[西魏:大統四年 東魏:天平五年→元象元年 梁:大同四年]

┃金墉城包囲

 壬午(7月25日)、東魏将の行台の侯景・司徒の高敖曹らが西魏将の馮翊王季海・独孤如願・李遠・王思政を洛陽の金墉城に包囲した。また、厙狄干韓軌可朱渾元莫多婁貸文ら諸将を率いて前軍を、高歓が大軍を率いて後軍を務める大軍団も金墉に向かった。
 この時、歓は〔汾州刺史の?〕斛律金に泰州(河東)に直行させ、宇文泰を牽制させた。

 景は洛陽城内外の官寺や民家に火を放ち、その七・八割を焼け野原にした。これに対し、城内側は賀若敦去年父の統と共に潁州を挙げて西魏に降った。537年〈4〉参照)が三石の弓を引いて敵兵を百発百中で射倒す奮戦ぶりを見せた。
 独孤如願は臨機応変に防衛し、十余日に亘って守り抜いた。

 この時()、侯景らは蓼塢も包囲したが、西魏の武陽県侯の韓雄に撃退された。

 宇文泰は如願の使者から急報を聞くと、ちょうど洛陽の皇帝陵に参詣しようとしていた文帝を連れてその救援に向かった。長安の留守は太子の元欽に任せ、尚書左僕射の周恵達にその輔佐をさせた。恵達が何度も辞退すると、帝は手製の詔をこれに下してこう言った。
「西顧の憂いを無からしめるのは公だけだ。公なら蕭・寇(前漢の蕭何・後漢の寇恂のこと。劉邦・劉秀の留守をよく守って憂いを無からしめた)のような大任を果たせよう。」。
 また、母の兄で大尉の王盟を留後大都督・行雍州事として関中の留守部隊を指揮させ、兄の子で領軍将軍の宇文導侯莫陳悦討伐のさい、その追撃を担当した。のち泰が恒農を攻めると領軍将軍とされて禁軍を統べ、沙苑の際にはこれを率いて勝利に貢献した)を華州刺史として留守を託した(長らく華州を守ってきた王羆はこのとき蒲坂に遷っていた)。
 かくて泰は開府儀同三司の李弼と車騎大将軍の達奚武恒農攻めや沙苑の戦いの際に敵陣を偵察して情報を集め、西魏を勝利に導いた)に千騎を与えて先鋒とし、洛陽に向かって進軍を開始した。

○資治通鑑
 東魏矦景、高敖曹等圍魏獨孤信于金墉,太師歡帥大軍繼之;景悉燒洛陽內外官寺民居,存者什二三。魏主將如洛陽拜園陵【魏自孝文帝遷洛以後,孝武帝西遷以前,園陵皆在洛州】,會信等告急,遂與丞相泰俱東,命尚書左僕射周惠達輔太子欽守長安,開府儀同三司李弼,車騎大將軍達奚武帥千騎為前驅。
○魏孝静紀
 秋七月乙亥,高麗國遣使朝貢。行臺侯景、司徒公高敖曹圍寶炬將獨孤如願於金墉,寶炬、宇文黑獺並來赴救。大都督厙狄干率諸將前驅,齊獻武王總眾繼進。
○周文帝紀
 七月,東魏遣其將侯景、厙狄干、高敖曹、韓軌、可朱渾元、莫多婁貸文等圍獨孤信於洛陽。齊神武繼其後。先是,魏帝將幸洛陽拜園陵,會信被圍,詔太祖率軍救信,魏帝亦東。
○北斉神武紀
 七月壬午,行臺侯景、司徒高昂圍西魏將獨孤信於金墉,西魏帝及周文並來赴救。大都督厙狄干帥諸將前驅,神武總眾繼進。
○北史西魏文帝紀
 秋七月,東魏將侯景等圍洛陽,帝與安定公宇文泰東伐。
○周10宇文導伝
 明年,魏文帝東征,留導為華州刺史。
○周15李弼伝
 四年,從太祖東討洛陽,弼為前驅。
○周16独孤信伝
 四年,東魏將侯景等率眾圍洛陽。信據金墉城,隨方拒守,旬有餘日。
○周19達奚武伝
 四年,太祖援洛陽,武率騎一千為前鋒。
○周20王盟伝
 魏文帝東征,以留後大都督行雍州事,節度關中諸軍。
○周22周恵達伝
 四年,兼尚書右僕射。其年,太祖與魏文帝東征,惠達輔魏太子居守,總留臺事。惠達前後辭讓,帝手詔答曰:「西顧無憂,唯公是屬。蕭、寇之重,深所寄懷。」
○周25李遠伝
 從獨孤信東畧,遂入洛陽。為東魏將侯景等所圍。
○周28賀若敦伝
 明年,從河內公獨孤信於洛陽,被圍。敦彎弓三石,箭不虛發。信大奇之,乃言於太祖。太祖異之,引置麾下,授都督,封安陵縣伯,邑四百戶。嘗從太祖校獵於甘泉宮,時圍人不齊,獸多逃逸,太祖大怒,人皆股戰。圍內唯有一鹿,俄亦突圍而走。敦躍馬馳之,鹿上東山,敦棄馬步逐至山半,便掣之而下。太祖大悅,諸將因得免責。
○周43韓雄伝
 俄而領軍獨孤信大軍繼至,雄遂從信入洛陽。時東魏將侯景等圍蓼塢,雄擊走之。又從太祖戰於河橋。
○北斉17斛律金伝
 元象中,周文帝復大舉向河陽。高祖率眾討之,使金徑往太州,為掎角之勢。金到晉州,以軍退,不行。

 ⑴蓼塢...《読史方輿紀要》曰く、『陜州(恒農)の西一百三十里→閿鄉県(潼関の近東)の西北にある。蓼谷に築かれた。』
 ⑵韓雄...字は木蘭。河南東垣(洛陽の近西)の人。若年の頃から勇敢で、人並み外れた膂力を有し、馬と弓の扱いに長け、人を率いる才能があった。535年に西魏側に立って挙兵し、東魏の洛州刺史の韓賢と何度も戦った。のち家族を捕虜とされ、やむなく賢に降った。537年、脱走して恒農にいた宇文泰に拝謁した。間もなく郷里に帰って再び兵を集め、洛陽に迫ってこれを陥とした。537年(4)参照。
 ⑶李弼...字は景和。生年494、時に45歳。並外れた膂力を有し、爾朱天光や賀抜岳の関中征伐の際に活躍して「李将軍と戦うな」と恐れられた。のち侯莫陳悦に従い、その妻の妹を妻としていた関係で信頼され、南秦州刺史とされた。宇文泰が賀抜岳の仇討ちにやってくるとこれに寝返り、その勝利に大きく貢献した。のち小関の戦いでは竇泰を討つ大功を立て、沙苑の戦いでは僅かな手勢で東魏軍の横腹に突っ込み、前後に二分する大功を立てた。538年(1)参照。

┃前哨戦 ー穀城の戦いー

 8月、庚寅(3日)、泰が函谷関を出て穀城(函谷関と洛陽の間に到ると、行台の侯景と司徒の高敖曹らは諸将にこう言った。
西賊はやってきたばかりで士気旺盛である。ここは陣を整え兵の士気を高め、万全な態勢を取ってから攻撃した方が良いだろう。
 しかし儀同三司・南道大都督の莫多婁貸文爾朱兆追撃戦の時にはその屍を得、孝武帝が決起した時にはその将の賈顕智を撃破した)は反論して言った。
「賊兵は遠方より到来し〔疲弊しているはず。〕彼奴らが洛陽にやってくる前に攻撃すべきです。どうかそれがしに出撃をお命じになり、賊の出鼻を挫かせてください。」
 これに可朱渾道元も賛意を示した。
 景らはこれを固く禁じたが、貸文は己の武勇に自信を持ち、人の話を聞かない性格だったため、遂に命令に背き、道元と共にそれぞれ軽騎一千(李弼伝では数千)を率いて穀城に向かった。
 泰の先鋒の李弼達奚武・高琳らは瀍水・澗水の辺りに到った。日暮れ頃に李弼は高所に登って遠くを眺めると、鳥の群れが西北に向かって飛んでくるのが見えた。弼はそこで言った。
「夕暮れ時になると鳥は住処に帰っているはず。それなのにいまだに西に向かって翔んでいるというのはおかしい。きっと賊軍が〔東方から〕やって来ていて、〔それに驚かされて飛んでいるからに違いない。〕警戒せずにはおれぬぞ!」
 かくて達奚武と共に孝水に進駐すると、斥候を出し、兵士たちに柴を集めさせて来襲に備えた。すると間もなく果たして斥候の騎兵から敵軍発見の報が入った。
 弼は兵に太鼓を打ち鳴らし鬨の声を上げさせ、馬に柴を引きずらせて土煙を上げさせた。貸文らはこれを見て大軍がやってきたと思い、とてもかなわぬと逃げ出した。弼はこれを追って貸文を斬った。道元は単騎で辛くも逃れるを得た。貸文らの兵はことごとく虜とされ、恒農に送られた(『通鑑』ではこの戦闘が「夜」に「孝水」で行なわれたとしている)。

○資治通鑑
 八月庚寅,丞相泰至穀城【河南省洛阳市西北,漢志,河南郡有穀成縣。師古註曰:即今新安。水經注曰:穀城縣城西臨穀水】侯景等欲整陳以待其至,儀同三司太安莫多婁貸文【莫多婁,虜三字姓】請帥所部擊其前鋒,景等固止之。貸文勇而專,不受命,與可朱渾道元以千騎前進,,遇李弼、達奚武於孝水【穀水支流,在洛陽市西北注入穀水。五代志:新安縣有孝水。水經註:孝水出廆山之陰,北流注于穀,在河南城西四十里】弼命軍士鼓譟,曳柴揚塵,貸文走,弼追斬之,道元單騎獲免,悉俘其眾送恒農。
○周文帝紀
 八月庚寅,太祖至穀城, 莫多婁貸文、可朱渾元來逆,臨陣斬貸文,元單騎遁免,悉虜其眾送弘農。遂進軍瀍東。是夕,魏帝幸太祖營,於是景等夜解圍去。
○周15李弼伝
 東魏將莫多婁貸文率眾數千,奄至穀城。弼倍道而前,遣軍士鼓噪,曳柴揚塵。貸文以為大軍至,遂遁走。弼追躡之,虜其眾,斬貸文,傳首大軍所。
○周19達奚武伝
 四年,太祖援洛陽,武率騎一千為前鋒。至穀城,與李弼破莫多婁貸文。
○周29高琳伝
 累遷衞將軍、銀青光祿大夫、右光祿大夫。四年,從擒莫多婁貸文。
○北斉19莫多婁貸文伝
 元象初,除車騎大將軍、儀同、南道大都督,與行臺侯景攻獨孤如願於金墉城。周文帝軍出函谷,景與高昂議整旅厲卒,以待其至。貸文請率所部,擊其前鋒,景等固不許。貸文性勇而專,不肯受命,以輕騎一千軍前斥候,西過瀍澗,遇周軍,戰沒。贈并肆恒雲朔五州軍事、并州刺史、尚書右僕射、司徒公。
○北史演義
 八月庚寅,至谷城,侯景聞援兵將至,謂諸將曰:「西賊新來,兵鋒必利。當斂兵以待,徐圖進取。」莫都婁貸文曰:「賊兵遠來,當乘其未至擊之。願自引所部往挫其鋒。」可朱渾道元以為然。景不可,二人遂不稟景命,各以千騎前進。夜遇李弼軍於秀水,弼命軍士鼓噪,曳柴揚塵,東軍不戰而退。貸文走,弼追斬之。道元單騎獲免。悉俘其眾送弘農。
○南北史演義
 日暮下寨,李弼登高遙望,遙見群鳥向西北飛來,便道:「天色已晚,鳥應歸棲,今尚西翔,必有賊軍前來,不可不防!」遂偕達奚武移屯孝水,遣人哨探,並令軍士取薪為備。約過片刻,果有探馬入報,敵軍來了!弼即命部眾曳薪揚塵,鼓噪前進,敵騎不過千人,未測弼軍多寡,當即返奔。弼麾軍追上,斫斃敵將一人,一將逃免,餘眾盡得俘獲,解送恆農。看官道敵將為誰?一將叫作莫多婁貸文,已經被殺,一將就是可朱渾元,竟得逃脫。敘筆矯變。原來侯景聞西魏軍至,擬整兵待著,偏莫多婁貸文,不受景命,邀同可朱渾元,率千騎來襲西魏軍,剛被李弼偵覺,一場追擊,貸文喪命,元得幸還。

 ⑴穀城…《読史方輿紀要》曰く、『河南府(洛陽の西南二十里)西北十八里の故苑中にあり、西に穀水を臨む。』
 ⑵孝水…《水経注》曰く、『慈澗(澗水。河南府の西)の西十里にある。』《読史方輿紀要》曰く、『河南府の西二十里にあり、穀口山より湧き出る。』

┃河橋の決戦

 泰は更に瀍水の東に軍を進めた。この日の夕方、文帝が泰の陣屋に赴いた。夜、侯景らは金墉城の囲みを解いて退却した。
 辛卯(8月4日)、泰は軽騎を率いて景を追い、黄河のほとりにまで到った。景らは北は河橋から南は邙山に到る長大な陣を築いてこれを迎え撃った[1]
 西魏軍が突撃すると、東魏軍はみな逃げ散った。泰も自ら軍を率いて敵陣を陥とした。戰久,鼓聲大震,東軍合力奮擊,泰被圍,諸將各自為戰,不及相顧。
 その戦いのさなか、泰の馬に流れ矢が当たった。すると馬は恐慌状態となり、泰を乗せたままどこへともなく走り去った。指揮官を見失った泰軍は混乱状態に陥った。泰の馬はやがて泰を振り落として消えた。東魏の兵がやってくると、泰の左右にいた者は都督の李穆以外みな逃げ去った。穆は主君の危機を見るや馬から飛び下り、鞭をふるって泰の背を打ち、こう言った。
「籠東の軍士(敗兵、腰抜け[2]! お前たちの大将はどこにいる! お前は何故ここに一人でいるのだ!」
 東魏兵はぞんざいな扱いを受けている泰を貴人とは思わず、何もせずにそのそばを通り過ぎた。穆はそれを確認したのち己の馬を泰に譲り、自らは徒歩で随伴し、その自軍への帰還を助けた。この日、穆がいなければ、泰は必ず東魏の虜とされていた。間もなく泰と穆は向かい合って涙を流した。これ以降、泰はこれまで以上に穆に目をかけるようになった。あるとき、泰は左右に向かってこう言った。
「わしが今ここにあるのは、彼のおかげである!」
 かくて穆を武衛将軍に抜擢し、更に大都督・車騎大将軍・儀同三司の官を加え、安武郡公に進めた。また、その前後に数え切れぬほどの賞賜を与えた。
 しばらくののち、泰は穆の志節に慨嘆してこう言った。
「人が一番大事とするものは己が命である。李穆はそれをなげうってまで私を危難より救ったのだ。爵位や玉帛をどれだけ与えても、これに報いることは不可能であろう。」
 かくて穆に特別に鉄券を与え、もし死刑に当たるようなことをしても、十度まで赦すことを約束した。また、危難の際に穆に譲られた馬が芦毛の馬だったことから、宮中の廄に飼われていた芦毛の馬を全て穆に与えた。また、穆の長子の李惇を安楽郡公とし、姉の一人を郡君とし、他の姉妹をみな県君とし、兄弟子姪から遠い血筋の者に至るまで、全ての者に厚賜を与えた。

○資治通鑑
 泰進軍瀍東【瀍水出河南穀城縣北山,東與千金渠合,又東過洛陽縣南,又東過偃師縣,又東入于洛】,侯景等夜解圍去。辛卯,泰帥輕騎追景至河上,景為陳,北據河橋,南屬邙山【景置陳北據河橋者,慮兵有利鈍,先保固其北歸之路也。南屬邙山,可以見其兵多矣。景軍參用馬步,其置陳堅固,宇文泰以輕騎來,見其陳勢如此,斂兵不進可也,遽前合戰,亦屢勝而驕耳】,與泰合戰。泰馬中流矢驚逸,遂失所之。泰墜地,東魏兵追及之,左右皆散,都督李穆下馬,以策抶【抶,丑栗翻,打也】泰背罵曰:「籠東軍士!【荀子曰:仁人之兵,當之者潰,觸之者角摧,按角鹿埵隴種東籠而退耳。楊倞注曰:其義未詳,蓋皆摧敗披靡之貌。陸德明曰:東籠,沾濕貌也,如衣服之沾濕然。】爾曹王何在,而獨留此?」追者不疑其貴人,捨之而過。穆以馬授泰,與之俱逸。
○周文帝紀
 遂進軍瀍東。是夕,魏帝幸太祖營,於是景等夜解圍去。及旦,太祖率輕騎追之,至於河上。景等北據河橋,南屬邙(芒)山為陣,與諸軍合戰。太祖馬中流矢,驚逸,遂失所之,因此軍中擾亂。都督李穆下馬授太祖,軍以復振。
○周20尉遅綱伝
 綱驍果有膂力,善騎射。太祖甚寵之,委以心膂。河橋之戰,太祖馬中流矢,因而驚奔。綱與李穆等左右力戰,眾皆披靡,太祖方得乘馬。以前後功,增邑八百戶,進爵為公,仍拜平遠將軍、步兵校尉。
○周30・北59李穆伝
 河橋之戰,太祖所乘馬中流矢驚逸,太祖墜於地,軍中大擾。敵人追及之,左右皆奔散,穆乃〔突圍而進,〕以策抶(撃)太祖〔〕,因大罵曰:「〔籠東軍士,〕爾曹主何在?爾獨住此!」敵人不疑是貴人也,遂捨之而過。穆以馬授太祖,遂得俱免。是日微穆,太祖已不濟矣。〔既而與穆相對而泣,〕自是恩盼更隆。〔顧左右曰:「成我事者,其此人乎!」〕擢授武衞將軍,加大都督、車騎大將軍、儀同三司,進爵安武郡公,增邑一千七百戶。前後賞賜,不可勝計。久之,太祖美其志節,乃歎曰:「人之所貴,唯身命耳,李穆遂能輕身命之重,濟孤於難。雖復加之以爵位,賞之以玉帛,未足為報也。」乃特賜鐵券,恕以十死。進驃騎大將軍、開府儀同三司、侍中。初,穆授太祖以驄馬,其後中廄有此色馬者,悉以賜之。又賜穆世子惇安樂郡公,姊一人為郡君,餘姊妹竝為縣君,兄弟子姪及緦麻以上親并舅氏,皆霑厚賜。其見褒崇如此。
○北史演義
 與泰兵合戰。西將衝入,兵皆散走。泰亦親自陷陣。戰久,鼓聲大震,東軍合力奮擊,泰被圍,諸將各自為戰,不及相顧。泰乘間衝出,左右皆散。忽流矢中其馬,馬驚而奔,泰墜地。東魏兵追及之。李穆下馬,以策抶泰背,罵曰:「籠東軍士,爾曹王何在,而獨留此?」追者不疑其貴人,舍之而過。穆以馬授泰,與之俱逸。泰歸營,鳴金收軍,將士皆集,兵勢復振。
○南北史演義
 兩軍交鋒,才及數合,景見泰執旗指揮,便拔箭射去,正中泰坐馬。馬負創驚逸,不可羈勒,泰隨馬竄去,約經裏許,竟為所掀,墜落地上。侯景瞧著,驟馬追來,泰身旁並無他人,只有都督李穆,緊緊隨著。穆見侯景來追,手下約有百餘騎,孤身如何抵擋,眉頭一皺,計上心來,佯用馬鞭扶泰背上,厲聲叱道:「籠東軍士,籠東系披靡之意。爾主何在?乃尚留此,不急上馬,更待何時?」好似曹阿瞞的急智。景聽得此言,還疑自己看錯,停馬不追。穆即以己馬授泰,與泰俱走,回入大營,調軍再進。

 [1]景が河橋に陣を築いたのは、もし敗北した場合に備えて退路を確保しておくためだったのだろうが、その陣が邙山にまで到っていたのは、景軍が非常な大軍であったことを窺わせる。しかもこの大軍は堅固な陣の中に置かれていたのである。泰は軽騎だけであったのであるから、その偉容を目にしたとき、進軍をやめて退却をするべきであった。なのに直ちにこれと刃を交えたのは、次々と勝ちを収めていたことによって、慢心していたからとしか考えられない。
 ⑴李穆...字は顕慶。生年510、時に41歳。宇文泰に早くから仕え、侯莫陳悦討伐の際には兄の李賢・遠と共に原州の攻略に大きく貢献した。沙苑に勝利した際には歓を追撃するよう泰に進言したが聞き入れられなかった。534年(2)参照。
 [2]『荀子』議兵篇曰く、「仁人の兵に当たる者は潰え、触れた者は砕け、鹿埵・隴種・東籠して退くのみ」。楊倞注曰く、「〔東籠の〕意味ははっきりとは分からない。恐らくどれもさんざんに打ち破られた様子を言っているのであろう。」郝懿行曰く、「みな古代の方言・俗言で、無理に解くべきものではない。」
 ⑵周20尉遅綱伝では、『泰は落馬したが、帳内都督の尉遅綱が李穆らと共に迫りくる敵兵を多く殺傷して、これを食い止めている間に再び乗馬することができた』とある。尉遅綱は李穆と同じく泰お気に入りの小姓。

┃高敖曹の死

 泰が帰還すると西魏軍は再び勢いを盛り返し、遂に東魏軍を大破した【泰が苦戦したのは軽騎兵のみで攻撃をかけたからであり、勢いを盛り返したのは西魏の大軍が追及してきたからであった《周文帝紀》
 西魏の鉅野県公の高琳字は季珉)は先頭に立って東魏軍を撃ち破り、諸軍に冠する武勇を示した。泰は琳にこう賞賛の言葉をかけた。
「公はわしの韓信・白起である!」《周21高琳伝》
 東魏軍は北に向かって敗走した。
 高敖曹は敵を侮り、林立した旗印(名前が大書されている旗)や一際目立つ絹傘(権威の象徴の一つ)をそのままにして、己の所在を一つも隠そうとしなかった(原文『建旗蓋以陵陣』)ため、西魏軍の殺到を招き、大敗して下男とたった二人で河陽南城(北斉14高永楽伝。北斉高昂伝では「河梁南城」、北史では「河陽城」とある)【河陽南城は河橋の南岸にある。その反対側の北岸にあるのが北中城である】へ逃走することとなった。このとき南城を守っていたのは歓の従祖兄の子で、北豫州刺史の高永楽だったが、永楽は敖曹に遺恨があったので、門を閉じて中に入れようとしなかった。敖曹は城壁の上にいる兵たちに縄を投げて吊り上げてくれるよう求めたが、これも拒絶されると、刀を抜いて門扉に穴を開け、そこから無理矢理中に入ろうとした。しかしその途中で追兵(達奚武の兵)が迫ってきたため、敖曹は城に入るのを諦めて橋の下に身を隠した。追兵は敖曹の下男が金帯を持っているのを見咎め、敖曹がどこにいるか詰問した。下男が敖曹のいる所を指差すと、敖曹は逃げきれぬことを悟って自ら橋の下から姿を現し、首を差し伸べてこう言った。
「来い! 貴様を開国公にしてやる!」(爵位には開国と嗣爵の二種類があり、開国は国の功臣に、嗣爵はその跡を継いだ子孫に授けられた
 追兵がその首を斬って(享年38)泰に献ずると、泰は反物一万段を毎年小分けにしてこれに与えた。歓は敖曹の死を聞くと、肝胆を一度に喪ったかのように顔色を極度に青ざめさせ、その死の経緯を知るや激怒して(北斉14高永楽伝)永楽に二百の罰棒を食らわせた。歓は敖曹に太師・大司馬・太尉・録尚書事・冀州刺史を追贈し、忠武と諡した。
 この戦いの時、敖曹は下男の京兆に西軍の偵察をさせていた。京兆は傅婢(侍女)に盗ませた敖曹の佩刀を持って偵察に赴いた。敖曹はこれを知るや、京兆を捕らえて殺した。そのとき京兆はこう言った。
「私は今までに三度も公を大難よりお救いいたしました! それなのに、かような小事で殺すのですか!」
 その夜、敖曹は京兆の血で血まみれにされる夢を見た。敖曹は目を覚ますと怒り、死体となっている京兆の両足を折らせた。
 また、敖曹が死に至ったのは下男に隠れ場所を指さされたからだったが、その前に敖曹はこの下男に殺される夢を見ていた。敖曹はこれを盧武(どういう人物かは不明)に告げ、下男を殺そうとしたが、諫められて思いとどまった。しかし、果たして下男は夢のように敖曹を死に至らせたのだった《北31高昂伝》

 賀抜勝若干恵ら西魏軍は更に東魏の儀同・大都督(魏孝静紀)の李猛や西兗州刺史の宋顕西魏の梁州接収軍を撃破した。537年〈4〉参照)らを斬り、一万五千を虜とした。泰は勝に投降兵を連れて帰るように命じた(周14賀抜勝伝。詳細な時期は不明)。追い詰められた東魏兵は河橋を渡って北に退却し、一万人が黄河に溺れ死んだ《周文帝紀》。しかしただ万俟洛受洛干)のみ持ち場から退こうとしなかった。
 これより前、歓はその父の万俟普普撥)の声望や高齢に敬意を払い、特に丁重に接していた。例えば、普が馬に乗ろうとすると、歓は自らの手でその乗馬を助けるのだった。普の子の万俟洛はこれに感謝して冠を脱ぎ、稽首(土下座して感謝を示す礼)してこう言った。
「命を賭けてこのご高恩に報います。」
 そして現在、洛はその言葉通り身命を賭して持ち場を離れずに奮戦し、西魏兵にこう言い放ったのだった。
「万俟受洛干ここにあり! 来れるものなら来るがよい!」
 西魏兵はその気迫に押され、遂に追撃を諦めて退いた。歓はその地を回洛と名付けて洛の奮戦を顕彰した《北斉27万俟洛伝》
 また、敖曹の弟で済州刺史の高季式537年〈4〉参照)も、梁に逃れてはという側近の勧め(「今日の形勢を見るに、大事は既に去りました。今は腹心の二百騎と共に梁に逃れるべきです。さすれば禍いを避けられるばかりか、富貴も失わずに済むでしょう。どうしてむざむざ道連れになって死ぬ必要がありましょうか?」)を蹴ってこう言った。
「我ら兄弟はみな国家に厚恩を蒙り、高王〔に引き立てられて〕共に天下を平定した者。それが、一旦危うくなったら逃げ去るのか。それは不義ではないか! 国家が危うくなったらば、城を背にして決死の戦いを挑むべきである! どうしていたずらに生きながらえたりしようか!」《北斉21高季式伝》

〔やがて、東魏軍は戦場に引き返した(明確な記述は無いが、のちの戦闘の経過から類推した)。〕
 この日、東西魏両軍は共に大軍を投入したため戦場は非常に広範囲に渡り、軍の先頭から後尾は遠く隔たっていた。その両軍が夜明けより未の刻(13時〜15時)まで数十度も刃を交え続けた結果、土煙は天にみなぎって煙霧を生じ、近くの者でさえ見分けがつかないほどになった。このとき西魏は独孤如願李遠李穆の兄。侯莫陳悦討伐の際、原州城内からこれに応じてその攻略に貢献した。その後沙苑にて大功を立てたのち、独孤如願に従って洛陽を守備していた)が右軍を、趙貴泰が賀抜岳の遺衆を手に入れるのに非常な貢献をした)・怡峯が左軍を指揮していたが、共に劣勢に陥り、更に文帝や泰の安否も不明となったため、遂に配下の兵を置いて我先に逃亡を始めた。後軍の太師・大将軍・兼録尚書事の念賢や開府儀同三司の李虎らは如願らが逃げてくるのを見ると、踏みとどまることなく同じように逃走した。これを見て泰は遂に退却を決め《周文帝紀》、儀同三司の長孫子彦を兼尚書令・行司州牧として(北22長孫子彦伝)金墉の守備を託すと、陣営を焼いて長安に引き返した《北斉神武紀》

┃王思政の奮戦
 西魏の大都督の王思政もと孝武帝の側近。のち宇文泰に忠誠を誓った。537年〈3〉参照)はこの戦いの際、馬から下りて戦い、長矟(非常に長い馬上槍)を用いて敵を左右に薙ぎ払い、一擊にして数人を倒した。しかし武運拙く、従う者はみな討ち死にし、思政も深手を負って昏倒した。しかし思政は戦いのさい常に、使い古してぼろぼろになっていた鎧を身に着けていたため、敵に将軍と思われず、そのため死を免れることができた。ちょうど日が暮れて敵が撤収すると、思政の帳下督の雷五安が泣きながら思政を探し求めた。思政が意識を取り戻してこれに応じると、五安は思政に駆け寄り、己の衣服を引きちぎって止血し、更に思政が乗馬するのを助けた。かくて思政は深夜に泰のもとに帰還することができた。

○周18・北62王思政伝
 及河橋之戰,思政下馬,用長矟左右橫擊,一擊踣數人。時陷陣既深,從者死盡,思政被重創悶絕。會日暮,敵將(亦)收軍。思政久經軍旅,每戰唯著破〔衣〕弊甲,敵人疑非將帥,故〔得〕免。有帳下督雷五安於戰處哭求思政,會其已蘇,遂相得。乃割衣裹創,扶思政上馬,夜久方得還。

 ⑴王思政…字は思政。太原王氏の出で、後漢の司徒の王允の後裔とされる。姿形が逞しく立派で、知略に優れていた。孝武帝と即位前から親しく、即位後は側近とされ、祁県侯・武衛将軍→中軍大将軍とされ、禁軍の統率を任された。高歓が帝と対立し洛陽に迫ると関中の宇文泰を頼るよう勧めて聞き入れられた。入関すると太原郡公・光禄卿・并州刺史とされ、更に散騎常侍・大都督を加えられた。帝が崩御すると樗蒲の遊戯の際に泰に至誠を示して気に入られた。

●蔡祐の奮戦
 西魏の平東将軍の蔡祐泰の雄飛に貢献し、義子とされた。534年〈1〉参照)もこの戦いの際、馬を下りて徒歩で戦い、手ずから数人を殺した。左右の者は心配してこう言った。
「万が一のことがあります。馬に乗られませ。」
 すると祐は怒ってこう言った。
「丞相はわしを我が子のように遇してくださった! それでどうして命を惜しめよう!」
 かくて左右の者十余人を率いると、一斉に鬨の声を上げて突撃し、非常に多くの敵兵を殺傷した。しかし後に続く者がいなかったため、遂に十余重もの重囲の中に陥ってしまった。東魏の将軍は祐にこう呼びかけた。
「勇士よ! 兜を脱いで降参せよ! さすれば富貴を約束しよう!」
 すると祐はこれをこう罵って言った。
「死に損ないめ! わしが今貴様の首を取れば公爵にでもなれるのだ! どうしてわざわざ賊などに官爵を受ける必要があろう!」
 かくて左右の兵とともに弓を引き絞り、四面の敵を待ち受けた。東魏兵はこれを警戒し、重甲長刀の者を募って直ちに祐を攻撃させた。これが三十步の距離まで迫ってきたとき、祐の左右の者は祐に矢を放つことを勧めたが、祐はこう制止して言った。
「我らの命はこの一矢にかかっている。必中の距離になるまで待て。」
 敵兵はやがて十步の距離にまで迫った。刹那、祐は矢を一斉に放たせた。矢は敵兵の顔にことごとく命中し、彼らが倒れたところを矟(騎兵用の長槍)で刺し殺した。祐らはこれ以後数度敵兵と刃を交えたが、一人も失うことがなかった。敵がこれに手を焼いて囲みを解くと、祐は悠々と退却した《周27蔡祐伝》

●李弼の奮戦
 驃騎大将軍の李弼は何度も敵陣の奥深くまで攻め入ったが、身に七創の深手を受けると遂に力尽きて東魏兵に捕らえられ、二重三重の監視下に置かれた。弼は、そこでわざと地に倒れ伏し、重い傷に苦しんでいるふりをした。見張りがこれを見て警戒を解くと、弼は機を見て近くにいた馬を奪い、西方に逃走することに成功した《周15李弼伝》

●竇熾の奮戦
 真定県公の竇熾は、諸将が退走するとたった二人の騎士だけを従えて邙山まで退き、馬から下り山を背にして追兵を待ち受けた。間もなく敵は次から次へと熾のもとに到り、三方から雨のごとく矢を降らせた。熾の従者の弓の弦が敵の矢によって射切られると、熾は従者に手持ちの矢を全て寄越させ、次々と人馬を射倒した。敵はこの戦いぶりに怯み、互いにこう言い合った。
「この三者を捕らえても大した功にはならぬ。〔無理をすることはない。〕」
 かくてやや退いて、遠巻きにこれを包囲した。熾は敵が油断したところを見計らって囲みを破り、脱出することに成功した。

○周30竇熾伝
 河橋之戰,諸將退走。熾時獨從兩騎為敵人所追,至邙山,熾乃下馬背山抗之。俄而敵眾漸多,三面攻圍,矢下如雨。熾騎士所執弓,竝為敵人所射破,熾乃總收其箭以射之,所中人馬皆應弦而倒。敵以殺傷既多,乃相謂曰:「得此人未足為功。」乃稍引退。熾因其怠,遂突圍得出。

 ⑴竇熾...字は光成。生年507、時に32歳。北魏の高官を務める名家の出。美しい髭を持ち、身長は八尺二寸もあった。公明正大な性格で、智謀に優れ、毛詩・左氏春秋の大義に通じた。また、騎射に巧みで、北魏の孝武帝や柔然の使者の前で鳶を射落とした。葛栄が滅ぶと爾朱栄に仕え、残党の韓楼を自らの手で斬った。孝武帝に信任され、関中亡命に付き従った。

●楊忠の奮戦
 征西将軍の楊忠独孤如願と共に梁に亡命した。537年〈2〉参照)は五人の壮士と共に力戦して橋を守り、東魏兵の追撃を食い止めた《周19楊忠伝》

●論功行賞
 東魏は河橋の戦いで西魏の大都督・儀同三司の寇洛生ら二十余人を斬り《魏孝静紀》、数万の西魏兵を捕虜とした。
 これより前、高歓は西魏の大軍が洛陽にやってきたのを知るや、七千騎を率いて(資治通鑑)晋陽を発ち、急行して孟津にまで到っていたが、黄河を渡る前に既に勝敗は着いていた(北斉21高季式伝では歓自ら三軍を率いて邙山の北に戦っている。以上の戦いを西魏は『河橋の戦い』と呼び、東魏は『河陰の戦い』と呼んだ。東魏の記述はあまりに少ない。惜しいことである《北斉神武紀》
 この戦いの際、東魏の諸将の中で厙狄干歓の妹の夫。歓の前軍として諸将を率いて洛陽に赴いていた)のみ戦場より逃走した(万俟洛伝では洛以外みな一度退却している。干のみ、退却したまま引き返さなかったということか)。しかし歓は干のこれまでの功績に免じて、叱責したり降格することをしなかった《北斉15厙狄干伝》
 この戦いで東魏が勝利したのは、劉豊536年に曹泥と共に歓に降った)の功による所が大きかった。歓はこれに感心し、自らその手を取って褒め称えた《北斉27劉豊伝》

○資治通鑑
 東魏太師歡自晉陽將七千騎至孟津,未濟,聞魏師已遁,遂濟河,遣別將追魏師至崤,歡攻金墉,長孫子彥棄城走,焚城中室屋俱盡,歡毀金墉而還。


 538年(3)に続く