┃至誠、盧を出だす
 大統元年(535)正月、西魏の丞相・略陽公の宇文泰が太宰・録尚書事の南陽王宝炬を皇帝とした。

 太原公の王思政はもと孝武帝の側近だったが、帝の死後も引き続き泰に任用され続けた。ただ、思政は宇文泰政権と関係が薄かったため、常に身に不安を感じていた。そんなとき、泰が華州にて諸公を集めて宴会を開いた。思政はこれに参加した。
 泰は錦織や毛織物及び諸種の綾絹数千段を諸公の前に出し、樗蒲(チョボ。遊戯の一つ。片面が黒、片面が白に塗られた五枚の平たい板を盤上に投げ、出た組み合わせによって勝負を決める)の結果がいい者から順々にこれを取らせていった。景品が全て無くなると、今度は自分が着けていた金帯を脱いで諸公にこう言った。
「一番早く盧(五枚全て黒。最上級の組み合わせ。盧は『黒』の意味)を出した者にこれを取らす。」
 諸公は樗蒱を振ったが、盧はなかなか出なかった。やがて思政の番になると、思政は顔つきを改めて地にひざまずき、こう誓って言った。
「私は外様の身であるのに、宰相(宇文泰)より国士の待遇を受けました! 以来、私は全身全霊を尽くしてその知遇に応えることばかりを願ってきたのです! 神霊よ、この至誠が真であるなら、盧を出だし、宰相にこれを知らしめたまえ! 少しでも偽りがあるなら、盧を出さないことで知らしめたまえ! 盧出なくば、一死以て謝し奉る所存!」
 その語気は非常に激烈で、一座を驚かせた。誓いが終わると、思政はやおら刀を抜き、それを膝の上に横たえたのち、五枚の平板を手に取り、もう片方の手で腿を打って気迫を込めてからこれを投げた。泰がこれを止めようとした時、五枚の平板は既に盧の組み合わせを出していた。思政はこれを見ると悠然と泰に拝礼をし、それから金帯を拝受した。これ以後、泰はますます思政に信頼を寄せるようになった。

○周18・北62王思政伝
 大統之後,思政雖被任委,自以非相府之舊,每不自安。太祖曾在同州,與羣公宴集,出錦罽及雜綾絹數〔千〕段,命諸將樗蒱取之。物既盡,太祖又解所服金帶,令諸人遍擲,曰:「先得盧者,即與之。」羣公〔擲〕將遍,莫有得者。次至思政,乃歛容跪坐而自誓曰:「王思政羇旅歸朝,蒙宰相國士之遇,方願盡心効命,上報知己。若此誠有實,令宰相賜知者,願擲即為盧;若內懷不盡,神靈亦當明之,使不作也,便當殺身以謝所奉。」辭氣慷慨,一坐盡驚。即拔所佩刀,橫於膝上,攬樗蒱,拊髀擲之。比太祖止之,已擲為盧矣。徐乃拜而受〔帶〕。自此之後,太祖期寄更深。


 ⑴南陽王宝炬…元宝炬。507~551。北魏の孝文帝の子の京兆王愉の子。母は楊氏。剛毅な性格で、高歓の側近の高隆之を殴り飛ばした事がある。508年に父が叛乱を起こして誅殺されると兄弟たちと共に宗正寺に幽閉されたが、515年に宣武帝が崩御すると解放された。正光年間(520~525)に直閤将軍とされたが、孝明帝と共に胡太后の寵臣たちの誅殺を図ったのがばれ免官に遭った。のち528年に邵県侯とされ、530年に南陽王とされた。532年に孝武帝が即位すると侍中・太尉とされ、533年に太保・開府・尚書令とされた。534年、孝武帝と高歓が対立すると中軍四面大都督とされた。のち帝に従って入関し、太宰・録尚書事とされた。


┃洛陽攻略

大統三年(537)、10月、癸巳(2日)宇文泰が沙苑(長安の東北)にて高歓の大軍を大破した[→537年⑶参照]。〕
 泰は馮翊王季海を行台とし、開府の独孤如願・李遠大都督の王思政らと共に二万を率いて洛陽を陥とすように命じた。
 思政は驃騎将軍とされ、精兵を募って従軍した。
 季海らの軍が東魏洛州の新安郡(洛陽の西)に到ると、恒農から洛陽に撤退していた高敖曹は更に黄河の北に退いた。東魏の洛州刺史の広陽王湛広陽王淵〈526年(2)参照〉の子)は城を棄てて河陽に逃亡し、長史の孟彦は城を挙げて西魏に降った。如願らは洛陽を占拠し、金墉城(洛陽城内西北にある堅城)に本陣を置いた。

○魏孝静紀
 寶炬又遣其子大行臺元季海、大都督獨孤如願逼洛州,刺史廣陽王湛棄城退還,季海、如願遂據金墉。 
○周文帝紀
 遣左僕射、馮翊王元季海為行臺,與開府獨孤信率步騎二萬向洛陽;洛州刺史李顯趨荊州;賀拔勝、李弼渡河圍蒲坂。…初,太祖自弘農入關後,東魏將高敖曹圍弘農,聞其軍敗,退守洛陽。獨孤信至新安,敖曹復走度河,信遂入洛陽。
○周18王思政伝
 轉驃騎將軍。令募精兵,從獨孤信取洛陽,仍共信鎮之。


 ⑴独孤如願…字は期弥頭。503~557。おしゃれ好きの美男子で、若い時に『独孤郎』と呼ばれた。武川出身で、宇文泰の幼馴染み。爾朱氏に仕え、韓婁討伐の際、漁陽王の袁肆周を一騎打ちで倒して捕らえた。530年、荊州の新野鎮将・新野郡守とされ、間もなく荊州防城大都督・南郷守とされると、その両方において政績を挙げ、淅陽郡守の韋孝寛と共に『連璧』と並び称された。賀抜勝が南道大行台・荊州刺史とされると大都督とされた。間もなく孝武帝の信任を受け、帝が関中に逃れるとこれに付き従って入関し、宇文泰の配下となった。のち荊州攻略を任されたが、東魏の反撃に遭って梁への亡命を余儀なくされた。3年後の537年、西魏に帰還した。540年、隴右十一州大都督・秦州刺史とされ、以後長く西魏の西境を守り、信の名を与えられた。557年、宇文護との政争に敗れ、自殺に追い込まれた。
 ⑵李遠…字は万歳。507~557。十二大将軍の一人。李賢の弟。宇文泰が侯莫陳悦を討伐した際、兄と共に原州にて内応し、泰に非常に気に入られて腹心とされた。のち東方の要地の守備を任された。東魏の北豫州刺史の高仲密が西魏に寝返った際、率先して迎えに行くことを主張した。のち、孝閔帝が宇文泰の後継者となるのに大きく貢献した。557年、子の李植が宇文護の排除を企んだ事に連座して自殺に追い込まれた。
 ⑶高敖曹…501~538。名門勃海高氏の出。敖曹は字で、本名は昂。高翼の第三子。高乾・高仲密の弟、高季式の兄。母は張氏。母の激しい気性を受け継ぎ、幼い時から豪放で、度胸は並外れて強く、勇士の相があってとても逞しい体つきをしていた。『地上の虎』を自称した。家産を尽くして剣客を抱え込み、兄の乾と共にあちこちを荒らし回った。爾朱栄が河陰にて百官を虐殺すると河北の流民を率いて斉州の東平原に叛し、葛栄の傘下に入り、斉州軍を幾度も撃破した。のち帰順したが、その後も暴れ回ったため捕らえられて監禁された。爾朱栄が死ぬと孝荘帝に救い出され、爾朱世隆の洛陽侵攻を撃退した。のち郷里の冀州に帰って募兵するよう命じられた。間もなく帝が爾朱兆に殺されると挙兵し、爾朱羽生率いる五千の兵をたった十余騎で撃破した。馬槊(馬上矛)の扱いが絶妙で天下に比類無く、項籍(項羽)になぞらえられた。のち高歓が山東にやってくると渋々これに従い、韓陵の決戦では歓の窮地を救う大功を挙げた。歓が孝武帝と対立して洛陽に攻め込むと先鋒とされ、帝が関中に逃走すると精騎五百を率いて追撃したが追いつけなかった。のち行豫州事とされ、賀抜勝を梁に追いやった。東魏が建国されると司徒とされた。535年、荊州を陥として独孤如願・楊忠らを梁に追いやった。梁の元慶和が北伐してくると三万の兵を率いて項城に赴いた。536~7年、西南道大都督とされて西魏の洛州に侵攻し、重傷を負いつつも陥とす事に成功した。ただ、竇泰が小関にて戦死し東魏軍が混乱を来したため撤退した。劉貴に「頭銭価漢」と罵られるとこれを斬ろうとしたが果たせなかった。沙苑の決戦の際には恒農を包囲し、本軍が大敗を喫すると撤退した。538年、侯景と共に潁州を奪還した。のち、河橋の戦いにて戦死した。

┃河橋の決戦
大統四年(538)、東魏軍が反攻を開始し、潁州などを奪還して洛陽に迫った。
 7月、壬午(25日)、東魏将の侯景・高敖曹らが洛陽の金墉城を包囲した。宇文泰は急報を聞くと西魏の文帝を連れてその救援に向かった。
 8月、辛卯(4日)、両者は洛陽の東北にある河橋付近にて激突した。西魏軍は初め優勢で敖曹を討ち取るほどの勢いを示したが、やがて疲弊して劣勢となり、撤退に追い込まれた[→538年⑵参照]。〕

 西魏の大都督の王思政はこの戦いの際、馬から下りて戦い、長矟(非常に長い馬上槍)を用いて敵を左右に薙ぎ払い、一擊にして数人を倒した。しかし武運拙く、従う者はみな討ち死にし、思政も深手を負って昏倒した。しかし思政は戦いのさい常に、使い古してぼろぼろになっていた鎧を身に着けていたため、敵に将軍と思われず、そのため死を免れることができた。ちょうど日が暮れて敵が撤収すると、思政の帳下督の雷五安が泣きながら思政を探し求めた。思政が意識を取り戻してこれに応じると、五安は思政に駆け寄り、己の衣服を引きちぎって止血し、更に思政が乗馬するのを助けた。かくて思政は深夜に泰のもとに帰還することができた。

○周18・北62王思政伝
 及河橋之戰,思政下馬,用長矟左右橫擊,一擊踣數人。時陷陣既深,從者死盡,思政被重創悶絕。會日暮,敵將(亦)收軍。思政久經軍旅,每戰唯著破〔衣〕弊甲,敵人疑非將帥,故〔得〕免。有帳下督雷五安於戰處哭求思政,會其已蘇,遂相得。乃割衣裹創,扶思政上馬,夜久方得還。

 ⑴侯景…字は万景。503~552。高歓の友人。身長七尺に満たず、胴長短足だったが、整った容姿を持ち、額は広く頬骨は高く、赤ら顔で髭薄く、眼は下を向いてしばしば左右に揺れ動き、声はしわがれていた。右足が左足より短かったため、弓や馬の扱いに不得手だったが、その代わり智謀に優れていた。性格は残虐で軍法を厳しく執行したが、戦利品を得ると気前よく将兵に分け与えたので兵士からの評判は良く、戦えば殆どの確率で勝利を得た。爾朱栄に仕え、滏口の戦いでは先鋒を務めて葛栄を捕らえる大殊勲を立て、定州刺史・大行台・濮陽郡公とされた。のち、驃騎大将軍・行斉州事とされた。爾朱氏が滅びると高歓に仕え、儀同三司・兼尚書僕射・南道大行台・済州刺史とされ、黄河以南の軍事権を委任された。532年、青州の乱を平定した。534年、荊州を陥として賀抜勝を梁に亡命させ、535年、再び荊州を陥として独孤如願や楊忠を梁に亡命させた。梁の元慶和が北侵してくると迎撃に赴いた。537年、西道大行台とされ、虎牢にて練兵を行なった。沙苑の決戦の際には火攻めに反対した。538年、潁州・広州を奪還した。


┃東道行台
 泰は恒農から長安に向かうにあたり、王思政を侍中・東道行台として恒農の守備を任せた。

 思政は玉壁(河東と平陽の中間)が要害であることから、ここに城を築くことを朝廷に求め、許可されると恒農から玉壁に鎮所を移した。西魏は思政を都督汾晋并三州諸軍事・并州刺史とし、東道行台はそのままとした(詳細な時期は不明)。

○周18・北62王思政伝

 仍鎮弘農〔,除侍中、東道行臺〕。 思政以玉壁地在險要,請築城。即自營度,移鎮之。遷〔汾晉并三州諸軍事、〕幷州刺史〔,行臺如故〕,仍鎮玉壁。

┃玉壁の戦い

大統八年(542)、9月、〕高歓が西魏討伐の軍を起こし、汾・絳経由で長安に攻め入らんとした。その軍営は四十里に連なった。
 冬、10月、己亥(6日)、歓は玉壁を囲み、宇文泰がこれを救いに来るのを待ったが、泰はその手には乗らなかった(魏孝静紀では甲寅〈21日〉?)。
 歓は思政に投降を誘う書簡を送り、こう言った。
「もし降るなら、并州刺史に任じよう。」[1]
 思政は長史の裴侠に返書を書かせて言った。
可朱渾道元道元は元の字)は、降っても[→535年⑴参照]并州刺史とされなかったではないか!」
 泰はその激烈なる文章を褒めてこう言った。
魯仲連戦国斉の人で、弁舌・文章に優れる)でもこれ以上のものは書けまい。」

 11月、癸未(21日)、歓軍はおよそ九日に渡って大雪に遭い、多くが飢えや凍えによって死んだ。歓はそこで囲みを解いて撤退した(魏孝静紀では壬午〈20日〉)。
 思政は玉壁を守りきった功により、驃騎大将軍・開府儀同三司とされた[→542年参照]。

○資治通鑑
 東魏丞相歡擊魏,入自汾、絳,連營四十里,丞相泰使王思政守玉壁以斷其道。歡以書招思政曰:「若降,當授以并州。」【高歡以晉陽為根本,并州之任要重於諸州】思政復書曰:「可朱渾道元降,何以不得?」冬十月己亥,歡圍玉壁,凡九日,遇大雪,士卒飢凍,多死者,遂解圍去。魏遣太子欽鎮蒲坂。丞相泰出軍蒲坂,至皂莢,聞歡退渡汾,追之,不及。
○魏孝静紀
 冬十月甲寅,蕭衍遣使朝貢。齊獻武王圍寶炬玉壁。十有一月壬午,班師。
○周文帝紀
 冬十月,齊神武侵汾、絳,圍玉壁。太祖出軍蒲坂,將擊之。軍至皂莢,齊神武退。太祖度汾追之,遂遁去。
○北斉神武紀
 九月,神武西征。十月己亥,圍西魏儀同三司王思政於玉壁城,欲以致敵,西師不敢出。十一月癸未,神武以大雪,士卒多死,乃班師。
○周18・北62王思政伝
 八年,東魏〔復〕來寇,思政守禦有備,敵人晝夜攻圍,卒不能克,乃收軍還。以全城功,受驃騎大將軍〔、開府儀同三司〕。
○周35・北38裴侠伝
 王思政鎮玉壁,以俠為長史。未幾為齊神武所攻。神武以書招思政,思政令俠草報,辭甚壯烈。太祖善之,曰:「雖魯〔仲〕連無以加也。」

 [1]并州は歓の根拠地で、他州よりも重要な地であった。

┃追撃を防ぐ
大統九年(543)、2月、壬申(12日)、東魏の北豫州(治 虎牢)刺史の高仲密が西魏に寝返った。宇文泰はその救援に赴いた。高歓はその迎撃に赴いた。
 3月、戊申(18日)、両者は邙山(洛陽の近北)にて激突した。東魏将の彭楽が西魏軍を大破し、泰をあと一歩の所まで追い詰めた。
 己酉(19日)、西魏軍が態勢を立て直し、歓の本陣に集中攻撃して賀抜勝が歓をあと一歩の所まで追い詰めたが、結局大敗を喫して逃走を余儀なくされた[→543年⑴参照]。〕

 これより前、泰は仲密の救援に赴くにあたり、玉壁を守備している汾晋并三州諸軍事・并州刺史・東道行台の王思政に早馬を出し、仲密に代わって虎牢(成臯)を守備するように命じていたが、大敗を喫してそれどころではなくなると、思政を途中で引き返させて恒農の守備に就かせ、東魏軍の追撃に備えさせた。
 思政は城に入ると城門を全開にし、鎧を脱いで横になり、くつろいだ姿で将兵を慰労した。将兵はこれを見ると敵は大したことが無いのだと思い、心を落ち着かせた。その数日後に東魏将の劉豊が城下に到達したが、城内がすっかり落ち着いているのを見て警戒し、軍を返した
 思政は〔洛陽を喪った事で最前線となった〕恒農の防衛の強化に力を入れ、城郭を修築して物見櫓を建て、屯田を行なって兵糧を確保し、馬草を貯蔵するなどして防衛のために必要なものを全て整えた。以降、恒農は堅城となった。

○周文帝紀
 齊神武進至陝,開府達奚武等率軍禦之,乃退。
○周10宇文導伝
 太祖率諸將輔魏皇太子東征,復以導為大都督、華東雍二州諸軍事,行華州刺史。導治兵訓卒,得守捍之方。及大軍不利,東魏軍追至稠桑,知關中有備,乃退。
○周18・北62王思政伝
〔高仲密以北豫州來附,周文親接援之,乃驛召思政,將鎮成臯。未至而班師,〕復命思政鎮弘農。〔思政入弘農,令開城門,解衣而臥,慰勉將士,示不足畏。數日後,東魏將劉豐生率數千騎至城下,憚之,不敢進,乃引軍還。〕於是修城郭,起樓櫓,營田農,積芻秣,凡可以守禦者,皆具焉。弘農之有備,自思政始也。
○周19達奚武伝
 遷侍中、驃騎大將軍、開府儀同三司。出為北雍州刺史【[二]北史卷六五 達奚武傳無「北」字】。復戰邙山,時大軍不利,齊神武乘勝進至陝。武率兵禦之,乃退。

 ⑴高仲密…本名は慎で、仲密は字。北魏の司空の高乾の弟で、東魏の司徒の高敖曹の兄。兄弟と違って読書を好んだ。531年頃に滄州刺史・東南道行台とされ、532年に儀同三司・光州刺史とされると非常に厳しい政治を行なった。534年に兄の乾が孝武帝に殺されると州を棄てて高歓のもとに亡命し、大行台左丞→尚書とされた。のち行台僕射とされて安州を討平した。537年頃、侍中・開府とされた。538年に兗州刺史とされ、間もなく御史中尉とされたが、御史の多くを縁故採用して名望のある者を用いなかったため、歓の子で尚書令の高澄に改選を命じられた。初め澄の腹心の崔暹の妹を妻としていたが、これを離縁して李昌儀を妻に迎えた。澄が昌儀を寝取り未遂すると澄への憎しみが募り、また、暹が自分を陥れようとしているのではないかと疑い、北豫州刺史とされると叛乱を起こして西魏に寝返り、侍中・司徒・勃海郡公とされた。
 ⑵彭楽…字は興。勇敢で馬と弓の扱いに長けた。初め杜洛周に従ったが、見限って爾朱栄に降った。のち滏口にて葛栄を破り、次いで都督となって羊侃を瑕丘に撃破した。529年、邢杲討伐中に二千余騎と共に叛し、韓樓のもとに亡命して北平王とされた。のち樓が爾朱栄に滅ぼされると再び栄に仕えた。のち高歓に仕え、韓陵の戦いでは先陣を切って突撃し、勝利に大きく貢献した。あるとき歓の依頼により子の高洋に襲いかかるふりをして度胸を試し、果敢に立ち向かわれるとネタばらしをしたが、聞く耳を持たれず捕らえられて歓のもとに引っ立てられた。537年の沙苑の決戦の際には戦う前から酔っ払い、狂犬の如く西魏軍の中に突っ込んで暴れ回ったが、腹を突かれて腸が飛び出る重傷を負った。
 ⑶賀抜勝…字は破胡。?~544。武川軍主の賀抜度抜の子。賀抜岳の兄。騎射を得意とし、六鎮の乱が起こると懐朔鎮を防衛し活躍した。のち爾朱栄に仕え、栄に「卿兄弟を得た今、天下の平定は容易いことだ」と評された。のち杜洛周や葛栄の侵攻に備えて井陘の守備を任された。529年、元顥討伐の際には前軍大都督とされ、顥軍を大破した。栄が死ぬと孝荘帝に付き、帝が爾朱氏に敗れると爾朱氏に降った。韓陵の戦いでは戦いのさなかに高歓に寝返って爾朱氏大敗のきっかけを作った。のち孝武帝に近づいて荊州刺史とされ、帝が高歓に敗れると梁に亡命した。のち北方に戻って宇文泰に仕え、邙山の戦いでは高歓をあともう少しのところまで追い詰めた。間もなく東魏に残していた家族を歓に皆殺しにされ、憤死した。
 ⑷劉豊…字は豊生。?~549。立派な容姿。剛毅果断な性格で弁才もあり、軍事について議論する事を好んだ。本貫は河間だが、のち普楽(薄骨律鎮→霊州)に移住した。六鎮の乱が起こると鎮城を守り抜いた功績により普楽太守・山鹿県公とされた。のち528年に霊州鎮城大都督とされた。のち涼州刺史とされた。535年、西魏の渭州刺史の可朱渾道元が東魏に亡命するのを助けた。536年、霊州刺史で岳父の曹泥が西魏に攻められた時、衛大将軍とされたが拒絶し、包囲を受けたが東魏の救援が来るまで守り抜いた。間もなく数万戸(五千戸?)と共に東魏に亡命し、儀同?・平西将軍・南汾州刺史とされた。538年の河橋の戦いでは一番の武功を挙げ、高歓に感嘆された。543年の邙山の戦いでは河橋を守備し、数千騎を率いて宇文泰を追撃したが、恒農にて王思政に阻まれ帰還した。のち左衛将軍とされ、547年に侯景が叛乱を起こすと慕容紹宗と共に討伐に赴いたが、一時敗北を喫して負傷した。のち殷州刺史とされ、潁川の王思政の討伐に赴き戦死した。武忠と諡された。
 ⑸周文帝紀・周19達奚武伝によると、このとき開府儀同三司の達奚武〈沙苑では堂々と敵陣中に入って偵察をして回り、河橋では莫多婁貸文を撃破し高敖曹を斬った〉らも陝〈恒農〉を防衛するのに一役買ったという。また、周10宇文導伝によると、東魏軍は稠桑にまで到ったが、行華州刺史の宇文導が関中の守りを良く固めているのを知ると引き返したという。

 

┃荊州赴任と韋孝寛推挙
 大統十二年(546)、西魏が荊州刺史・東南道行台僕射の長孫慶明を朝廷に呼び戻して大行台尚書・兼丞相府司馬とし、代わりに汾晋并三州諸軍事・并州刺史・東道行台の王思政を東道行台尚書左僕射・都督(〜諸軍事?)・荊州刺史とした(慶明は政治型なので、これを交代させたのは侯景の侵攻に対応するもの?)。
 荊州は多湿の低地で、城壁や堀の多くが崩れてしまっていた。思政がそこで都督の藺小歓にその補修を命じたところ、人夫が黄金三十斤を掘り当てた。小歓が夜中にこっそりこれを思政に送ると、朝になって思政は幕僚を呼び、黄金を見せてこう言った。
「人臣たるもの、私心があってはならない。」
 かくて黄金全てに封をして朝廷に送った。泰はその心がけを褒め、思政に二十万銭を与えた。
 思政はまた、武関以南の千五百里の地に三十余城を築いたが、それらはどれも要衝の地ばかりで、推挙した者もみな才能のある者ばかりだった。

 また、西魏の丞相の宇文泰は、思政を荊州刺史とした時こう尋ねて言った。
「誰に玉壁を任せればよいか?」
 思政は答えて言った。
「晋州刺史の韋孝寬は智勇兼備で、しかも不動の忠義心を持っています。彼に玉壁を守らせれば、必ずや国家の盾となってくれるでありましょう。今いる朝臣の中で、彼を超える人材はおりません。」
 泰は言った。
「私も彼の良い噂はよく聞いていた。その上、いま公が太鼓判を押すのだから、きっと大丈夫だろう。」
 泰はこれに従い、孝寛を兼摂南汾州事として玉壁を守備させた。孝寬は思政のやっていたことを全て踏襲し、兵士を育成し、兵糧を蓄えることに努めた。

○周26長孫倹伝
 在州遂歷七載。徵授大行臺尚書,兼相府司馬。
○周31韋孝寛伝
 八年,轉晉州刺史,尋移鎮玉壁,兼攝南汾州事。先是山胡負險,屢為劫盜,孝寬示以威信,州境肅然。進授大都督。
○周18・北62王思政伝
 十二年,加特進、〔兼尚書左僕射、行臺、都督、〕荊州刺史。州境(境內)卑濕,城壍多壞。思政方(乃)命都督藺小歡督工匠繕治之。掘得黃金三十斤,夜中密送之。至旦,思政召佐吏以金示之,曰「人臣不宜有私」,悉封金送上。太祖嘉之,賜錢二十萬。思政之去玉壁也,太祖命舉代己者,思政乃進所部都督韋孝寬。〔…初,思政在荊州,自武關以南延袤一千五百里,置三十餘城,並當衝要之地。凡所舉薦,咸得其才。〕
○北史演義
 且說宇文泰見東魏與蠕蠕通好,日夜慮其來寇。以玉壁地連東界,為關西障蔽,因厚集兵力,命王思政守之。繼欲遷思政為荊州刺史,苦於無人替代,乃召思政問曰:「公往荊州,誰可代玉壁者?」思政曰:「諸臣中唯晉州刺史韋孝寬,智勇兼備,忠義自矢。使守其地,必為國家湯城之固。當今人才無逾此者。」泰曰:「吾亦久知其賢,今公保舉,定屬不謬。」乃使思政往荊州,孝寬鎮玉壁。孝寬之任,簡練材勇,廣積芻糧,悉遵思政之舊。

 ⑴長孫慶明…491~568。もとの名は慶明。北魏の支流の出。容貌魁偉で、非常に堅物な性格をしていた。夏州時代からの宇文泰の部下で、その飛躍に大きく貢献した。のち、540~546年、549年以降の長期に亘って荊州を統治し、倹の名を与えられた。また、江陵攻略を進言した。557年、長子が宇文護暗殺を図ったことが問題視され、中央に呼び戻されて小冢宰とされた。562年に浦州刺史、564年に柱国大将軍・襄州刺史、566年に陝州刺史とされた。
 ⑵前島佳孝氏(『西魏・北周政権史の研究』)曰く…『前任者長孫倹は行政官として有能であったし、荊州は梁の襄陽と接して…本来であれば隣国に対する防備が蔑ろにされるはずがない。従ってこれは…それまでの国境の平安を示…すものであるかもしれない(西魏と梁は友好とは言えないまでも、それに準ずる関係が漢中攻防戦以後から構築されていたのであろう)。』
 ⑶韋孝寬…本名叔裕。509~580。関中の名門の出身。華北の大名士かつ智謀の士の楊侃に才能を認められ、その娘婿となった。北魏時代に政治面で優れた手腕を示し、独孤信と共に「連璧」と並び称された。のち西魏に仕え、高歓の大軍から玉壁を守り切る大殊勲を立てた。のち、江陵攻略に参加し、宇文氏の姓を賜った。556年、再び玉壁の守備を任された。561年に勲州(玉壁)刺史、564年に柱国、570年に鄖国公とされた。572年、北斉に流言を放ち、斛律光を誅殺に導いた。また、武帝に伐斉三策を進言した。577年、北斉が滅ぶと長安に帰って大司空とされ、のち延州総管・上柱国とされた。579年、徐州総管とされた。南伐の際には行軍元帥とされ、淮南の平定に成功した。580年、杞公亮の乱を平定した。天元帝が崩御して楊堅が丞相となり、尉遅迥が挙兵すると、堅に付いて行軍元帥とされ、討平に成功した。

┃高歓、再度玉壁を攻める
 一方、高歓はこれを聞くと、諸将を呼び集めてこう言った。
「先日玉壁にて志を得なかったのは、思政めがよく守備したからであるが、今その思政は荊州に行き、玉壁は別人が守備しているという。思政のおらぬ玉壁を陥とすことなど、朽ちた木を砕くように容易なことだ。」
 すると段韶が言った
「王が西征せんと欲するなら、玉壁にこだわらず、直接関中を突くべきです。孫子も敵の『備えざるを攻める』(始計篇、原文『攻其無備、出其不意。』)と言っています。何もいたずらに兵を堅城の下に集めることはございません。」
 歓は言った。
「それは違う。泰は玉壁を軍事の要地と思っておるから、わし直々これを攻めれば、〔今度こそ〕必ず救援に向かってくる。そこを撃てば、絶対に勝てる。」
 諸将も口を揃えてこう言った。
「その通りでございます。」

8月高歓が山東の兵をこぞって西魏討伐に出発した。
 9月、歓は玉壁を攻めたが孝寛の堅守に遭って陥とす事ができなかった。歓はやがて病の床に就いた。
 11月、庚子(1日)、囲みを解いて撤退した[→546年⑵参照]。〕

 東魏軍が退却し、孝寛が勝利を報じると、泰は喜んでこう言った。
王思政は人を見る目がある。」


○北斉神武紀
 四年八月癸巳,神武將西伐,自鄴會兵於晉陽。
○周18王思政伝
 其後東魏來寇,孝寬卒能全城。時論稱其知人。
○周31韋孝寛伝
 十二年,齊神武傾山東之眾,志圖西入,以玉壁衝要,先命攻之。
○北史演義
 高王聞之,謂諸將曰:「前日不得志於玉壁者,以思政善守耳。今易他人鎮之,吾取之如拉朽矣。」段韶曰:「王欲西征,不如直搗關中,攻其不備,無徒頓兵堅城之下。」王曰:「不然。泰以玉壁為重鎮,吾往攻之,西師必出,從而擊之,蔑不勝矣。」諸將皆曰:「善。」乃召高洋歸鎮並州。大發各郡人馬,親率諸將,往關西進發。
 武定四年九月,兵至玉壁城。…及東魏兵退,孝寬報捷,泰喜曰:「王思政可謂知人矣。」

 段韶…字は孝先。?~571。婁太后(後主の祖母)の姉の子。知勇兼備の将だが、好色でケチな所があった。邙山の戦いで高歓を危機から救った。また、東方光の乱を平定し、梁の救援軍も撃破した。560年、孝昭帝の権力奪取に貢献し、武成帝が即位すると大司馬とされた。562年、平秦王帰彦の乱を平定した。のち、563年の晋陽の戦い・564年の洛陽の戦いにて北周軍の撃退に成功し、その功により太宰とされた。567年、左丞相とされた。571年、病の床に就きながらも北周の汾州を陥とした。間もなく死去した。
 

 王思政伝⑶に続く