[西魏:大統元年 東魏:天平二年 梁:大同元年


●文帝の即位

 春、正月、戊申朔(1日)、梁は大赦を行ない、年号を中大通から大同と改めた《梁武帝紀》

 この日元宝炬が長安城の西にて皇帝の位に即いた。これが西魏の文帝である。帝は大赦を行なって年号を永熙から大統と改め、父の京兆王愉を文景皇帝、母の楊氏を文景皇后と追尊した《北・西魏文帝紀》
 昇殿の際、帝は縁起の良い字を持つ安定県伯の李遠遠の字は万歳。侯莫陳悦の討伐の際、原州攻略に非常に貢献した)を付き添い人に指名した《周25李遠伝》

○北史西魏文帝紀
 大統元年春正月戊申,皇帝即位於城西,大赦,改元。追尊皇考為文景皇帝,皇妣楊氏為皇后。

可朱渾道元、東魏に奔る

 西魏の渭州刺史の可朱渾道元元の字。本名は可朱渾元)は以前、侯莫陳悦側に付いており、悦が死ぬとその兵を収容し、秦州に拠って抵抗を続けた。宇文泰はこれを攻めたが陥とせず、やむなく誓いを行なってその生命を保証し《北斉27可朱渾元伝》、道元の元々の管轄である渭州に還ることを許した《周文帝紀》『資治通鑑』では『魏渭州刺史可朱渾道元先附侯莫陳悦、悦死、丞相泰攻之、不能克、與盟而罷。』とある。『北斉書』27可朱渾元伝では『侯莫陳悦之殺賀抜岳也、周文帝率岳所部還共図悦。元時助悦、悦走、元收其衆、入拠秦州、為周攻囲、苦戦、結盟而罷。』とある。苦戦の主語が不明瞭なので、今は資治通鑑の記述に従った)。
 道元は代々懐朔鎮の産で、同じく懐朔鎮出身の高歓と深い交友関係があり、その上、母や兄が共に鄴にいたため、歓と使者を往来させるようになっていた。泰がそこで再びこれを討とうとすると、道元は三千戸の部衆を率いて渭州を脱し、西北にある烏蘭津より黄河を渡って河・原二州の境界に到った。道元はこの間何度も泰から攻撃を受けたが、そのつど撃破した。道元は曹泥の女婿の劉豊と意気投合すると、彼に歓がどれだけ英明で大業を成すことができる人物かを説き、その助力を得た。
 この月、道元は霊州の東北にある雲州に辿り着いた。歓は道元がやってきたのを知ると、平陽太守の高嵩をこれに派して金環一個と食糧を与えてもてなした。道元が晋陽に到ると、歓はこれと会ってその手を取り、絹千疋と奴婢田宅を与えて元県公・車騎大将軍とすると共に、先に并州にいた道元の兄弟四人の官爵を進め、道元の配下の督将全員に爵位と封邑を与えて歓迎の意を示した《北斉27可朱渾元伝

○魏孝静紀
 二年春正月,寶炬渭州刺史可朱渾道元擁部來降,齊獻武王迎納之,賑其廩食。
○北斉27可朱渾元伝
 元既早被高祖知遇,兼其母兄在東,嘗有思歸之志,恒遣表疏與高祖陰相往來。周文忌元智勇,知元懷貳,發兵攻之。元乃率所部,發自渭州,西北渡烏蘭津。周文頻遣兵邀之,元戰必摧之。引軍歷河、源二州境,乃得東出。靈州刺史曹埿女婿劉豐與元深相交結。元因說豐以高祖英武非常,克成大業,豐自此便有委質之心,遂資遣元。元從靈州東北入雲州。高祖聞其來也,遣平陽守高嵩持金環一枚以賜元,並運資糧,遠遣候接。元至晉陽,引見執手,賜帛千疋並奴婢田宅。兄弟四人先在并州者,進官爵。元所部督將,皆賞以爵邑。封元縣公,除車騎大將軍。

┃孝武帝の喪
 道元が晋陽に到った時、高歓は初めて孝武帝が亡くなったことを知った。そこで孝静帝に上書して、天下万民に哀悼の声を上げさせ、喪に服させるよう求めた。帝がこれを群臣に諮ると、太学博士の潘崇和がこう言った。
「君が生前、臣下に無礼な態度を取った場合、臣下はその喪に服さずともよい、と聞いております。殷の湯王の民が夏の桀王のために哭かず、周の武王の民が紂王のために喪に服さなかったのは、このためです。」
 国子博士の衛既隆李同軌はこう言った。
「高后(高皇后、歓の娘で孝武帝に嫁いだ)【孝武帝が関中に蒙塵した際、后は洛陽に留まって付いていかなかった】は永熙帝孝武帝)とはっきり離縁したわけではありませぬゆえ、喪に服させるのが適当と考えます。」
 帝はこの意見に従った《出典不明》

┃長孫慶明の登場
 可朱渾元が東魏に出奔したのち、河・渭二州の人心は大いに動揺した。そこで秦州刺史の李弼が長史・防城大都督の長孫慶明に渭州の鎮撫をさせると、慶明は十余騎のみを率いてこの難地に赴き、柔軟な安撫工作を行なって羌胡族を懐柔することに成功した。

 慶明は、長孫嵩の五世孫である。堂々とした容貌をしており、堅物な性格で、家の中にいても終始居住まいを正していた。また、交際も生真面目で、相手がどんなに名門の者であっても性格が合わなければ決して付き合おうとしなかった。
 太昌年間(532年4月〜12月)に辺境で争乱が起こると、仮の東夏州防城大都督とされ、爾朱天光宿勤明達らを破るのに貢献し索盧侯を授かった。のち宇文泰が夏州刺史となると、その録事参軍事とされ、泰から非常に敬い重んじられた。賀抜岳が殺されると、泰は平涼に赴きその遺衆を収めることに成功したが、慶明はその計画に全て関与した。泰が侯莫陳悦を討つと、慶明はその本拠だった秦州に留め置かれて秦州長史・防城大都督とされ、事後処理を任された《北22長孫倹伝》

 李弼...字は景和。生年494、時に42歳。並外れた膂力を有し、爾朱天光や賀抜岳の関中征伐の際に活躍して「李将軍と戦うな」と恐れられた。のち侯莫陳悦に従い、その妻の妹を妻としていた関係で信頼され、南秦州刺史とされた。宇文泰が賀抜岳の仇討ちにやってくるとこれに寝返り、その勝利に大きく貢献し、秦州刺史とされた。534年(6)参照。

●曹泥降る
 これより前(去年11月)、西魏の北道行台の趙善貴の従祖兄)が儀同の趙貴・李弼李虎万俟受洛干ら(北53劉豊伝)と共に曹泥を攻めていた《周文帝紀》。虎は付近にいた費()也頭族を味方につけて霊州(曹泥)を攻め、黄河の水を決壊させてこれにそそいだ(周文帝紀)。四十日ほどして曹泥は降伏し、泰は泥をそのまま霊州刺史とした《北斉神武紀》535年。詳しい時期は不明)。
 このとき、阿至羅部が西魏軍の帰路を断つと、虎は精鋭を率いてこれを奇襲して大破し、一人残らず捕虜にした。虎はこの功によって長安県侯とされたが、虎は許可を得てこれを兄の子の李康生に譲った。

○資治通鑑
 魏驍騎大將軍、儀同三司李虎等招諭費也頭之衆,與之共攻靈州,凡四旬,曹泥請降。
○周文帝紀
 十一月,遣儀同李虎與李弼、趙貴等討曹泥於靈州,虎引河灌之。明年,泥降,遷其豪帥于咸陽。
○冊府1唐景帝紀
 太祖帥師,迎魏武帝於潼關,以功拜驍騎將軍,加儀同三司。遇靈州刺史曹泥擁兵作亂,太祖率兵擊之。時有破野頭賊屯聚塞下,太祖遣使諭之,皆來降服,遂徵其眾并力攻泥,四旬而克,靈州平。會阿至羅部落別道斷其歸路,太祖親率驍銳襲擊,大破之,悉虜其眾。進封長安縣侯,食邑五百戶。太祖不受,讓於兄子康生。周文帝許之。

●西魏新体制
 己酉(2日)文帝は丞相・略陽公の宇文泰を都督中外諸軍事・録尚書事・大行台に任じ、更に爵位を進めて安定王に封じた。しかし泰が王爵と録尚書事を固辞したため、安定公とした《周文帝紀》
 また、尚書令の斛斯椿を太保、広平王賛を司徒とした。

○北史西魏文帝紀
 己酉,進丞相、略陽公宇文泰都督中外諸軍、錄尚書事、大行臺,改封安定郡公。以尚書令斛斯椿為太保,廣平王贊為司徒。
○周文帝紀
 魏大統元年春正月己酉,進太祖督中外諸軍事、錄尚書事、大行臺,改封安定郡王。太祖固讓王及錄尚書事,魏帝許之,乃改封安定郡公。

┃真に男子に勝る
 乙卯(正月8日)、帝は妃の乙弗氏乙弗氏の先祖は代々吐谷渾の渠帥(部落の酋長)で、青海湖湖畔に暮らし、青海王と号した。414年に南涼三代の禿髮傉檀に襲撃されたのがこれである。439年9月に北魏が涼州を平定すると、高祖父の莫瓌は部落を率いてこれに従い、のちに孝文帝が洛陽に遷都すると、乙弗家も洛陽に居を遷した(莫瓌以後、三代に渡って乙弗家は公主を娶り、娘は王妃となって、非常に重んぜられた。父の乙瑗は西兗州刺史となり、孝文帝の第四女を娶った)】を皇后に(これが文后である)、子の元欽を皇太子に立てた《北西魏文帝紀》
 文后は美しい容貌を持ち、寡黙で笑うことが滅多になかった。両親(父は乙瑗、母は北魏の孝文帝の第四女の淮陽長公主)はこれを奇として、親族にこう言った。
「女子を生むのがどうして妨げになろうか。このような女子なら真に男子に勝ろう。」
 十六の時に文帝の后となり、帝が即位すると皇后となった。
 性格は思いやり深く、質素な生活を好んで古着を身にまとい、艶やかな装飾や衣服を身に着けようとしなかった。更に嫉妬も起こさなかったので、帝から寵愛を受けた《北13文后伝》

○北史西魏文帝紀
 乙卯,立妃乙氏為皇后,立皇子欽為皇太子。
○北13文帝文皇后伝
 文帝文皇后乙弗氏,河南洛陽人也。其先世為吐谷渾渠帥,居青海,號青海王。涼州平,后之高祖莫瓌擁部落入附,拜定州刺史,封西平公。自莫瓌後,三世尚公主,女乃多為王妃,甚見貴重。父瑗,儀同三司、兗州刺史。母淮陽長公主,孝文之第四女也。后美容儀,少言笑,年數歲,父母異之,指示諸親曰:「生女何妨也。若此者,實勝男。」年十六,文帝納為妃。及帝即位,以大統元年冊為皇后。后性好節儉,蔬食故衣,珠玉羅綺絕於服玩。又仁恕不為嫉妬之心,帝益重之。生男女十二人,多早夭,唯太子及武都王戊存焉。

 ⑴乙瑗...もと爾朱仲遠の都督・西兗州刺史。531年(1)参照。

●劉蠡升討伐
 稽胡の劉蠡升は孝昌以来(525)、天子を自称して年号を神嘉と改め、雲陽谷に割拠していた(525年〈5〉参照)【李延寿曰く、稽胡は步落稽とも言い、匈奴の別種で、劉元海の五部の曲裔と考えられる。或いは山戎・赤狄の後裔とも言われ、離石以西・安定以東の七八百里四方にの山谷に集落を増やしていた】。北魏の辺境の民は常にその侵擾に遭い、人々はこれを『胡荒』と呼んだ【彼らの出自である胡種族は漢族を侵擾したため、最も僻遠で野蛮な土地(荒服)にいる者とされていた】(あるいは、胡人の災荒)。
 壬戌(15日)、歓はこれを襲擊し、大破した《北斉神武紀》

●高家醜聞
 勃海王に封じられていた歓は、世子(後継者)に高澄生年521、時に15歳)を指名していた。その澄が、歓が劉蠡升の討伐に赴いている間に、歓の側室の鄭氏名は大車、あるいは火車)と密通した。歓は帰還するとある下女からこのことを告げられ、更に二人の下女からもその証言を得た。歓は激怒して澄に百回の杖打ちを加え幽閉すると、その母の婁昭君も隔離して往来を禁じた《北14馮翊太妃鄭氏伝》
 これより前、歓は孝荘帝の后であった爾朱氏爾朱栄の娘。530年〈3〉参照)を側室としていたが、その敬い重んずることは婁妃以上で、会うときは必ず正装を着、名乗るときは下官(謙称。小官、小生、やつがれ、わたくしめ)と称するほどであった《北14彭城太妃爾朱氏伝》。歓はこの爾朱氏が産んだ高浟を澄に代えて世子にしようとした。澄はそこで尚書左僕射の司馬子如歓が鄴に遷都した時左僕射とされ、朝政を司るよう命じられた。534年〈5〉参照)に助けを求めた。子如は歓に会うと、何も知らないふりをして婁昭君に会いたいと言った。歓がそこで事情を告げて拒否すると、子如はこう言った。
「我が子の消難も私の妾と密通したことがありましたが、このような家庭内の醜聞は秘密にしておくに限ります。そもそも妃は王に輿入れすれば常に父母の家財を投じて王を助け(北斉15婁昭伝によると、婁家は富裕で、『召使いは千人を数え、牛馬は谷単位で量るほどあった』〈531年(4)参照〉)、王が懐朔鎮時代に杖刑を受け完膚無きまでに叩かれれば昼夜つきっきりで看病し、王が葛賊(葛栄)のもとから并州に逃れ貧困に苦しめば、馬糞を燃やして食事を炊き、自ら靴を作りました。この恩義を、どうして忘れることができましょうか⁉ また、妃は王と相性が宜しく、至尊の后となったご息女【長女は孝武帝に、次女は孝靜帝の后となった】や、大業を受け継ぐご子息をもうけられました。また、妃の甥の婁領軍(婁昭)の勲功は揺るがせにできないものであります! そもそも女子とは塵芥のごとき者で、まして下女なら尚更のことです。そのような者の言葉がどうして信じられましょうか!」
 歓はそこで子如に改めて調査するように命じた。子如は澄に会うと、こう叱って言った。
「男子たるもの、威を恐れて無実の罪を認めてはなりませぬ!」
 子如はまず二人の下女に証言を撤回させたのち、密告した下女を脅迫して自ら縊死させた。それから歓にこう上奏して言った。
「果たして、下女どもの言葉は虚言でありました。」
 歓はこれを聞くや大いに喜び、昭君と澄をこの場に呼び寄せた。昭君は遙かに歓に謁えると、一步歩くごとにひざまずいて頭を地に擦り付け、澄も同じようにひざまずいて拝みながら歓のもとに歩み寄った。やがて父子・夫婦は共に泣き合って元通りの関係となった。歓は酒宴を開くとこう言った。
「我が父子の関係を全うしたは、司馬子如である!」
 かくて黄金百三十斤をこれに賜った。また澄も良馬五十頭を贈った。


○魏孝静紀

〔二年〕三月辛酉,以司徒高盛為太尉,以司空高昂為司徒,濟陰王暉業為司空。齊獻武王討平山胡劉蠡升,斬之。

○北斉神武紀

 二年正月,…壬戌,神武襲擊劉蠡升,大破之。

○北14彭城太妃爾朱氏伝

 彭城太妃尒朱氏,榮之女,魏孝莊后也。神武納為別室,敬重踰於婁妃,見必束帶,自稱下官。

○北14馮翊太妃鄭氏伝

 馮翊太妃鄭氏,名大車,嚴祖妹也。初為魏廣平王妃。遷鄴後,神武納之,寵冠後庭,生馮翊王潤。神武之征劉蠡升,文襄蒸於大車。神武還,一婢告之,二婢為證。神武杖文襄一百而幽之,武明后亦見隔絕。時彭城尒朱太妃有寵,生王子浟,神武將有廢立意。文襄求救於司馬子如。子如來朝,偽為不知者,請武明后。神武告其故。子如曰:「消難亦姦子如妾,如此事,正可覆蓋。妃是王結髮婦,常以父母家財奉王,王在懷朔被杖,背無完皮,妃晝夜供給看瘡。後避葛賊,同走并州。貧困,然馬屎,自作靴,恩義何可忘?夫婦相宜,女配至尊,男承大業,又婁領軍勳,何宜搖動?一女子如草芥,況婢言不必信。」神武因使子如鞫之。子如見文襄,尤之曰:「男兒何意畏威自誣?」因教二婢反辭,脅告者自縊,乃啟神武曰:「果虛言。」神武大悅,召后及文襄。武明后遙見神武,一步一叩頭,文襄且拜且進,父子夫妻相泣,乃如初。神武乃置酒曰:「全我父子者, 司馬子如。」賜之黃金百三十斤,文襄贈良馬五十疋。


┃荊州陥落
 甲子(正月17日)、西魏は〔大司馬の〕広陵王欣節閔帝の兄。534年〈5〉参照)を太傅・録尚書事(北19広陵王欣伝)、儀同三司の万俟寿洛干を司空とした。

 この日(?)、東魏将の高敖曹・侯景らが西魏の荊州を奇襲した。刺史の独孤如願534年〈5〉参照)は力戦したが衆寡敵せず、遂に楊忠・宇文虬ら麾下と共に梁に亡命した。

 己巳(22日)孝静帝高歓劉蠡升を大破したことを以て(北斉神武紀)これを相国とし、黄鉞(皇帝用の斧。征伐時に特別に臣下に貸し与えることがあた)を貸し与え、剣を帯びながら宮殿に入る権利や宮殿内にて小走りをしなくてもよい権利を与えたが、歓はこれらを全て固辞した《魏孝静紀》

○北史西魏文帝紀
 甲子,以廣陵王欣為太傅,以儀同三司万俟壽樂干為司空。東魏將侯景攻陷荊州。二月…。
○周16独孤信伝
 東魏又遣其將高敖曹、侯景等率眾奄至。信以眾寡不敵,遂率麾下奔梁。
○周19楊忠伝
 居半歲,以東魏之逼,與信奔梁。
○周29宇文虬伝
 尋隨信奔梁。

 ⑴高敖曹…生年501、時に35歳。名門勃海高氏の出。敖曹は字で、本名は昂。高翼の第三子。高乾・高仲密の弟、高季式の兄。母は張氏。母の激しい気性を受け継ぎ、幼い時から豪放で、度胸は並外れて強く、勇士の相があって、とても逞しい体つきをしていた。家産を尽くして剣客を抱え込み、兄の乾と共にあちこちを荒らし回った。爾朱栄が河陰にて百官を虐殺すると河北の流民を率いて斉州の東平原に叛し、葛栄の傘下に入り、斉州軍を幾度も撃破した。のち帰順したが、その後も暴れ回ったため捕らえられて監禁された。爾朱栄が死ぬと孝荘帝に救い出され、爾朱世隆の洛陽侵攻を撃退した。のち郷里の冀州に帰って募兵するよう命じられた。間もなく帝が爾朱兆に殺されると挙兵し、爾朱羽生率いる五千の兵をたった十余騎で撃破した。馬槊(馬上矛)の扱いが絶妙で天下に比類無く、項籍(項羽)になぞらえられた。のち高歓が山東にやってくると渋々これに従い、韓陵の決戦では歓の窮地を救う大功を挙げた。歓が孝武帝と対立して洛陽に攻め込むと先鋒とされ、帝が関中に逃走すると精騎五百を率いて追撃したが追いつけなかった。のち行豫州事とされ、賀抜勝を梁に追いやった。東魏が建国されると司空とされた。534年⑹参照。
 ⑵侯景…字は万景。生年503、時に33歳。懐朔鎮の出。懐朔功曹史や外兵史を務めた。高歓の友人。私兵を率いて爾朱栄に仕え、滏口の戦いのさい先鋒を務めて葛栄を捕らえる大功を立てた。のち行済州事とされた。爾朱氏が滅びると高歓に仕え、南道大行台とされた。賀抜岳が死ぬと関西に使者として赴き、一時宇文泰に捕らえられた。高歓が洛陽の孝武帝を攻めた際、白馬津に向かった。間もなく賀抜勝を討伐し、梁に追いやった。534年⑸参照。

┃元慶和の北伐
〔これより前(534年10月)、梁は信武将軍の元慶和を鎮北将軍・北道総督・魏王とし、東魏を討伐させた。閏12月、李洪芝・王当伯らが平瀬郷を陥とさせた。洪芝らは州境を乱したが、東魏の豫州刺史の堯雄が伏兵を設けてこれを破って捕らえ、非常に多くの捕虜・戦利品を得た。〕
 この月、梁将の湛僧智梁の譙州刺史で、527年10月に元慶和の守る東豫州を陥とした)が東魏の南兗州を攻めたが、州軍に擊破された。
 乙亥(28日)、東南道行台右僕射の元晏が広州軍事の王懐と共に梁の鎮北将軍(または北道総督・魏王)の元慶和湛僧智らを更に項城に破り、梁の刺史の㬓?)を虜とした。

○魏孝静紀
〔正月…〕乙亥,兼尚書右僕射、東南道行臺元晏討元慶和,破走之。
○魏19元慶和伝
 衍以為北道總督、魏王。至項城,朝廷出師討之,望風退走。
○魏98島夷蕭衍伝
 二年正月,衍將湛僧珍寇南兗州,州軍擊破之。行臺元晏又破湛僧珍等於項城,虜其□□刺史楊㬓。
○北斉19王懐伝
 天平中,除使持節、廣州軍事。梁遣將湛僧珍、楊暕來寇,懷與行臺元晏擊項城,拔之。
○北斉20堯雄伝
 梁以元慶和為魏王,侵擾南境。

 ⑴北斉19王懐伝には『梁将の湛僧珍・楊暕らが来寇してきた。懐は行台の元晏と共に項城を攻め、これを陥とした』とある。湛僧珍らは一時項城を陥としていたのかもしれない。
 
●勇壮王羆 ー華州の戦いー

 東魏大行台尚書の司馬子如が大都督の竇泰・泰州【河東郡に置かれ、河東と北郷の二郡を管轄した】刺史の韓軌らを率いて潼関を攻めた。泰は覇上に軍を進めてこれに対した。すると子如は軌と共に転進し、夜の内に蒲津より黄河を渡り、華州【治所は武郷】を攻めた。
 このとき州城の修築はまだ終わっておらず、そのための梯子が城外に残されたままだった。夜明け頃、東魏軍はその梯子を使って城内に侵入した。刺史の王羆534年〈5〉参照)は庁舎の外の騒々しさに目を覚ますと、着の身着のまま冠も着けず靴も履かず、白梃(大きな棍棒)片手に外に飛び出し、こう叫んだ。
「老羆(王羆は太和年間〈477~499〉に殿中将軍に任じられているので、少なくともこの時50は越えているように思われる)死すとも、ムジナは通さぬ!」
 東魏兵はこれに驚いて逃げ去った。羆はこれを追う内に集まった自軍の兵を率い、東魏軍と東門に合戦し勝利した。子如らは攻略を諦め撤退した【軍隊というものは士気があって初めて用を成す。兵の勇怯というものは、それを率いる者にかかっている。王羆が勇敢に戦場に赴いたからこそ部下たちも勇敢に戦い、不意を突かれても撃退することができたのである】。泰はその勇敢さを褒め称えた《北62王羆伝》

 2月、辛巳(4日)、梁の武帝が明堂にて祖先の祭祀を執り行なった《梁武帝紀》

 壬午(5日)、東魏が咸陽王坦孝文帝の弟禧の子)を太傅に、西河王悰景穆系)を太尉とした《魏孝静紀》
 また、尚書右僕射の高隆之歓に気に入られ、義弟とされた。酒宴のさい文帝に殴られている。532年〈2〉参照)に十万の人夫を以て洛陽の宮殿を撤去させ、その資材を鄴に運び込ませた(詳細な時期は不明《北54高隆之伝》

 丁亥(10日)武帝が藉田を耕す儀式を行なった《梁武帝紀》

○資治通鑑
 東魏大行臺尚書司馬子如帥大都督竇泰、太州刺史韓軌等攻潼關。
○周文帝紀
 魏大統元年春正月…東魏遣其將司馬子如寇潼關,太祖軍霸上,子如乃回軍自蒲津寇華州,刺史王羆擊走之。
○周18王羆伝
〔神武退,拜驃騎大將軍,〕加侍中、開府。嘗修州城未畢,梯在〔城〕外。齊神武遣韓軌、司馬子如從河東宵濟襲羆,羆不之覺。比曉,軌眾已乘梯入城。羆尚臥未起,聞閤外洶洶有聲,便袒身露髻徒跣,持一白挺(棒),大呼而出〔,謂曰:「老羆當道臥,貉子那得過!」〕。敵見之驚〔退〕,逐至東門,左右稍集,合戰破之。軌眾遂投城遁走。〔文帝聞而壯之。

●樊子鵠の乱の平定
 東魏の儀同三司で東道大都督の婁昭らが兗州の樊子鵠534年11月に兗州にて乱を起こした)を攻めた。昭は前膠州刺史の厳思達が守る東平を攻め陥とし、そのまま兗州の治所である瑕丘を包囲した。しかしなかなか陥とすことができなかったため、昭はこれを水攻めにした。
 子鵠が挙兵した時、前西兗州刺史の乙瑗西魏の乙弗皇后の父)と譙郡太守の辛景威が五梁に拠ってこれに呼応した。高歓宋顕を行西兗州事として討伐させた。顕は〔五梁を陥として〕瑗を斬り、景威を遁走させた。
 孝靜帝は散騎常侍の陸琛と兼黄門郎の張景徵に璽書を持たせて子鵠の説得に赴かせ、これを降伏させようとした。
 己丑(12日)、前南青州刺史の大野抜子鵠が乱を起こしたとき、これに加わった)が相談と偽って子鵠を呼び出し、その首を斬って東魏に降伏した。
 これより前、子鵠は自軍の兵が少ない事から、老弱すら駆り立てて兵としていたが、子鵠が死ぬと彼らはみな四方八方に逃げ散った。諸将は婁昭にこれをことごとく捕らえて誅するように勧めると、昭はこう答えて言った。
「兗州の人々は故なくして塗炭の苦しみを味わい、爪先立って官軍の救いを待っていたのだ。その官軍も同じように苦しみを与えるなら、民は一体誰に救いを求めればいいのか!」
 かくてみな不問に付した。

○資治通鑑
 東魏儀同三司婁昭等攻兗州,樊子鵠使前膠州刺史嚴思達守東平,昭攻拔之。遂引兵圍瑕丘,久不下,昭以水灌城;己丑,大野拔見子鵠計事,因斬其首以降。始,子鵠以眾少,悉驅老弱為兵,子鵠死,各散走。諸將勸婁昭盡捕誅之,昭曰:「此州不幸,橫被殘賊,跂望官軍以救塗炭。今復誅之,民將誰訴!」皆舍之。
○魏孝静紀
 己丑,前南青州刺史大野拔斬樊子鵠以降,兗州平。
○北史西魏文帝紀
 二月,前南青州刺史大野拔斬兗州刺史樊子鵠,以州降東魏。
○魏80樊子鵠伝
 及出帝入關,子鵠據城為逆。南青州刺史大野拔、徐州人劉粹各率眾就子鵠。天平初,遣儀同三司婁昭等率眾討之。子鵠先使前膠州刺史嚴思達鎮東平郡,昭攻陷之,仍引兵圍子鵠。城久不拔,昭以水灌城。靜帝欲招慰下之,遣散騎常侍陸琛、兼黃門郎張景徵齎璽書勞子鵠,而大野拔因與相見,左右斬子鵠以降。
○北斉15婁昭伝
 兗州刺史樊子鵠反,以昭為東道大都督討之。子鵠既死,諸將勸昭盡捕誅其黨。昭曰:「此州無狀,橫被殘賊,其君是怨,其人何罪。」遂皆捨焉。
○北斉19蔡俊伝
 天平中,為都督,隨領軍婁昭攻樊子鵠於兗州。
○北斉19尉長命伝
 樊子鵠據兗州反,除東南道大都督,與諸軍討平之。
○北斉19高市貴伝
 及樊子鵠據州反,隨大都督婁昭討之。子鵠平,除西兗州刺史,不之州。
○北斉20宋顕伝
 樊子鵠據兗州反,前西兗州刺史乙瑗、譙郡太守辛景威屯據五梁,以應子鵠。高祖以顯行西兗州事,率眾討破之,斬瑗,景威遁走。
○北斉20薛修義伝
 樊子鵠之據兗州,脩義從大司馬婁昭破平之。
○北斉20叱列平伝
 復從領軍婁昭討樊子鵠平之。授使持節、華州刺史。

 ⑴婁昭...字は菩薩。高歓の正室の同母弟。正直な性格で度量が大きく、優れた智謀を有していた。腰回りは八尺もあり、弓と馬の扱いは抜群のものがあった。早くから高歓の才能を見抜き、歓に付き従ってその雄飛に貢献した。
 ⑵五梁...《読史方輿紀要》曰く、『府東南二百六十五里→陳州の西南十五里に五梁溝がある。

●陳慶之と堯雄、豫州に刃を交える
 戊戌(21日)、梁の司州刺史の陳慶之・郢州刺史の田朴特ら(魏98島夷蕭衍伝)が東魏の豫州に迫った《魏孝静紀》。刺史の堯雄は城を出撃すると次々と梁軍を撃ち破り、身に二つの傷を受けてもますます意気軒昂として闘志を失わなかった。かくて慶之は敗北し、輜重を捨てて撤退した《北斉20堯雄伝》

 3月、辛酉(15日)、東魏が広平公の高盛歓の従叔)を太尉、高敖曹を司徒、済陰王暉業を司空とした《魏孝静紀》

○魏孝静紀
 戊戌,蕭衍司州刺史陳慶之寇豫州,刺史堯雄擊走之。三月辛酉,以司徒高盛為太尉,以司空高昂為司徒,濟陰王暉業為司空。
○魏98島夷蕭衍伝
 二月,衍司州刺史陳慶之、郢州刺史田朴特等寇邊,豫州刺史堯雄擊走之。
○北斉20堯雄伝
 梁司州刺史陳慶之復率眾逼州城,雄出與戰,所向披靡,身被二創,壯氣益厲,慶之敗,棄輜重走。

●劉蠡升滅ぶ
 歓が偽って劉蠡升と和平を結び、娘をその太子に嫁がせることを約束した。蠡升はこれにすっかり警戒を解いてしまった。
 この日、歓がその隙を突いて奇襲をかけると、蠡升の北部王が蠡升の首を持って降伏した。
 余衆がなお蠡升の子の南海王を立てて抵抗すると、歓はこれを撃破し、南海王やその弟の西海王・北海王、皇后公卿以下四百余人、華夷五万余戸を虜とした(孝静紀では華夷五万余戸の記述の代わりに『逃亡していた二万余戸を捕らえた』とある)。


 壬申(26日)、歓は鄴の朝廷に参内し《北斉神武紀》、もと孝武帝の后であった長女の高氏彭城王韶孝荘帝の兄劭の子)に嫁がせた《北孝武皇后高氏伝。時期の出典は不明》

●二十四条の新制と蘇綽の登場
 西魏の官民は打ち続く戦いに疲弊していた。そこで丞相の宇文泰は係役人に命じ、このような時にとる適切な治策を史書から調査させた。
 この月、泰は係役人らが斟酌してまとめた二十四条の新制を文帝に提出し、施行を許可された《周文帝紀》

 泰が丞相府属の蘇讓を南汾州刺史に任じた(時期不明《周38蘇讓伝》。讓が任地に赴く際、泰は長安の東都門外にてはなむけの宴を催し、いざ別れるに当たって讓にこう尋ねて言った。
「そなたの一門の子弟の内、任用すべき者はおるか?」
 讓がそこで従弟の蘇綽を薦めると、泰はこれを行台郎中に任じた。しかし一年余り経っても、泰はよく綽の才を知らずにいた。いっぽう行台の官員たちははやその有能さを知り、難儀なことがあれば綽に相談して決めるようになり、行台から出される公文書も全て綽の手を経て出されるのが常となった。
 のち、泰が僕射の周恵達恵達が右僕射となったのは大統四年。この時は行台尚書)とある事を論じた際、恵達は答えることができず、いったん退出して人と相談してから出直す機会を与えてくれるよう求めた。泰がこれを許すと、恵達は綽に相談した。綽が論題を良く分析して恵達に説き、恵達がそれを泰に伝えると、泰はその回答を褒め称えて言った。
「卿の相談相手は誰だったのだ?」
 恵達は綽だと答えると共に、綽には王佐の才があると褒め称えた。泰は答えて言った。
「私もその名はよく聞いておった。」
 そこで綽を著作佐郎とした。
 ある日、泰は公卿らと共に漁を観に昆明池へ赴くと、その途中の前漢の故倉池にてこの地の故事【新末、王莽はこの池中に建つ漸台にて死んだ】について左右の者に問うた。しかし誰も答えられるものがいなかったので、綽を呼んで尋ねると、綽はつぶさにこれに答えた。泰は大いに喜び、更に天地の初めから歷代の興亡の事跡について尋ねたが、綽はこれも持ち前の弁舌の才能を以て立て板に水を流すようにすらすらと答え切った。そこで泰はますます喜び、綽と馬を並べて徐ろに昆明池へと赴いたが、遂に一度も漁を行なわずに帰った【泰は観漁よりも綽に尋ねることに夢中になったのである】。泰はそのまま綽を自邸に留め、夜、横になりながら綽に治国の道について尋ねた。綽がそこで帝王の道や申不害や韓非(共に法家)の言説を分かりやすく述べると、泰は起き上がって衣服を直し、端座してこれに聞き入った。それは泰が無意識の内に膝を前に乗り出し、夜明けになってもまだまだ聞き足りない様子を見せるほどであった。早朝、泰は恵達にこう言った。
「蘇綽は真に奇士である。わしは彼に政治を任せようと思う。」
 かくて泰は直ちに綽を大行台左丞に任じて機密を任せた。この日以来、綽は日ごとに寵遇されるようになっていった。
 綽は戸籍・計帳(戸籍に基づいて作られる、徴税のための基本台帳)を初めて作成した。また、支出の数字に朱を、収入の数字に墨を用いる方法も初めて行なった《周23蘇綽伝》。このやり方は後世にも多く踏襲された《資治通鑑》世に名君ある時は、必ず有能なる者が現れてこれを助けるものである。天下に才人がいないというような言葉を、私は信じない】。

 蘇綽(生年498、時に38歳)、字は令綽は、武功の人で、曹魏の侍中 蘇則の九世孫である。家は代々二千石の官職(郡太守)に就き、父の協は武功郡守となった。
 綽は若くして学問を好み、群書を渉猟した。算術を最も得意とした《周23蘇綽伝》