【中原街道】第二日・五反田~のちめ不動〈其の二〉 | 百社詣で・百寺詣で

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環八を越えると旧道が復活して多摩川へ

 

 洗足池から中原街道はまた緩やかな登りとなる。右側に庚申塔を見つける。かなりごっつい石の角柱で、背後に説明板がある。簡単にまとめる。

 建立したのは品川の御忌講、文化十一年(1814)のこと。御忌講とは法然上人の忌日に浄土宗の信仰者が集う講。角柱型の庚申供養塔は江戸後期の特色という。

 

 

 元々は延宝六年(1678)に建てられたものの再建と背面の銘文からわかる。また、右には浄真寺への道標となっている。浄真寺は九品仏。つまりここが中原街道から浄真寺への分岐点だったのだ。往時の人の行き来が目に見えるようで、こういう説明は実に有意義だ。

 登り切るとまた緩やかに下っていき、石川台の信号、その近くに小さな川が流れている。これは呑川。ここに「清流の復活」という説明版がある。東京都環境局自然環境部によるものだ。かいつまんでみる。

 呑川は世田谷区新町を源として大森で東京湾に注ぐ。灌漑や舟運に利用されていたが、都市化とともにその需要が減り、水質も悪化した。そこで平成七年(1995)に清流復活事業を始めた。水は現在、新宿区上落合にある落合水再生センターから送水管を通ってここに流れてくる。

 

呑川、もはや水路と化している

 

 潤沢に費用があるのならこの事業も意義があるとは思うが……。都民が憩う場所の樹を切るよりはいいとは思うが。どうなんだろう。

 その呑川、コンクリートで固められて、人々が立ち止まって喜ぶような川にはなっていないみたいだが、汚くはない。あくまでも治水なのだろう。安全は相当に確保されているとは思うが、これに清流という印象は持てない。

 まあ、それを言っても仕方ない。

 それよりももうひとつ、ここには石橋供養塔があり、きっちり説明してくれている。

 

石橋供養塔、誰にも気付かれずに

 

 安永三年に石橋の安泰を願って建てられた供養塔で、石橋供養塔は民間信仰供養塔と兼ねたものが多いのだが、これは純粋に交通安全を祈ったもので、珍しいという。今では供養塔になんと書かれているか判然としないが、「南無妙法蓮華経」と刻まれているという。このあたりは日蓮宗の寺が多いらしい。それも洗足池や池上本門寺の圏内だからだろう。

 何より、江戸時代すでにこの中原街道に石橋が架けられていたという事実に驚く。木の橋ではないのだ。往来が多い街道で、水害も多かった、ということから望まれた橋だったのだろうか。

 石川台という地名も、この石橋がある川というところから来たものなのだろうか、とちょっと調べてみるが、そういうことは見つからない。『新編武蔵風土記稿』にはこの川に触れる記述があり、呑川を当地の人は石川と呼んでいた、とある。だから何故石川と呼んでいたかが知りたいのだが、それはわからなかった。でも石橋があったことによる可能性は高い。

 余計なことも含めて、いろいろと考えてしまった。余人は通り過ぎていくだけだろうが。

 

二日目のルート概念図

 

 ここからまた緩やかに登っていき、ほどなく左側に池上線の雪が谷大塚駅が中原街道と接する。それと同時に、街道に車の列が並びはじめる、ことが多い。その先にあるのが環八の立体交差なのだ。西角には田園調布警察がある。

 

環八との立体交差

 

 環八下の横断歩道を渡ったら、中原街道のひとつ南側に細い道があり、これが旧中原街道。ここから多摩川にぶつかるまでは旧道が残っている。

 

環八立体交差からは旧道がしばらく続く

 

 わずかな傾斜の下りを数分歩くと、「さくら坂上」の交差点がある。この坂が例の「桜坂」である。信号を過ぎると道が三つに割れる。中央が形としては切り通しとなって下っており、両サイドの道は下らずに左右の住宅に沿っている。途中に両サイドを繋ぐように歩道橋があり、桜坂を見下ろせる。その名の通りに桜の木が繁り、日中でも仄暗い感じだ。

 

桜坂に架かる陸橋から下り方面を見る

 

 ここは桜坂通りと名付けられている。坂はそれほど長いものではない。下りきったところに東光院という寺があり、手水鉢の背後にあるステンドグラスが異様ながらも美しい。その横の水路は六郷用水の名残として整備され、遊歩道も設置されている。

 

東光院の手水背面のステンドグラス、火の鳥だ

 

 そこからすぐに東急多摩川線沼部駅横の踏切を渡る。このあたりの道は狭く、そのくせトラックなどが走っている。しかしすぐに多摩川の土手に出る。

 

沼部駅横の踏切を渡る

 

 このあたりに当時は丸子の渡しがあったようである。もちろん現在はない。上流方向に丸子橋がある。全長約400メートル、現在の橋は二代目で2000年に片側2車線の橋として完成した。そう、昔は1車線だった。

 

丸子橋、東京と神奈川の県境

 

丸子の渡しがこのあたりにあった、今は目の前にタワー・マンション群

 

 丸子橋まで来た。ここを渡れば神奈川県。このあたりまでは時折歩いてくるので、我がテリトリーに帰ってきた感が強い。

 

 

ほぼ昔の街道が残るが、狭くて歩きづらい

 

 丸子橋を渡るとすぐにY字路。左が綱島街道、右が中原街道。綱島街道のほうが交通量も多く、本線扱いだ。Y字路手前の青い道路標示には、中原街道側に「✖︎ 大型」とはっきり書かれている。それだけ厳しい道なのだ?

 

 

 右の中原街道を進む。ここから県道45号、寒川まで続く。しばらくはまっすぐな道で、歩道もあり、普通の都市近郊の町という印象。だが、この通り沿いには実に多くの街道案内や説明板が設置されている。ここは川崎市中原区。中原街道が通っていたから中原区と名付けられただけあって、この街道に対するエネルギーをひしひしと感じる。歩いている身としては、何やら楽しくなってくる。

 まずは「川崎歴史ガイド 中原街道」の表示。かなりくたびれており、そこそこ昔から設置されていると思われる。

 

 

 すぐに真新しい木標「中原街道」。設置は武蔵中原観光協会。武蔵中原に観光協会があったのか、というほうが驚きだ。

 

 

 次に現れるのが国登録有形文化財の「原家旧住宅表門(陣屋門)」と「原家旧住宅稲荷社」。明治後期の近代和風建築という。ここは現在「GATE SQUARE 小杉陣屋町」というマンションになっており、一階には歴史関連のギャラリーなっている。上記の文化財をそのままにデザインされた集合住宅という、なかなか斬新な試みなのである。

 

原家旧住宅表門(陣屋門)

 

 原家というのはこのあたりの豪農で、氾濫する多摩川の水害を守るために石橋をかけるなど尽力していたため、屋号は石橋だった。江戸末期から商売をはじめ、肥料から材木、醤油、味噌などを扱い、明治期には銀行を創業する。東横線開業時にはその用地を提供するなど、開通の一翼を担った。神奈川県議も複数出しており、土地の名士なのだ。今は上記マンションなどを扱う不動産業を営んでいる。なるほど、ルーツの土地を守るためにデザインされたマンションだったのだ。

 

洒落た灯にも遊び心が

 

 その近くには「中原街道」の石標がある。「右 江戸 十粁」、「左 平塚 五十粁」とあり、なかなか味があるがそれほど古いものではなさそうである。

 

 

 間髪入れずに「旧名主家と長屋門」の案内板。このあたりの名主の代表であった安藤家の長屋門や高札などが残っている。

 まっすぐな道を行き着くと、中原街道と言えばここ、というほど良くも悪くも名物のカギ道だ。いわゆるクランク。しかも細くて歩道もなくて、歩くにも車を運転するにも厄介な場所なのだ。

 カギ道は城下町でよく見られるが、ここにあるのは何故なのか。それはここに徳川家の小杉御殿があったから。

 

 

 中原街道を下るにあたり、いくつかの御殿があるのだが、そのひとつ。休憩したりときには宿泊した御殿である。不意の襲撃などに備えたカギ道なのである。

 それが未だにそのまま残っていて、中原街道として現役、車の通行量も非常に多いのだ。

 

 

 これを解消するために随分前からショートカット、ストレートに結ぶ道を作っている。2025年開通予定とも言われているが、工事が捗っているようには見えない。土地の確保もできているのだろうか。

 このバイパスが完成し、しかしカギ道はそのまま残して車の危険がなくなった状態で歩けるようになればいい。

 ちなみにこのあたりの住所は小杉御殿町、小杉陣屋町である。

 

右へ曲がるのが中原街道、歩くにはなかなか用心がいる

 

 さて、前後に首を振りつつこのカギ道を歩く。横を走る車とは腕が当たりそうである。カギ道を無事に過ぎるが、しばらくはまだ道は狭く危ない。途中にある庚申塔は道標も兼ねており、「東江戸道」、「西大山道」、「南大師道」と掘られていることから、当時は追分だったと思われる。

 

かなり立派な庚申塔

 

 そのすぐ先に小杉十字路。中原街道と府中街道が交差する場所だ。だから東横線武蔵小杉駅が開業するまでは、こちらがこのあたりで一番賑やかな町だった。今では想像もつかないが、旅館や料理屋、劇場が立ち並んでいたということだ。

 

 

川崎市から横浜市へ、このあたりは勝手知ったる

 

 小杉十字路を越えると幾分道が広くなり、歩道も整備されているので緊張が解ける。すぐに二ヶ領用水の橋を渡る。

 

二ヶ領用水

 

 二ヶ領用水は川崎市の西から東をほぼ網羅していると言っていいほどの長い用水路で、江戸初期には完成している。多摩川から水を引き、先ほど通ってきた六郷用水を手掛けた用水奉行・小泉次大夫によって開削された。稲毛領と川崎領に跨ることから二ヶ領用水と呼ばれ、先の六郷用水と合わせて四ヶ領用水とも、また治太夫堀とも呼ばれた。

 

JR南武線武蔵中原駅手前

 

 ほぼまっすぐな道を数百メートル行くとJR南武線の武蔵中原駅の高架が見える。これを潜り少し行くと右に大戸神社。室町末期創建で、当初は戸隠明神と呼ばれていた。

 

大戸神社

 

 このあたりもずっとまっすぐ。マンションや店舗がまだらに並んでいる。下新城の交差点を過ぎ、千年の交差点まで似たような街並みの中を歩く。

 千年の交差点に斜め右に細い坂道がある。こちらが旧中原街道。だが300メートルほどでまた現中原街道に合流する。

 

千年交差点の先、右に短い旧道が残る

 

 合流地点の右の高台の上に、橘樹官衙遺跡群がある。10年ほど前に国の史跡に指定され、2024年5月には飛鳥時代の倉庫を復元した「橘樹歴史公園」がオープンした。ここは七世紀以降、武蔵国橘樹郡の郡役所が置かれた場所で、いわば地方行政機関の跡だ。飛鳥時代の倉庫が再現されるのは全国初という。

 

橘樹歴史公園、飛鳥時代の復元倉庫(2024年5月21日撮影)

 

 そこからはなだらかな下り坂。だが車の通行量は多い。つい近年、ここもようやく歩道ができたのだが、それ以前は車を気にしながら歩かなければならないエリアだった。

 野川の交差点を過ぎると、また道は細くなる。一応歩道はあり、ガードレールも備えられているが、相当に狭い。人が行き違うのがやっとで、自転車など来ると双方余程身を縮めなければならない。

 

野川交差点からは歩道はあってないようなもの

 

 そのガードレールも途中からなくなり、路面から少し嵩を上げた細い歩道となる。しかも途中にバス停があり、大概結構人が並んでいて、そうなると歩く余地などなし。車を気にして車道に降りざるを得ないということがよくある。これは何とかしてほしいものだ。

 総じて、中原街道の川崎市部分は歩くには適さないかな、という印象になってしまう。残念なことだ。少しずつ改善はされているとは言え。

 久末のT字路を越えると、横浜市都筑区に入る。すると、言いたくないのだが、歩道が広くなるのである。

 

川崎市から横浜市へ

 

 ほどなく第三京浜の下を潜り、左側に鎌田堂。これまで二度も紹介している小さなお堂。頼朝の父、源義朝の郎党であった鎌田正清の屋敷がこのあたりにあり、そこに建てられたお堂である。一礼。

 

第三京浜の下をくぐる

 

鎌田正清の屋敷跡に建てられたという鎌田堂

 

 そのすぐ先に道中坂下の信号があり、ここを斜め右に小道が分かれる。これもわずか100メートル余りの旧道。

 

右の細い道が旧道、ほんのわずかな距離

 

 本道に合流し、そしてまた右斜めに小道。これは次に本道に合流するまで1km弱くらいはある。この間の今の中原街道は私が若い頃にはなく、この旧道だけだったことを覚えている。ここは相当に細い道なのだが、車はほぼ本道を行くので、車通りは少ない。とは言え、気は抜けぬ。

 

上と似たような分岐、土地に詳しくなければわかりづらい

 

 少し行くと右に旧な階段があり、その上にのちめ不動。のちめの名はかなり古い記録にも書かれているので、中原街道の名の知られた土地だったのだろう。

 

 

 そこを過ぎると「のちめ不動前」の交差点。我が家に一番近い、わかりやすい地点として、この日はここを終着地とした。午後3時40分。歩行距離は19.82km。

 

のちめ不動の交差点で2日目を終える