[西魏:大統三年 東魏:天平四年 梁:大同三年]

●大出陣


 この月(9月、東魏の丞相の高歓が二十万の兵を率い、壺口山を通って蒲坂津に向かった。また、司徒の高敖曹に三万の兵を与えて黄河以南の地を攻撃させた(敖曹は侯景らと共に虎牢にて兵の調練を行なっていた)。
 このとき、西魏の丞相の宇文泰は未だに恒農に駐屯していた(恒農を陥落させたのは8月27日)が、これは当時関中で発生していた飢饉により欠乏していた兵糧を、五十日以上に亘って集めていたからであった。泰が恒農攻めに一万人以下の兵しか連れて行かなかったのも、ひとえにこの兵糧不足のためであった。
 泰は歓がまさに黄河を渡ろうとしているのを聞くと、ただちに兵を率いて関中に引き返した。泰が去った後の恒農は敖曹に包囲された。
 この時、東魏の丞相府右()長史の薛琡は歓にこう献言した。
「西賊が死の危険を冒してまで陝州( 恒農陝城)を陥としたのは、飢饉続き(関中は去年に続き、今年も大飢饉が発生していた)で欠乏した兵糧をその米蔵で補おうとしたからでありましたが、いま高司徒(敖曹)が陝城を包囲したために、その企みは失敗に終わりました。ゆえに、もし今我らが諸道に兵を置いて長期戦に持ち込めば、翌年の麦秋[1]の頃には関中の民の餓死相次ぎ、宝炬(西魏の文帝)・黒獺(宇文泰)は戦うどころではなくなって降伏してくるでしょう。野戦という博打などせずとも勝てるのです。どうか、渡河という危険な道を選ばれませぬよう。」
 侯景もまたこう言った(虎牢から駆けつけてきたものか)。
「こたびの我が軍は非常な大軍でありますゆえ、敗北などなさりますと、収拾がつかなくなり大惨事となるでしょう。ゆえに、それを防止するために、ここは軍を前後二つに分けておいた方が良いかと存じます。さすれば、勝ったときには後軍が戦果を拡大し、敗れたときには追撃を受け止めることができましょう。」
 しかし歓はこれらを聞き入れることなく、蒲坂津の后土より黄河を渡った。

○周文帝紀
 齊神武懼,率眾十萬出壺口,趨蒲坂,將自后土濟。又遣其將高敖曹以三萬人出河南。是歲,關中饑。太祖既平弘農,因館穀五十餘日。時戰士不滿萬人,聞齊神武將度,乃引軍入關。
○北斉神武紀
 十月壬辰,神武西討,自蒲津濟,眾二十萬。
○北斉26薛琡伝
 天平初,高祖引為丞相長史。琡宿有能名,深被禮遇,軍國之事,多所聞知。琡亦推誠盡節,屢進忠讜。高祖大舉西伐,將度蒲津。琡諫曰:「西賊連年饑饉,無可食啗,故冒死來入陝州,欲取倉粟。今高司徒已圍陝城,粟不得出。但置兵諸道,勿與野戰,比及來年麥秋,人民盡應餓死,寶炬、黑獺,自然歸降。願王無渡河也。」侯景亦曰:「今者之舉,兵眾極大,萬一不捷,卒難收斂。不如分為二軍,相繼而進,前軍若勝,後軍合力,前軍若敗,後軍承之。」高祖皆不納。
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 ⑴高歓...字は賀六渾。生年496、時に42歳。懐朔鎮の出身。頭が長く頬骨は高く、綺麗な歯をしていた。貧しい家に生まれたが、大豪族の娘の婁昭君の心を射止めて雄飛のきっかけを得た。杜洛周→葛栄→爾朱栄に仕えて親信都督→晋州刺史とされ、栄が死ぬと紇豆陵步蛮を大破して栄の後継の爾朱兆の信を得、もと六鎮兵の統率を任された。その後冀州にて叛乱を起こし、爾朱氏を滅ぼして北魏の実権を握った。孝武帝が関中の宇文泰のもとに逃れると孝静帝を擁立して東魏を建てた。
 ⑵二十万...周文帝紀では十万。今は通鑑と北斉神武紀の記述に従った。
 ⑶壺口山...《読史方輿紀要》曰く、『平陽府の西二百七十里→吉州(東魏の南汾州)の西七十里にある。
 ⑷高敖曹...本名は昂。敖曹は字。高乾の弟。生年501?、時に37歳。武勇絶倫で人々から項羽に比せられ、自らも『地上の虎』を自負した。馬槊(馬上矛)の達人で、わずか十余騎で五千の兵を撃破し、韓陵の決戦では高歓を窮地から救った。小関の戦いでは重傷を負いながらも西魏の洛州を陥とした。のち軍司・大都督とされ、行台の侯景と共に虎牢で練兵に当たった。
 ⑸宇文泰...字は黒獺。生年507、時に31歳。武川鎮の出身。身長八尺、額は角ばって広く、ひげ美しく、地まで届く髪と膝まで届く手を備えた。父の肱は鮮于修礼に仕えて中山にて戦死し、兄の洛生は葛栄に仕えて漁陽王とされ、栄が爾朱栄に滅ぼされるとこれに仕えたが、危険視されて殺された。同じ武川鎮出身の賀抜岳に従って関中平定に活躍し、岳が関西大行台となるとその左丞・府司馬とされ、事務を一任された。のち夏州刺史とされ、岳が侯莫陳悦に殺されると後継となり、悦を討って復讐を果たした。孝武帝が亡命してくるとこれを受け入れ、西魏の丞相となった。のち梁に梁州を、東魏に夏州を奪われて窮地に陥ったが、今年、劣勢を跳ね返し、小関にて東魏軍を撃退することに成功した。
 ⑹薛琡...字は曇珍。本姓は叱干氏。容姿が非常に美しく、宣武帝にも称えられた。行洛陽令を務めると能吏の評判を得たが、親しくしていた元叉が失脚すると不安になって政治に手がつかなくなり、罷免された。のち吏部郎中を務め、停年格に抗議した。529年、上党王天穆に邢杲よりも元顥を先に討つべきだと進言したが聞き入られなかった。534年、高歓に礼遇を受けて丞相府長史とされた。535年、西魏と通じたという密告を受け、捕らえられて免官とされた。535年(2)参照。
 [1]麦秋...礼記月令曰く、『麦秋は孟夏(初夏、陰暦の四月)の月に至る。
 ⑺侯景…字は万景。生年503、時に35歳。高歓の友人。身長七尺に満たず、胴長短足だったが、整った容姿を持ち、額は広く頬骨は高く、赤ら顔で髭薄く、眼は下を向いてしばしば左右に揺れ動き、声はしわがれていた。右足が左足より短かったため、弓や馬の扱いに不得手だったが、その代わり智謀に優れていた。性格は残虐で軍法を厳しく執行したが、戦利品を得ると気前よく将兵に分け与えたので兵士からの評判は良く、戦えば殆どの確率で勝利を得た。爾朱栄に仕え、滏口の戦いでは先鋒を務めて葛栄を捕らえる大殊勲を立て、定州刺史・大行台・濮陽郡公とされた。のち、驃騎大将軍・行斉州事とされた。爾朱氏が滅びると高歓に仕え、儀同三司・兼尚書僕射・南道大行台・済州刺史とされ、黄河以南の軍事権を委任された。532年、青州の乱を平定した。534年、荊州を陥として賀抜勝を梁に亡命させ、535年、再び荊州を陥として独孤如願や楊忠を梁に亡命させた。梁の元慶和が北侵してくると迎撃に赴いた。537年、西道大行台とされ、虎牢にて練兵を行なった。
 ⑻后土…《魏書地形志》曰く、『泰州北郷郡に后土祠がある。』《読史方輿紀要》曰く、『蒲州(泰州)の東北九十里→臨晋県の北十里→脽丘の上にある。

●死生、華州に在り

 宇文泰は華州が交通の要所であること(華州は蒲坂津と長安の間にある)を以て、華州に使者を派し、刺史の王羆に守備を厳重にするよう命じた。すると羆は使者にこう言った。
「老羆死すとも、穴熊(貉、ムジナ)どもは決して通しませぬ!」
 泰はこの発言を立派だとした。
 歓は馮翊(華州の治所)城下に到ると、羆にこう言った。
「どうして早く降らぬのか!」
 すると羆は城壁の上から絶叫してこう言った。
「この城は王羆の墓である! わしはこの城と運命を共にする! 死にたい者はかかってこい!」
 歓はその旺盛な闘志に舌を巻き、華州の攻略を諦めた。
 歓は洛水を渡り、許原[1]の西に布陣した。

○資治通鑑
 丞相泰遣使戒華州刺史王羆,羆語使者曰:「老羆當道臥,貉子那得過!」歡至馮翊城下,謂羆曰:「何不早降!」羆大呼曰:「此城是王羆塚,死生在此。欲死者來!」歡知不可攻,乃涉洛,軍於許原西。
○周文帝紀
 齊神武遂度河,逼華州。刺史王羆嚴守。知不可攻,乃涉洛,軍於許原西。
○周18王羆伝
 沙苑之役,齊神武士馬甚盛。太祖以華州衝要,遣使勞羆,令加守備。羆語使人曰:「老羆當道臥,貆子安得過!」太祖聞而壯之。及齊神武至城下,謂羆曰:「何不早降?」羆乃大呼曰:「此城是王羆冢,生死在此,欲死者來。」齊神武遂不敢攻。
○南北史演義
 華州刺史王羆首當沖要,宇文泰致書相勉,羆答復道:「臥貉子怎得輕過?」及歡至馮翊城,呼羆問道:「何不早降?」羆戎服登陴,朗聲傳語道:「此城是王羆塚,死生在此,汝等何人善戰,請來一決雌雄!」歡知不可攻,乃移駐許原。
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 ⑴王羆…字は熊羆。名門の京兆王氏の出。質朴剛直で公平清廉な性格。雍州刺史の崔亮に気に入られ、その別駕や長史とされた。のち、硤石の戦いや南岐・東益氐羌の乱の平定に活躍した。のち荊州刺史とされ、梁が侵攻してくると三年の長きに亘ってこれを防ぎ、最後には撃退した。のち岐州刺史→行南秦州事→涇州刺史とされ、宇文泰が勤王の軍を起こすとこれに従い、華州刺史とされて長くその防衛を任された。535年(1)参照。
 ⑵『北史』ではこの発言を大統元年(535)の戦いの際の事としている。
 [1]洛水・許原…《漢書地理志》曰く、『馮翊郡懐徳県の南に荊山があり、その山麓に強梁原が広がる。洛水はそのそばを東南に流れて渭水に注ぐ。』許原は洛水の南にあるように思われる。
 ⑶《読史方輿紀要》曰く、『強梁原は同州(華州)の東三十里→朝邑県の南にある。』『洛水は同州の西五里にある。』『許原は同州の西北五十里にある。

●天、歓を亡ぼすの時なり
 一方、泰は恒農から渭南(渭水の南岸? 或いは渭南県)にまで引き返すと、諸州から兵を集めた。
 すると領左右の王励生年512、時に26歳)が禁中の兵を率いて泰のもとに馳せ参じた。
 励は字を醜興といい、司空の王盟の子で、泰が入関した時(17歳の時というから、528年ということになる)から小姓として常にその側に近侍した。ある時、泰は励にこう言った。
「将軍として一番必要なのは兵を指揮する能力で、腕っ節が強いというのは二の次だ。」
 すると励はこう答えた。
「私はその両者を兼ね備えたいと思います。」
 泰はこれを聞くと大笑した。
 大統元年(535年)より千牛備身直長・領左右となって西魏の文帝の側に近侍するようになったが(監視のため?)、常に慎み深い姿勢を崩さなかったので、帝から「王励は忠臣というべきだ」と嘉賞を受けた。
 
 間もなく、泰は増援が到来するのを待たずに諸将にこう言った。
「歓軍は今、山を越え河を渡り、はるか彼方よりこの地にやってきたばかりで大いに疲弊している。これはまさに、歓を滅ぼす絶好の機会といえよう。わしは今より歓を討とうと考えている。ついては諸君の意見を聞きたい。」
 諸将は異口同音にこう言った。
「我々がひどく少数なのに対し、敵はかなりの大軍。〔疲労しているとはいえ、これでは勝ち目がございますまい。〕ここはしばし形勢を伺い、歓が西に進軍を続けるのを見てから動いた方が宜しいでしょう。」
 泰は答えて言った。
「もし咸陽(長安の近北。『資治通鑑』では長安。咸陽=長安か)にまで歓の侵入を許せば、人心は乱れ、それこそ勝機が無くなろう。ゆえに今、これを討たねばならないのだ。我らは、歓軍が疲労している所に乗じて直ちに攻撃するしか無いのだ!」
 かくて直ちに浮き橋を渭水に架け、軽騎をまず北岸に渡河させた。また、兵糧は、兵に各自三日分を持たせただけで、残りは全て渭水に沿って西に運ばせた。また、長安の守備は姉の子で右衛将軍の賀蘭祥に任せた。

○周文帝紀
 太祖據渭南,徵諸州兵皆〔未〕會。乃召諸將謂之曰:「高歡越山度河,遠來至此,天亡之時也。吾欲擊之何如?」諸將咸以眾寡不敵,請待歡更西,以觀其勢。太祖曰:「歡若得至咸陽,人情轉騷擾。今及其新至,便可擊之。」即造浮橋於渭,令軍人齎三日糧,輕騎度渭,輜重自渭南夾渭而西。
○周20王励伝
 子勵,字醜興,性忠果,有才幹。年十七,從太祖入關,及太祖平秦隴,定關中,勵常侍從。太祖嘗謂之曰:「為將,坐見成敗者上也,被堅執銳者次也。」勵曰:「意欲兼之。」太祖大笑。尋拜平東將軍、散騎常侍,賜爵梁甫縣公。大統初,為千牛備身直長、領左右,出入臥內,小心謹肅。魏文帝嘗曰:「王勵可謂不二心之臣也。」沙苑之役,勵以都督領禁兵從太祖。
○周20賀蘭祥伝
 遷右衞將軍,加持節、征虜將軍。沙苑之役,詔祥留衞京師。
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 ⑴渭南…《読史方輿紀要》曰く、『渭南県は西安府(長安)の東百四十里にある。また、華州(東雍州)の西五十里、同州の西南百四十里にある。』
 ⑵王盟…字は子仵。武川鎮に移住した楽浪王氏の出。宇文泰の母の兄。品があって優しく、謙虚だった。破六韓抜陵の乱に加わり、抜陵が敗れると中山に移住させられた。のち蕭宝寅の西征に従い、宝寅が叛乱を起こすと民間に隠れ潜んだ。爾朱天光が入関してくるとこれに従い、賀抜岳の先鋒となって活躍して平秦郡守とされた。宇文泰が侯莫陳悦の討伐に赴いた際には留後大都督とされて原州の守備を任された。悦が滅ぶと原州刺史とされた。今年、司空とされた。
 ⑶文帝…元宝炬。もと南陽王。西魏初代皇帝。在位535~。生年507、時に31歳。孝文帝の孫で、京兆王愉の子。気性が強く、太尉の時に高歓のお気に入りの高隆之を「鎮兵」呼ばわりして殴り、免官に遭ったことがある。正光年間(520~524)に直閤将軍とされ、孝明帝と共に胡太后を討とうとしたが失敗して免官に遭った。孝武帝が即位すると(532年)太尉とされ、のちに太保や尚書令とされた。孝武帝が高歓と事を構えると中軍四面大都督とされ、敗色が濃くなると関中亡命に従い、太宰・録尚書事とされた。孝武帝が亡くなると跡を継いで皇帝となった。
 ⑷賀蘭祥…字は盛楽(洛?)。生年515、時に23歳。鮮卑の名族の出。宇文泰の姉の子。早くに父を喪うと、宇文泰一家のもとで育てられ、特に泰に可愛がられた。幼少の頃から肝が据わっていて、功名心が強かった。また、学問が好きで、戦場にも学者を連れて行って講義を受けた。528年、泰が関中に行くと宇文護と共に晋陽に留まったが、530年に招きに応えて関中に赴いた。潼関の戦いでは東魏将の薛長孺を捕らえ、左右直長とされた。楊氏壁攻めでは先陣を切って戦った。

●宇文深、大軍を前に祝う
 冬、10月、壬辰(1日)[1]、泰軍は沙苑[2]⑴に到り、歓軍と六十余里の距離に迫った。
 このとき諸将はみな歓の大軍を前に恐れを見せたが、ただ尚書直事郎中の宇文深のみ、泰に祝いの言葉を述べた。泰はこれを訝しがって言った。
「賊どもの大軍がやってきたというのに、何を祝うことがある?」
 深は答えて言った。
「高歓は智謀に乏しくはありますが、河北の人々をよく手懐けており、その力を尽くさせることができます。ゆえに、もし該地にて守りを固められると、容易に滅ぼすことができぬ難敵となります。しかし歓はそれをせず、本拠より遠く離れたこの地に渡河してやってきたのです。しかも、この一挙は人々の要求に応えたものではなく、ただ先の戦いで竇泰を失ったという恥をすすぎたいがために、諌めを振り切ってまで起こしたものなのです。これはいわゆる忿兵[3]というもので、まさに与し易い相手。今これと戦えば、たった一度の戦いで滅ぼすことができましょう。かような好機が目前に迫っておりますのに、どうして祝わずにいられましょうか。丞相、どうか私に一節(割符、命令証明書)をお貸しくださいませ。私はそれで王羆の兵を発し、負けて逃げる歓軍の退路を断って殲滅してご覧に入れましょう。」
 泰はこれに頷いた。

○周文帝紀
 冬十月壬辰,至沙苑,距齊神武軍六十餘里。
○周27宇文深伝
 是冬,齊神武又率大眾度河涉洛,至於沙苑。諸將皆有懼色,唯深獨賀。太祖詰之,曰:「賊來充斥,何賀之有?」對曰:「高歡之撫河北,甚得眾心,雖乏智謀,人皆用命,以此自守,未易可圖。今懸師度河,非眾所欲,唯歡恥失竇氏,愎諫而來。所謂忿兵,一戰可以擒也。此事昭然可見,不賀何為。請假深一節,發王羆之兵,邀其走路,使無遺類矣。」太祖然之。
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 [1]考異曰く、北斉紀には「十一月、壬辰」とあり、魏紀には「十月、壬辰」とある。十月は壬辰が朔日であり、この歳の十一月に壬辰は無い。ゆえに、北斉紀の記述は誤りと言える。
 [2]沙苑…水経注曰く、「沙苑は渭水の北にあり、沙苑の南には漢の懐徳県の故城がある。」
 ⑴沙苑…《元和郡県図志》曰く、『馮翊県(華州)の南十二里にある。』《読史方輿紀要》曰く、『沙苑は同州(華州)の南十二里にある。別名を沙阜という。《水経注》曰く、「洛水は東に流れて沙阜の北を通る。阜(丘)は東西八十里、南北三十里あり、俗名を沙苑という。苑の南には渭水が流れている。」
 ⑵宇文深…字は奴干。宇文泰の族子で、宇文測の弟。剛直な性格で智謀に優れた。爾朱栄→孝武帝→宇文泰に仕えた。小関の戦いのさい竇泰を討つよう進言し、西魏を勝利に導いた。のち恒農攻略を進言してこれも成功に導き、宇文泰に「我が家の陳平」と絶賛された。
 [3]忿兵…前漢の魏相曰く、「小さなことを根に持って、大局を見ずに軽率に戦いを起こす。これを忿兵といい、その軍隊は必ず敗れる。」

●大胆なり達奚武
 泰はこの時、東秦州刺史の達奚武に歓軍の偵察を命じた。武は三騎の従者と共に歓兵になりすまし、夜陰に紛れて歓軍の陣営に赴き、百步の距離に近づくと、馬から下りて物陰に身を隠した。そして合言葉をこっそり耳にすると、再び馬に乗って堂々と歓の軍中を闊歩し、さも夜間の見回りをしているようにふるまって、違反をしている者を見かければ大胆にもこれを鞭打った。このようにしてつぶさに敵情を知った武は、無事帰還して貴重な情報を泰に伝え、甚く感謝された。

○周19達奚武伝
 齊神武趣沙苑,太祖復遣武覘之。武從三騎,皆衣敵人衣服。至日暮,去營百步,下馬潛聽,得其軍號。因上馬歷營,若警夜者,有不如法者,往往撻之。具知敵之情狀,以告太祖。太祖深嘉焉。
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 ⑴達奚武…字は成興。生年504、時に34歳。騎射を得意とし、賀抜岳の関中征伐の際、別将として活躍した。のち宇文泰に仕え、535年に東秦州刺史とされた。小関の戦いの際、竇泰を討つことに賛同した。恒農攻略の際には,二騎の従者のみで偵察に赴き、敵の斥候に遭うと六つの首と三人の捕虜を得て帰った。

●戦機熟す

 歓は泰軍が接近してきたのを知ると、雌雄を決するために前進を開始した。
 癸巳(2日)の早朝、泰軍の斥候の騎兵がこれを泰に告げ知らせた。泰は諸将を呼んでどう戦うのが良いか諮った。すると李弼がこう進言した。
「彼の衆多く、我が衆寡なければ、平地に陣を置くのは下策です。ゆえに、ここは東十里にある渭曲(渭水が屈曲した地にある湿地帯)に先んじて布陣し、敵を待ち受けるべきかと存じます。」
 泰はこれを聞き入れ、渭曲に進軍すると、渭水を背にして東西に方陣を敷き、李弼に右軍を、趙貴に左軍を任せた。また、全軍に戈を伏せて葦の中に潜ませ、軍鼓の音を合図に一斉に打ち立たせるようにさせた。
 一方、歓も軍議を開き、泰とどう戦うか諸将に諮っていた。すると都督で太安の人の斛律羌挙がこう進言した。
「こたび、黒獺(泰の字。鮮卑名)が我らに決戦を挑んできたのは、決して本心からではなく、ただただ、援無く糧無く、防衛に徹しようにもできない窮状から、破れかぶれに一戦に活路を見出そうとしたからです。これは言わば狂犬のようなもので、これと当たれば手痛い一撃を被る可能性もございます。その上、黒獺が布陣する渭曲は葦茂る泥濘地帯で、大軍が力を発揮できぬ悪所なのです。ゆえに、ここは黒獺と戦わず、密かに精鋭の士を派して咸陽(長安)を奇襲するのが良いと思います。咸陽は空っぽでしょうから、戦わずして陥とすことができます。さすれば黒獺は寄る辺を失い、なすすべなく軍門のさらし首となるでしょう。」
 歓は言った。
「直接攻めず、葦に火を放って火攻めにするのはどうだろうか?」
 すると侯景がこう言った。
「焼き殺しては、黒獺が死んだことを天下に知らしめられませぬ。直接攻めて捕らえるべきです!」
 また、肆州刺史の彭楽も闘志を露わにして決戦を求め、こう言った。
「我らは大軍、賊は寡兵。百人で一人を捕らえる戦いに、負けることなどありませぬ!」
 歓はその意気に感じ、遂に決戦を行なうこととした。

○資治通鑑
 都督太安斛律羌舉曰:「黑獺舉國而來,欲一死決,譬如猘狗,或能噬人。且渭曲葦深土濘,無所用力,不如緩與相持,密分精銳徑掩長安,巢穴既傾,則黑獺不戰成擒矣。」
○周文帝紀
 齊神武聞太祖至,引軍來會。癸巳旦,候騎告齊神武軍且至。太祖召諸將謀之。李弼曰:「彼眾我寡,不可平地置陣。此東十里有渭曲,可先據以待之。」遂進軍至渭曲,背水東西為陣。李弼為右拒,趙貴為左拒。命將士皆偃戈於葭蘆中,聞鼓聲而起。
○北斉20・北53斛律羌挙伝
 後從高祖西討,大軍濟河,集諸將議進趣之計。羌舉曰:「黑獺聚兇黨,強弱可知,若欲固守,無糧援可恃。今揣其情,〔欲一死決,〕已同困獸(有同猘犬),〔或能噬人。且渭曲土濘,無所用力。〕若不與其戰,而逕趣咸陽,咸陽空虛,可不戰而克。拔其根本,彼無所歸,則黑獺之首懸於軍門矣。」〔神武欲縱火焚之,侯景曰:「當禽以示百姓,燒殺誰復信之?」
○北斉41元景安伝
 天平末,大軍西討,景安臨陣自歸,高祖嘉之,即補都督。
○北53彭楽伝
 天平四年,從神武西討,與周文相拒。神武欲緩持之,樂氣奮請決戰,曰:「我眾賊少,百人取一,差不可失也。」神武從之。
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 李弼...字は景和。生年494、時に44歳。並外れた膂力を有し、爾朱天光や賀抜岳の関中征伐の際に活躍して「李将軍と戦うな」と恐れられた。のち侯莫陳悦に従い、その妻の妹を妻としていた関係で信頼され、南秦州刺史とされた。宇文泰が賀抜岳の仇討ちにやってくるとこれに寝返り、その勝利に大きく貢献した。のち小関の戦いでは竇泰を討つ大功を立てた。537年(2)参照。
 ⑵趙貴…字は元貴(宝?)。武川鎮に移住した天水趙氏の出。若くして聡明で、堅い節操を持っていた。六鎮の乱が起こると南方の中山に移住し、葛栄に従った。葛栄が滅ぶと爾朱栄に仕えて別将に任じられ、元顥討伐に功を挙げた。次いで賀抜岳に従って関中を平定し、都督とされた。岳が侯莫陳悦に殺されると偽ってこれに従い、遺体を得て帰った。間もなく率先して宇文泰を岳の跡継ぎに推し、泰がやってくると府司馬→左長史とされた。のち曹泥の乱を平定し、梁仚定の乱が起こると隴西行台とされてこれを討伐し、平定した。
 ⑶斛律羌挙…代々部落酋長を務めた家の出。勇猛果断で度胸があった。爾朱兆に仕えて重用を受けた。高歓が兆を破ると歓に従った。のち大都督とされ、536年に歓が夏州を攻めると三千の兵を率いて先導役を務めた。536年(1)参照。
 ⑷彭楽…字は興。勇敢で馬と弓の扱いに長けた。初め杜洛周に従ったが、見限って爾朱栄に降った。のち滏口にて葛栄を破り、次いで都督となって羊侃を瑕丘に撃破した。529年、邢杲討伐中に二千余騎と共に叛し、韓樓のもとに亡命して北平王とされた。のち樓が爾朱栄に滅ぼされると再び栄に仕えた。のち高歓に仕え、韓陵の戦いでは先陣を切って突撃し、勝利に大きく貢献した。あるとき歓の依頼により子の高洋に襲いかかるふりをして度胸を試し、果敢に立ち向かわれるとネタばらしをしたが、聞く耳を持たれず捕らえられて歓のもとに引っ立てられた。

●沙苑の決戦
 かくて日暮れ時(申の刻〈午後3時〜5時〉)になって、歓の大軍は渭曲に到り、ここに大決戦の火蓋が切られた。
 歓の将兵は泰兵の少ないのを望見すると、てんでばらばらに先を争って進擊し、趙貴率いる左軍に殺到した。
 歓兵がまさに泰兵に攻撃をかけようとした刹那、泰は軍鼓を打ち鳴らした。すると将兵はこれに応じて一斉に立ち上がり、葦中から戈を林立させてこれに立ち向かった。
 左軍に配されていた王励は数十人の部下と共に白兵戦を行ない、非常に多くの歓兵を殺傷したが、励も深手を負い、遂に陣中に没した(享年26)。
 また、洛州刺史の泉元礼も流れ矢に当たって戦死した。
 右軍を率いる李弼は左軍が苦境に陥っているのを見るや、麾下の鉄騎六十(『北史』では九十)を呼び、自ら先頭に立って歓軍の側面を突いた。歓軍はこれによって前後二つに分断され、窮地に陥った。
 弼の弟で帳内都督のは身長が五尺(約115cm?)にも満たぬ小男だったが、その勇敢さは群を抜くものがあり、体を鞍と鎧の中にすっぽり隠すと、敵の隙を見ては頭と矛を出して左に右に突きまくり、次々と馬から突き落とした。歓兵は㯹を子供と勘違いし、口を揃えてこう言った。
「あの小児を避けよ!」
 泰はその活躍を初めて目の当たりにし、感嘆してこう言った。
「戦場にはあのような勇敢さがあるだけでよい! 八尺(約184cm? 長身の比喩)の長身など必要ないのだ!」
 一方、彭楽は戦う前から酔っ払い、戦いが始まると狂犬の如く泰軍の中に突っ込んで暴れ回った。間もなく心が昂ぶって鎧兜を全て脱ぎ去り、全裸の姿で泰軍の陣地奥深くに突入した。この時、西魏の征虜将軍の耿令貴が一本の槍を引っさげてこれに立ち向かい、過たず楽の腹を貫いた。楽はすぐに刀を用いて槍を切り落としたが、既に腹から腸が飛び出し、鮮血が噴き出していた。しかし楽の闘志は衰えず、一声おめくや命を顧みずに令貴に再戦を挑んだ。ただ、このとき近くにいた東魏の武将が駆けつけて間に割って入ったので、楽は退くことができた。楽は腸を腹の中に入れ直し、収まり切らなかったものは切り落として再び泰軍陣地に突入した。しかしやがて身に何創も傷を負い、軍勢の意気も阻喪したため、遂に陣に引き返した。
 令貴は非常に多くの歓兵を殺傷し、鎧兜も草摺(下半身を防御する鎧)も赤一色に染まっていた。泰はこれを見て感嘆して言った。
「令貴の勇猛さは、その甲裳(鎧兜と草摺)を見れば分かる。首級を数えるまでもない!」
 都督で闡熙(夏州の東南)新囶の人の王雅、字は度容は、配下の兵にこう言った。
「歓軍は百万近い大軍なのに対し、我らは一万人にも満たぬ寡兵である。常識から言えばまず相手にすらならぬであろう。しかし、その寡兵は誰に率いられているのか? 世に冠する神のごとき武徳を備えた相公(丞相宇文泰)ではないか? また、その寡兵は何のために今ここにいるのか? 王室の難を救わんがためではないか。順を以て逆を討つのに、兵数など関係は無いのだ! 皆の者! ここで賊を破らねば、男ではないぞ!」
 かくて鎧兜を身につけると徒歩にて戦い、次々と歓軍を破った。
 雅は大人しく寡黙で、度胸と勇気があり、馬と弓の扱いに長けた。その勇名を聞いた〔夏州刺史時代の〕泰に登用され、のち数々の戦功を立てて都督・居庸県子とされた。
 
 泰軍は六千余の歓兵の首を斬り、二万余りの投降者を得た。

○魏孝静紀
 壬辰,齊獻武王西討,至沙苑,不克而還。
○周文帝紀
 申時,齊神武至,望太祖軍少,競馳而進,不為行列,總萃於左軍。兵將交,太祖鳴鼓,士皆奮起。于謹等六軍與之合戰,李弼等率鐵騎橫擊之,絕其軍為二隊,大破之,斬六千餘級,臨陣降者二萬餘人。
○周15・北60李弼伝
 與齊神武戰於沙苑,弼率軍居右,而左軍為敵所乘。弼呼其麾下六(九)十騎,身先士卒,橫截之,賊遂〔分〕為二,因大破〔之〕。
○周15李㯹伝
 大統元年,授撫軍將軍,進封晉陽縣子,邑四百戶。尋為太祖帳內都督。從復弘農,破沙苑。㯹跨馬運矛,衝鋒陷陣,隱身鞍甲之中。敵人見之,皆曰「避此小兒」。不知㯹之形貌,正自如是。太祖初亦聞㯹驍悍,未見其能,至是方嗟歎之。謂㯹曰:「但使膽決如此,何必須要八尺之軀也。」
○周20王励伝
 勵居左翼,與帳下數十人用短兵接戰,當其前者,死傷甚眾。勵亦被傷重,遂卒於行間,時年二十六。太祖深悼焉。贈使持節、太尉、領尚書令、十州諸軍事、雍州刺史,追封咸陽郡公,諡曰忠武。
○周29耿豪伝
 沙苑之戰,豪殺傷甚多,血染甲裳盡赤。太祖見之,歎曰:「令貴武猛,所向無前,觀其甲裳,足以為驗,不須更論級數也。」
○周29王雅伝
 王雅字度容,闡熙新囶人也。少而沈毅,木訥寡言,有膽勇,善騎射。太祖聞其名,召入軍,累有戰功。除都督,賜爵居庸縣子。東魏將竇泰入寇,雅從太祖擒之於潼關。沙苑之戰,雅謂所部曰:「彼軍殆有百萬,今我不滿萬人,以常理論之,實難與敵。但相公神武命世,股肱王室,以順討逆,豈計眾寡。丈夫若不以此時破賊,何用生為!」乃擐甲步戰,所向披靡,太祖壯之。
○周44泉元礼伝
 從太祖戰於沙苑,為流矢所中,遂卒。
○北53彭楽伝
 樂因醉入深,被刺腸出,內之不盡,截去復戰,身被數創,軍勢遂挫,不利而還。神武每追諭以戒之。
○南北史演義
 李弼弟檦年少膽壯,隱身鞍甲中,躍馬陷陣,伺敵不防,露首出矛,左搠右刺,應手落馬。歡軍爭噪道:「當避此小兒!」歡將彭樂使性善鬥,且帶著三分酒意,躍馬亂闖,好象猘犬一般。既而殺得性起,把甲胄盡行卸去,裸體馳入宇文陣內,適遇西魏征虜將軍耿令貴,一槍挑來,不偏不倚,刺入樂胸。樂忙用刀格開,腸已流出,鮮血狂噴,他卻大吼一聲,拚死再戰。旁有他將馳至,接住令貴廝殺,樂方得回馬出陣,納腸裹胸。還欲返身殺入,怎奈各軍俱已敗還,連讓步都來不及,怎能再入敵陣?那後面亦鳴金收軍,只好隨眾退回。
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 泉元礼…洛州刺史の泉企の長子。文武に優れた。534年に東魏に洛州を陥とされて鄴に連行されたが脱走し、土豪を糾合して洛州を取り返した。537年(1)参照。
 ⑵李㯹…字は霊傑(《北史》では雲傑)。李弼の弟。身長は五尺(約115cm? 五尺は子どもの身長の比喩)にも満たなかった(小人症?)が、勇猛果断で度胸があった。爾朱栄→爾朱世隆→爾朱兆→高歓→孝武帝に仕え、元顥や元樹の討伐に参加した。高歓が洛陽に攻めてくると梁に亡命し、のち西魏に入って帳内都督とされた。
 ⑶耿令貴…武川鎮出身。武芸に優れていたが、粗野で傲慢な性格をしていた。もと賀抜岳の帳内都督で、岳が殺されると宇文泰に仕え、征虜将軍とされた。小関・恒農の戦いでは先鋒を務めた。

●高歓、胆破せり
 歓はそれでも敗残兵を集めて再戦を挑まんとし、〔丞相府右長史の〕張華原に名簿を持たせ、各陣地を点呼して回らせたが、誰一人として答える者がいなかった。華原は歓のもとに還ると、こう復命して言った。
「兵はみな逃げ散り、どこも空っぽであります!」
 歓はこの報告を受けてもまだ敗北を認めず、その場に留まっていた。すると汾州刺史の斛律金がこう言った。
「兵にもはや戦意は無く、たとえ再び集結させることができたとしても使い物にならぬでしょう。ここは早く河東に逃れるほかありません。」
 歓はそれでも動こうとしなかったので、金は歓の馬を鞭で打ち、無理矢理その場から駆け去らせた。
 夜、歓は黄河を渡って東に逃れようとしたが、船が岸から遠く離れていたため、ラクダに乗り換えて(ラクダはそのコブを浮き輪代わりにして泳ぐことができる)船に辿り着き、なんとか渡河することができた。
 この時、崔㥄の弟で丞相掾の崔仲文生年497、時に41歳)も船に乗り損ねて、馬の尾に掴まって渡河に挑んだ。波間に浮きつ沈みつしている仲文の姿を遠くから見止めてこう言った。
「崔掾なり!」
 かくて急いで船を遣ってこれを拾い上げさせた。
 歓は韓軌・潘楽・可朱渾元らを殿軍に置いて追撃に備えたが、西魏の大行台左丞の楊檦がこれを各個撃破し、非常に多くの歓兵を殺傷した。歓軍は最終的に八万の兵と十八万の鎧・武器を喪った。
 泰は黄河のほとりまで歓を追撃し、前後合わせて七万もの捕虜を得た。泰はその中から二万余を選んで手元に留め、あとは全て解放して歓のもとに還らせた。このとき独孤如願泰の旧友。荊州経略中に東魏の攻撃を受け梁に亡命していたが、今年の秋に西魏に帰還した。537年〈2〉参照)は捕虜の中にいた親族から初めて父が既に死んでいたことを知り(如願は孝武帝の関中入りに両親を置いて付き従っていた)、これを人々に知らせて喪に服した《周16独孤信伝》
 このとき都督の李穆泰お気に入りの小姓。侯莫陳悦討伐の際、兄の李賢・遠と共に原州の攻略に大きく貢献した。534年〈2〉参照)がこう言った。
「高歓、胆破せり! 今これを急追すれば、必ず虜にできましょう。」
 泰はこれを聞き入れず、軍を渭水の南に返した。この時になって、ようやく諸州からの援兵が到着した。泰は戦いに参加した人数分の柳、七千本を沙苑の戦場に植え、武功を顕彰した《周文帝紀》

 沙苑の決戦に敗れたのち、侯景が歓に度々こう進言した。
「黒獺は勝ったばかりで驕り高ぶり、きっと油断しておるはず。それがしに精騎二万(南史では数千)をお与えくだされば、直ちにこれを捕らえてご覧にいれましょう。」
 歓が喜んでこれを妻の婁昭君535年〈1〉参照)に告げると、昭君はこう言った。
「もしその言葉通りになったとしても、次は景が黒獺になるだけでしょう! 黒獺を捕らえることができても、景が第二の黒獺になるなら、何の徳もありません!」
 歓はそこで作戦を取り止めた。

 高敖曹は歓が敗れたのを聞くと、恒農の囲みを解いて洛陽に退いた《周文帝紀》

 歓は今回の一挙を起こす前、妻(婁昭君)の姉の夫の段栄に密かにその可否を諮っていた。栄は口を極めて反対したが、歓は聞き入れなかった。現在渭曲で敗北の憂き目に遭うと、歓は後悔してこう言った。
「段栄の言を用いなかったがために、こうなったのだ。」《北斉16段栄伝》

○資治通鑑
 丞相歡欲收兵更戰,使張華原以簿歷營點兵,莫有應者,還,白歡曰:「眾盡去,營皆空矣!」歡猶未肯去。阜城侯斛律金曰:「眾心離散,不可復用,宜急向河東!」歡據鞍未動,金以鞭拂馬,乃馳去,夜,渡河,船去岸遠,歡跨橐駝就船,乃得渡。喪甲士八萬人,棄鎧仗十有八萬。
○周文帝紀
 齊神武夜遁,追至河上,復大克獲。前後虜其卒七萬。留其甲士二萬,餘悉縱歸。收其輜重兵甲,獻俘長安。還軍渭南,於是所徵諸州兵始至。乃於戰所,准當時兵士,人種樹一株,以旌武功。進太祖柱國大將軍,增邑并前五千戶。李弼等十二將亦進爵增邑。并其下將士,賞各有差。
○北斉神武紀
 周文軍於沙苑。神武以地阨少卻,西人鼓譟而進,軍大亂,棄器甲十有八萬,神武跨橐駝,候船以歸。
○周34楊檦伝
 齊神武敗於沙苑,其將韓軌、潘洛、可朱渾元等為殿,檦分兵要截,殺傷甚眾。

○北斉9神武婁后伝

 沙苑敗後,侯景屢言請精騎二萬,必能取之。神武悅,以告于后。后曰:「若如其言,豈有還理,得獺失景,亦有何利。」乃止。

○北斉23崔仲文伝
 㥄昆季仲文 ,有學尚,魏高陽太守、清河內史。興和中,為丞相掾。沙苑之敗, 仲文 持馬尾以渡河,波中乍沒乍出。高祖望見曰:「崔掾也。」遽遣船赴接。既濟,勞之曰:「卿為親為君,不顧萬死,可謂家之孝子,國之忠臣。」加中軍將軍。
○北54斛律金伝
 沙苑之役,神武以地阨少却,軍為西師所乘,遂亂。張華原以簿帳歷營點兵,莫有應者。神武將集兵更戰,金曰:「眾散將離,其勢不可復用,宜急向河東。」神武據鞍未動,金以鞭拂馬,神武乃還。於是大崩,喪甲士八萬。

○南80侯景伝

 歡之敗於沙苑,景謂歡曰:「宇文泰恃於戰勝,今必致怠,請以數千勁騎至關中取之。」歡以告其妃婁氏,曰:「彼若得泰,亦將不歸。得泰失景,於事奚益。」歡乃止。

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 ⑴張華原…字は国満(張君墓誌銘では諱が満、字を華原とする)。高歓に非常に信任されて大丞相府属とされ、常に軍への意思伝達役を任された。宇文泰が関中に割拠すると説得に赴いたが失敗した。のち丞相府右長史とされた。
 ⑵日暮れ時だったために、名前を呼ばないといるかいないか分からなかったのであろう。
 ⑶斛律金…字は阿六敦。生年488、時に50歳。勅勒族の酋長。実直な性格で騎射に長け、地の臭いを嗅いで敵の接近を、敵軍の上げる土煙で兵数の多寡を知ることができた。破六韓抜陵→爾朱栄に仕え、栄が死ぬと高歓に従い、鄴攻略の際には信都の留守を任された。のち、数々の戦いに参加し、汾州刺史とされた。
 ⑷崔㥄...字は長孺(儒)。名門の清河崔氏の出身。高歓が北魏の実権を握ると楊愔と共に公文書の作成を任された。
 ⑸韓軌...字は百年。高歓の側室の韓氏の兄。控えめで大人しい性格で、感情を表に出さなかった。歓に仕えて泰州刺史とされ、西魏の華州を攻めた。
 ⑹潘楽…字は相貴。鮮卑族でもと破多羅氏? 温厚で度胸があり、知略があった。臨淮王彧の北討に加わって活躍したが、のち葛栄に従い(526~528)、19歳の若さで京兆王とされた。葛栄が滅びると爾朱栄に仕え、のち高歓に従った。
 ⑺可朱渾元…字は道元。曽祖父は懐朔鎮将で、そのまま懐朔鎮に居住するようになった。温和で武勇・知略に優れ、高歓と幼馴染だった。鮮于修礼→葛栄に仕えて梁王とされ、のち爾朱栄に寝返り、関中征討に加わって渭州刺史とされた。宇文泰と侯莫陳悦が戦うと悦を助け、悦が敗れると残党を収めて秦州を占拠し、泰と戦った。のち和を結んで渭州に帰った。535年、東魏に亡命し、車騎大将軍とされた。
 《元和郡県図志》曰く、『今(唐)、この樹は所々にまだ残っている。また、泰は戦場に忠武寺を建てた。

●論功行賞
 文帝は泰に柱国大将軍を加え、李弼ら十二将【李弼・独孤如願・梁禦・趙貴・于謹・若干恵・怡峰・劉道徳・王徳・侯莫陳崇・李遠・達奚武】にもそれぞれ戦功に応じて進爵増邑を行なった《周文帝紀》
 すなわち、驃騎大将軍・開府儀同三司・石門県伯の李弼は特進を授けられ、趙郡公に進められて一千戸を増邑された《周15李弼伝》
 驃騎大将軍・開府儀同三司・浮陽郡公の独孤如願は河内郡公に改封され、二千戸を増邑された《周16独孤信伝》
 驃騎大将軍・開府儀同三司・彭城郡公の侯莫陳崇は二千戸を増邑された《周16侯莫陳崇伝》
 驃騎大将軍・開府儀同三司・藍田県公の于謹は常山郡公に進められ、一千戸を増邑された《周15于謹伝》
 車騎大将軍・儀同三司・魏平県公の趙貴は侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司を授かり、中山郡公に進められ、雍州刺史とされた《周16趙貴伝》
 車騎大将軍・儀同三司・信都県公の梁禦は侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司を授かり、広平郡公に進められ、一千五百戸を増邑された《周17梁禦伝》。 
 車騎大将軍・儀同三司・華陽県公の怡峯は楽陵郡公に進められた《周17怡峯伝》
 車騎大将軍・儀同三司・下博県公の王徳は開府儀同三司・侍中を授かり、河間郡公に進められ、一千戸を増邑された《周17王徳伝》
 車騎大将軍・儀同三司・饒陽県伯の劉道徳は開府儀同三司・大都督を授かり、長広郡公に進められ、一千戸を増邑された《周17劉道徳伝》
 驃騎将軍・儀同三司・魏昌県公の若干恵は侍中・開府儀同三司を授かり、長楽郡公に進められ、一千戸を増邑された《周17若干恵伝》
 散騎常侍・都督・須昌県公の達奚武は車騎大将軍・儀同三司・大都督を授かり、高陽郡公に進められた《周19達奚武伝》
 都督・安定県公の李遠は沙苑で一番活躍し、陽平郡公に進められた《北59李遠伝》

 また、前将軍・中散華大夫・平原県侯の耿令貴は平原県公に進められ、五百戸を増邑された《周29耿豪伝》
 撫軍将軍・都督・晋陽県子のは晋陽県公に進められた《周15李檦伝》

┃至誠、盧を出だす
 太原郡公の王思政534年〈3〉参照)はもと孝武帝の側近だったが、その死後も泰に任用され続けた。しかし思政は宇文泰政権と関係が薄かったため、常に身に不安を感じていた。そんなとき、泰が華州にて諸公を集めて宴会を開いた。思政がこれに参加すると、泰は錦織や毛織物及び諸種の綾絹数千段を諸公の前に出し、樗蒲(チョボ。双六の一種で、サイコロの代わりに片面が黒、片面が白の平たい板五枚を投げ、出た組み合わせによって進む)の結果がいい者から順々にこれを取らせていった。景品が全て無くなると、今度は金帯を脱いで諸公にこう言った。
「一番早く盧(五枚全て黒。最上級の組み合わせ。盧は『黒』の意味)を出した者にこれを取らす。」
 諸公は樗蒱を振ったが、盧はなかなか出なかった。やがて思政の番になると、思政は顔つきを改めて地にひざまずき、こう誓って言った。
「王思政は外様の身であるのに、宰相より国士の待遇を受けました! 以来、思政は全身全霊を尽くしてその知遇に応えることばかりを願ってきたのです! 神霊よ、この至誠が真であるなら、盧を出だし、宰相にこれを知らしめたまえ! 少しでも偽りがあるなら、盧を出さないことで知らしめたまえ! 盧出なくば、一死以て謝し奉る所存!」
 その語気は非常に激烈で、一座を驚かせた。誓いが終わると、思政はやおら刀を抜き、それを膝の上に横たえたのち、五枚の平板を手に取り、もう片方の手で腿を打って気迫を込めてからこれを投げた。泰がこれを止めようとした時、五枚の平板は既に盧の組み合わせを出していた。思政はこれを見ると悠然と泰に拝礼をし、それから金帯を拝受した。これ以後、泰はますます思政に信頼を寄せるようになった。

○周18・北62王思政伝
 大統之後,思政雖被任委,自以非相府之舊,每不自安。太祖曾在同州,與羣公宴集,出錦罽及雜綾絹數〔千〕段,命諸將樗蒱取之。物既盡,太祖又解所服金帶,令諸人遍擲,曰:「先得盧者,即與之。」羣公〔擲〕將遍,莫有得者。次至思政,乃歛容跪坐而自誓曰:「王思政羇旅歸朝,蒙宰相國士之遇,方願盡心効命,上報知己。若此誠有實,令宰相賜知者,願擲即為盧;若內懷不盡,神靈亦當明之,使不作也,便當殺身以謝所奉。」辭氣慷慨,一坐盡驚。即拔所佩刀,橫於膝上,攬樗蒱,拊髀擲之。比太祖止之,已擲為盧矣。徐乃拜而受〔帶〕。自此之後,太祖期寄更深。

 
 537年(4)に続く