【中原街道】第一日・虎ノ門~五反田〈其の二〉 | 百社詣で・百寺詣で

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中原街道は平安の道でもあった

 

 坂を登りはじめる。何故聖坂、という疑問にすぐに答えてくれるように道の端に棒標が立っている。

「ひじりざか 古代中世の通行路で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所もあったためという。竹芝の坂と呼んだとする説もある」

 このしばらく行ったところに高野山別院がある。そのための命名かと思ってしまうが、高野山別院は江戸初期に当地に勧請されている。棒標には古代中世とあるから、それ以前から高野山とこのあたりは何かしらの縁があって、聖坂と名付けられたのだろう。

 緩くもなく、きつくもなくといった傾斜の坂を登っていく。途中右側に小さな社、亀塚神社がある。そこそこ登っていく。この高低差を考えると、まずこのあたりも海と陸の際(きわ)だったのだろうという感じだ。

 

亀塚神社

 

 東京、江戸はほんの何百年前まではかなり複雑に海が入り込んだ場所だった。今平地であるところのほとんどは埋め立てて土地にしており、東京の魅力的な坂の数々は武蔵野台地の端っこ、海に落ちていく、あるいは谷に落ち込む場所だったわけだ。

 聖坂をほぼ登り切ったあたり、左側に児童公園があり、亀塚公園とある。ここも亀塚だ。ここにかなり大きな「公園付近沿革案内」の説明板がある。それによれば。

「この公園付近は江戸時代、上野沼田藩土岐家の下屋敷で、明治維新後は皇族・華頂宮邸となった」

「ここは三田台から高輪、八ツ山に及ぶ一連の丘陵地の東端」

 そしてその後にさらに続けて。

「平安時代、菅原孝標の女が著した『更級日記』に紹介された竹芝皇女の物語の遺跡といわれ、亀塚の伝説が残されている。塚は古墳とみられるが、人口の築山であることのほか、その証拠は得られていない」

 

公園内のこんもりと盛り上がった築山

 

 この案内が設置されたあと、さらに発掘調査が行われたらしく、その結果、この築山は古墳ではないことが判明したという。『更級日記』に記載されている竹芝皇女の話は、衛士との恋愛話である。そのこと自体は珍しい話ではないが、ここで「おっ」と思ったのは、菅原孝標と女(むすめ)が東国から京へ戻るときにこの道を通っていたという点だ。

 ときは寛仁四年(1020)というから平安の半ば頃。まだおそらく東海道は整備されていない。この道が中原街道と呼ばれるよりも随分前から、この道は東西を結ぶ主要官道だったということである。「家康の鷹狩りの道」であるとともに、平安貴族さえも往来した道だったのだ。感慨が深まる。

 

『石山寺縁起絵巻』に描かれた菅原孝標の女、右上の馬上、緑の衣に笠を被った人がそれらしい

 

 亀塚公園の逆側、街道の右側には十数の寺が今でも密集する寺町だ。その中に御田小学校がある。御田で「みた」。つまり三田は元々御田だった。やはり平安時代のこと、このあたりには禁中に年貢を奉っていたためと考えられている。まだ江戸とも呼ばれていない時代だ。寺町の中を下っていく坂は「幽霊坂」。ちなみに東京には幽霊坂が10以上もあるという。

 そしてすぐに伊皿子の交差点。伊皿子はここだったのか、と。名前は知っていたが、場所は朧げだった。江戸開府前後に日本に来た明人が当地で帰化し、当時の外国人の呼称であった「エビス」に「伊皿子」を当てたことからこの名となった。

 ちなみにこの交差点を右へ折れると魚藍坂である。

 

 

「件」は一見の価値あり、そして五反田へ

 

 住宅街のような、まばらな商店街のような細い道が続く。すると左に東海大の高輪キャンパス。その下は赤穂浪士の泉岳寺がある。

 そのすぐ先、左側に奇妙な石像がある。これが実にいい。

 

 

 阿吽の狛犬のように向かい合っているが、明らかに人面なのである。ちょっとオリエンタルな雰囲気を漂わしている表情に、体がこれは何だ、と考えていてようやく「もしや」の思いが。足のたたみ方などを見ると牛のようなのである。足先は蹄だろう。するとそう、人頭牛体の異な生き物、いや妖獣、「件(くだん)」なのではないだろうか。ここに件がいるとは。相当にテンションが上がった。

 件は江戸時代から語り継がれている妖獣。生まれるとすぐに作物の豊凶や天災などの予言をして、すぐに死んでしまう。そんな伝説が各地にあるのだ。南方熊楠や水木しげるなども注目した、不可思議な存在であり、言い伝えなのだ。件はばらせば「人」と「牛」。

 これに出会えただけでも今日一日の意義がある、というくらいに満たされた気持ちになったが、街道はまだはじまったばかりだ。

 左右の件の間を抜けると、承教寺がある。広く大きな屋根に、宝珠が輝く美しい本堂だ。ここには江戸中期の絵師で、英派の始祖である英一蝶の墓がある。

 何よりここ承教寺と言えば、二本榎である。

 江戸の頃、寺の境内に日本の大きな榎の樹があり、旅人にとってはとても良い目印となっていた。いつしかそれが二本榎という地名になり、樹が朽ちたあとも地名は残った。第二次大戦後にここの地名は高輪に変わってしまったが、二本榎の名を忘れないために、再び二本の榎が植樹され、今でも当地の象徴としての役割を果たしている。

 

 

 次の交差点が高輪警察署前。その先左に高野山東京別院がある。境内は広く、本堂は奈良の大寺を彷彿させるほどの迫力で迫る。

 参道には「四国八十八箇所お砂踏み」と書かれた小さな仏像が八十八並んでいる。それぞれ四国の八十八ヶ所の本尊で、巡拝に行けない人がここで八十八箇所詣でをするのだ。また、仏足石や三鈷のモニュメントなどもあり、小休止がてら境内を巡るのもいい。

 

高野山東京別院本堂

 

 ここから少し進むと左側にグランドプリンスホテル新高輪があるのだが、中原街道はこのあたり、不分明なのである。右へ折れるとすぐに国道1号線にぶつかるので、ここはそちらを辿るほうがよさそうである。

 

グランドプリンスホテル新高輪前の信号

 

 広い国道はゆっくりと下っていく、これが相生坂。そしてほどなく五反田駅に到着する。五反田は江戸の検地帳によれば、その名の通り五反(約1,500坪)の田があったことから付いた字名という説がある。確かに目黒川が削っただろう谷間地で、昔はもっと平坦な部分は少なかったと思われる。

 

五反田駅

 

 午後3時30分、本日はここまで。歩行距離は、9.75km。仕事を終えたあとのスタートとしてはまずまずの距離。

 思っていた以上に収穫の多い道行きであった。