
旧道の名残を味わい、相模川を渡る
年が明けて2024年1月6日午後12時半、JR相模線寒川駅に降り立つ。今日、中原街道最終日、の予定。
前回、寒川神社最寄りの宮山駅で終了したので、本来ならばそこから繋いでいくべきなのだが、五日目終了後に地図を見てたり諸々調べてみたりしていて、ちょっと気になることが出てきて、それを確認するために寒川駅まで来た。
駅から北へ5分ほどのところに安楽寺という寺があり、その前後に、正確には北東から南西にかけて何となくぶつ切り的に斜めの道があるのだ。北東側は日産工機の敷地にぶつかっている。そう、中原街道であろう道が途切れたそのあとの道が、断続的に残っているのではないかというモヤモヤが生じてきたのだった。

寒川の安楽寺
現地に赴く。穏やかな日和の中で安楽寺に迎えられる。その北東側に行ってみると、そこは安楽寺の墓地。その脇になだらかな傾斜で小道が降りてきている。そこに中原街道の説明板がやはりあった。

平成三十年(2018)三月に寒川町教育委員会が設置したものだから、わりと新しい。そこには「寒川町内では大蔵・小谷・岡田・一之宮を通り、田村の渡しで相模川を越えました」とある。ここは岡田と宮山の間くらいの場所だ。やはり部分的にではあるが旧道は生きていたのである。

墓地脇の南西へ斜めに走るこの小道が旧中原街道なのだ


安楽寺近くにもこのように斜めに切れ込む道がいくつかある、これらも?
その断続的な旧道部分と思われる道を選びながら南西へと進んでいくと、JR相模線の線路に当たった。地図を見ればその先にもわずかに斜めの道がある。しかしそれはすぐに県道46号と47号の交差点である寒川跨線橋に吸収される。
その隣りが大門踏切前。寒川神社の一の鳥居の目の前である。初詣客の車の渋滞は6日のこの日も続いている。

寒川神社の一ノ鳥居、まだ初詣の車で渋滞
改めてここから本日の街道歩きをはじめることにする。
県道47号を西へ10分ほど、圏央道の高架を潜ると神川橋。これで相模川を渡る。遠くに富士が霞んで見える。橋の途中で川下を望む。そこにかつて田村の渡しがあった。

寒川神社を発するとすぐに圏央道の高架が見える

そして相模川を渡る神川橋

相模川を渡る、中央左にうっすらと富士山

神川橋から相模川下流方向を望む
神川橋を渡りきり、相模川右岸の土手を川下に少し歩くと、「田村の渡場跡」の大きな石碑がある。左には句碑。
阿夫利嶺を まともに仰ぎ 旅人ら
声あげにけむ ここの渡しに
中村清四郎

田村の渡場跡の石碑

中村清四郎の句碑
さらに近くには「田村と田村の渡し場」という説明碑があり、その内容が濃い。
「田村の地は古くから坂上田村麻呂に由縁の地と伝え、箱根路につづく」
そうなのか、とまず絶句。田村麻呂は征夷大将軍として蝦夷を征した人。田村麻呂らによる中央の政権の支配から自分たちの自治を守ろうとした蝦夷のリーダーは阿弖流爲(アテルイ)。心情的には当然阿弖流爲を贔屓にする私。だが田村麻呂という人は強権的ではなく、できる限り蝦夷の権利を残した上での降伏を提案し、阿弖流爲はそれを信用する。そして田村麻呂とともに京へと登る。いや連行される。そして……。
この話は長くなる。いずれ機会があれば、じっくりと言及してみたい。私にとっては思い入れのある史実であり、物語なのだ。
さて田村麻呂だが、どんな由縁があるのか、と調べてみる。京から陸奥へ向かった田村麻呂は平塚の当地にサイカチの木を見つけて戦勝祈願をした、という。それが現在の田村八坂神社。などいくつかの話が残っている。この手の話は伝説も多いので、どれが真実かはわからない。
説明碑は続く。
「鎌倉時代には、三浦平六義村の田村の館があり、鎌倉武士がしばしば往来したことは史書にあきらかである」
これは多くの文献や痕跡からまごうことなき事実であるだろう。次からは渡しについて。
「田村の渡し場は、大住郡田村、高座郡一之宮村、同田端村の三村が管理し、渡し舟、馬舟など四艘を常置していた」
「明治初年の記録に、川幅五百二十二間(約九三九米)、水流六十間(約一〇八米)、深さ三尺(約〇・九米)より一丈(約三・〇三米)とみえている」
こういう数字の客観的記録は意外と少ないものだ。当時をイメージしやすくていい。

石に彫られた説明板

浮世絵にも描かれている田村の渡場、左岸からの景色だろう、山は大山だ
この説明は石に書かれている、いや彫られている。木やプラではない。その書体も可愛らしく、読みやすく、なかなかないのではないか。
三浦義村の屋敷跡は相模川からほど近い場所にある。「三浦義村田村の館の跡」の碑がある。

「三浦義村田村の館の跡」の碑
道を少し戻り、旧田村十字路の交差点を南へ進む。この少し西側に国道129号と交わる現在の田村十字路がある。

旧田村十字路の手前にある、「たむら渡し最中」井筒屋の看板がいい

旧田村十字路はかなり往時の雰囲気を残しているのでは
旧田村十字路からの旧中原街道には、面白いものがかなり残っている。嘉永二年(1849)の銘が残る小さな石の社。その先に「田村駒返橋跡」のかなり大きな石碑がある。周囲には道祖神もある。駒返橋については平塚市観光協会の説明板もある。

石の社

駒返橋跡の石碑はかなり大きい
それによれば、ここは古くから馬継の場所であったことから駒返橋の名が発生したと思われる、とある。
さらに、天正十八年(1590)の徳川家康関東入国のあと、家康はこのあたりを狩場として好んでいた。あるとき、大雨で道が悪くなった折、田村の人たちは畳を出して道に置き、家康が通りやすいように便宜を図った。家康はこれらの人たちの苦労を慮って馬を返した、という伝説もある。

また進むと、また大きな石の案内板。「南 中原道 北 奥州道」、一里塚ともある。説明板もあるが、文字がほとんどかすれていて読めない。

これも立派な石の道標
そのあたりを西へ行くのが旧中原街道。だがもう少し南へ進み、前鳥神社を詣でる。ここは相模の四之宮である。一ノ宮は先ほど通ってきた寒川神社。住所も平塚市四ノ宮として残されている。正月六日なので、まだぼちぼち初詣の参拝をする人たちがいる。

相模国四ノ宮である前鳥神社
この道幅こそがリアルな中原街道なのだろう
少し戻って国道129号線の四ノ宮西町の交差点を西へ行く。
以前にも書いたが、相模川からこっち側は旧中原街道はほとんどなくなってしまっている。そのため、おそらくこのあたりを通っていたと思われる場所を辿るしかない。まずは真土神社を目指した。
途中の諏訪神社近くに中原街道と刻まれた赤茶けた石碑がある。一般家庭の庭に設置されているので、有志によるものなのだろうか。

その近くには「水戸光圀公礼状受領記念碑」がある。慶安三年(1650)に端山源左衛門祐重殿に宛てた礼状の記念碑らしい。そのお礼とは、毎年酢を送ってもらったことに対してのものとある。そう、平塚中原は「中原酢」が名産だったのである。これを端山氏は幕府や親藩などに対して献上していたのだ。これも地元の歴史を研究している有志で建てられたものみたいだ。

そして真土神社。創建明治三年(1870)なのだが、諏訪神社や白山神社、神明神社稲荷神社等々を合祀した神社なので、古くからの土地の神々がまとめられた神社と言っていい。

真土神社
何よりも心揺さぶられるのは、鳥居正面に伸びる参道のその正面には大山が聳えていること。さらにはその参道から一部旧中原街道が残されていることである。わずかに100メートル余りの長さだろう。しかしその道幅や少し曲がりくねって続いていることなど、往時の街道の匂いを十分に醸しているいい道なのだ。

山道の正面に大山
それは地元の人たちも感じているのだろう。
参道から降っていくと、途中で左へ道が分かれている。これが旧中原街道。このあたりに碑や説明板などが集中して設置されている。

左が旧中原街道
「古道 中原街道」の大きな石碑があり、その隣りにはその説明板。一部抜粋。
「古来より真土を斜めに縦断している古道があった。海ぎわの東海道が整備される以前から、この道は相模道・奥州道などと呼ばれ、大磯から中原を通り、真土・用田・小杉を経て江戸に入り、更に奥州へ至る古道であった。
家康は、関東移封のときや、その後中原に御殿をつくり、たびたび宿泊をして鷹狩りを楽しむなど、好んでこの道を用いた。(中略)
その後、江戸が政治の中心になるにしたがい、東海道が整備されたため、中原街道の公的な役割は薄れ、脇街道となっていった。(中略)
いまでも中原街道の名称は各地に残っているが、最も良く昔の面影を残しているのは、真土地区であると言われている(後略)」
もっとも昔の面影を残している、と言うだけある。舗装されてはいるものの、本当にこんな感じだったんだろう、と思わせる道幅の狭い道だ。


もうひとつ碑がある。「真土大塚山 神獣鏡の碑」。神獣鏡というのは古墳時代のものか、とちょっと気分が高まる。抜粋。
「真土神社の北西四百mにあった真土大塚山にはかつて古墳時代前期の古墳があり、昭和十年ここから神獣鏡が出土した。径二十二・一cm青銅製の三角縁四神二獣鏡である。(中略)東王父や西王母など四体の神仙像と龍と虎の瑞獣二頭が彫られており(中略)京都や岡山などから四面出土しており、真土が大和王権と深い繋がりがあったことを示す貴重な資料である(後略)」
地域史などの資料を読まないとなかなか知ることができない土地の歴史、実際に歩いてみて収集できるのは相当な愉楽である。一人、顔がほころんでくる。

真土神社参道と旧中原街道の分岐にある「友情の像」は微笑ましい
いい寄り道をして、また旧道を行く。住宅の中の細道を少し行くと、狭い畑などの中を抜ける「裏道」様の道。これは往時のイメージにかなり近い。短い距離だが、ちょっと感慨深いものがある。

この道幅こそ旧街道なのだ
それもすぐに終わってしまう。このあたり、地図で見ると四角く整然とした区画に住宅や工場が並んでおり、時折わずかに斜めに区画を切る道がある。これがどうやら昔からの道ではないかと推察する。そのうちのいくつかが旧中原街道なのではないかと。真土神社からの道もそうだ。
まっすぐに西へ進む。三菱ケミカルの工場の南側を通り、西友の脇を更に西へ。10分弱で「中原遺跡公園前」の交差点に出る。周囲にそれらしき公園は見当たらない。しかし日枝神社はある。参拝する。祭神は徳川家康だ。由来書には中原御殿の鬼門に当たる場所に日枝神社を祀ったとのことだ。本殿の奥には東照宮もある。そういえばここはもう中原という住所表示だった。徳川の匂いが濃くなってきている。

日吉神社、右奥には小さな東照宮がある
ここから南へ進んでいく。中原上宿という信号がある。バス停は「中原御殿」。郵便局は「御殿局」だ。その先を右折すると正面に中原小学校が見える。ここが中原御殿である。
校門の前にはいくつかの説明板がある。まずは「中原御殿」。
「御殿の規模は東西七八間(約141m)、南北五六間(約101m)で、四方に幅六間(約10m)の堀をめぐらし、東側を表としていました。」
東側はつまりこのあたり、ここが表だったのだ。


中原御殿の説明板と、描かれた中原御殿の絵(平塚市博物館蔵)
配置図を見ると、この中原小学校よりひとまわり大きく堀が巡らされている。ちょっとした城と言ってもいいだろう。さらに、
「御殿が造られたのは、慶長元年(1596)ともいわれますが、諸説があります。寛永十九年(1642)に修復されますが、明暦三年(1657)には引き払われました。」
御殿はあまり長くは存在していなかったのだった。
また、石碑のほうは「徳川宗敬台額」と筆頭に明記されている。宗敬から見て十五代・慶喜は大叔父にあたる。東大の農学博士で、国会議員も務めた。1951年のサンフランシスコ平和条約で吉田茂首相が署名した場面では、その後ろで首相を見守っている。その人の文字で書かれた碑である。わりと丸っこい文字を書く人だったのだ。そこには、
「文禄元年、肥前国名護屋陣に赴くさい、中原に止宿」
「またの名を雲雀野御殿ともいい」
など、なかなか惹かれる逸話も書かれている。日付は平成元年、調べてみるとその年に宗敬は亡くなっているから、最晩年の仕事となったのだろう。

徳川宗敬が書いた「相州中原御殿之碑」
中原小学校は昭和の匂いを醸すような校舎や校庭で、懐かしさを漂わせている。

さて中原街道の旅は、この中原小学校で終わりでもいいのだが、ここから西に歩いて10分弱程度の場所にある善徳寺をゴールとした。この寺の山門が、中原御殿の裏門を移築したものと言われているから、見たいと思った。
午後3時半、夕陽に照らされた浄土宗善徳寺の茅葺の山門の前に立つと、さすがに感慨深いものが込み上げてきた。山門前に斜めに屹立する老松の迫力たるや、言葉を絶する。だが実にいい。

善徳寺の山門、中原御殿の裏門を移築したと言われている
それと同時に私の足もそのまま地面にのめり込んでいくような重さを感じた。足も緊張感から解き放たれたのだろう。なかなかに考える足だ。
本日歩行距離は14.6km。

中原街道は全行程72kmほどと言われている。私は今回、6日間に分けて寄り道迷い道なども含めて総歩行距離は84.8km。所要時間はおよそ18時間半。闇雲に歩けば2日で踏破できる距離ではあるが、道行を存分に楽しんだ旅であった。
中原街道なんてこれまでに何度も車で走っている、勝手知ったる道だったはずなのだが、歩く速度、歩く視線で辿ってみると、新しい発見だらけで、深く深く勉強になる、知的好奇心をくすぐられっぱなしの道行であった。相当な愛着も湧いた。だからやめられないのだ。苦なんてほとんど感じない(人工で単調な道が続くのは苦)。

葛飾北斎「富嶽三十六景」にも「相州仲原」が描かれている
ペンディングになっている大山街道も、早く終わらせなければいけない。と思いつつ、つい放っておいてしまっている。いかん。
また、中距離・近距離の街道を探して歩きたい。
記事化がいつも相当遅くて、これは自己嫌悪。お付き合いいただいた方には深謝、深謝。
