[西魏:大統元年 東魏:天平二年 梁:大同元年


┃文帝の即位


 春、正月、戊申朔(1日)、梁が大赦を行ない、年号を中大通から大同と改めた

 この日元宝炬が長安城の西にて皇帝の位に即いた。これが西魏の文帝である。帝は大赦を行なって年号を永熙から大統と改め、父の京兆王愉を文景皇帝、母の楊氏を文景皇后と追尊した。
 昇殿の際、帝は縁起の良い字を持つ安定県伯の李遠遠の字は万歳。侯莫陳悦の討伐の際、原州攻略に非常に貢献した)を付き添い人に指名した。

○北史西魏文帝紀
 大統元年春正月戊申,皇帝即位於城西,大赦,改元。追尊皇考為文景皇帝,皇妣楊氏為皇后。
○梁武帝紀
 大同元年春正月戊申朔,改元,大赦天下。
○周25李遠伝
 及魏孝武西遷,授假節、銀青光祿大夫、主衣都統,封安定縣伯,邑五百戶。魏文帝嗣位之始,思享遐年,以遠字可嘉,令扶帝升殿。遷使持節、征東大將軍,進爵為公,增邑千戶,仍領左右。

┃可朱渾道元、東魏に到着
 この月(正月、もと西魏の渭州刺史の可朱渾道元元の字。本名は可朱渾元)が霊州の東北にある東魏の雲州(并州界に寄治)に辿り着いた。歓は道元がやってきたのを知ると、平陽太守の高嵩を派して金環一個と食糧を与えてもてなした。道元が晋陽に到ると、歓はこれと会ってその手を取り、絹千疋と奴婢田宅を与えて元県公・車騎大将軍とすると共に、先に并州にいた道元の兄弟四人の官爵を進め、道元の配下の督将全員に爵位と封邑を与えて歓迎の意を示した。

○資治通鑑
 靈州刺史曹泥資送至雲州。歡聞之,遣資糧迎候,拜車騎大將軍。
○魏孝静紀
 二年春正月,寶炬渭州刺史可朱渾道元擁部來降,齊獻武王迎納之,賑其廩食。
○周文帝紀
 渭州刺史可朱渾元還鎮渭州。
○北斉神武紀
 二年正月,西魏渭州刺史可朱渾道元擁眾內屬,神武迎納之。
○北斉27可朱渾元伝
 元從靈州東北入雲州。高祖聞其來也,遣平陽守高嵩持金環一枚以賜元,並運資糧,遠遣候接。元至晉陽,引見執手,賜帛千疋並奴婢田宅。兄弟四人先在并州者,進官爵。元所部督將,皆賞以爵邑。封元縣公,除車騎大將軍。

┃孝武帝の喪
 可朱渾道元が晋陽に到った時、高歓は初めて孝武帝が亡くなったことを知った(孝武帝が亡くなったのが閏12月で、東魏到着が正月。秦州から東魏まではかなり遠い。逃亡中に耳にしたのだろうか?)。そこで孝静帝に上書して、天下万民に哀悼の声を上げさせ、喪に服させるよう求めた。帝がこれを群臣に諮ると、太学博士の潘崇和がこう言った。
「君が生前、臣下に無礼な態度を取った場合、臣下はその喪に服さずともよい、と聞いております。殷の湯王の民が夏の桀王のために哭かず、周の武王の民が紂王のために喪に服さなかったのは、このためです。」
 国子博士の衛既隆李同軌はこう言った。
高后高皇后、歓の娘で孝武帝に嫁いだ)【孝武帝が関中に蒙塵した際、后は洛陽に留まって付いていかなかった】は永熙帝孝武帝)とはっきり離縁したわけではありませぬゆえ、喪に服させるのが適当と考えます。」
 帝はこの意見に従った。

○資治通鑑
 道元至晉陽,歡始聞孝武帝之喪,魏孝武去年十二月殂。啓請舉哀制服。東魏主使羣臣議之,太學博士潘崇和以為:「君遇臣不以禮則無反服,是以湯之民不哭桀,周武之民不服紂。」國子博士衞旣隆、李同軌議以為:「高后於永熙離絕未彰,宜為之服。」東魏從之【歡初立孝武,納其長女以為皇后,帝之西奔,后留不從】。

┃長孫慶明の登場
 可朱渾元が東魏に出奔したのち、河・渭二州の人心は大いに動揺した。そこで秦州刺史の李弼曹泥討伐中)が長史・防城大都督の長孫慶明に渭州の鎮撫をさせると、慶明は十余騎のみを率いてこの難地に赴き、柔軟な安撫工作を行なって羌胡族を懐柔することに成功した。

 慶明は、北魏の太尉・北平王の長孫嵩の五世孫である。曾祖父の長孫地汾は安東将軍・臨川公とされ、祖父の長孫酌は恒州刺史とされた。父の長孫戫は員外散騎侍郎とされ、早くに亡くなった。
 慶明は堂々とした容貌をしており、堅物な性格で、家の中にいても終始居住まいを正していた。また、交際も生真面目で、相手がどんなに名門の者であっても性格が合わなければ決して付き合おうとしなかった。
 孝昌年間(525~528)に出仕して員外散騎侍郎とされ、のち爾朱天光に従って隴右を平定した。
 太昌年間(532年4月〜12月)に辺境で争乱が起こると、仮の東夏州防城大都督とされ、爾朱天光宿勤明達らを破るのに貢献し索盧侯とされた。
 のち宇文泰が夏州刺史となるとその録事参軍事とされ、泰から非常に敬い重んじられた。賀抜岳が殺されると、泰は平涼に赴きその遺衆を収めることに成功したが、慶明はその計画に全て関与した。泰が侯莫陳悦を討つと、慶明はその本拠だった秦州に留め置かれて秦州長史・防城大都督とされ、事後処理を任された。また、別に信都県伯とされた。

○周26・北22長孫倹伝
 長孫儉,河南洛陽人也。本名慶明。其先,魏之枝族,姓托拔氏。孝文遷洛,改為長孫。五世祖嵩,魏太尉、北平王。〔曾祖地汾,安東將軍、臨川公。祖酌,恒州刺史。父戫,員外散騎侍郎,早卒。〕儉少方正,有操行,狀貌魁梧,神彩嚴肅,雖在私室,終日儼然。性不妄交,非其同志,雖貴遊造門,亦不與相見。孝昌中,起家員外散騎侍郎,從爾朱天光破隴右。〔太昌中,邊方騷動,儉初假東夏州防城大都督,從尒朱天光破宿勤明達等,以功賜爵索盧侯。〕太祖臨夏州,以儉為錄事〔參軍事〕,深器敬(敬器)之。〔及〕賀拔岳被害,太祖赴平涼,凡有經綸謀策,儉皆參預。從平侯莫陳悅,留儉為秦州長史〔、防城大都督,委以後事,別封信都縣伯。渭州刺史可朱渾元奔東魏後,河渭間人情離阻,刺史李弼令儉權鎮渭州。儉將十餘騎冒難赴之,復隨機安撫,羌胡悅服。〕。

 李弼...字は景和。生年494、時に42歳。並外れた膂力を有し、爾朱天光や賀抜岳の関中征伐の際に活躍して「李将軍と戦うな」と恐れられた。のち侯莫陳悦に従い、その妻の妹を妻としていた関係で信頼され、南秦州刺史とされた。宇文泰が賀抜岳の仇討ちにやってくるとこれに寝返り、その勝利に大きく貢献し、秦州刺史とされた。534年(6)参照。

┃曹泥降る
 これより前(去年11月)、西魏の北道行台の趙善貴の従祖兄)が儀同の趙貴・李弼李虎万俟受洛干らと共に曹泥を攻めていた。虎は付近にいた費()也頭族を味方につけて霊州(曹泥)を攻め、黄河の水を決壊させてこれにそそいだ。四十日ほどして泥は降伏し、泰は泥をそのまま霊州刺史としたが、その地の反抗的な酋長を咸陽に強制移住させた(535年。詳しい時期は不明)。
 このとき、阿至羅部が西魏軍の帰路を断つと、虎は精鋭を率いてこれを奇襲して大破し、一人残らず捕虜にした。虎はこの功によって長安県侯とされたが、虎は許可を得てこれを兄の子の李康生に譲った(536年の事か)。

○資治通鑑
 魏驍騎大將軍、儀同三司李虎等招諭費也頭之衆,與之共攻靈州,凡四旬,曹泥請降。
○周文帝紀
 十一月,遣儀同李虎與李弼、趙貴等討曹泥於靈州,虎引河灌之。明年,泥降,遷其豪帥于咸陽。
○北斉神武紀
 三年正月甲子,…西魏靈州刺史曹泥與其壻涼州刺史劉豐遣使請內屬。
○北53劉豊伝
 周文帝遣行臺趙善、大都督万俟受洛干復來攻圍,引河灌之,埿與豐堅守不下。
○冊府1唐景帝紀
 太祖帥師,迎魏武帝於潼關,以功拜驍騎將軍,加儀同三司。遇靈州刺史曹泥擁兵作亂,太祖率兵擊之。時有破野頭賊屯聚塞下,太祖遣使諭之,皆來降服,遂徵其眾并力攻泥,四旬而克,靈州平。會阿至羅部落別道斷其歸路,太祖親率驍銳襲擊,大破之,悉虜其眾。進封長安縣侯,食邑五百戶。太祖不受,讓於兄子康生。周文帝許之。

┃西魏新体制
 己酉(正月2日)、西魏が丞相・略陽公の宇文泰を都督中外諸軍事・録尚書事・大行台とし、更に爵位を進めて安定王とした。しかし泰が王爵と録尚書事を固辞したため、安定公とした。
 また、尚書令の斛斯椿を太保、広平王賛を司徒とした。

○北史西魏文帝紀
 己酉,進丞相、略陽公宇文泰都督中外諸軍、錄尚書事、大行臺,改封安定郡公。以尚書令斛斯椿為太保,廣平王贊為司徒。
○周文帝紀
 魏大統元年春正月己酉,進太祖督中外諸軍事、錄尚書事、大行臺,改封安定郡王。太祖固讓王及錄尚書事,魏帝許之,乃改封安定郡公。

┃真に男子に勝る
 乙卯(正月8日)、帝は妃の乙弗氏[1]を皇后に(これが文后である)、子の元欽を皇太子に立てた。
 文后は美しい容貌を持ち、寡黙で笑うことが滅多になかった。両親(父は乙瑗、母は北魏の孝文帝の第四女の淮陽長公主)はこれを奇として、親族にこう言った。
「女子を生むのがどうして妨げになろうか。このような女子なら真に男子に勝ろう。」
 十六の時に文帝の后となり、帝が即位すると皇后となった。
 性格は思いやり深く、質素な生活を好んで古着を身にまとい、艶やかな装飾や衣服を身に着けようとしなかった。更に嫉妬も起こさなかったので、帝から寵愛を受けた。

○北史西魏文帝紀
 乙卯,立妃乙氏為皇后,立皇子欽為皇太子。
○北13文帝文皇后伝
 文帝文皇后乙弗氏,河南洛陽人也。其先世為吐谷渾渠帥,居青海,號青海王。涼州平,后之高祖莫瓌擁部落入附,拜定州刺史,封西平公。自莫瓌後,三世尚公主,女乃多為王妃,甚見貴重。父瑗,儀同三司、兗州刺史。母淮陽長公主,孝文之第四女也。后美容儀,少言笑,年數歲,父母異之,指示諸親曰:「生女何妨也。若此者,實勝男。」年十六,文帝納為妃。及帝即位,以大統元年冊為皇后。后性好節儉,蔬食故衣,珠玉羅綺絕於服玩。又仁恕不為嫉妬之心,帝益重之。生男女十二人,多早夭,唯太子及武都王戊存焉。

 [1]乙弗氏の先祖は代々吐谷渾の渠帥(部落の酋長)で、青海湖湖畔に暮らし、青海王と号した。414年に南涼三代の禿髮傉檀に襲撃されたのがこれである。439年9月に北魏が涼州を平定すると、高祖父の莫瓌は部落を率いてこれに従い、のちに孝文帝が洛陽に遷都すると、乙弗家も洛陽に居を遷した(莫瓌以後、三代に渡って乙弗家は公主を娶り、娘は王妃となって、非常に重んぜられた。父の乙瑗は西兗州刺史となり、孝文帝の第四女を娶った)。
 ⑴乙瑗...もと爾朱仲遠の都督・西兗州刺史。531年(1)参照。

┃劉蠡升討伐
 稽胡の劉蠡升は孝昌以来(525)、天子を自称して年号を神嘉と改め、雲陽谷に割拠していた(525年〈5〉参照[1]。北魏の辺境の民は常にその侵擾に遭い、人々はこれを『胡荒』と呼んだ[2]あるいは、胡人の災荒)。
 壬戌(正月15日)、歓はこれを襲擊し、大破した。

○北斉神武紀
 初孝昌中,山胡劉蠡升自稱天子,年號神嘉,居雲陽谷,西土歲被其寇,謂之胡荒。…壬戌,神武襲擊劉蠡升,大破之。

 ⑴劉蠡升…雲陽谷に住む山胡。聖術の使い手を自称し、胡人はみなこれを信じた。525年、天子を自称して年号を神嘉とし、百官を置いた。汾州を攻め、北魏はその治所を西河に遷した。
 [1]李延寿曰く、稽胡は步落稽とも言い、匈奴の別種で、劉元海の五部の曲裔と考えられる。或いは山戎・赤狄の後裔とも言われ、離石以西・安定以東の七八百里四方にの山谷に集落を増やしていた。
 [2]彼らの出自である胡種族は漢族を侵擾したため、最も僻遠で野蛮な土地(荒服)にいる者とされていた。

┃荊州陥落
 甲子(正月17日)、西魏は〔大司馬の〕広陵王欣節閔帝の兄。534年〈5〉参照)を太傅・録尚書事(北19広陵王欣伝)、儀同三司の万俟寿洛干を司空とした。

 この日(?)、東魏将の高敖曹・侯景らが西魏の荊州を奇襲した。刺史の独孤如願534年〈5〉参照)は力戦したが衆寡敵せず、遂に楊忠・宇文虬ら麾下と共に梁に亡命した。

 己巳(22日)孝静帝高歓劉蠡升を大破したことを以てこれを相国とし、黄鉞(皇帝用の斧。征伐時に特別に臣下に貸し与えることがあた)を貸し与え、剣を帯びながら宮殿に入る権利や宮殿内にて小走りをしなくてもよい権利を与えたが、歓はこれらを全て固辞した。

○魏孝静紀
 己巳,詔以齊獻武王為相國,假黃鉞,劍履上殿,入朝不趨,餘悉如故。王固讓不受。
○北史西魏文帝紀
 甲子,以廣陵王欣為太傅,以儀同三司万俟壽樂干為司空。東魏將侯景攻陷荊州。二月…。
○北斉神武紀
 己巳,魏帝褒詔,以神武為相國,假黃鉞,劍履上殿,入朝不趨。神武固辭。
○周16独孤信伝
 東魏又遣其將高敖曹、侯景等率眾奄至。信以眾寡不敵,遂率麾下奔梁。
○周19楊忠伝
 居半歲,以東魏之逼,與信奔梁。
○周29宇文虬伝
 尋隨信奔梁。

 ⑴高敖曹…生年501、時に35歳。名門勃海高氏の出。敖曹は字で、本名は昂。高翼の第三子。高乾・高仲密の弟、高季式の兄。母は張氏。母の激しい気性を受け継ぎ、幼い時から豪放で、度胸は並外れて強く、勇士の相があって、とても逞しい体つきをしていた。家産を尽くして剣客を抱え込み、兄の乾と共にあちこちを荒らし回った。爾朱栄が河陰にて百官を虐殺すると河北の流民を率いて斉州の東平原に叛し、葛栄の傘下に入り、斉州軍を幾度も撃破した。のち帰順したが、その後も暴れ回ったため捕らえられて監禁された。爾朱栄が死ぬと孝荘帝に救い出され、爾朱世隆の洛陽侵攻を撃退した。のち郷里の冀州に帰って募兵するよう命じられた。間もなく帝が爾朱兆に殺されると挙兵し、爾朱羽生率いる五千の兵をたった十余騎で撃破した。馬槊(馬上矛)の扱いが絶妙で天下に比類無く、項籍(項羽)になぞらえられた。のち高歓が山東にやってくると渋々これに従い、韓陵の決戦では歓の窮地を救う大功を挙げた。歓が孝武帝と対立して洛陽に攻め込むと先鋒とされ、帝が関中に逃走すると精騎五百を率いて追撃したが追いつけなかった。のち行豫州事とされ、賀抜勝を梁に追いやった。東魏が建国されると司空とされた。534年⑹参照。
 ⑵侯景…字は万景。生年503、時に33歳。懐朔鎮の出。懐朔功曹史や外兵史を務めた。高歓の友人。私兵を率いて爾朱栄に仕え、滏口の戦いのさい先鋒を務めて葛栄を捕らえる大功を立てた。のち行済州事とされた。爾朱氏が滅びると高歓に仕え、南道大行台とされた。賀抜岳が死ぬと関西に使者として赴き、一時宇文泰に捕らえられた。高歓が洛陽の孝武帝を攻めた際、白馬津に向かった。間もなく賀抜勝を討伐し、梁に追いやった。534年⑸参照。

┃元慶和の北伐
〔これより前(534年10月)、梁は信武将軍の元慶和を鎮北将軍・北道総督・魏王とし、東魏を討伐させた。閏12月、李洪芝・王当伯らが平瀬郷を陥とさせた。洪芝らは州境を乱したが、東魏の豫州刺史の堯雄が伏兵を設けてこれを破って捕らえ、非常に多くの捕虜・戦利品を得た。〕
 この月、梁将の湛僧智梁の譙州刺史で、527年10月に元慶和の守る東豫州を陥とした)が東魏の南兗州を攻めたが、州軍に擊破された。
 乙亥(28日)、東魏の東南道行台右僕射の元晏が広州軍事の王懐と共に梁の鎮北将軍(または北道総督・魏王)の元慶和湛僧智らを更に項城に破り、梁の刺史の㬓?)を虜とした。

○魏孝静紀
〔正月…〕乙亥,兼尚書右僕射、東南道行臺元晏討元慶和,破走之。
○魏19元慶和伝
 衍以為北道總督、魏王。至項城,朝廷出師討之,望風退走。
○魏98島夷蕭衍伝
 二年正月,衍將湛僧珍寇南兗州,州軍擊破之。行臺元晏又破湛僧珍等於項城,虜其□□刺史楊㬓。
○北斉19王懐伝
 天平中,除使持節、廣州軍事。梁遣將湛僧珍、楊暕來寇,懷與行臺元晏擊項城,拔之。
○北斉20堯雄伝
 梁以元慶和為魏王,侵擾南境。

 ⑴北斉19王懐伝には『梁将の湛僧珍・楊暕らが来寇してきた。懐は行台の元晏と共に項城を攻め、これを陥とした』とある。湛僧珍らは一時項城を陥としていたのかもしれない。

┃羊深の死
 この月(正月、東魏軍が泰山博県の商王村に砦を築いていた羊深を討ち、戦死させた。

○魏77羊深伝
 子鵠署深為齊州刺史,於太山博縣商王村結壘,招引山齊之民。天平二年正月,大軍討破之,於陳斬深。

┃勇壮王羆 ー華州の戦いー
 東魏大行台尚書の司馬子如が大都督の竇泰・泰州【河東郡に置かれ、河東と北郷の二郡を管轄した】刺史の韓軌らを率いて潼関を攻めた。泰は覇上に軍を進めてこれに対した。すると子如は軌と共に転進し、夜の内に蒲津より黄河を渡り、華州【治所は武郷】を攻めた。
 このとき州城の修築はまだ終わっておらず、そのための梯子が城外に残されたままだった。夜明け頃、東魏軍はその梯子を使って城内に侵入した。刺史の王羆534年〈5〉参照)は庁舎の外の騒々しさに目を覚ますと、着の身着のまま冠も着けず靴も履かず、白梃(大きな棍棒)片手に外に飛び出し、こう叫んだ。
「老羆(王羆は太和年間〈477~499〉に殿中将軍に任じられているので、少なくともこの時50は越えているように思われる)死すとも、ムジナは通さぬ!」
 東魏兵はこれに驚いて逃げ去った。羆はこれを追う内に集まった自軍の兵を率い、東魏軍と東門に合戦し勝利した。子如らは攻略を諦め撤退した[1]。泰はその勇敢さを褒め称えた。

○資治通鑑
 東魏大行臺尚書司馬子如帥大都督竇泰、太州刺史韓軌等攻潼關。…東魏人見之驚卻。羆逐至東門,左右稍集,合戰,破之,子如等遂引去【兵以氣勢為用;兵之勇怯,恃主帥以為氣勢。王羆勇於赴敵而其左右又勇於戰,此其所以於不備不虞之中而能卻敵也。】。
○周文帝紀
 魏大統元年春正月…東魏遣其將司馬子如寇潼關,太祖軍霸上,子如乃回軍自蒲津寇華州,刺史王羆擊走之。
○周18・北62王羆伝
〔神武退,拜驃騎大將軍,〕加侍中、開府。嘗修州城未畢,梯在〔城〕外。齊神武遣韓軌、司馬子如從河東宵濟襲羆,羆不之覺。比曉,軌眾已乘梯入城。羆尚臥未起,聞閤外洶洶有聲,便袒身露髻徒跣,持一白挺(棒),大呼而出〔,謂曰:「老羆當道臥,貉子那得過!」〕。敵見之驚〔退〕,逐至東門,左右稍集,合戰破之。軌眾遂投城遁走。〔文帝聞而壯之。

 [1]軍隊というものは士気があって初めて用を成す。兵の勇怯というものは、それを率いる者にかかっている。王羆が勇敢に戦場に赴いたからこそ部下たちも勇敢に戦い、不意を突かれても撃退することができたのである。

┃洛陽宮撤去

 2月、辛巳(4日)、梁の武帝が明堂にて祖先の祭祀を執り行なった。

 壬午(5日)、東魏が咸陽王坦孝文帝の弟の禧の子)を太傅に、西河王悰景穆系)を太尉とした。
 また、尚書右僕射の高隆之歓に気に入られ、義弟とされた。酒宴のさい文帝に殴られている。532年〈2〉参照)に十万の人夫を以て洛陽の宮殿を撤去させ、その資材を鄴に運び込ませた(詳細な時期は不明)。

 この時、右僕射の高隆之・吏部尚書の元世儁が上奏して言った。
「現在、南京の宮殿を解体して建材を都に送っており、〔建材を運ぶ〕筏は黄河中に連なり、〔都に向かって〕陸続と進んでおります。〔ただ、この〕監督に賢明な者を任せなければ、賄賂を受け取っては木材を横流ししてしまい、〔都の宮殿建築に〕支障をきたす事になります。〔衞将軍・金紫光禄大夫の〕張熠は元来清廉な事で有名であり、当世の人々に称賛を受けておりますゆえ、臣らは彼を大将(監督)に推挙いたします。」
 帝はこれを聞き入れた。張熠は良く職務に勤め励んだ。熠は間もなく〔鄴宮の〕営構左都将とされた。


 丁亥(10日)武帝が藉田を耕す儀式を行なった。


○資治通鑑
 壬午,東魏以咸陽王坦為太傅,西河王悰為太尉。東魏使尚書右僕射高隆之發十萬夫撤洛陽宮殿,運其材入鄴。
○魏孝静紀
 二月壬午,以太尉、咸陽王坦為太傅,以司州牧、西河王悰為太尉。
○梁武帝紀
 二月己卯,老人星見。辛巳,輿駕親祠明堂。丁亥,輿駕躬耕籍田。辛丑,高麗國、丹丹國各遣使獻方物。
○魏79張熠伝
 天平初,遷鄴草創,右僕射高隆之、吏部尚書元世儁奏曰:「南京宮殿,毀撤送都,連筏竟河,首尾大至,自非賢明一人,專委受納,則恐材木耗損,有闕經構。熠清貞素著,有稱一時,臣等輒舉為大將。」詔從之。熠勤於其事。尋轉營構左都將。興和初,衞大將軍。宮殿成,以本將軍除東徐州刺史。
○北54高隆之伝
 累遷并州刺史,入為尚書右僕射。時初給人田,權貴皆占良美,貧弱咸受塉薄,隆之啟神武,更均平之。又領營構大將,以十萬夫徹洛陽宮殿,運於鄴,構營之制,皆委隆之。

┃樊子鵠の乱の平定

 東魏の儀同三司で東道大都督の婁昭らが兗州の樊子鵠534年11月に兗州にて乱を起こした)を攻めた。昭は前膠州刺史の厳思達が守る東平を攻め陥とし、そのまま兗州の治所である瑕丘を包囲した。しかしなかなか陥とすことができなかったため、昭はこれを水攻めにした。
 子鵠が挙兵した時、前西兗州刺史の乙瑗西魏の乙弗皇后の父)と譙郡太守の辛景威が五梁に拠ってこれに呼応した。高歓宋顕を行西兗州事として討伐させた。顕は〔五梁を陥として〕瑗を斬り、景威を遁走させた。
 孝靜帝は散騎常侍の陸琛と兼黄門郎の張景徵に璽書を持たせて子鵠の説得に赴かせ、これを降伏させようとした。
 己丑(2月12日)、前南青州刺史の大野抜子鵠が乱を起こしたとき、これに加わった)が相談と偽って子鵠を呼び出し、その首を斬って東魏に降伏した。
 これより前、子鵠は自軍の兵が少ない事から、老弱すら駆り立てて兵としていたが、子鵠が死ぬと彼らはみな四方八方に逃げ散った。諸将は婁昭にこれをことごとく捕らえて誅するように勧めると、昭はこう答えて言った。
「兗州の人々は故なくして塗炭の苦しみを味わい、爪先立って官軍の救いを待っていたのだ。その官軍も同じように苦しみを与えるなら、民は一体誰に救いを求めればいいのか!」
 かくてみな不問に付した。

○資治通鑑
 東魏儀同三司婁昭等攻兗州,樊子鵠使前膠州刺史嚴思達守東平,昭攻拔之。遂引兵圍瑕丘,久不下,昭以水灌城;己丑,大野拔見子鵠計事,因斬其首以降。始,子鵠以眾少,悉驅老弱為兵,子鵠死,各散走。諸將勸婁昭盡捕誅之,昭曰:「此州不幸,橫被殘賊,跂望官軍以救塗炭。今復誅之,民將誰訴!」皆舍之。
○魏孝静紀
 己丑,前南青州刺史大野拔斬樊子鵠以降,兗州平。
○北史西魏文帝紀
 二月,前南青州刺史大野拔斬兗州刺史樊子鵠,以州降東魏。
○魏80樊子鵠伝
 及出帝入關,子鵠據城為逆。南青州刺史大野拔、徐州人劉粹各率眾就子鵠。天平初,遣儀同三司婁昭等率眾討之。子鵠先使前膠州刺史嚴思達鎮東平郡,昭攻陷之,仍引兵圍子鵠。城久不拔,昭以水灌城。靜帝欲招慰下之,遣散騎常侍陸琛、兼黃門郎張景徵齎璽書勞子鵠,而大野拔因與相見,左右斬子鵠以降。
○北斉15婁昭伝
 兗州刺史樊子鵠反,以昭為東道大都督討之。子鵠既死,諸將勸昭盡捕誅其黨。昭曰:「此州無狀,橫被殘賊,其君是怨,其人何罪。」遂皆捨焉。
○北斉19蔡俊伝
 天平中,為都督,隨領軍婁昭攻樊子鵠於兗州。
○北斉19尉長命伝
 樊子鵠據兗州反,除東南道大都督,與諸軍討平之。
○北斉19高市貴伝
 及樊子鵠據州反,隨大都督婁昭討之。子鵠平,除西兗州刺史,不之州。
○北斉20宋顕伝
 樊子鵠據兗州反,前西兗州刺史乙瑗、譙郡太守辛景威屯據五梁,以應子鵠。高祖以顯行西兗州事,率眾討破之,斬瑗,景威遁走。
○北斉20薛修義伝
 樊子鵠之據兗州,脩義從大司馬婁昭破平之。
○北斉20叱列平伝
 復從領軍婁昭討樊子鵠平之。授使持節、華州刺史。

 ⑴婁昭...字は菩薩。高歓の正室の同母弟。正直な性格で度量が大きく、優れた智謀を有していた。腰回りは八尺もあり、弓と馬の扱いは抜群のものがあった。早くから高歓の才能を見抜き、歓に付き従ってその雄飛に貢献した。
 ⑵五梁...《読史方輿紀要》曰く、『府東南二百六十五里→陳州の西南十五里に五梁溝がある。

┃陳慶之と堯雄、豫州に刃を交える
 戊戌(2月21日)、梁の都督南北司西豫豫四州諸軍事・南北司二州刺史の陳慶之・郢州刺史の田朴特らが東魏の豫州に迫った。
 慶之は東魏の潁州(汝陰)刺史の婁起・〔北〕揚州(陳郡)刺史の是云宝を溱水に破り、更に南道行台の孫騰・大都督の侯進・豫州刺史の堯雄・梁州(陳留)刺史の司馬恭を楚王城に撃破し、豫州を包囲した。
 騰は臆病で軍事の才能が無かったため、敗北して逃げ帰る事になったのだった。
 刺史の堯雄は城を出撃すると次々と梁軍を撃ち破り、身に二つの傷を受けてもますます意気軒昂として闘志を失わなかった。かくて慶之は敗北し、輜重を捨てて撤退した。

 慶之は義陽(北司州)の鎮兵を廃し、水陸の輸送を停止した。これによって江湖諸州(長江沿岸および荊洞庭湖〜鄱陽湖の間の諸州)は休息を得た。また、六千頃に及ぶ田地を拓き、二年後には倉庫を作物で満たした。武帝は何度も慶之を褒め労った。
 また、慶之は上表して南司州を廃して安陸郡に戻し、また、上明郡を置いた。

 3月、辛酉(15日)、東魏が広平公の高盛歓の従叔)を太尉、高敖曹を司徒、済陰王暉業を司空とした。

○資治通鑑
 又破行臺孫騰等於楚城【梁置西楚州於楚城,在汝南郡城陽縣界,其地當在唐申州界。按孫騰此時猶從高歡在幷、冀、殷、相之間,慶之破騰必非此年事,史究言之耳】。罷義陽鎭兵,停水陸漕運,江、湖諸州並得休息【謂瀕江及洞庭、彭蠡間諸州也。】,開田六千頃,二年之後,倉廩充實。
○魏孝静紀
 戊戌,蕭衍司州刺史陳慶之寇豫州,刺史堯雄擊走之。三月辛酉,以司徒高盛為太尉,以司空高昂為司徒,濟陰王暉業為司空。
○魏98島夷蕭衍伝
 二月,衍司州刺史陳慶之、郢州刺史田朴特等寇邊,豫州刺史堯雄擊走之。
○北斉18孫騰伝
 時西魏遣將寇南兗,詔騰為南道行臺,率諸將討之。騰性尫怯,無威略,失利而還。
○北斉20堯雄伝
 梁司州刺史陳慶之復率眾逼州城,雄出與戰,所向披靡,身被二創,壯氣益厲,慶之敗,棄輜重走。
○梁32陳慶之伝
 中大通二年,除都督南北司西豫豫四州諸軍事、南北司二州刺史,餘並如故。慶之至鎮,遂圍懸瓠。破魏潁州刺史婁起、揚州刺史是云寶於溱水,又破行臺孫騰、大都督侯進、豫州刺史堯雄、梁州刺史司馬恭於楚城。罷義陽鎮兵,停水陸轉運,江湖諸州並得休息。開田六千頃,二年之後,倉廩充實。高祖每嘉勞之。又表省南司州,復安陸郡,置上明郡。

 ⑴上明郡…《読史方輿紀要》曰く、『隨州(隨郡)の東北八十里の平林城に梁は上明郡を置いた。』

┃劉蠡升滅ぶ
 歓が偽って劉蠡升と和平を結び、娘をその太子に嫁がせることを約束した。蠡升はこれにすっかり警戒を解いてしまった。
 この日(3月15日)、歓がその隙を突いて奇襲をかけると、蠡升の北部王が蠡升の首を持って降伏した。
 余衆がなお蠡升の子の南海王を立てて抵抗すると、歓はこれを撃破し、南海王やその弟の西海王・北海王、皇后公卿以下四百余人、華夷五万余戸を虜とした(孝静紀では華夷五万余戸の記述の代わりに『逃亡していた二万余戸を捕らえた』とある)。

 壬申(26日)、歓は鄴の朝廷に参内し、もと孝武帝の后であった長女の高氏彭城王韶孝荘帝の兄劭の子)に嫁がせた《北孝武皇后高氏伝。時期の出典は不明》

○魏孝静紀
 齊獻武王討平山胡劉蠡升,斬之。其子南海王復僭帝號,獻武王進擊,破擒之,及其弟西海王、皇后、夫人已下四百人,并逋逃之人二萬餘戶。辛未,以旱故,詔京邑及諸州郡縣收瘞骸骨。是春,高麗、契丹並遣使朝貢。
○北斉神武紀
 三月,神武欲以女妻蠡升太子,候其不設備,辛酉,潛師襲之。其北部王斬蠡升首以送。其眾復立其子南海王,神武進擊之,又獲南海王及其弟西海王、北海王、皇后公卿已下四百餘人,胡、魏五萬戶。壬申,神武朝于鄴。

┃高家醜聞
 勃海王に封じられていた歓は、世子(後継者)に高澄生年521、時に15歳)を指名していた。その澄が、歓が劉蠡升の討伐に赴いている間に、歓の側室の鄭氏名は大車、あるいは火車)と密通した。歓は帰還するとある下女からこのことを告げられ、更に二人の下女からもその証言を得た。歓は激怒して澄に百回の杖打ちを加え幽閉すると、その母の婁昭君も隔離して往来を禁じた。
 これより前、歓は孝荘帝の后であった爾朱氏爾朱栄の娘。530年〈3〉参照)を側室としていたが、その敬い重んずることは婁昭君以上で、会うときは必ず正装を着、名乗るときは下官(謙称。小官、小生、やつがれ、わたくしめ)と称するほどであった。歓はこの爾朱氏が産んだ高浟を澄に代えて世子にしようとした。澄はそこで尚書左僕射の司馬子如歓が鄴に遷都した時左僕射とされ、朝政を司るよう命じられた。534年〈5〉参照)に助けを求めた。子如は歓に会うと、何も知らないふりをして婁昭君に会いたいと言った。歓がそこで事情を告げて拒否すると、子如はこう言った。
「我が子の消難も私の妾と密通したことがありましたが、このような家庭内の醜聞は秘密にしておくに限ります。そもそも妃は王に輿入れすれば常に父母の家財を投じて王を助け(北斉15婁昭伝によると、婁家は富裕で、『召使いは千人を数え、牛馬は谷単位で量るほどあった』〈531年(4)参照〉)、王が懐朔鎮時代に杖刑を受け背を完膚無きまでに叩かれれば昼夜つきっきりで看病し、王が葛賊(葛栄)のもとから并州に逃れ貧困に苦しめば、馬糞を燃やして食事を炊き、自ら靴を作りました。この恩義を、どうして忘れることができましょうか⁉ また、妃は王と相性が宜しく、至尊の后となったご息女【長女は孝武帝に、次女は孝靜帝の后となった】や、大業を受け継ぐご子息をもうけられました。また、妃の甥の婁領軍(婁昭)の勲功は揺るがせにできないものであります! そもそも女子とは塵芥のごとき者で、まして下女なら尚更のことです。そのような者の言葉がどうして信じられましょうか!」
 歓はそこで子如に改めて調査するように命じた。子如は澄に会うと、こう叱って言った。
「男子たるもの、威を恐れて無実の罪を認めてはなりませぬ!」
 子如はまず二人の下女に証言を撤回させたのち、密告した下女を脅迫して自ら縊死させた。それから歓にこう上奏して言った。
「果たして、下女どもの言葉は虚言でありました。」
 歓はこれを聞くや大いに喜び、昭君と澄をこの場に呼び寄せた。昭君は遙かに歓に謁えると、一步歩くごとにひざまずいて頭を地に擦り付け、澄も同じようにひざまずいて拝みながら歓のもとに歩み寄った。やがて父子・夫婦は共に泣き合って元通りの関係となった。歓は酒宴を開くとこう言った。
「我が父子の関係を全うしたは、司馬子如である!」
 かくて黄金百三十斤をこれに賜った。また澄も良馬五十頭を贈った。


○北斉神武紀

 二年正月,…壬戌,神武襲擊劉蠡升,大破之。

○北14彭城太妃爾朱氏伝

 彭城太妃尒朱氏,榮之女,魏孝莊后也。神武納為別室,敬重踰於婁妃,見必束帶,自稱下官。

○北14馮翊太妃鄭氏伝

 馮翊太妃鄭氏,名大車,嚴祖妹也。初為魏廣平王妃。遷鄴後,神武納之,寵冠後庭,生馮翊王潤。神武之征劉蠡升,文襄蒸於大車。神武還,一婢告之,二婢為證。神武杖文襄一百而幽之,武明后亦見隔絕。時彭城尒朱太妃有寵,生王子浟,神武將有廢立意。文襄求救於司馬子如。子如來朝,偽為不知者,請武明后。神武告其故。子如曰:「消難亦姦子如妾,如此事,正可覆蓋。妃是王結髮婦,常以父母家財奉王,王在懷朔被杖,背無完皮,妃晝夜供給看瘡。後避葛賊,同走并州。貧困,然馬屎,自作靴,恩義何可忘?夫婦相宜,女配至尊,男承大業,又婁領軍勳,何宜搖動?一女子如草芥,況婢言不必信。」神武因使子如鞫之。子如見文襄,尤之曰:「男兒何意畏威自誣?」因教二婢反辭,脅告者自縊,乃啟神武曰:「果虛言。」神武大悅,召后及文襄。武明后遙見神武,一步一叩頭,文襄且拜且進,父子夫妻相泣,乃如初。神武乃置酒曰:「全我父子者, 司馬子如。」賜之黃金百三十斤,文襄贈良馬五十疋。


┃二十四条の新制と蘇綽の登場
 この時、西魏の官民は打ち続く戦いに疲弊していた。そこで丞相の宇文泰は担当官に命じ、このような時にとる適切な治策を史書から調査させた。
 この月(3月、泰は担当官が斟酌してまとめた二十四条の新制を文帝に提出し、施行を許可された。

 泰が丞相府属の蘇讓を南汾州刺史とした(時期不明)。讓が任地に赴く際、泰は長安の東都門外にてはなむけの宴を催し、いざ別れるに当たって讓にこう尋ねて言った。
「そなたの一門の子弟の内、任用すべき者はおるか?」
 讓がそこで従弟の蘇綽を薦めると、泰はこれを行台郎中に任じた。しかし一年余り経っても、泰は綽の才をよく知らずにいた。いっぽう行台の同僚たちは早くもその有能さを知り、難儀なことがあれば綽に相談して決めるようになり、行台から出される公文書も全て綽の手を経て出されるのが常となった。
 のち、泰が僕射の周恵達恵達が右僕射となったのは大統四年。この時は行台尚書)とある事を論じた際、恵達は答えることができず、いったん退出し人と相談してから出直す許可を求めた。泰がこれを許すと、恵達は綽に相談した。綽が論題を良く分析して恵達に説き、恵達がそれを泰に伝えると、泰はその回答を褒め称えて言った。
「卿の相談相手は誰だったのだ?」
 恵達は綽だと答えると共に、綽には王佐の才があると褒め称えた。泰は答えて言った。
「私もその名はよく聞いておった。」
 そこで綽を著作佐郎とした。
 ある日、泰は公卿らと共に漁を観に昆明池へ赴くと、その途中の前漢の故倉池にてこの地の故事【新末、王莽はこの池中に建つ漸台にて死んだ】について左右の者に問うた。しかし誰も答えられるものがいなかったので、綽を呼んで尋ねると、綽はつぶさにこれに答えた。泰は大いに喜び、更に天地の初めから歷代の興亡の事跡について尋ねたが、綽はこれも持ち前の弁舌の才能を以て立て板に水を流すようにすらすらと答え切った。そこで泰はますます喜び、綽と馬を並べて徐ろに昆明池へと赴いたが、遂に一度も漁を行なわずに帰った【泰は観漁よりも綽に尋ねることに夢中になったのである】。泰はそのまま綽を自邸に留め、夜、横になりながら綽に治国の道について尋ねた。綽がそこで帝王の道や申不害韓非共に法家)の言説を分かりやすく述べると、泰は起き上がって衣服を正し、端座してこれに聞き入った。泰は無意識の内に膝を前に乗り出し、夜明けになってもまだまだ聞き足りない様子を見せた。早朝、泰は恵達にこう言った。
蘇綽は真に奇士である。わしは彼に政治を任せようと思う。」
 かくて泰は直ちに綽を大行台左丞として機密事項を任せた。この日以来、綽は日ごとに寵遇されるようになっていった。
 綽は戸籍・計帳(戸籍に基づいて作られる、徴税のための基本台帳)を初めて作成した。また、支出の数字に朱を、収入の数字に墨を用いる方法も初めて行なった。このやり方は後世にも多く踏襲された【世に名君ある時は、必ず名臣が現れてこれを助けるものである。天下に才人がいないというような言葉を、私は信じない】。

 蘇綽生年498、時に38歳)、字は令綽は、武功の人で、曹魏の侍中の蘇則の九世孫である。家は代々二千石の官職(郡太守)に就き、父の蘇協は武功郡守となった。
 綽は若くして学問を好み、群書を渉猟した。算術を最も得意とした。

○資治通鑑
 泰用武功蘇綽為行臺郎中,居歲餘,泰未之知也,而臺中皆稱其能,有疑事皆就決之【就蘇綽以決疑也。此就,卽《孟子》「欲有謀焉則就之」之就】。泰與僕射周惠達論事,惠達不能對,請出議之。出,以告綽,綽為之區處,惠達入白之,泰稱善,曰:「誰與卿為此議者?」惠達以綽對,且稱綽有王佐之才,泰乃擢綽為著作郎。泰與公卿如昆明池觀漁,行至漢故倉池【《水經注》:泬水枝渠至章門西,飛渠引水入城,東為倉池,池在未央宮西。池有漸臺,漢兵起,王莽死於此臺。《蘇綽傳》亦云:行至長安城漢故倉池。】,顧問左右,莫有知者。泰召綽問之,具以狀對。泰悅,因問天地造化之始,歷代興亡之迹,綽應對如流。泰與綽並馬徐行,至池,竟不設網罟而還【意在問綽,不在觀漁】。遂留綽至夜,問以政事,臥而聽之;綽指陳為治之要,泰起,整衣危坐,不覺膝之前席【初臥而聽,繼起而整衣危坐,又不覺膝之前席。蓋綽之言深有以當泰心,久而愈敬也】,語遂達曙不厭【天曉為曙】。詰朝,謂周惠達曰:「蘇綽眞奇士,吾方任之以政。」詰,去吉翻。卽拜大行臺左丞,參典機密,自是寵遇日隆。綽始制文案程式朱出、墨入及計帳、戶籍之法【計帳者,具來歲課役之大數,以報度支。戶籍者,戶口之籍】,後人多遵用之【世有有為之主,必有能者出為之用;若謂天下無才,吾不信也】。
○周文帝紀
 三月,太祖以戎役屢興,民吏勞弊,乃命所司斟酌今古,參考變通,可以益國利民便時適治者,為二十四條新制,奏魏帝行之。
○周23蘇綽伝
 蘇綽字令綽,武功人,魏侍中則之九世孫也。累世二千石。父協,武功郡守。綽少好學,博覽羣書,尤善筭術。從兄讓為汾州刺史,太祖餞於東都門外。臨別,謂讓曰:「卿家子弟之中,誰可任用者?」讓因薦綽。太祖乃召為行臺郎中。在官歲餘,太祖未深知之。然諸曹疑事,皆詢於綽而後定。所行公文,綽又為之條式。臺中咸稱其能。後太祖與僕射周惠達論事,惠達不能對,請出外議之。乃召綽,告以其事,綽即為量定。惠達入呈,太祖稱善,謂惠達曰:「誰與卿為此議者?」惠達以綽對,因稱其有王佐之才。太祖曰:「吾亦聞之久矣。」尋除著作佐郎。屬太祖與公卿往昆明池觀漁,行至城西漢故倉地,顧問左右,莫有知者。或曰:「蘇綽博物多通,請問之。」太祖乃召綽。具以狀對。太祖大悅,因問天地造化之始,歷代興亡之迹。綽既有口辯,應對如流。太祖益喜。乃與綽並馬徐行至池,竟不設網罟而還。遂留綽至夜,問以治道,太祖臥而聽之。綽於是指陳帝王之道,兼述申韓之要。太祖乃起,整衣危坐,不覺膝之前席。語遂達曙不厭。詰朝,謂周惠達曰:「蘇綽真奇士也,吾方任之以政。」即拜大行臺左丞,參典機密。自是寵遇日隆。綽始制文案程式,朱出墨入,及計帳、戶籍之法。
○周38蘇讓伝
 湛弟讓,字景恕。幼聰敏,好學,頗有人倫鑒識。初為本州主薄,稍遷別駕、武都郡守、鎮遠將軍、金紫光祿大夫。及太祖為丞相,引為府屬,甚見親待。出為衞將軍、南汾州刺史。治有善政。尋卒官。贈車騎大將軍、儀同三司、涇州刺史。