┃孝武帝の腹心

 王思政、字は思政は、太原郡(并州の治所)祁県の人で、後漢の司徒の王允の後裔である。王氏は曹魏の太尉の王凌が誅されてより顕職に就くことが無くなった。父の王祐は州主簿となった。
 思政は姿形が大きく立派で、知略に長けていた。正光年間(520~525)に出仕して員外散騎侍郎となり、万俟醜奴・宿勤明達らが関中を乱すと、北海王顥に意気盛んな所を買われてその討伐軍に加えられ(524~527年?)、常に軍議に招かれた。


 のち洛陽に帰還すると、評判を耳にしていた汝陽公修に招かれ、賓客として非常に手厚くもてなされた。

中興二年(532)4月高歓が爾朱氏連合軍を大破して洛陽に入城した。このとき歓は廃帝を擁立していたが、ここに至ってその血筋の悪さ(帝は五代文成帝の弟で傍系だった)が気にかかるようになり、明主・孝文帝の子孫を代わりに皇帝にしようとした。〕


 このとき、諸王の多くが身の危険を感じてあちこちに逃げ隠れており、尚書左僕射の平陽王修もと汝陽公修)も田舍に隠れ潜んでいた。歓はこれを擁立しようとして、斛斯椿に探し求めさせた。椿は修と親しかった員外散騎侍郎の王思政にその所在を問うと、思政は言った。
「何故そのような事を聞いてくるのですか?」
 椿は言った。
「天子に立てようと思うのだ。」
 思政がそこで修の居場所を答えて案内すると、修は顔色を変えて思政に言った。
「私を売るつもりでは無いだろうな?」
 思政は言った。
「もちろん違います。」
 修は言った。
「絶対に保証できるのだな?」
 思政は言った。
「時局は千変万化に動いておりますゆえ、保証はできかねます。」
 椿が馬を飛ばして歓に報告すると、歓は四百騎を派して修を氈帳[1]に迎え入れ、自分に邪心が無いことを、襟を濡らすほどに泣きながら述べた。修はそれでも己の徳の薄いことを理由に辞退したが、歓が再拝して固く求めてきたので、遂にこちらも再拝してこれを受け入れた。
 歓は氈帳より出でて皇帝用の衣服や装飾を用意し、沐浴してこれに着替えるよう求め、兵に夜通しその周囲を護衛させた。また歓は早朝になると、文武百官に手に手に馬鞭を持たせて帳中の修に拝謁させ[2]斛斯椿に即位を勧める上奏文を献じさせた。椿は氈帳の門に到ると,磬折(『へ』の形をした磬という楽器のように深く腰を曲げる礼)をして首をすくめ、恐れ多いようにふるまって中に入ろうとしなかった。そこで修は思政を通じてこれを手に取って読むと、こう言った。
「こう求められては、『朕』と称せざるを得ないだろうな。」
 これを受けて歓は廃帝に禅譲の詔を下させた。
 戊子(25日)、修は洛陽城の東にて皇帝の位に即いた。これが孝武帝出帝)である。
 帝は即位すると思政を腹心とし、安東将軍とした。のち更に祁県侯・武衛将軍とした。

○資治通鑑
 時諸王多逃匿,尚書左僕射平陽王修,懷之子也【廣平王懷,高祖之子;修於孝明帝從兄弟也】,匿於田舍。歡欲立之,使斛斯椿求之。椿見修所親員外散騎侍郎太原王思政,問王所在,思政曰:「須知問意。」椿曰:「欲立為天子。」思政乃言之。椿從思政見修,修色變,謂思政曰:「得無賣我邪?」曰:「不也。」曰:「敢保之乎?」曰:「變態百端,何可保也!」椿馳報歡。歡遣四百騎迎修入氈帳【氈帳,胡夷酋帥所居,漢人謂之穹廬】,陳誠,泣下霑襟,修讓以寡德,歡再拜,修亦拜。歡出備服御,進湯沐,達夜嚴警。嚴為警備也。昧爽【孔安國曰:昧,冥。爽,明;早旦。馬曰:昧,未旦也。陸德明曰:爽,謂早旦也】,文武執鞭以朝【軍中不能備朝服,故執鞭以為敬】,使斛斯椿奉勸進表。椿入帷門,磬折延首而不敢前【張守節曰:磬折,謂曲體揖之,若石磬之形曲折也。磬形皆中屈垂兩頭,言人屈腰則似也】,修令思政取表視之,曰:「便不得不稱朕矣。」【《書》曰:天位艱哉。又曰:毋安,厥位惟危。雖天人樂推,神器歸屬,賢君處此之時,慄慄乎懼其不勝也。平陽王視勸進表而發此言,驕滿之氣溢出於肝鬲之上,君子以是知其不能終】乃為安定王作詔策而禪位焉。
○魏出帝紀・北史孝武紀
 永安三年,封平陽王。普泰初,轉侍中、鎮東將軍、儀同三司、兼尚書右僕射,〔普泰中,〕又加侍中、尚書左僕射。
 中興二年夏四月,〔高歡既敗尒朱氏,〕安定王(廢帝)自以疏遠,未允四海之心,請遜大位。齊獻武王〔乃〕與百僚會議,僉謂高祖(孝文)不可無後,〔時召汝南王悅於梁,至,將立之,宿昔而止。又諸王皆逃匿,帝在田舍。先是,嵩山道士潘彌望見洛陽城西有天子氣,候之乃帝也。於是造第密言之。〕乃共奉王。〔居五旬而高歡使斛斯椿求帝。椿從帝所親王思政見帝,帝變色曰:「非賣我耶?」椿遂以白歡。歡遣四百騎奉迎帝入氈帳,陳誠,泣下霑襟。讓以寡德。歡再拜,帝亦拜。歡出,備服御,進湯沐。達夜嚴警。昧爽,文武執鞭以朝。使斛斯椿奉勸進表。椿入帷門,罄折延首而不敢前。帝令思政取表,曰:「視,便不得不稱朕矣。」於是假廢帝安定王詔策而禪位焉。〕戊子,即帝位於東郭之外。
○周18・北62王思政伝
 王思政字思政,太原祁人〔,漢司徒允之後也。自魏太尉凌誅後,冠冕遂絕。父祐,州主簿〕。〔思政〕容貌魁偉(梧),有籌策。魏正光中,解褐員外散騎侍郎。屬万俟醜奴、宿勤明達等擾亂關右,北海王顥率兵討之,〔聞思政壯健,〕啟思政隨軍。軍事所有謀議,竝與之參詳。時魏孝武在藩,素聞其名,顥軍還,乃引為賓客,遇之甚厚。及登大位,委以心膂,遷安東將軍。預定策功,封祁縣侯〔,為武衞將軍〕。

 ⑴万俟醜奴…?~530。高平鎮(原州)に割拠する勅勒族酋長の胡琛の部将。525年、涇州に侵攻し、北魏の名将の崔延伯を大破して戦死させた。間もなく琛が死ぬとその遺衆を引き継いで群雄の一人となった。527年、北魏の蕭宝寅を大破して一気に東秦州・岐州・北華州・豳州を制圧して長安に迫り、一時潼関も陥としたが、間もなく反撃を受けて東秦州・岐州などを喪った。宝寅が亡命してくるとこれを受け入れた。528年7月、天子を称し、趙を建国した。529年9月、東秦州を再び占拠した。のち岐州を包囲したが、530年、爾朱栄の討伐を受けて大敗し、捕らえられて斬られた。
 ⑵宿勤明達…?~531。夏州の人。高平鎮(原州)に割拠する勅勒族酋長の胡琛の部将。524年頃、豳・夏・北華の三州を荒らし回った。525年、万俟醜奴と共に涇州に侵攻し、北魏の名将の崔延伯を大破して戦死させた。のち醜奴が琛の跡を継ぐとこれに仕えた。530年、醜奴が北魏軍に敗れて捕らえられると降伏したが、間もなく再び叛乱を起こして北方に逃走した。間もなく賀抜岳の討伐を受けると東夏州に逃亡した。531年4月、捕らえられて斬られた。
 ⑶北海王顥…字は子明。?~529。もと北魏の北海王。孝文帝の弟の北海王詳の子。豪気な性格をしていた。徐州刺史とされたが、523年に汚職を働いた廉で除名された。のち復帰し、宿勤明達らから豳華二州を救う功を挙げた。爾朱栄が洛陽を陥とすと梁に亡命した。529年、梁将の陳慶之と共に洛陽解放の軍を起こして成功したが、すぐに爾朱栄の反撃に遭って敗れ、逃走中に殺された。
 ⑷汝陽公修…元修。字は孝則。510~534。孝文帝の孫で、広平武穆王懐の第三子。母は李氏。素朴で寡黙な人柄で、人情に厚く、広く学問を学んで武芸を好み、全身に龍の鱗のような紋様があった。十八歳の時に汝陽県公とされた。夢にて「お前は非常に尊い身分となり、二十五年にして亡くなるだろう。」と予言された。 530年に平陽王、普泰年間(531~532)に侍中・尚書左僕射とされた。
 ⑸高歓…字(鮮卑名)は賀六渾。496~547。懐朔鎮の出身。頭が長く頬骨は高く、綺麗な歯をしていた。貧しい家に生まれたが、大豪族の娘の婁昭君の心を射止めて雄飛のきっかけを得た。杜洛周→葛栄→爾朱栄に仕えて親信都督→晋州刺史とされ、栄が死ぬと紇豆陵步蛮を大破して栄の後継の爾朱兆の信を得、もと六鎮兵の統率を任された。その後冀州にて叛乱を起こし、爾朱氏を滅ぼして北魏の実権を握った。534年、孝武帝が関中の宇文泰のもとに逃れると孝静帝を擁立して東魏を建て、その大丞相となり、西魏と長きに亘って激闘を繰り広げた。
 ⑹斛斯椿…字は法寿。495~537。河西の左牧令の子。北魏末に叛乱が相次いで牧民が動揺すると爾朱栄を頼り、栄に大いに気に入られ重用を受けた。栄が孝荘帝に殺されると魏王悦を頼り、爾朱兆が孝荘帝を破るとこれに付いた。のち洛陽を治める爾朱世隆からも重用を受けた。爾朱氏が高歓に敗れると歓に寝返り、世隆らの首を斬って歓に送った。のち孝武帝に肩入れして歓と対立し、帝が歓に敗れて関中に逃れるとこれに付き従い、宇文泰に仕えて太傅とされた。この時、戒厳令下の長安で唯一外出の際に儀杖兵を伴い、先払いをする事を許可された。清貧で、その臨終の際、家には最低限の財産しか遺さなかった。
 [1]氈帳(フェルトのテント)は胡夷酋帥の住居であり、漢人はこれを穹廬(弓状に張った丸天井の仮小屋)と呼んだ。
 [2]軍中では正式な官服を着ることができないので、代わりに馬鞭を持って、馭者のごとくその手足となることを示して敬意を表したのである。

┃入関を勧む

 これより前、爾朱仲遠の腹心の喬寧・張子期は仲遠が梁に亡命すると高歓に降ったが、赦されずに殺された。斛斯椿は二人の死を聞くと明日は我が身と不安になり、南陽王宝炬・武衛将軍の元毗・王思政・魏光らと共に、密かに孝武帝に歓を誅するように勧めた。
 帝はそこで思政を使持節・中軍大将軍・大都督とし、領軍の斛斯椿と共に禁軍の統率を任せた。
 また、思政を関中の群雄の賀抜岳のもとに何度も遣わし、歓討伐について謀議した。


永熙三年(534)、帝と歓の対立がいよいよ激化すると、〕思政は帝にこう言った。

高歓が逆心を抱いているのは、路傍の人ですら知っているところです。問題がはっきりと分かっているのなら、その対策をしておかねばなりません。いま陛下のいる洛陽は四面に敵を受ける守りにくい所で、戦いに適さぬ地であります。一方、関中は崤(こう)山と函谷関の険に守られ、一人で万人を防ぎ切ることができる地であります。また、その兵馬は精強で、兵糧も豊富ですので、進んでは逆臣を討つことができ、退いては函谷関・黄河の険に拠って身を保つことができましょう。また、関中を守る宇文夏州宇文泰)は、同志を糾合して陛下に力を尽くさんことを願っておりますれば、陛下が西方に御幸したことを知れば、必ずや直ちにお迎えに参ってくるでありましょう。天府の地である関中の資本と陛下のご威徳が加われば、一・二年、兵馬を鍛え農業を勧めるだけで、必ずや洛陽を取り戻すことができましょう。」
 帝は深くこれに頷いた。

 このとき帝は広く州郡から兵を集めており、この呼びかけに河東の人で東郡太守の裴協も応じて、部下と共に洛陽に到った。そこに王思政が尋ねて言った。
「現在、権臣()が勝手気ままに天下に命令を発し、王室の権威は日々失墜している。そこでこの状況を打破するために宇文泰を頼ろうと思うのだが、どうだろうか。」
 協は答えて言った。
宇文泰は三軍(大軍)の推す所で、しかも百二の地[1]⑷を地盤としています。宇文泰を頼っても、いわゆる己の戈矛(武器)の柄を人に与える(権力を与える)ようなものになるだけで、『蒺蔾(しつり。ハマビシ・イバラグサ)に拠る』(『易経』困。針のむしろに座るように落ち着かない)結果になるでしょう。」
 思政が言った。
「しからば、どうすれば良い?」
 協は答えて言った。
「歓と正面切って当たれば直ちに大難が降りかかり(立至の憂)、西巡せばのちのち大難が訪れます(将來の慮)。ゆえに、ここはひとまず関右(西)に赴いて目前の大難を避け、それからおもむろにのちの大難に対処していけば良いと思います。」
 思政はこれに頷き、協を帝に推挙すると、帝は協を左中郎将とした。

○北史魏孝武紀
 五月丙戌,置勳府庶子,箱別六百人;騎官,箱別二百人;閤內部曲,數千人。帝內圖高歡,乃以斛斯椿為領軍,使與王思政等統之,以為心膂。軍謀朝政,咸決於椿。
○北斉神武紀
 神武之入洛也,尒朱仲遠部下都督橋寧、張子期自滑臺歸命,神武以其助亂,且數反覆,皆斬之。斛斯椿由是內不自安,乃與南陽王寶炬及武衞將軍元毗、魏光、王思政搆神武於魏帝。

○周18・北62王思政伝
 俄而齊神武潛有異圖,帝以思政可任大事,拜〔使持節、〕中軍大將軍、大都督,總宿衞兵。思政乃言於帝曰:「高歡之心,行路所共知矣。洛陽四面受敵,非用武之地。關中有崤、函之固,一人可禦萬夫。且士馬精彊(強),糧儲委積,進可以討除逆命,退可以保據關、河。宇文夏州糾合同盟,願立功効。若聞車駕西幸,必當奔走奉迎。藉天府之資,因已成之業,一二年間,習戰陣,勸耕桑,修〔復〕舊京,何慮不克。」帝深然之。
○北斉21高乾伝
 武帝將貳於高祖,…乾乃私謂所親曰:「主上不親勳賢,而招集羣豎。數遣元士弼、王思政往來關西,與賀拔岳計議。…」
○北38裴俠伝
 授東郡太守,帶防城別將。及孝武與齊神武有隙,徵兵,俠率所部赴洛陽。武衞將軍王思政 謂曰:「當今權臣擅命,王室日卑,若何?」俠曰:「宇文泰為三軍所推,居百二之地,所謂己操戈矛,寧肯授人以柄,雖欲撫之,恐是『據於蒺蔾』也。」思政曰:「奈何?」俠曰:「圖歡有立至之憂,西巡有將來之慮。且至關右,日慎一日,徐思其宜耳。」思政然之,乃進俠於帝,授左中郎將。


 ⑴賀抜岳…字は阿斗泥。?~534。武川鎮出身。爾朱栄に仕え、その一門の爾朱天光の関中征討に左大都督として参加し、大いに活躍して雍州刺史とされた。栄や天光が死ぬと関中に自立し、孝武帝が即位すると関中大行台とされ、丞相の高歓と対立した。534年、岳の離間の計に遭って盟友の侯莫陳悦に殺された。
 ⑵『史記』留侯世家に曰く、「雒陽は固きといえども、それ中小にして数百里に過ぎず、田地薄く、四面に敵を受くれば、これ用武の国に非ざるなり。それ関中は左(東)に殽函、右(西)に隴蜀あり、沃野千里にして、南に巴蜀の饒(じょう。豊かさ)、北に胡苑(牧場)の利あり、三面阻(けわ)しくして守られ、ただ一面を以て東のかた諸侯を制す。」
 ⑶宇文泰…字(鮮卑名)は黒獺。507~556。匈奴(鮮卑化)宇文部の出。北魏末に爾朱栄に仕え、関中平定の際に大いに活躍した。のち爾朱天光→賀抜岳に仕えて関西大行台左丞・府司馬とされ、右腕として活躍した。のち夏州刺史とされ、岳が侯莫陳悦に殺されると遺衆を引き継いで悦を討ち、関中の実力者となった。孝武帝が高歓と対立して亡命してくるとこれを迎え入れて西魏を建国し、丞相とされた。間もなく帝を殺害して文帝を立て、華北の大半を掌握した歓と小関・沙苑にて戦い、寡にして良く衆を破ったが、続く河橋・邙山の戦いでは善戦するも敗北を喫した。548年、太師とされた。梁が侯景の乱によって乱れると南方に目を向け、漢中・成都・襄陽・江陵の地を攻略し、領土を大きく広げることに成功した。556年、六官の制を採用して大冢宰に就いた。
 [1]『史記』高祖本紀に曰く、「田肯曰く、『秦は形勝の国なり、河を帯びて山に阻(さえぎ)られ、〔諸侯と〕懸隔すること千里にして、しかも持戟(兵士)百万あれば、秦すなわち百二を得たり。』蘇林の注に曰く、「百二とは、秦の地勢が堅固であることから、百万の内の二万だけで諸侯の百万に当たることができることを指す。」
 ⑷虞喜の『志林』に曰く、「百二とは、百を二つ得ることを指す。百万の兵とそれに匹敵する地勢の堅固さを持つことから、百二を得ていると言うのである。秦兵は二百万に当たるという事なのだろう。」 
 ⑸『漢書』梅福伝に曰く、「泰阿を倒(さかしま)に持ちて、人に授くるに柄を以てす。」また『後漢書』何進伝に曰く、「干戈(武器)を倒(さかしま)に持ちて、人に授くるに柄を以てす。」

┃入関と孝武帝の死


6月、帝と歓は決裂し、歓が南下を開始した。
 7月、帝は洛陽から逃亡した。
 8月、帝は関中に入り、宇文泰の庇護を受けた。〕
 思政は太原郡公・光禄卿・并州刺史とされ、更に散騎常侍・大都督を加官された。

閏12月、癸巳(15日)、帝は酒を飲み、崩御した(享年25)。〕

○周18・北62王思政伝
 及齊神武兵至河北,帝乃西遷。進爵太原郡公〔,拜光祿卿、并州刺史,加散騎常侍、大都督〕。
 


 王思政伝⑵に続く