷惑な行為が続いていたのだろう。そのため、外観写真のみの撮影にとどめたのだ。

 水天宮なので、安産祈願の参詣が多いのだろう。ネット上の画像は、境内での写真がかなりアップされていたが、私は控えた。

 

 

 平沼橋の駅の改札は跨線橋の上にあり、そこから見下ろす相鉄線と東海道線の線路が小鉄(濃度薄めの鉄道好き)の心をときめかせてくれる。

[横浜市西区平沼2-8-20]

 

 東急世田谷線三軒茶屋駅のすぐ北西、歩いてまず1分もかからないほどの場所にある目青不動。江戸五色不動のひとつ。院号は教学院、寺号は最勝寺の天台宗寺院。

 学校あるいは何かの施設のような石門を入るが、寺の雰囲気はない。まっすぐ歩いていくと、奥まった場所に不動堂がある。かなり古びた堂は質素だ。参詣する者もない。右上にある扁額には「閻王堂」と揮毫されている。閻王とは閻魔大王のことだ。閻魔大王は普通は地蔵菩薩とも言う。不動明王は大日如来の化身とも言われている。この変額が何故ここに、と調べてみる。

 

 

 

 教学院は慶長九年(1604)に玄応大和尚が江戸城内の紅葉山に創建した。ほどなく赤坂三分坂に移転。さらに寛永八年(1631)に青山南町に移った。そこで延享年間と宝暦年間の2度火災にあって、記録を失っている。貞享四年(1687)に小田原城主の大久保加賀守の菩提寺になると東叡山輪王寺の末寺、その後比叡山延暦寺の末寺となる。

 別堂に安置されている不動明王像が目青不動。この像は元々麻布の観行寺の本尊であったのだが、そこが廃寺となって教学院に移ってきた。これが「青山の閻魔さま」と呼ばれるようになる。右脇侍に閻魔大王がいたからだと思われる。そのため「閻王堂」とあったのだ。

 明治時代となってしばらくして、明治四十一年(1908)に当地に移転してきた。

 不動堂から左に向くと、その奥に本道がある。こちらも蘇轍などの木々が前面を覆って、堂全体を望むことはできない。

 参詣したタイミングが良くなかったのか。ちょっとうら寂しい印象が残った。

[東京都世田谷区太子堂4-15-1]

 

 東急世田谷線松陰神社駅を降りて、駅前の道を北へ5分ほどで松陰神社の鳥居の前。若林公園に隣接する。

 かれこれ40年近く前から、来よう来ようと思いつつも、近くであるが故に逆に足を運ぶことがなかった松陰神社。当時の二十歳そこそこの自分は幕末の志士たちに傾倒し、その頃に訪れていたならばきっと感涙にむせたはずだ。萩や下関まで旅して、長州藩の史跡を巡って高揚していた私だ。こんなに近くにある松陰神社に何故来なかった、と叱り飛ばしたい。

 

参道脇に佇む松陰像

 

 還暦近い今の自分は、当時とは比較にならないほどの知識と経験を蓄えた。蓄えてしまった、と敢えて言おう。あの頃の無鉄砲なまでの熱気は今はないのだ。もう少し大局的に長州藩を見られるようになっている。

 当時の自分を端から眺める、といった気持ちで鳥居をくぐった。

 創建は明治15年(1882)、松下村塾の門下生たちによってお墓に社を築いた。吉田松陰を祀った神社だから、祭神はもちろん吉田寅次郎藤原矩方(吉田松陰)だ。

 吉田松陰がどういう人だったかはここでは割愛する。ご存じのことと思う。ご存じない、という方はご自身で調べてくだされ。

 

 

 安政の大獄で打首となったのが安政6年(1859)。その遺体は江戸の小塚原に埋葬されたが、4年後に門弟である高杉晋作らの手によって掘り起こされ、当地に埋葬された。ここは長州藩主の毛利家の所領だったからである。

 だが直後、長州征伐が行われ、当地の墓も幕府によって破壊される。数年後、明治維新を迎えるとすぐに木戸孝允によって修復されたとのことだ。

 漆黒の鳥居を仰ぎ見て、参道を歩く。綺麗に整備されている。正面の拝殿は神明造に近いが、千木や鰹木などはなく相当にすっきりしている。

 

 

 拝殿の右側には、模造の松下村塾が建っている。これには驚いた。1988年に萩の松下村塾へも行った。いつまでも室内を眺めていたものだ。この模造松下村塾は扉が閉まっていたが、あのときの思いが一瞬で蘇ってきた。ここには晩年(と言っても20代後半)の松陰先生の像がある。

 

模造松下村塾

 

塾生の名もあったが、これでは小さくて読めないな

 

晩年の松陰先生の像は模造松下村塾に

 

 参道の途中に、ずらりと石灯籠が並んでいる。32基あるという。この石灯籠の奉納者の名前が説明されているのだが、これが腰が抜けるほどの人物たちなのだ。

 

どの石灯籠が誰の奉納かがわかる案内板もある

 

左から桂太郎、井上馨、山縣有朋、伊藤博文が奉納した石灯籠

 

 毛利家一族の名からはじまり、分家の吉川、小早川、そして伊藤博文、山縣有朋、井上馨、桂太郎、木戸孝允、乃木希典などなど。この石灯籠が奉納されたのは明治41年(1908)の50年記念のときということなので、その当時存命の方たちの名前である。

 この石灯籠を辿って左へ行くと、吉田松陰の墓所がある。墓所入り口に立つ鳥居の寄進者は木戸孝允である。松陰の墓は他の烈士たちの墓とともに並んでいる。墓の大きさはほぼ同じだ。松陰の他に、同じく安政の大獄で獄死した頼三樹三郎の墓もある。

 

石の鳥居は木戸孝允の寄進、その奥正面に吉田松陰の墓がある

 

 すでに私も吉田松陰の一生の倍くらいは生きてきた。来し方のことが脳裏を掠める参詣となった。

[東京都世田谷区若林4-35-1]

 

 国道1号線を車で走らせているとき、白金付近に「清正公前」というT字路があり、「この清正公というのは加藤清正のこと?」とか、あるいは「清正公はわかるけど、前って何?」と思いつつ通り過ぎた方は少なくないのではと思う。私もそうだった。だから、ずっと気になっていたのだ。もう何十年も。

 この「清正公」はいわば、所縁の寺がありその前であるT字路が「清正公前」となったわけである。寺の名前ではなく、あくまでも「清正公」なのだ。加藤清正信仰が相当強かったことを暗に裏付けている。

 場所は東京メトロ南北線白金高輪駅から国道1号線に沿って南下して5分ほど。1号線からT字に分かれていくのは目黒通りだ。

 その分かれ道の南西部分に日蓮宗覚林寺はある。1号線に面しているので、意識していれば寺があることはわかるが、運転中にしかと見届けることは難しいかもしれない。

 

覚林寺山門

 

 山門を入って正面にある、唐破風と千鳥破風を重ねた屋根を持つ権現造の御堂は加藤清正を祀った清正公堂で、本堂はその右手にある。明らかに清正公堂を主にした配置であり、その存在感も格段の威風を漂わしている。

 

清正公堂

 

 この覚林寺の開山は寛永八年(1631)、千葉小湊の誕生寺の十八世である可観院日延による。この日延は朝鮮王族の出身。秀吉の朝鮮出兵のときに、加藤清正に捕えられて日本にやってきて、誕生寺の貫主となったのである。

 日延は隠居後、この地に隠居所として当寺を創建した。その際、清正の御霊を弔うために清正の随身である釈迦牟尼仏の立像を安置したという。清正は江戸時代から開運の神様として大衆に崇敬されていたので、当寺を詣でる人は絶えなかったという。

 また、毎年5月の大祭のときには「勝守」(しょうぶ入り御勝守)を授けている。

 

有栖川宮熾仁親王の揮毫による「破魔軍」の扁額

 

 清正公堂に掲げられた「破魔軍」の扁額の揮毫は、有栖川宮熾仁親王である。明治維新時の新政府最高職である総裁に就任し、のちの戊辰戦争時には東征大総督として江戸城無血開城にも一役買った皇族だ。

 

境内社、左は毘沙門堂、右は稲荷堂

 

御朱印帳も清正の兜で良い

 

[東京都港区白金台1-1-47]

 

 京浜急行戸部駅を出て、国道1号線少し下る。5分余り行ったあたりで左折。戸部公園と西区役所が並ぶ一角に戸部杉山神社がある。

 横浜を中心に多摩地区にも多い杉山神社。しかし延喜式内に掲載された杉山神社はここだけとのこと。この戸部杉山神社の効験が著しかったため、周辺に杉山神社が増えていった、と境内由緒には書かれている。どうなのか。

 

御神木の奥に権現造の社殿がある

 

 創建は白鳳三年(652)で、出雲大社の御分霊を勧請したという。したがって祭神は大己貴命。江戸時代は戸部村の鎮守社だった。境内社は天神社、稲荷社、山王社、社宮司社、厳島社、浅間社、三峯社と多い。

 

境内社が祀られている社

 

 社殿はクラシカルな権現造りだが、木造ではない。関東大震災で消失後、昭和三十一年(1961)に鉄筋コンクリート造によって再建されて、今に至る。

 大己貴命は大国主命であり、大黒様である。国津神の筆頭だ。そのいわば使いのような存在がネズミ。社殿の左右にはそんなに古くないネズミ像がいて、右がオス、左がメス。このネズミは回転する。ひと回りさせると願いが叶うという例のスタイルである。そこそこの重量があるが、片手でも回すことができた。

 

片手でも回すことができる

 

『神奈川県神社誌』には、当地は昔から祭りが盛んで、「幟の如きは幅一間丈十問にも及ぶ」もので世人はこれを「戸部の馬鹿幟」と言ったとある。

 この戸部杉山神社の南西方向にある細道が「保土ヶ谷道」である。東海道の宿場であった保土ヶ谷と戸部とを結んだ道だ。戸部杉山神社から保土ヶ谷道へ入るとすぐに現れるのが「くらやみ坂」。名前の由緒は3つあるという。

 

保土ヶ谷道のくらやみ坂

 

 ひとつは源頼朝が馬を止めてここから景色を眺めた(馬の鞍を止め、から鞍止み=くらやみ)、ひとつがこの一帯は樹林が鬱蒼として昼なお暗かったから、ひとつは急坂ゆえ、荷を運ぶ馬もここでひと息入れたから(これも馬の鞍を止め=くらやみ)。確かに急な坂道で、それほど短くない坂だ。それでも登り切るとみなとみらいのビル群が目の前に佇立する。

 東京には粋な名前のついた坂が多いが、横浜は谷戸の町だ。当然坂だらけである。いい名のついた坂もある。そんな坂を巡るのも良さそうだ。

[横浜市西区中央1-13-1]

 

 

 

旧道の名残を味わい、相模川を渡る

 

 年が明けて2024年1月6日午後12時半、JR相模線寒川駅に降り立つ。今日、中原街道最終日、の予定。

 前回、寒川神社最寄りの宮山駅で終了したので、本来ならばそこから繋いでいくべきなのだが、五日目終了後に地図を見てたり諸々調べてみたりしていて、ちょっと気になることが出てきて、それを確認するために寒川駅まで来た。

 駅から北へ5分ほどのところに安楽寺という寺があり、その前後に、正確には北東から南西にかけて何となくぶつ切り的に斜めの道があるのだ。北東側は日産工機の敷地にぶつかっている。そう、中原街道であろう道が途切れたそのあとの道が、断続的に残っているのではないかというモヤモヤが生じてきたのだった。

 

寒川の安楽寺

 

 現地に赴く。穏やかな日和の中で安楽寺に迎えられる。その北東側に行ってみると、そこは安楽寺の墓地。その脇になだらかな傾斜で小道が降りてきている。そこに中原街道の説明板がやはりあった。

 

 

 平成三十年(2018)三月に寒川町教育委員会が設置したものだから、わりと新しい。そこには「寒川町内では大蔵・小谷・岡田・一之宮を通り、田村の渡しで相模川を越えました」とある。ここは岡田と宮山の間くらいの場所だ。やはり部分的にではあるが旧道は生きていたのである。

 

墓地脇の南西へ斜めに走るこの小道が旧中原街道なのだ

 

安楽寺近くにもこのように斜めに切れ込む道がいくつかある、これらも?

 

 その断続的な旧道部分と思われる道を選びながら南西へと進んでいくと、JR相模線の線路に当たった。地図を見ればその先にもわずかに斜めの道がある。しかしそれはすぐに県道46号と47号の交差点である寒川跨線橋に吸収される。

 その隣りが大門踏切前。寒川神社の一の鳥居の目の前である。初詣客の車の渋滞は6日のこの日も続いている。

 

寒川神社の一ノ鳥居、まだ初詣の車で渋滞

 

 改めてここから本日の街道歩きをはじめることにする。

 県道47号を西へ10分ほど、圏央道の高架を潜ると神川橋。これで相模川を渡る。遠くに富士が霞んで見える。橋の途中で川下を望む。そこにかつて田村の渡しがあった。

 

寒川神社を発するとすぐに圏央道の高架が見える

 

そして相模川を渡る神川橋

 

相模川を渡る、中央左にうっすらと富士山

 

神川橋から相模川下流方向を望む

 

 神川橋を渡りきり、相模川右岸の土手を川下に少し歩くと、「田村の渡場跡」の大きな石碑がある。左には句碑。

 

 阿夫利嶺を まともに仰ぎ 旅人ら

  声あげにけむ ここの渡しに

   中村清四郎

 

田村の渡場跡の石碑

 

中村清四郎の句碑

 

 さらに近くには「田村と田村の渡し場」という説明碑があり、その内容が濃い。

「田村の地は古くから坂上田村麻呂に由縁の地と伝え、箱根路につづく」

 そうなのか、とまず絶句。田村麻呂は征夷大将軍として蝦夷を征した人。田村麻呂らによる中央の政権の支配から自分たちの自治を守ろうとした蝦夷のリーダーは阿弖流爲(アテルイ)。心情的には当然阿弖流爲を贔屓にする私。だが田村麻呂という人は強権的ではなく、できる限り蝦夷の権利を残した上での降伏を提案し、阿弖流爲はそれを信用する。そして田村麻呂とともに京へと登る。いや連行される。そして……。

 この話は長くなる。いずれ機会があれば、じっくりと言及してみたい。私にとっては思い入れのある史実であり、物語なのだ。

 さて田村麻呂だが、どんな由縁があるのか、と調べてみる。京から陸奥へ向かった田村麻呂は平塚の当地にサイカチの木を見つけて戦勝祈願をした、という。それが現在の田村八坂神社。などいくつかの話が残っている。この手の話は伝説も多いので、どれが真実かはわからない。

 説明碑は続く。

「鎌倉時代には、三浦平六義村の田村の館があり、鎌倉武士がしばしば往来したことは史書にあきらかである」

 これは多くの文献や痕跡からまごうことなき事実であるだろう。次からは渡しについて。

「田村の渡し場は、大住郡田村、高座郡一之宮村、同田端村の三村が管理し、渡し舟、馬舟など四艘を常置していた」

「明治初年の記録に、川幅五百二十二間(約九三九米)、水流六十間(約一〇八米)、深さ三尺(約〇・九米)より一丈(約三・〇三米)とみえている」

 こういう数字の客観的記録は意外と少ないものだ。当時をイメージしやすくていい。

 

石に彫られた説明板

 

浮世絵にも描かれている田村の渡場、左岸からの景色だろう、山は大山だ

 

 この説明は石に書かれている、いや彫られている。木やプラではない。その書体も可愛らしく、読みやすく、なかなかないのではないか。

 三浦義村の屋敷跡は相模川からほど近い場所にある。「三浦義村田村の館の跡」の碑がある。

 

「三浦義村田村の館の跡」の碑

 

 道を少し戻り、旧田村十字路の交差点を南へ進む。この少し西側に国道129号と交わる現在の田村十字路がある。

 

旧田村十字路の手前にある、「たむら渡し最中」井筒屋の看板がいい

 

旧田村十字路はかなり往時の雰囲気を残しているのでは

 

 旧田村十字路からの旧中原街道には、面白いものがかなり残っている。嘉永二年(1849)の銘が残る小さな石の社。その先に「田村駒返橋跡」のかなり大きな石碑がある。周囲には道祖神もある。駒返橋については平塚市観光協会の説明板もある。

 

石の社

 

駒返橋跡の石碑はかなり大きい

 

 それによれば、ここは古くから馬継の場所であったことから駒返橋の名が発生したと思われる、とある。

 さらに、天正十八年(1590)の徳川家康関東入国のあと、家康はこのあたりを狩場として好んでいた。あるとき、大雨で道が悪くなった折、田村の人たちは畳を出して道に置き、家康が通りやすいように便宜を図った。家康はこれらの人たちの苦労を慮って馬を返した、という伝説もある。

 

 

 また進むと、また大きな石の案内板。「南 中原道 北 奥州道」、一里塚ともある。説明板もあるが、文字がほとんどかすれていて読めない。

 

これも立派な石の道標

 

 そのあたりを西へ行くのが旧中原街道。だがもう少し南へ進み、前鳥神社を詣でる。ここは相模の四之宮である。一ノ宮は先ほど通ってきた寒川神社。住所も平塚市四ノ宮として残されている。正月六日なので、まだぼちぼち初詣の参拝をする人たちがいる。

 

相模国四ノ宮である前鳥神社

 

 

 

この道幅こそがリアルな中原街道なのだろう

 

 

 少し戻って国道129号線の四ノ宮西町の交差点を西へ行く。

 以前にも書いたが、相模川からこっち側は旧中原街道はほとんどなくなってしまっている。そのため、おそらくこのあたりを通っていたと思われる場所を辿るしかない。まずは真土神社を目指した。

 途中の諏訪神社近くに中原街道と刻まれた赤茶けた石碑がある。一般家庭の庭に設置されているので、有志によるものなのだろうか。

 

 

 その近くには「水戸光圀公礼状受領記念碑」がある。慶安三年(1650)に端山源左衛門祐重殿に宛てた礼状の記念碑らしい。そのお礼とは、毎年酢を送ってもらったことに対してのものとある。そう、平塚中原は「中原酢」が名産だったのである。これを端山氏は幕府や親藩などに対して献上していたのだ。これも地元の歴史を研究している有志で建てられたものみたいだ。

 

 

 そして真土神社。創建明治三年(1870)なのだが、諏訪神社や白山神社、神明神社稲荷神社等々を合祀した神社なので、古くからの土地の神々がまとめられた神社と言っていい。

 

真土神社

 

 何よりも心揺さぶられるのは、鳥居正面に伸びる参道のその正面には大山が聳えていること。さらにはその参道から一部旧中原街道が残されていることである。わずかに100メートル余りの長さだろう。しかしその道幅や少し曲がりくねって続いていることなど、往時の街道の匂いを十分に醸しているいい道なのだ。

 

山道の正面に大山

 

 それは地元の人たちも感じているのだろう。

 参道から降っていくと、途中で左へ道が分かれている。これが旧中原街道。このあたりに碑や説明板などが集中して設置されている。

 

左が旧中原街道

 

「古道 中原街道」の大きな石碑があり、その隣りにはその説明板。一部抜粋。

「古来より真土を斜めに縦断している古道があった。海ぎわの東海道が整備される以前から、この道は相模道・奥州道などと呼ばれ、大磯から中原を通り、真土・用田・小杉を経て江戸に入り、更に奥州へ至る古道であった。

 家康は、関東移封のときや、その後中原に御殿をつくり、たびたび宿泊をして鷹狩りを楽しむなど、好んでこの道を用いた。(中略)

 その後、江戸が政治の中心になるにしたがい、東海道が整備されたため、中原街道の公的な役割は薄れ、脇街道となっていった。(中略)

 いまでも中原街道の名称は各地に残っているが、最も良く昔の面影を残しているのは、真土地区であると言われている(後略)」

 もっとも昔の面影を残している、と言うだけある。舗装されてはいるものの、本当にこんな感じだったんだろう、と思わせる道幅の狭い道だ。

 

 

 

 もうひとつ碑がある。「真土大塚山 神獣鏡の碑」。神獣鏡というのは古墳時代のものか、とちょっと気分が高まる。抜粋。

「真土神社の北西四百mにあった真土大塚山にはかつて古墳時代前期の古墳があり、昭和十年ここから神獣鏡が出土した。径二十二・一cm青銅製の三角縁四神二獣鏡である。(中略)東王父や西王母など四体の神仙像と龍と虎の瑞獣二頭が彫られており(中略)京都や岡山などから四面出土しており、真土が大和王権と深い繋がりがあったことを示す貴重な資料である(後略)」

 地域史などの資料を読まないとなかなか知ることができない土地の歴史、実際に歩いてみて収集できるのは相当な愉楽である。一人、顔がほころんでくる。

 

真土神社参道と旧中原街道の分岐にある「友情の像」は微笑ましい

 

 いい寄り道をして、また旧道を行く。住宅の中の細道を少し行くと、狭い畑などの中を抜ける「裏道」様の道。これは往時のイメージにかなり近い。短い距離だが、ちょっと感慨深いものがある。

 

この道幅こそ旧街道なのだ

 

 それもすぐに終わってしまう。このあたり、地図で見ると四角く整然とした区画に住宅や工場が並んでおり、時折わずかに斜めに区画を切る道がある。これがどうやら昔からの道ではないかと推察する。そのうちのいくつかが旧中原街道なのではないかと。真土神社からの道もそうだ。

 まっすぐに西へ進む。三菱ケミカルの工場の南側を通り、西友の脇を更に西へ。10分弱で「中原遺跡公園前」の交差点に出る。周囲にそれらしき公園は見当たらない。しかし日枝神社はある。参拝する。祭神は徳川家康だ。由来書には中原御殿の鬼門に当たる場所に日枝神社を祀ったとのことだ。本殿の奥には東照宮もある。そういえばここはもう中原という住所表示だった。徳川の匂いが濃くなってきている。

 

日吉神社、右奥には小さな東照宮がある

 

 ここから南へ進んでいく。中原上宿という信号がある。バス停は「中原御殿」。郵便局は「御殿局」だ。その先を右折すると正面に中原小学校が見える。ここが中原御殿である。

 校門の前にはいくつかの説明板がある。まずは「中原御殿」。

「御殿の規模は東西七八間(約141m)、南北五六間(約101m)で、四方に幅六間(約10m)の堀をめぐらし、東側を表としていました。」

 東側はつまりこのあたり、ここが表だったのだ。

 

中原御殿の説明板と、描かれた中原御殿の絵(平塚市博物館蔵)

 

 配置図を見ると、この中原小学校よりひとまわり大きく堀が巡らされている。ちょっとした城と言ってもいいだろう。さらに、

「御殿が造られたのは、慶長元年(1596)ともいわれますが、諸説があります。寛永十九年(1642)に修復されますが、明暦三年(1657)には引き払われました。」

 御殿はあまり長くは存在していなかったのだった。

 また、石碑のほうは「徳川宗敬台額」と筆頭に明記されている。宗敬から見て十五代・慶喜は大叔父にあたる。東大の農学博士で、国会議員も務めた。1951年のサンフランシスコ平和条約で吉田茂首相が署名した場面では、その後ろで首相を見守っている。その人の文字で書かれた碑である。わりと丸っこい文字を書く人だったのだ。そこには、

「文禄元年、肥前国名護屋陣に赴くさい、中原に止宿」

「またの名を雲雀野御殿ともいい」

 など、なかなか惹かれる逸話も書かれている。日付は平成元年、調べてみるとその年に宗敬は亡くなっているから、最晩年の仕事となったのだろう。

 

徳川宗敬が書いた「相州中原御殿之碑」

 

 中原小学校は昭和の匂いを醸すような校舎や校庭で、懐かしさを漂わせている。

 

 

 さて中原街道の旅は、この中原小学校で終わりでもいいのだが、ここから西に歩いて10分弱程度の場所にある善徳寺をゴールとした。この寺の山門が、中原御殿の裏門を移築したものと言われているから、見たいと思った。

 午後3時半、夕陽に照らされた浄土宗善徳寺の茅葺の山門の前に立つと、さすがに感慨深いものが込み上げてきた。山門前に斜めに屹立する老松の迫力たるや、言葉を絶する。だが実にいい。

 

善徳寺の山門、中原御殿の裏門を移築したと言われている

 

 それと同時に私の足もそのまま地面にのめり込んでいくような重さを感じた。足も緊張感から解き放たれたのだろう。なかなかに考える足だ。

 本日歩行距離は14.6km。

 

 

 中原街道は全行程72kmほどと言われている。私は今回、6日間に分けて寄り道迷い道なども含めて総歩行距離は84.8km。所要時間はおよそ18時間半。闇雲に歩けば2日で踏破できる距離ではあるが、道行を存分に楽しんだ旅であった。

 中原街道なんてこれまでに何度も車で走っている、勝手知ったる道だったはずなのだが、歩く速度、歩く視線で辿ってみると、新しい発見だらけで、深く深く勉強になる、知的好奇心をくすぐられっぱなしの道行であった。相当な愛着も湧いた。だからやめられないのだ。苦なんてほとんど感じない(人工で単調な道が続くのは苦)。

 

葛飾北斎「富嶽三十六景」にも「相州仲原」が描かれている

 

 ペンディングになっている大山街道も、早く終わらせなければいけない。と思いつつ、つい放っておいてしまっている。いかん。

 また、中距離・近距離の街道を探して歩きたい。

 記事化がいつも相当遅くて、これは自己嫌悪。お付き合いいただいた方には深謝、深謝。

 

 

 東急東横線大倉山駅の下を東西に伸びる商店街。これを西に10分ほど行くと右側にあるのが真言宗・歓成院。寺号は法華寺。

 この少し西側にある太尾神社にはかなり前に詣でており、この商店街もここ何年かのうちに2~3度歩いているのだが、この寺は見逃していた。今回久々に歩いて、こんなに大きな寺が通りに面してあったとは、と我が不覚に落ち込む。

 

 

 狭い商店街の通りの右側が急に開けたかと思ったら、赤い柱のそれほど大きくない山門が飛び込んできた。山門手前の右には大倉山観音会館。山門を潜るとまっすぐ正面に本道がある。端正な屋根がまっすぐ降りている印象の、落ち着いた佇まいである。

 

 

 本堂の前には一回一誦の簡易な魔荷車(マニグルマ)がある。車輪状のロールに書かれた経文を一回転させると、般若心境を一回唱えたことになる、というものだ。転経機ともいう。これはなかなか興味をそそられる。

 

このタイプの魔荷車は初めて見た

 

 本堂の脇には石仏が数体並んでいる。石に掘られた年代は読み取れなかったが、おそらくま江戸中期~後期のものではないだろうか。

 

 

 そして本堂の左側、この寺に向き合ったときに、これが最初に目についた。客殿だ。そのデザインの奇抜なことは言葉通りこの上ない。モダンである。しかし、本堂の建築と並ぶともはやこれは異世界だ。座りが悪い。たくさんの木の柱が鋭角的に斜めに飛び出して屋根を支える形となっている。何か施してあるのだろうが、生木に近い。

 これをあとで調べてみて、なるほどと思った。建築は隈研吾だった。やはり木なのだ、この人のこだわりは(新国立競技場とか)。しかし、補修は頻繁に行わなければならないだろうな、とか、随分と裕福な寺なんだな、とか、ネガティブな印象だけが残るのだが。隈氏は大倉山出身なのだという。

 

歓成院HPより

 

 竣工は令和4年9月とのことだから、前回歩いたときはなかったのだろう。

『新編武蔵風土記稿』によれば、創建は永禄年間。戦国時代のピークの手前くらいの時期だ。鳥山村三会寺の末社で、荒神疱瘡社を合社しているとある。『横浜市史稿仏寺編』には「俗に虫除観音と称し」とあり、伝染病関連の恐怖からの解放のご利益のある寺として知られていたようである。

[横浜市港北区大倉山2-8-7]

 

 

 

厚木基地の周縁をしばらく辿る道

 

 2023年12月26日午前11時20分、小田急江ノ島線桜ヶ丘駅に降り立つ、約ひと月半ぶりの中原街道、五日目のスタート。

 

 

 駅を出て桜ヶ丘の交差点から中原街道を西へ。緩やかな下り坂が右左に屈曲し、引地川を渡って二つ目の信号が代官一丁目。左へ折れる道が現中原街道なのだが、事前に調べたところではここをまっすぐ行ったほうが旧道のルートに近いと思われる。

 

引地川を渡る

 

現在の本線は左の道だが、中原街道はここを右折するほうが本来のルートに近い

 

 するとすぐに右側には米軍の厚木航空基地。このあたりは鉄柵の向こうは樹が茂っていて中は見えない。基地の周縁部にあたる道をしばらく歩く。左側は中小規模の工場が多い。その一角に大円寺がある。

 

右側のフェンスの向こうは米軍の厚木基地だ

 

 代官三丁目のT字路にぶつかると、ここを右。現中原街道に合流。北側の厚木基地がようやく開ける。滑走路や駐機している米軍機がいくつか見える。この道沿いは昔からカメラを構えたマニアが平日でも多く、この日も少なくない人数。私もここを通るたびに、頭上を轟音低空で抜ける米軍機を何度も見た。この日はここでは見ることができなかったが、このあとの道行きで何機も着陸態勢でここに向かう米軍機を見ることになる。

 

有刺鉄線越しに米空軍機

 

もちろん中には入れない、アメリカなのだ

 

 南側は公園やグラウンドになっている。この道の半ばあたりが大和市と綾瀬市の市境となるので、大和市側は「大和ゆとりの森」、綾瀬市側は「綾瀬スポーツ公園」。

 ここは以前、道の南側も軍関係の施設だったような気がしたが、と思い調べてみると、「大和ゆとりの森」は2007年に開園。それ以前は厚木基地の緩衝地帯で国有地だったとのことだ。それが「防衛施設周辺の生活環境の整備等に関する法律」によってできた施設らしい。指定管理者には横浜F・マリノスの名もある。「綾瀬スポーツ公園」も同様の経緯で作られた施設だ。

 

綾瀬スポーツ公園

 

中原街道はT字路を左折する

 

 すぐに道は綾瀬大橋のT字路。道なりにまっすぐ行きたくなるところだが、中原街道はここを左に折れる。そこから緩やかな下り坂となる。しばらくは何もない、寂しい道だ。

 蓼川を渡り、右に曲がりながら緩やかな登り坂を行くと、住宅街がはじまる。ここからしばらく道は南西に向かってまっすぐだ。ひたすら南西へ。

 

歩道はほとんど排水口の蓋というのが残念

 

 基地が近いから時折離陸したばかりの、あるいは着陸直前か、低い高度で大きな音を響かせながら軍用機が頭上を過ぎていく。このあたりでは当たり前の光景なのかもしれない。このあたりを車で走らせているときは大概遭遇する。

 

かなり低い高度で、かなりの頻度で上空を過ぎていく

 

 10分ほど行くと深谷の小さな交差点があり、ごくごく普通の町の交差点に奇妙な建築物が否が上にも眼に入ってくる。

 ピラミッドだ。大小ふたつある。立ち寄らずにはいられない。うしろにはお寺がある。日蓮宗の大法寺とある。してそのピラミッドは大法寺の永代供養等ということらしい。小さいほうはペット用。住職はかなり柔軟な発想の持ち主なのだろう。ちょっとしたイベントも頻繁に催しているようで、その案内などが告知されている。

 

こんな珍景が突如現れる

 

 深谷の交差点の先で比留川を渡り、県道42号と交わる早川交差点。このあたりは中小の工場や大手の事業所などが点在している。

 

ここから藤沢市、だが藤沢は中原街道ではあっという間に終わる

 

 綾瀬浄水場を過ぎると、藤沢市に入る。道路の距離表示でよく見る用田だ。緩やかに下った先に、東海道新幹線の高架が走る。それを過ぎれば県道22号との新用田辻、すぐに県道43号との用田交差点と続く。

 

このあたりが高座豚の豚みそ漬の本場、顔出しパネルまである人気

 

新幹線が来るまで待つ、ほどなくビューンと走り去る

 

 

相模一之宮と梶原景時の町

 

 県道43号は柏尾通り大山道である。戸塚からの大山詣で道。いずれ歩くことになるか。

 この「用田辻」に石標に乗った不動明王像がある。不思議な居住まいだ。はじめは石標だけだったところに、不動明王を乗せたという感じだ。

 

用田の交差点

 

辻にある不動明王は安全祈願のためであり、道標でもある

 

 辻にあるので道標でもある。私は判別できなかったのだが、あとで調べてみると安永四年(1775)に設置されたもので、「右大山道」、「北江戸志んみち」、「南一之宮みち」と記されているとのこと。この一之宮みちが中原街道だ。

 そこからまたまっすぐの片側一車線の街道を行く。歩道はほんの申し訳程度にある。狭くてもある、それだけでも幾分安心感はある。

 

用田の先、一応歩道はある

 

 用田から2kmほどはまっすぐで、その後緩やかな左カーブ。右寒川町、左藤沢市という境道。数分で右にカーブ。ここから寒川町に入る。日産工機の工場を右手に見て、道は南へと下る。

 

寒川町に入る

 

日産工機は昔から街道の目印

 

 中原街道は平塚までまっすぐの最短距離で結ぶ道。しかしここから相模川の渡しまでは現在迂回している。おそらく本来はこの日産工機の中をまっすぐに貫いていた道だったはずである。地図で旧ルートであったであろうラインを辿ると、渡し場までほぼまっすぐである。だからもう、そこを行くことはできない。そんな道は数知れないのだろうが。

 ほどなくJR相模線の踏切に当たる。これを越えて中瀬の交差点を右へ折れた。

 

JR相模線の踏切を渡る、見えているのは寒川駅

 

 寒川から先、平塚中原御殿まではまだそこそこ距離がある。時刻は午後2時半だったが、無理すれば行ける。だが寒川の町も見てみたい。そこで今回はここまでとした。

 寒川町に入って、街道沿いのある場所に突然歌碑があった。「鎌倉本體の武士」とあり、曲名は「あぁ梶原景時公」。そう、ここ寒川は梶原景時の所領だったのである。『平家物語』などの歴史物語を読むと、大概この梶原景時は敵役となってしまっている。源義経の「お目付役」として源平合戦などに随行し、義経の行動を頼朝に大げさに告げ口する。そこが読み手には面白くない。みんな判官贔屓だから。

 私にもいい印象はない。でもここが彼ら一族の土地と知れば、興味が湧かないはずはない。

 

『源平盛衰記 四 梶原景時』揚洲周延作

 

「あぁ梶原景時公」の歌詞を見てみる。

 

 大地揺るがす 鬨の陣

 鵐(しとど)の岩屋に 公と会う

 源氏の再興 祈りつつ

  あぁ 頼朝公に傅(かしず)きて

  謳う景時公 誇りあり

 

 比(たぐい)希なる 智略あり

 雄々しき一族 仕えたり

 鎌倉幕府の 基なす

  あぁ 文武の偉才 果敢(はか)なくも

  偲ぶ景時公 夢の跡

 

 咽ぶ悲運の 武士(もののふ)よ

 一宮館を 後にして

 目指すは京都と 進めども

  あぁ 梶原山の 露と消ゆ

  今も景時公 語り継ぐ

 

 

 長くなったが、寒川町の誇れる東国武士なのだという矜持を感じさせる。これでいい、ご当地の愛なくば誰が愛するのか。私も少しは柔らかい気持ちになって景時を見ることができるようになった、かも。

 この歌、なんとカラオケにも入っているし、CD化もされている。

 詩の中にある一宮館に行ってみる。

 JR相模線寒川駅から南西に10分ほど。一之宮小学校近くに梶原景時館跡がある。その石標は古くない。近年、土地の英傑として再評価があったものと思われる。

 館跡には鳥居があり、奥には小さな社がある。一之宮天満宮だ。敷地内には遊具もある。厳しい史跡という感じはまったくない。子供たちがごく普通に遊びに来る場所だったのだろう。

 

一之宮天満宮は梶原館の跡地にある

 

 その佇まいは、悪くない。領主を身近に感じる、そんな関係性が想像できる。ひととき、昔日のこの土地のこと、人のことに想いを馳せる。

 そこから北へ10分ほどで、相模國一之宮の寒川神社の一ノ鳥居。高い樹が並ぶ薄暗く長い参道を進んでいくと寒川神社。年末恒例のねぶたが山門に鮮やかだ。一度これを見たかったのだ。

 

一度見たかった、お見事なのだ

 

 初詣の準備がはじまっている境内をしばし楽しみ、あと一日で達成するであろう中原街道の道行きの無事を祈る。

 寒川神社からは寒川駅よりも隣りの宮山駅のほうが近い。そこで今回の街道歩きは終了。午後4時前。本日の歩行距離はほぼ20km。

 

宮山駅で本日の行程は終了

 

五日目の行程

 

 このあたりは頻繁に訪れるという土地ではなく、しかしこれまでに何度か通ってきた場所でもある。知ってるようで知らないことも多い、なんとも絶妙なエリアである。それだけに歩いていてのワクワク感は増している。それもあと一日かと思うと、「中原街道、短い」と甚だ惜しむばかり。