[西魏:大統十五年 東魏:武定七年 梁:太清三年]



┃高澄横死
 辛卯(8月8日)、東魏の孝静帝が皇子の元長仁を皇太子とした。

 これより前、梁の徐州刺史(出典不明)・蘭欽梁の名将の子の蘭京考異曰く、陳元康伝には『蘭固成』とある。今は北斉文襄紀の記述に従った】は東魏の捕虜となっていた(いつかは不明)。東魏の使持節・大将軍・都督中外諸軍事・録尚書事・大行台・勃海王の高澄はこれに厨房を司らせていたく可愛がり、欽が金銭でその身を贖おうとしてきても許さなかった。〔のち父の欽が死に、侯景が江南を乱すと、〕京は澄に何度か解放を求めたが、澄は〔そのたびに拒否し、挙句には〕監厨蒼頭の薛豊洛に杖で数十回打たせてこう言った。
「今度言ったら殺すぞ!」
 京はキレやすい南人で、しかもこれまで可愛がられていたことで増長していたため、遂に深い怨みを抱き(陳元康伝では京が解放を求めた記述は無く、文襄紀では京が澄に可愛がられた記述は無い)、弟の蘭阿改蘭改?)ら六人と共に澄兄弟の殺害を計画した。阿改はこのとき澄の弟で太原公の高洋字は子進。時に24歳)に仕え、常に刀を持って傍に付き従っていたので、東斎(東にある書斎。柏堂のことか?)から大声が聞こえてきたら、即座に洋を斬り殺す役目を任された。
 決行の日は孝静帝が初めて太子を立てた日で、朝廷はそれを祝う百官でごった返していた。式典が終わると、洋は東にある止車門に出、そこから〔澄とは〕違う所(城東双堂)に行って戻らなかった〔ため、難を逃れた〕。その間に凶事は起こった。
 当時、澄は鄴にいる時は北城にある東柏堂にて政務を執っていたが、その際、寵愛している琅邪公主元玉儀。545年〈1〉参照)との愛の交歓の邪魔になるため、護衛の者を常に外に出していた。
 この日、澄は人払いをし、散騎常侍の陳元康字は長猷。搴に代わり、高歓父子から非常な信任を受けたが、早急な禅譲に反対したことで次第に遠ざけられるようになっていた。のち、王思政討伐の際の助言で再び信頼を取り戻した? 549年〈4〉参照と吏部尚書・侍中の楊愔字は遵彦。名門楊氏の生き残り。547年〈3〉参照)、黄門侍郎の崔季舒字は叔正。澄の腹心で、孝静帝にも信頼され、「我が乳母である」と言わしめた。547年〈3〉参照)の三人だけを傍に残し、禅譲の事を論じたり、新国家となったときに誰を何に就けるか品評を行なっていた。その最中、蘭京が食膳を運ぼうとすると、澄はこれを退け、元康らにこう言った。
「わしは昨夜、あいつに斬られる夢を見た。」
 そしてこう言った(北史北斉文襄紀)。
「早く始末するべきだろうな。」
 京はこれを聞くと食膳の下に短刀をしのばせ、再度澄のもとに赴いた。澄は怒って言った。
「寄越せとも言っていないのに、なんでまたやってきたのだ!」
 京は短刀を取って言った。
「お前を殺しに来たのだ!」
 澄は〔驚き、〕牀(寝具・座具)から飛び降り〔て逃げ〕たが、着地した時に足を挫いてしまった。そこでやむを得ず牀の下に這って〔身を隠した〕。

◯牀(床)

 この時、楊愔は片方の靴が脱げたのを拾う余裕も無いほど狼狽して逃げ、崔季舒は厠に遁走した。しかし陳元康だけは逃げずに、京の前に立ち塞がって澄をかばった。澄は元康に言った。
「逃げよ! 逃げよ!」(原文『可惜! 可惜!』或いは刺されたのちに「無念だ」と言ったものか?
〔しかし元康は頑としてその場から逃げず、〕髻がほどけるほど京らと格闘した。〔しかし衆寡敵せず、間もなく〕腹を刺され、腸が外に飛び出す重傷を負った。〔元康を倒した京らは〕牀をどかして澄を刺し殺した(享年29)。
〔中の様子がおかしいことに気づいた〕庫直(北55陳元康伝では『散都督』とある)の王紘字は師羅。王基〈534年(1)参照〉の子)・紇奚舍楽らは〔東柏堂内に飛び入り、〕刃を恐れずに京らに立ち向かった。しかし〔敵わず、〕紘は負傷して〔逃れ〕、舍楽は闘死した。監厨蒼頭の薛豊洛は料理人を率い、薪を持って立ち向かったが捕らえられた。

○魏孝静紀
 八月辛卯,詔立皇子長仁為皇太子。齊文襄王薨於第。
○北斉文襄紀・北史北斉文襄紀
 辛卯,王遇盜而殂,時年二十九。葬于峻成陵。齊受禪,追諡為文襄皇帝,廟號世宗。…初,梁將蘭欽子京為東魏所虜,王命以配廚。欽請贖之,王不許。京再訴,王使監廚蒼頭薛豐洛杖之,曰:「更訴當殺爾。」京與其黨六人謀作亂。時王居北城東栢堂莅政,以寵琅邪公主,欲其來往無所避忌,所有侍衞,皆出於外。…將欲受禪,與陳元康、崔季舒等屏斥左右,署擬百官。京將進食,王卻,謂諸人曰:「昨夜夢此奴斫我,宜殺卻。」(「昨夜夢此奴斫我。」又曰:「急殺却。」)京聞之,置刀於盤,冒言進食。王怒曰:「我未索食,爾何遽來!」京揮刀曰:「來將殺汝!」王自投傷足,入于牀下,賊黨去牀,因而見殺。
○北斉24陳元康伝・北55陳元康伝
 屬世宗將受魏禪,元康與楊愔、崔季舒並在世宗坐,將大遷除朝士,共品藻之。世宗家蒼頭奴蘭固成先掌廚膳,甚被寵昵。先是,世宗杖之數十,吳人性躁,又恃舊恩,遂大忿恚,與其同事(弟)阿改謀害世宗。阿改時事顯祖,常執刀隨從,云「若聞東齋叫聲」,即以加刃於顯祖。是日,值魏帝初建東宮,羣官拜表。事罷,顯祖出東止車門,別有所之,未還而難作。固成因進食,置刀於盤下而殺世宗。元康以身扞蔽,被刺傷重(元康抱文襄。文襄曰:「可惜!可惜!」與賊爭力,髻解,被刺,傷重腸出)。…楊愔狼狽走出,〔遺一靴,〕季舒逃匿於厠,庫真(直)紇奚舍樂扞賊死。〔散都督王師羅戰傷。監廚倉頭薛豐洛率宰人持薪以赴難,乃禽盜。固成一名京。

 ⑴蘭欽…字は休明。?~544。並外れた武勇と優れた智謀を備え、果断さを戦場で良く発揮し、步けば一日に二百里を行くことができた。また、統率の才能があり、人によく死力を尽くさせることができた。梁に仕えて東宮直閣とされた。527年、北魏の蕭城を攻め陥とし、擬山城に侵攻して劉属が率いる二十万の大軍も撃破した。次いで厥固を陥とした。更に范思念ら数万も大破した。のち南方の叛蛮を討伐した。533年、漢中侵攻に赴こうとしたが賀抜勝の襄陽侵攻に遭いその救援に赴いた。のち梁南秦二州刺史とされ、535年、漢中を平定し、智武将軍とされた。間もなく衡州刺史とされたが、その前に西魏が漢中に攻めてくるとこれを大破し、仁威将軍とされた。のち広州の陳文徹兄弟の乱を平定した。衡州に到ると平南将軍・曲江県公とされた。州では仁政を行なった。のち左衛将軍とされた。

●不吉の前兆
 これより前、澄が潁川の討伐に赴く際、もと太原太守の李業興天文などに詳しく、興光暦を作った。高歓は出陣する際、常に業興を連れて行って助言を求めた。543年〈1〉参照)はこう予言していた。
「行けば必ず勝つが、のちに凶事が起ころう。」
 澄は〔これを気にし、〕潁川を平定すると、凶事を回避するために業興を殺した(享年66)。〔業興の死こそが凶事だったのだ、ということにしたかったのである。〕

 また、呉士という、全盲だが〔耳が良く、〕声から人を占うことができる者がいた。澄はこれに色々な者の声を聞かせてみた。呉士は劉桃枝高歓の時からいる高家の家奴)の声を聞くとこう言った。
「奴隸ではありますが、きっと非常に富貴な身分となります。王侯将相の多くが彼の手にかかって死ぬでしょう。彼は例えれば鷹か犬のような者で、人に使われてこそ輝く者でしょう。」
 趙道徳同じく高家の家奴)の声を聞くとこう言った。
「彼もまた奴隸ではありますが、非常に富貴な身分となるでしょう。ただ、前の人ほどではございません。」
 侯呂芬同じく高家の家奴?)の声を聞くと、道徳と大体同じようなことを言った。
 太原公洋の声を聞くとこう言った。
「人主となられるべきお方です。」
 しかし澄の声を聞くと、何も言おうとしなかった。崔暹字は季倫。高澄の腹心。549年〈4〉参照)が密かにその身体をつねると、やむなくこう嘘をついて言った。
「また、国主となられるべきお方にございます。」
 澄は自分の家奴が非常に富貴な身分となれるのだから、自分は尚更だろうと考えた。
 また、御史に賈子儒という良く人相を占える者がいた。崔暹があるとき子儒を連れてこっそり澄の人相を見させると、子儒はこう言った。
「人は七尺の体を持っておりますが、〔重要性は〕一尺の顔に敵いません。その一尺の顔も、一寸の眼には敵いません。大将軍は瞼が薄く、目の動き(或いは瞬き?)が非常に速うございます(原文『臉薄眄速』)。これは帝王の相ではございません。」
 果たしてそれは現実のものとなったのである。

○北斉49・北89呉士伝
 世宗時有吳士,雙盲而妙於聲相,世宗歷試之。聞劉桃枝之聲,曰:「有所繫屬,然當大富貴,王侯將相多死其手,譬如鷹犬為人所使。」聞趙道德之聲,曰:「亦繫屬人,富貴翕赫,不及前人。」〔聞侯呂芬聲,與道德相似。〕聞太原公之聲,曰:「當為人主。」聞世宗之聲,不動,崔暹私掐()之,乃謬言:「亦國主也。」世宗以為我〔家〕羣奴猶當極貴,況吾身也。
北81李業興伝
 文襄之征潁川,業興曰:「往必剋,剋後凶。」文襄既剋,欲以業興當凶而殺之。
北89賈子儒伝
 又時有御史賈子儒,亦能相人。崔暹嘗將子儒私視文襄,子儒曰:「人有七尺之形,不如一尺之面;一尺之面,不如一寸之眼。大將軍臉薄眄速,非帝王相也。」竟如言。

●少壮気猛
 高澄は長男でしかも英邁だったため、父の高歓に兄弟の中で最も愛され、重んじられた。百官はその影響を受けて、みな澄に畏敬の念を示した。
 澄は美男子で、話術に長け(原文『善言笑』)、談笑している時でも上品な態度を崩さなかった。聡明で機知に富み、多くのはかりごとを巡らし、宰相の地位に就くと流れるように物事を処理した。また、人材を尊び手厚くもてなした所は、父・高歓の面影があった。
 しかし、年若いために気性が荒いところがあり、法律を厳しく適用したのは誤りであった。高慎高仲密)が西魏に寝返り、侯景が梁に付いたのは、もともとねじけた心の持ち主だったのもあるが、澄の厳しさを恐れた面もあったのである。また、贅沢好き・女好きで、制度に違反することも多かった。例えばある時、皇宮の西に私邸を建てようとした。しかし、その規模が太極殿に次ぐほど大きかったため、たまたま鄴にやってきた父の高歓に叱られ、建設を中止したことがあった。

 李延寿曰く…高澄は父・高歓の覇業を受け継ぐと武略を発揮し、国内では逆徒(侯景)を駆除し、国外では淮南の地を獲得し、悪人(勲貴など)を排除して人材を抜擢した。ただ、先王のような人格者ではなく、厳法主義者で、臣下に対し厳しい態度で臨んだ。思うに、天も人も命を生かすことを好み、殺すことを憎むものである。生かせば良い結果が、殺せば悪い結果が必ず返ってくるとは限らないが、歴史を振り返ってみると、大体前者の方が報われているものである。高澄が一時の油断によって命を落としたのは、恐らく人に厳しく当たったことに原因があるのだ。

○北史北斉文襄紀
 文襄美姿容,善言笑,談謔之際,從容弘雅。性聰警,多籌策,當朝作相,聽斷如流。愛士好賢,待之以禮,有神武之風焉。然少壯氣猛,嚴峻刑法,高慎西叛,侯景南翻,非直本懷狼戾,兼亦有懼威略。情欲奢淫,動乖制度。嘗於宮西造宅,牆院高廣,聽事宏壯,亞太極殿,神武入朝,責之,乃止。
 文襄嗣膺霸道,威略昭著,內除姦逆,外拓淮夷,擯斥貪殘,存情人物。而志在峻法,急於御下,於前王之德,有所未同。蓋天意人心,好生惡殺,雖吉凶報應,未皆影響,總而論之,積善多慶。然文襄之禍生所忽,蓋有由焉。
○北史北斉文宣紀
 文襄年長英秀,神武特所愛重,百僚承風,莫不震懼。
 
●高洋深慮
 澄は、弟の中で特に自分と歳の近い高洋を常に警戒していた。そこで洋はその警戒を解くため馬鹿な振りをし、殆ど何も言わず、いつも腰を低くして、何か言われれば必ずそれに従うようにした。その結果、洋は澄や百官たちだけでなく、家人にすら深く軽蔑されるようになった。
 しかし、洋がそのような努力をしても、澄に妬まれる時はあった。妻の李氏を連れて酒宴に参加する時である。李氏は諱を祖娥といい、趙郡の李希宗字は景玄。北魏の揚州刺史の李憲〈527年(2)参照の子で、高道穆に選任された御史の一人。のち高歓に抜擢されて中外府長史となった。人望と容姿を兼ね備えていたため、非常に礼遇されたの次女であったが、問題は、容姿も性格も抜群の美女だという所であった。澄はその彼女の美しさが、妻の馮翊長公主孝静帝の妹。545年〈1〉参照)より遥かに優っているのが不満でたまらないのであった(長公主も美人だったが、李氏はそれ以上だったのである)。そこで澄は、洋が李氏に与えていた衣服や玩具の中から少しでもいい物があるのを見ると、即座に奪い取った。李氏があるとき怒ってその要求に応えずにいると、洋は笑って李氏にこう言った。
「これはどこにでもあるような物だ。それを欲しがるとは、兄もケチだな!」
 澄がこれを聞いて恥じ入り、奪った物を返してくると、洋はあっさりこれを受け入れた。いかにも自分はありのままであって、謙虚など装っていないと澄に思わせるためであった。
 洋は仕事を終えて屋敷に帰ると、門を閉じて自室に籠もり、李氏や子どもたちにさえ一日中何も話さなかった。そんな洋も、時々肌脱ぎ・素足になって〔庭を〕駆け回ったり跳ね回ったりした。李氏がなんでそんなことをするのか〔怪訝に思って〕尋ねると、洋は嘘をついて言った。
「お前が喜ぶかと思ってふざけているのだ。」
 実際は〔いざという時に〕体を鍛えておくためだった。

●能ある鷹、爪を出だす
 高澄が東柏堂にて蘭京らに殺されると、鄴中の人々はあまりに突然の事態に恐れ驚くばかりで、為す術を知らなかった。しかし、城の東にある双堂にいた尚書令・中書監・京畿大都督の高洋だけは、この報を聞くと顔色一つ変えず、手勢を率いて直ちに東柏堂に入り、京らを討ち果たした。洋はその死体を自ら細切れにし、その頭蓋骨に漆を塗った(趙襄子は智伯の頭蓋骨に漆を塗って盃とし、姚方成は徐嵩の頭蓋骨に漆を塗って便器にしたという)。それから徐ろに人々の前に出て言った。
「奴隷が謀反を起こし〔たが、既に討ち果たした。〕大将軍は負傷されたが、重傷ではない。」
 人々は〔馬鹿だと思っていた洋が事変をすぐさま収めてみせたのを見て、〕大いに驚いた。

○北斉文襄紀
 時太原公洋在城東雙堂,入而討賊,臠割京等,皆漆其頭。祕不發喪,徐出言曰:「奴反,大將軍被傷,無大苦也。」
○北斉・北史北斉文宣紀
 武定七年八月,世宗遇害,〔帝在城東雙堂,〕事出倉卒,內外震駭。帝神色不變,指麾部分,自臠斬羣賊而漆其頭,徐宣言曰:「奴反,大將軍被傷,無大苦也。」當時內外莫不驚異焉。

●陳元康の死
〔腸が飛び出すほどの重傷を負っていた〕陳元康は、なお気を奮い立たせて手ずから母への別れの手紙を書いた。それから、〔友人で〕功曹参軍の祖珽に国家の急務について論じた意見書を代筆させた。そして、その日の夜に絶命した(享年43)。
 洋はその〔死を隠すため、〕元康の遺体を自邸に仮置きした。また、〔姿が見えないのは〕使者として南の国境に派遣したからだと言ってごまかした。また、中書令に任じた。
 翌年、洋は元康の死を公表し、文穆公と諡した。元康の母の李氏は子の死を知ると、悲しみの余り病気となり、亡くなった。

 李百薬曰く…元康は智能才幹を以て覇朝(高歓・高澄)に仕え、側近として非常に重用された。〔彼はその恩を忘れず、〕危難に遭っても逃げることなく、生を忘れて義に殉じた。立派な死に方だったと言うべきだろう。一方、楊愔は自分が天才で、同輩よりも群を抜いて優れていると考えていたが、澄が弒逆された際、〔これを助けることもせず〕遁走して死を逃れた。ここから、死の危険に対処するより、死ぬこと自体が難しいのが分かるのである(史記藺相如伝の評に『死ぬよりも、死の危険に対処することの方が難しいのである』とあるのを、逆にしたもの

 元康は死に臨んで、家族への手紙も珽に代筆させ、家のことを託した。この時、元康は〔珽に?〕こう言い残した。
祖喜)は私の財産をいくらか管理している。早く取りに行ってくれ。」
 珽はこの手紙を家族に渡さず、密かに喜を訪ねて財産の在り処を尋ね、金の延べ棒二十五本を得ると、喜には二本だけを渡して、あとは全て自分のものとした。また、元康の家にあった本数千巻を盗んだ。喜は恨みを抱き、元康の弟の陳叔諶陳季璩らにこの事を暴露した。叔諶がこれを楊愔に訴えると、愔は眉をひそめてこう言った。
「これを訴えると、亡き兄上〔が蓄財に励んでいたことが明るみになり、〕名誉に傷がつくが、いいのかね。」
 そこで弟たちは訴えを取り下げた。

○北斉24・北55陳元康伝
〔傷重腸出,猶手書辭母,口占祖孝徵陳權宜。至夜而終,時年四十三。...是時祕世宗凶問,故殯元康於宮中,託以出使南境,虛除中書令。明年,乃詔曰:「...贈使持節,都督冀定瀛殷滄五州諸軍事、驃騎大將軍、司空公、冀州刺史,追封武邑縣一千戶,舊封並如故,諡曰文穆。賻物一千二百段。大鴻臚監喪事。凶禮所須,隨由公給。」元康母李氏,元康卒後,哀感發病而終,贈廣宗郡君,諡曰貞昭。
○北斉39祖珽伝
 文襄嗣事,以為功曹參軍。及文襄遇害,元康被傷創重,倩珽作書屬家累事,并云:「祖喜邊有少許物,宜早索取。」珽乃不通此書,喚祖喜私問,得金二十五鋌,唯與喜二鋌,餘盡自入己。盜元康家書數千卷。祖喜懷恨,遂告元康二弟叔諶、季璩等。叔諶以語楊愔,愔嚬眉答曰:「恐不益亡者。」因此得停。

 ⑴祖珽...字は孝徵。名文家。頭の回転が早く、記憶力に優れ、音楽・語学・占術・医術などを得意とした。本能に忠実な性格でたびたび罪を犯して免官に遭ったが、そのつど溢れる才能によって復帰を果たした。546年、玉璧を死守する韋孝寛を説得する使者とされた。546年(2)参照。

早熟の人・王紘
 また、京らに立ち向かい、負傷した王紘の忠節を表して平春県男とし、絹七百段・綾錦五十疋・銭三万・金帯・駿馬を与え、晋陽令、領左右都督(北55王紘伝)とした。洋は紘に非常に手厚い待遇を与えた。

 紘は幼少の頃より弓馬を好み、騎射を得意とした。また、非常に文学を愛好した。頭脳明晰で、流れるように受け答えを行なった。十三歳の時に揚州刺史で太原の人の郭元貞楊愔の妹の夫)に会った。元貞は紘の背中を撫でてこう言った。
「これまでどんな本を読んできたのかね?」
 紘は答えて言った。
「孝経を読みました。」
 元貞は言った。
「孝経にはどんな事が書かれているのかな?」
 紘は答えて言った。
「上の者が驕らなければ、下の者は乱を起こさないという事が書かれています。」
 元貞は言った。
「わしは刺史だが、驕ってはいないだろうか?」
 紘は言った。
「公は驕ってはおりません。ただ、この言葉を心に留め、これまで以上に謙虚でおられることを願うだけです。さすれば公は君子となり、災いを未然に防ぐ事ができるようになるでしょう。」
 元貞は紘の言葉の立派さを褒め称えた。
 十五歳の時、父の王基の刺史就任に従って北豫州に赴いた(538年?)。
 ある時、〔河南〕行台の侯景がこう言った。
「衣服は左前・右前、どちらで着るのが正しいのだろうか。」
 尚書の敬顕俊字は孝英。532年〈1〉参照)が答えて言った。
「孔子は『管仲がいなかったら我々は今ごろ〔夷狄に征服され、〕ザンバラ髪・左前の格好にさせられていただろう』(論語憲問18)と仰られました。つまり、右前が正しいのです。」
 すると、紘が進み出て言った。
「我が国は北方の原野より雄飛し、中原に覇を称えました。〔であれば、中原の伝統など関係がございません。それに、〕五帝であれ三王であれ、儀礼や制度は先代とは異なっていました。つまり、左前・右前の是非など決める必要など無いのです。」
 景はその早熟さに驚き、名馬を与えた。
 興和中(539~542)、高澄に召し寄せられて庫直(護衛兵)・奉朝請とされた《北斉25王紘伝》

 
 549年(7)に続く