●能吏唐邕
 東魏の勲貴(重臣)たちは太原公の高洋にこう勧めて言った。
「強兵はみな并州にございます。早く掌握しに行かれませ。」
 洋は思い惑って決断することができず、夜中に楊愔字は遵彦。名門楊家の生き残り。高澄殺害の際逃げ出した。549年〈5〉参照)・杜弼字は輔玄。澄の幕僚の一人。547年〈4〉参照)・崔季舒字は叔正。高澄の腹心。澄が殺された時逃亡した。549年〈5〉参照)・高徳政字は士貞。高洋の懐刀。547年〈2〉参照)らと相談したのち、ようやく并州に赴くことを決めた《北斉30高徳政伝》
 夜、洋が大将軍督護(北史。北斉書では『大将軍府参軍』)で太原の人の唐邕字は道和)に四方の鎮圧の差配を命じた所、邕はそれを瞬く間に終わらせてしまった。以降邕は洋に重用されることになった。
 邕の父は霊芝といい、北魏の代に寿陽県令となった。邕は幼くして聡明で、治世の才を備えていた。太昌の初め(532年)にある者によって高歓に推薦されて直()外兵曹〔参軍〕となり、文書・帳簿の管理を任された。邕は文章・計算が上手く、記憶力が抜群で、仕事を手際良く処理したため、のち高澄の大将軍府参軍(または督護)に抜擢された《北斉40唐邕伝》

●命運変わらず
 癸巳(8月10日)、洋が孝静帝に、太子を立てたという名目で(北史北斉文宣紀)大赦を行なわせた【大赦を行なうことで、蘭京の残党の心を落ち着けようとしたのである】。また、内外の百官の官階を二階級特進させた《魏孝静紀》
 澄が死んだことが次第に明らかになってくると、帝は左右の者に対して密かにこう言った。
「大将軍がこたび死んだのは天意である。今に権柄が帝室の手に還るに違いない!」北史北斉文宣紀
 洋は太尉の高岳北斉13清河王岳伝。字は洪略。高歓の従父弟。549年〈4〉参照)・太保の高隆之字は延興。高歓の義弟。547年〈1〉参照)・開府儀同三司の司馬子如字は遵業。高歓の親友。546年〈2〉参照)・侍中の楊愔北斉30高徳政伝)らに鄴の留守を任せ、残りの勲貴たちはみな晋陽に連れて行くことにした《出典不明》
 甲午(11日)、洋が昭陽殿にて孝静帝に拝謁した。洋は宮城に入るとき八千(北史北斉文宣紀では『千人』)の兵士(『従者』)を連れ、十余人の剣士がその前を歩いた。昭陽殿に入ると洋は孝静帝から数十歩離れた所で立ち、二百余の衛士がこれを護衛したが、彼らはまるで大敵と対しているかのように、みな腕まくりをし、刀を手にしていた。洋は朝儀を司る者にこう伝言させた。
「家事がありますゆえ(出典不明)、晋陽に行ってまいります。」
 言い終わると、再拝して昭陽殿を出た。孝静帝は顔色を青ざめさせ、洋が去っていくのを見送りながら〔左右の者に〕こう言った。
「あれも〔大将軍と同じく、〕朕を受け入れぬようだ。朕の命もいつまで保つか、知れたものではない!」
 晋陽にいた老臣宿将は平素から洋を軽んじていたが、いざ洋と会ってその堂々とした態度と明晰な話しぶりを見ると(出典不明)〈文宣紀では『洋が誠意を以て人に当たり、寛大な政治を行なうと』とある〉、みな驚き喜んでこう言った。
「左僕射(高洋。洋は547年に尚書令となっている。それ以前は左僕射だった)が令公(高澄)より劣っていると言ったのは誰だ!」
 洋は澄の出した政令で良くないものがあれば、みな改めた北史北斉文宣紀

●勲貴の反撃と澄の腹心たちの失脚
 これより前、度支尚書の崔暹字は季倫。高澄の腹心。549年〈5〉参照)や崔季舒は勲貴を容赦なく弾圧していたため、彼らに非常に怨まれていた。給事黄門侍郎の陽休之字は子烈。高歓に『六王三川』の意味を問われた。537年〈1〉参照)はこれを心配し、洋が晋陽に赴く際に崔季舒にこう勧めていた。
「一日でも傍(高洋の)を離れれば、その隙に讒言を受けますぞ。」
 季舒は音楽と女色を好み、のんびりとして〔危機意識が欠けていたため、〕とうとう勧めを断って行かず、娯楽に耽溺した(原文『黃門郎陽休之勸季舒從行,曰:「一日不朝,其閒容刀。」季舒性愛聲色,心在閑放,遂不請行,欲恣其行樂』。一方、北斉18司馬子如伝には『世宗(高澄)時,中尉崔暹、黃門郎崔季舒俱被任用。世宗崩,暹等赴晉陽。』とある。通鑑では司馬子如らは鄴に残っていることになっている。暹の動向は不明)。
 すると果たして勲貴の司馬子如韓軌字は百年。高歓の側室の兄。547年〈3〉参照)〈北32崔暹伝〉らは尚食典御の陳山提もと爾朱兆の家奴。533年参照)らと共に洋に対して暹らの罪過をあげつらい北斉39崔季舒伝、誅殺するように言った《北斉18司馬子如伝》。また、同じく勲貴の高隆之も洋に〔澄時代の厳しい〕法律・規律を緩め、過酷な御史を追放し、崔暹を誅殺して人心を得るように言った《北斉30崔暹伝》。洋はこれを聞き入れず(北斉18高隆之伝)、各々二百の鞭打ちを加えたのち、辺境に追放するだけに留めた《北斉39崔季舒伝》

●開府濫授
 侯景宋子仙景配下随一の猛将。549年〈5〉参照)を司徒に、〔北道行台の〕郭元建549年〈5〉参照)を尚書左僕射に(出典不明)、〔南道行台の〕任約もと西魏の将軍。549年〈3〉参照)を領軍将軍に任じた。また、爾朱季伯・叱羅子通・彭儁・董紹先南兗州刺史。江北行台も兼務? 549年〈3〉参照・支化仁・于慶・魯伯和・紇奚斤・史安和・時霊護・劉帰義など四十人に(出典不明)開府儀同三司を授けた《梁56侯景伝》。また、同時にこう詔を下させて言った。
「今より、開府儀同三司の者には将軍号を加えぬこととする。」
 これより以後、開府儀同三司を授けられる者は、いちいち記すことができぬほどの数に及んだ(景のいた北朝ではこれが普通だった《出典不明》

●鄱陽王と尋陽王の合流


〔これより前、梁の合州刺史の鄱陽王範字は世儀。武帝の弟の子。549年〈5〉参照)は合州を喪い、行き場を無くして樅陽(梁44尋陽王大心伝では『柵口』)に逃れていた。〕その範が江州刺史の尋陽王大心字は仁恕)に助けを求めると、大心はこれに返書を送り、九江(江州)に来て、共に兵を整えて建康に向かおうと言った(原文『遣信告尋陽王。尋陽要還九江,欲共治兵西上』。大心伝には『大心聞之,遣要範西上』とある。)〈梁44尋陽王大心伝〉。範はこれを受け取ると大いに喜んだ《梁22鄱陽王範伝》。範が江州に到ると、大心はこれを湓城(江州の治所。元は尋陽に在ったが、韋粲に勧められてここに遷していた。548年〈5〉参照)に住まわせて数多くの米蔵を貸し与え、〔自らは元の鎮所の尋陽に遷っ〕た《梁44尋陽王大心伝》

●呉興陥ちて忠臣死す
〔これより前、侯景は監行台の劉神茂と中軍都督の侯子鑑に呉興を攻めさせていた(8月1日参照)。〕
 呉興の兵力は寡弱であり、しかも守将の張嵊字は四山。5月に反景の姿勢を明らかにした。549年〈5〉参照)は士大夫階級出身で、軍事についてはさっぱりだったため、〔敗北は火を見るよりも明らかだった。〕ある者は嵊に対し、袁君正字は世忠。呉郡太守だったが、侯景の軍がやってくると降伏した。549年〈3〉参照)に倣って郡を挙げて降伏するべきだと言った。すると嵊は嘆息して言った。
「袁氏は代々忠貞なことで有名だった【袁氏は袁淑より袁顗・粲・昂に至るまでみな忠貞なことで有名だった】が、まさか君正がそれを台無しにするとは思わなかった。わしとて呉郡が陥落(7月19日)した今、呉興を守り切れるとは思っておらん。だが、もう身命を国家に捧げてしまった身ゆえ、死んでも二心は抱けぬのだ!」
 9月、癸丑朔(1日)《出典不明》、神茂・子鑑の軍が呉興に到ると、嵊は軍主の范智朗にこれを迎撃させた。しかし智朗は郡城の西にて神茂に敗北して帰ってきた。神茂の騎兵が勝利に乗じて柵(郡城を守るためその周囲に急ごしらえに作ったもの?)を焼くと、柵内の嵊兵はどっと崩れたった。嵊は〔敗北を悟ると、〕戦袍を脱いで正式の官服に着替え、郡庁にて正座をして神茂らの兵を待ち受けた。神茂らの兵は郡庁に到ると嵊に刃を突きつけたが、嵊は飽くまで屈しなかった。嵊が建康に送られてくると、侯景はその忠節を褒め称え、生かそうとした。しかし嵊は断って言った。
「わしは朝廷に一郡を任せていただいたというのに、その危難をお救いすることができなかった(出典不明)。〔そのような恥辱は一日でも耐え難い。〕早く殺すがよい。」
 景はせめて嵊の一子を生かそうとしたが、嵊はこれも断って言った。
「我が一門は既に鬼録()に入っておる。胡虜の情けを受ける必要は無い!」
 景は大いに怒り、嵊やその子弟十余人を市場(刑場)に送ってことごとく殺した(嵊、享年62)【張嵊一門は義に殉じ、父の主殺しの汚名(嵊は南斉五代皇帝・東昏侯を殺害した張稷の)を雪いで死に絶えたのだった】。
 このとき、沈浚字は叔源。侯景が再度偽りの和議を持ちかけてきた時に、その交渉役となり、その嘘を見抜いて死を恐れずに景を難詰し、堂々と退出した。景は怒ったが、その時はその勇気に免じて殺さなかった。建康が陥落すると呉興に逃れ、嵊が決起するのを後押しした。549年〈4〉参照)も殺された。

 景の大軍との長い攻城戦の末に呉興郡城が陥落すると、姚僧垣は逃げ隠れたが、暫くして捕らえられた。景の将の侯子鑑はもともと僧垣の評判を耳にしていたので罪に問わず、非常に礼遇した。僧垣は建康に帰り、兼中書舍人とされた。

○資治通鑑
 吳興兵力寡弱,張嵊書生,不閑軍旅。或勸嵊效袁君正以郡迎侯子鑒。嵊歎曰:「袁氏世濟忠貞,[袁氏自淑至顗、粲及昂,皆以忠貞著節。]不意君正一旦隳之。吾豈不知吳郡旣沒,吳興勢難久全;但以身許國,有死無貳耳!」九月癸丑朔,子鑒軍至吳興,嵊戰敗,還府,整服安坐,子鑒執送建康。侯景嘉其守節,欲活之,嵊曰:「吾忝任專城,朝廷傾危,不能匡復,今日速死為幸。」景猶欲全其一子,嵊曰:「吾一門已在鬼錄,[魏文帝書曰:觀其姓名,已為鬼錄。]不就爾虜求恩!」景怒,盡殺之[張嵊闔門死義,以雪其父弒君之醜,血祀絕矣。],幷殺沈浚。
○周47姚僧垣伝
 俄而景兵大至,攻戰累日,郡城遂陷。僧垣竄避久之,乃被拘執。景將侯子鑒素聞其名,深相器遇,因此獲免。及梁簡文嗣位,僧垣還建業,以本官兼中書舍人。
○梁43・南31張嵊伝
 侯景聞神茂敗,乃遣其中軍侯子鑒帥精兵二萬人,助神茂以擊嵊,嵊遣軍主范智朗出郡西拒戰,為神茂所敗,退歸。賊騎乘勝焚柵,柵內眾軍皆土崩。嵊乃釋戎服,坐於聽事,賊臨之以刃,終不為屈,乃執嵊以送景,〔景將舍之,嵊曰:「速死為幸。」乃殺之。〕景刑之於都市,子弟同遇害者十餘人,〔景欲存其一子,嵊曰:「吾一門已在鬼錄,不就爾處求恩。」於是皆死。〕時年六十二。
○梁43・南36沈浚伝
〔又勸張嵊立義,〕及破張嵊,乃求浚以害之(後得殺之)

●荊・雍の争い

〔これより前、梁の湘州刺史の河東王誉字は重孫。武帝の長子・昭明太子統の第二子。549年〈5〉参照)は、荊州刺史の湘東王繹字は世誠、武帝の第七子。549年〈5〉参照)の部将・鮑泉字は潤岳)の侵攻を受け、窮地に陥っていた。〕誉がそこで弟で雍州刺史の岳陽王詧サツ。字は理孫。武帝の長子・昭明太子統の第三子。549年〈4〉参照)に助けを求めると、詧はこれに応え、諮議参軍で済陽の人の蔡大宝字は敬位)に襄陽の留守を任せ、自ら二万の歩兵と二千(通鑑。周書では『千』)の騎兵を率いて江陵攻撃に向かった。このとき、江陵は郭邑(城壁外の街)の周囲に柵を築いて防備を固めていた(549年〈3〉4月参照)が、北面だけはまだ完成していなかった。詧はその北側から江陵に攻め込んだ。繹はこれを聞くと大いに恐れ、参軍の庾奐を派して詧にこう言った。
「天下がばらばらになってしまったのは、正徳(臨賀王正徳。武帝の弟の子。侯景を建康に引き入れ、一時皇帝となった。549年〈5〉参照)が自分勝手に動いて国を乱したせいだが、お前〔の今の行動〕はそれに倣うものだ。お前はいったい何を考えているのか!〔国を滅ぼしたいのか〕? それに、そもそもわしは先帝に可愛がられ、お前たち兄弟の後見を任された者なのだぞ。〔そのわしを攻めるとは何事か!〕しかも、甥が叔父を攻めるとは。天の理に甚だ背いている!」
 詧は答えて言った。
「兄(河東王誉)は罪無くして七父(繹のこと。繹は武帝の第七子)の長囲を受けました。兄弟の情からいって、これを傍観するわけにはいきませぬ。七父が先帝から愛され、〔我ら兄弟の後見を託されたとおっしゃいますのなら、〕こたびのようなことをすべきではありません。いま七父が湘水(湘州)より兵をお退きなさるなら、私も襄陽に軍を返すつもりでおります。〔ご深慮のほどを。〕」
 繹は左右の者を獄中に遣わし、王僧弁字は君才。河東王討伐を命じられた際すぐに出発しなかったため、繹の怒りを買い、剣で太腿を斬られたうえ牢獄に入れられた。549年〈5〉参照)に対策を問うた。僧弁がそこで具さに方略を述べると、繹は勘気を解いて僧弁を赦し、城内都督(通鑑では『城中』)とした。
 乙卯(3日)、詧は江陵に到ると、軍を十三の部隊に分けて柵に攻撃を開始した。しかし陥とせなかったため、やむなく一旦退却して拠点を築いた。それから再び精鋭を全て投入して攻勢をかけたが、折悪しく突如雨が滝のように降って(このとき江陵周辺の平地は四尺もの深さまで水が浸かったという)、詧兵をずぶ濡れにさせた。このため詧兵の士気は地に落ちた。
 繹は詧軍中にいる新興(江陵近東北)太守の杜崱549年〈4〉参照)と旧交があった。繹はこれを頼りに、密かに崱に対して内応するよう誘った梁46杜
 乙丑(13日)の夜梁46杜)、崱はこれに応じ、兄の杜岌・杜岸字は公衡)・弟の杜幼安・兄の子の杜龕及び楊混と共に、各々手勢を連れて繹に降った《梁元帝紀》。杜岸は五百騎を率いて襄陽を奇襲することを求め、許されると昼夜兼行の強行軍を行ない《梁46杜岸伝》、はや襄陽まで三十里の地点に到達した。蔡大宝はこれを察知すると、詧の母の龔保林を守将に戴き、城壁の上に登り、門を閉じて迎撃戦の指揮を執った《周48蕭詧伝》
 丙寅(14日)《梁元帝紀》、詧はこれを知ると夜陰に紛れて撤退を開始し、途中湕水(建陽河、江陵と襄陽の中間にある川。現在の荊門市の北を流れる)に数え切れないほどの兵糧・金帛・鎧武器を投棄した(通鑑。蕭詧伝には『器械輜重,多沒於湕水』とある《周48蕭詧伝》
 詧は江陵に向かう際、足に病のある張纘字は伯緒。湘東王繹と河東王誉・岳陽王詧の仲をこじらせた。詧に捕らえられ、出家して法緒と名乗っていた。549年〈4〉参照)を車に乗せて連れて行った。詧は纘に檄文を作らせようとしたが、病を理由に固辞されていた(南56張纘伝)。敗走の際、纘の護衛者は追兵に追いつかれるのを恐れ、湕水の南にて纘を殺し(享年51)、遺体を棄てて逃げた《梁34張纘伝》
 詧は夜中に襄陽に帰り、〔開門を求めたが、〕龔氏保林)は敵が詧のふりをしているのではないかと怪しみ、〔開門しなかった〕。そして夜明けになって詧の姿を見止めると、ようやくこれを城中に入れた。岸らは詧がやってきたのを知ると、〔攻城を諦めて〕南陽(隋書地理志に今の陰城〈襄陽の西北〉に置かれていたとある)太守の兄・杜巘ゲン)を頼って広平(南陽)に逃れた(周28権景宣伝によると、このとき西魏の儀同三司の権景宣〈字は暉遠。荊州以南のことを任されていた。549年〈4〉参照〉が三千の兵を率いて詧を助け、岸を破ったという《周48蕭詧伝》

○資治通鑑
 河東王譽告急於岳陽王詧,...帥眾二萬、騎二千伐江陵以救湘州。...僧辯具陳方略,繹乃赦之,以為城中都督。乙卯,詧至江陵,作十三營以攻之;會大雨,平地水深四尺,詧軍氣沮。
○梁元帝紀
 九月乙卯,雍州刺史岳陽王詧舉兵反,來寇江陵,世祖嬰城拒守。乙丑,詧將杜崱與其兄弟及楊混各率其眾來降。丙寅,詧遁走。

●僧弁、長沙討伐軍の都督となる
 湘東王繹は詧の侵攻を退けると、今度は鮑泉がなかなか長沙(湘州)を陥とさないのを怒り(泉は8月18日頃から長沙を包囲していた)、泉の罪を十(南史では『二十』)数え上げ、こう責め立てる書簡を書いた。
「泉の風采は立派だが(泉は八尺の高身長だった)、それは冠玉(冠飾りの白玉)のように上辺だけのもので、中身は木偶のように空っぽである。〔自慢の〕髭もハリネズミの毛のようで(泉は髭の美しいことで有名だった)、いたずらに口の周りを疲れさせるだけだ(原文『繞喙』)。」
 かくて平南(元帝紀では『左衛』)将軍の王僧弁に都督を交代させ、中書舍人の羅重歓通鑑では『重懽』)に書簡と三百人の齋仗(衛士)を付けて僧弁に同行させた。僧弁は長沙に到ると、密かに人を遣って、泉にこう伝えさせた。
「羅舍人が湘東王の命を奉じ、王竟陵(僧弁は竟陵太守)を連れてやってきました。」
 泉は僧弁がやってきたのを知ると非常に驚き、左右にこう言った。
「王竟陵が助けに来たなら、賊の討伐など容易いものだ。」
 間もなく重歓が王の書簡を持って泉の本陣の中に入り、齋仗を従えた僧弁がその後に続いた。泉は席の汚れを自ら払い落とし、正座をしてこれを迎えた。
 僧弁は陣幕の中に入ると、泉に背を向けて座り、こう言った。
「鮑郎よ、卿は罪を犯した。王命によって卿を捕らえる。旧交があるからといって、それがしが何か弁護してくれると期待しても無駄である(原文『卿勿以故意見待』。南62鮑泉伝では『卿勿以故意見期』とある)。」
 重歓が僧弁に促されて王命を宣告すると、泉は地べたにひれ伏してこれを聞き(南62鮑泉伝)、〔従容として〕牀(座具・寝具)の傍に繋がれた《梁39王僧弁伝》。泉は神色自若として、最後まで恐れの色を見せることなくこう言った(僧弁を見捨てた時とはえらい違いである)。
「遅延の罪は甘んじて受けたいのですが、ただ、後世の人が私のことをぐずと思いはしないか、それだけが気がかりでなりません(遅延したのは自分がぐずだったからではなく、抵抗が激しかったせいだと言いたいのだろう)。」(原文『「稽緩王師,罪乃甘分,但恐後人更思鮑泉之憒憒耳。」』
 僧弁がそれを聞いて不満を顔中に表すと、泉は〔やむなく〕上表して遅延の罪を謝した。すると間もなく繹は怒りを解き、罪を赦した《南62鮑泉伝》

 冬、10月、癸未朔(1日)、東魏が開府儀同三司の咸陽王坦字は延和。544年参照)を太傅とした。
 甲午(12日)、開府儀同三司の潘相楽潘楽、字は相貴。547年〈3〉参照)を司空とした(北斉文宣紀・通鑑ではどちらも1日の事としている《魏孝静紀》

●二鎮決裂
 これより前、歷陽太守の荘鉄549年〈5〉参照)は侯景から梁に寝返り、尋陽王大心に仕えていた。しかし、豫章内史とされて郡に到ると(出典不明、梁41劉孝儀伝には、豫章内史の劉孝儀〈本名は潜。548年〈5〉参照〉が『鉄軍に迫られて郡を失った』とある)、直ちに大心に叛いて兵を挙げた。
 丁酉(15日)、鉄軍が尋陽(江州の治所。柴桑)を襲撃した。大心が部将の徐嗣徽に迎撃をさせると、鉄は敗れて建昌(尋陽と豫章の中間)に逃れた。光遠将軍の韋構梁44尋陽王大心伝には『中兵参軍の韋約ら』とある)らがこれを迎え撃つと、鉄は母・弟・妻・子を喪い、身一つで南昌【豫章郡の治所】に逃げ帰った。大心は構にその追討をさせた《出典不明》
 窮地に陥った鉄はやむを得ず、大心に降伏を申し出た。鉄と仲が良かった鄱陽世子嗣字は長胤。範の子。549年〈5〉参照)はこれを聞くと父の鄱陽王範にこう言った。
「鉄は縦横無尽の才略を有する、経験豊富な老将であります。父上が大事を為そうとするなら、彼の力がきっと必要になります。今もし彼が江州に降れば、〔彼は尋陽王に警戒され、〕きっと殺されてしまうでしょう。どうか兵を派し、鉄をお救いくださいますよう。」
 範がそこで弟の観寧侯永を派すと《梁44尋陽王大心伝》、鉄はこれを主君に仰いだ。
 
┃富陽陥落

 侯景の司徒の宋子仙が呉郡より〔南下し、〕銭塘の攻略にかかった。
 景の監行台の劉神茂9月1日参照)が呉興より〔南下して〕富陽(銭塘の西南)を攻め、守将の前武州刺史で富陽の人の孫国恩を降伏させた《出典不明》

 11月、乙卯(4日)侯景武帝の亡骸を脩陵に埋葬した(亡くなったのは5月2日)【考異曰く、太清紀には『十四日』とあるが、今は梁書の記述に従った】。廟号は高祖とした《梁武帝紀》

┃建康荒廃
 百済が建康に朝貢の使者を派遣した。使者は建康が荒れ果て、以前見た姿とあまりに異なっているのを見ると、〔悲しみがこみ上げて〕端門【台城正南門の中門】にて慟哭した。侯景は怒り、これを荘厳寺【建康の南の郊壇にある】に押し込めて監禁した(梁56侯景伝では12月の事だとする《梁56侯景伝》

 戊午(7日)、梁の斉州刺史の茅霊斌・徳州刺史の劉領隊・南豫州刺史の皇甫眘らがみな東魏に服属した(みな名目だけの官?《北斉文宣紀》

┃銭塘陥落
 壬戌(11日)梁56侯景伝では『十一月』とだけある《出典不明》宋子仙が銭塘を激しく攻め立てた。守将の戴僧逷テキ、または易。549年〈4〉参照)はこの猛攻に屈し、遂に降伏した(子仙は5月30日頃に銭塘に攻撃をかけていたが、6月22日頃に呉郡が侯景に叛旗を翻すと、攻撃を中断してその討伐に回り、7月9日に呉郡を陥としていた)。景は銭塘を臨江郡、富陽を富春郡にそれぞれ改めた《梁56侯景伝》

●杜家族滅
 岳陽王詧の部将で河東の人の薛暉尹正杜岸と共に張纉を捕らえた。549年〈4〉参照)が南陽(広平)を陥とし、杜巘・杜岸詧を裏切って繹に付き、襄陽を襲った)とその母・妻および子どもを捕らえて襄陽に送った。詧の母の龔保林が衆前にて岸を責め立てると、岸は答えて言った。
「この下女のババアが! 貴様は息子に叔父殺しを命じたばかりか、忠良の臣までも非道に殺そうとするのか!」
 詧は〔激怒し、〕その舌を引き抜き、顔に鞭打ち、挽き肉にして煮物にした。更に杜家一門を襄陽の北門にて族滅に処し、幼少の者は去勢させた。また、杜家代々の墓を暴いて骸骨を燃やし、灰になったそれを地にばらまいた。また、その頭蓋骨に漆を塗って器とした《南64杜岸伝》

┃詧、西魏を引き入る
 詧は湘東王繹に滅ぼされるのを恐れ、遂に西魏に使者を派し、属国となることと、援軍を寄越してほしいことを伝えた。西魏の丞相の宇文泰は丞相府東閤祭酒で北平の人(隋66栄眦伝)の栄権を襄陽に派遣し、了承の旨を伝えた。詧はこれを聞いて大いに喜んだ《周48蕭詧伝》

 これより前、西魏の大行台尚書・兼相府司馬の長孫倹元の名は慶明。北魏の名族・長孫氏の出で、夏州時代からの宇文泰の配下。546年〈1〉参照)は東南道行台僕射・大都督十五州諸軍事(北22長孫倹伝)・荊州刺史とされていた。詧が属国となることを申し出る使者を西魏に派した時、倹は戦袍を着、儀仗隊を庁舎の中に林立させ、賓客の礼を以てその使者を遇した。倹はいかつい容貌な上に破鐘のような大声で、しかもただ鮮卑語だけを話し、通訳を介して使者に質問をした。使者は〔野蛮な倹の様子にただただ〕恐懼し、敢えて頭を上げようとはしなかった。その日の晚、倹は使者を別齋に招いて酒宴を行なった。このとき倹は裙襦(短い上着とスカート状の下衣。官服)に紗帽(薄絹製の帽子。官帽)という〔打って変わって文明的な〕姿で、〔しかも口を開けば〕西魏が梁の争乱を収拾する意思を持っていることを理性的に上手く説明した。使者は大いに喜び、退出するとこう言った。
「私には到底計り知れない人だ。」《周26長孫倹伝》

○周28権景宣伝
 初,梁岳陽王蕭詧將以襄陽歸朝,仍勒兵攻梁元帝於江陵。詧叛將杜岸乘虛襲之。景宣乃率騎三千,助詧破岸。詧因是乃送其妻王氏及子嶚入質。景宣又與開府楊忠取梁將柳仲禮,拔安陸、隨郡。
◯周48蕭詧伝
 詧既與江陵搆隙,恐不能自固,大統十五年,乃遣使稱藩,請為附庸。太祖令丞相府東閤祭酒榮權使焉。詧大悅。
 
┃柳仲礼動く

 これより前、詧が江陵に侵攻した時、湘東王繹は司州刺史の柳仲礼侯景が台城を包囲した時、救援軍の総大将となった。台城が陥ちると侯景に降り、長江中・上流の経略を一任された。549年〈3〉参照)を雍州刺史とし、襄陽を襲撃するよう命じていた。しかし仲礼は日和見な態度を取って動こうとしなかった。
 のち、杜岸が南陽にて詧軍に包囲され、助けを求めてくると、仲礼は別将の夏侯強を司州刺史として義陽(司州)の留守を任せ、自ら兵を率いて〔襄陽に向かい、〕安陸(義陽の西南)に進んで太守の柳勰を降伏させた(出典不明。なぜ安陸を攻めたのかは不明。詧か景の配下だったのか、西魏に付いていたのか、勝手に攻略して自分のものにしたのか)。

 これより前、仲礼が建康の救援に赴いた際、梁の竟陵太守の孫暠と酇城(襄陽の西北百八十里(或いは西魏の荊州の西南百六十里)→光化県の東北四十里)太守の張建は郡と共に西魏の〔西?〕郢州(比陽。新野の東)刺史の裴侠に降っていた。侠は二人に会うと密かに人にこう言った。
「暠は目がきょろきょろとして声は上ずっている。これはころころと去就を変える者の特徴である。一方、建は態度が非常に落ち着いているから、きっと二心を抱かないであろう。」
 そこで早馬を出してこの事を宇文泰に伝えた。すると泰はこう言った。
「裴侠は人を見る目があるゆえ、きっとその通りなのであろう。」
 かくて大都督の符貴《北史》では苻貴)に竟陵を鎮守させ、酇城には監督の者を送らなかった。

 現在、仲礼が司馬の康昭孫暠を討伐させると、果たして暠は符貴を捕らえて降伏した。

 仲礼は部将の王叔孫を竟陵太守として暠と共に竟陵を守備させ、副軍(周文帝紀・周19楊忠伝・通鑑には『長史』とある)の馬岫を安陸太守として弟の柳子礼と共に安陸を守備させた。そして自らは妻子を安陸に残し、一万の軽兵を率いて漴頭(安陸の北六十里→永陽城の西北二十里)より襄陽に向かった。
 詧は妃の王氏と世子の蕭嶚字は道遠)を人質として西魏に派し、即時救援を求めた。孫暠の造反に激怒していた宇文泰はこれに応じ、遂に南伐を開始した。
 この月(11月、泰は侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司・都督朔燕顯蔚四州諸軍事・朔州刺史の楊忠字は揜于。独孤信と共に梁に亡命したことがある。538年〈1〉参照)を都督三荊二襄二廣南雍平信隨江二郢淅十五州諸軍事とし、荊州刺史の長孫倹と共に仲礼を攻撃させた。

◯資治通鑑
 丞相泰欲經略江、漢,以開府儀同三司楊忠都督三荊等十五州諸軍事,鎭穰城。仲禮至安陸,安陸太守柳勰以城降之。仲禮留長史馬岫與其弟子禮守之,帥衆一萬趣襄陽,泰遣楊忠及行臺僕射長孫儉將兵擊仲禮以救詧。
○周文帝紀
 初,侯景自豫州附梁,後遂度江,圍建業。梁司州刺史柳仲禮以本朝有難,帥兵援之。梁竟陵郡守孫暠舉郡來附,太祖使大都督符貴往鎮之。及景克建業,仲禮還司州,率眾來寇,暠以郡叛。太祖大怒。冬十一月,遣開府楊忠率兵與行臺僕射長孫儉討之。
○周19楊忠伝
 時侯景渡江,梁武喪敗,其西義陽郡守馬伯符以下溠城降。朝廷因之,將經畧漢、沔,乃授忠都督三荊二襄二廣南雍平信隨江二郢淅十五州諸軍事,鎮穰城。…梁司州刺史柳仲禮留其長史馬岫守安陸,自率兵騎一萬寇襄陽。初,梁竟陵郡守孫暠以其郡來附,太祖命大都督符貴往鎮之。及仲禮至,暠乃執貴以降。仲禮又進遣其將王叔孫與暠同守。太祖怒,乃令忠帥眾南伐。
◯周48蕭詧伝
 是歲,梁元帝令柳仲禮率眾進圖襄陽。詧懼,乃遣其妻王氏及世子嶚為質以請救。太祖又令榮權報命,仍遣開府楊忠率兵援之。
○北38裴侠伝
 再遷郢州刺史,加儀同三司。梁竟陵守孫暠、酇城守張建並以郡來附。俠見之,密謂人曰:「暠目動言肆,輕於去就者也;建神情審定,當無異心。」乃馳啟其狀。周文曰:「裴俠有鑒,深得之矣。」遣大都督苻貴鎮竟陵,而酇城竟不遣監統。及柳仲禮軍至,暠還以郢叛,卒如俠言。
○南38柳仲礼伝
 及至江陵,會岳陽王詧南寇,湘東王以仲禮為雍州刺史,襲襄陽。仲禮方觀成敗,未發。及南陽圍急,杜岸請救,仲禮乃以別將夏侯強為司州刺史,守義陽,自帥眾如安陸,使司馬康昭如竟陵討孫暠。暠執魏戍人以降。仲禮命其將王叔孫為竟陵太守,副軍馬岫為安陸太守。置孥於安陸,而以輕兵師于漴頭,將侵襄陽。岳陽王詧告急于魏,魏遣大將楊忠援之。

 ⑴竟陵太守の王僧弁が獄に落とされた7月以降の事か?

●邵陵王綸の西走

 侯景の司徒の宋子仙が銭塘を陥とした勢いに乗じて浙江を渡河し、会稽(東揚州)に攻め込んだ。
〔禹穴(会稽山にある洞窟)に逃れていた〕邵陵王綸字は世調。武帝の第六子。台城が侯景に包囲されると武帝の諸子の中でただ一人救援に向かって侯景と戦った。549年〈5〉参照)は銭塘が陥ちたのを知ると、〔西方の〕鄱陽に逃れた[1]。鄱陽内史の開建侯蕃は兵を派してこれを拒んだが、撃破された。

○資治通鑑
 宋子仙乘勝渡浙江,至會稽。邵陵王綸聞錢塘已敗,出奔鄱陽【《考異》曰:《南史》云:「東土皆附綸,臨城公大連懼將害己,乃圖之,綸覺之,乃去。」今從《典略》】,鄱陽內史開建侯蕃以兵拒之,範【「範」,當作「綸」】進擊蕃,破之。

 [1]考異曰く、南史には『綸が禹穴に逃れると、東土はみなこれに付き従った。〔東揚州刺史の〕臨城公大連は身の危険を感じ、綸を殺そうとした。綸はこれを察して逃走した』とある。今は典略の記述に従った。

●南伐開始
 梁の岳陽王詧は西魏の属国になるとは言ったものの、心から従ったわけではなかった。西魏の都督三荊等十五州諸軍事の楊忠はこれを察すると、穰城より漢水(襄陽近辺に流れる川)の川岸に到った所で、率いていた二千の兵に対し、旗を換えながらぐるぐると対岸に姿を見せるよう命じた。高楼からこれを望見した詧は、忠の軍勢を三万の大軍だと勘違いし、恐懼して心から西魏に服属した。
 忠が次いで梁の西義陽に到ると、太守の馬伯符は下溠城【隋書地理志曰く、漢東郡〈襄陽の東〉の唐城県にあたる。杜佑曰く、下溠戍は漢東郡棗陽県の東南百余里にある。九域志曰く、唐城は隨州の西北八十五里にある】と共に降った。忠は伯符に道案内をさせた《周19楊忠伝》。伯符は、岫の子である《出典不明》

会稽陥つ
 当時、会稽(東揚州)は肥沃な地で、数万の強兵とおびただしい兵糧・武器を擁しており、侯景の暴虐行為に辟易していた東土の人は、その刺史の南郡王大連字は仁靖。簡文帝の第五子。もと臨城公。549年〈4〉参照)に期待した。しかし大連は朝夕酒に耽溺してこれに応えようとせず、軍事一切を留異に任せ切りにした。しかし、宋子仙が浙江を渡ると、異は郷里に逃亡してしまった。
 12月、庚寅(9日)考異曰く、典略には『庚子朔』とある。この年の12月は壬午が1日である。よって今は太清紀の記述に従った】、宋子仙・趙伯超・劉神茂ら(梁56侯景伝)が会稽を攻めると、大連は城を棄て、鄱陽に落ちのびた(梁38南郡王大連伝には『備えを設けて来攻を待ち受けたが、留異が内応したため逃亡した』とある)。郷里に逃亡していた異は手勢と共に侯景に降り、大連追撃の手引きをした。大連は東陽の信安県(会稽と鄱陽の間)にて神茂に(梁56侯景伝)捕らえられ、建康に護送された。このとき大連は酷く酔っていたため、捕まったことすら分からなかった。簡文帝は子の大連が捕らえられたのを聞くと、帳を下ろし、袂で顔を隠して密かに涙を流した。
 ここにおいて三呉の地はことごとく景の手に帰した。会稽にいた公侯は南嶺を越えて南方に逃れた《出典不明》
 景は妻子を人質にとってから留異を東陽太守とした。

 己酉(28日)、東魏が并州刺史の彭楽字は興。東魏随一の猛将。549年〈4〉参照)を司徒とし、太保の賀抜仁547年〈2〉参照)を并州刺史とした《魏孝静紀》

 邵陵王綸が九江(尋陽、江州)に到った。尋陽王大心は江州を綸に譲り渡そうとしたが、綸はこれを受けず、更に西に向かった《南53邵陵王綸伝》

○梁44・南54南郡王大連伝
 三年,會稽山賊田領羣聚黨數萬來攻,大連命中兵參軍張彪擊斬之。…〔及臺城沒,援軍散還東揚州。會稽豐沃,糧仗山積,東人懲景苛虐,咸樂為用,而大連恒沈湎于酒。宋子仙攻之,大連棄城走,追及於信安縣,大連猶醉弗之覺。於是三吳悉為賊有。大寶元年,封南郡王。〕景仍遣其將趙伯超、劉神茂來討,大連設備以待之(大連專委部將留異)。會將留異以城應賊,大連棄城走,至信安,為賊所獲。
○陳35留異伝
 留異,東陽長山人也。世為郡著姓。異善自居處,言語醞藉,為鄉里雄豪。多聚惡少,陵侮貧賤,守宰皆患之。梁代為蟹浦戍主,歷晉安、安固二縣令。侯景之亂,還鄉里,召募士卒,東陽郡丞與異有隙,引兵誅之,及其妻子。太守沈巡援臺,讓郡於異,異使兄子超監知郡事,率兵隨巡出都。
 及京城陷,異隨臨城公蕭大連,大連板為司馬,委以軍事。異性殘暴,無遠略,督責大連軍主及以左右私樹威福,眾䘓患之。會景將軍宋子仙濟浙江,異奔還鄉里,尋以其眾降于子仙。是時大連亦趣東陽之信安嶺,欲之鄱陽,異乃為子仙鄉導,令執大連。侯景署異為東陽太守,收其妻子為質。

 ⑴梁44南郡王大連伝では『太清三年(549)に会稽山の山賊の田領軍が数万の兵を率いて東揚州に来攻してくると、中兵参軍の張彪が大連の命を受けてこれを撃破し、領群の首を斬った』という記述がある。侯景と戦おうにも戦えない深刻な状況があった事がここから窺える。

●陳覇先、建康に向かう
 始興太守の陳覇先字は興国。李賁の乱を平定した名将。549年〈5〉参照)が侯景を討たんとして、主帥の杜僧明字は弘照。周文育と並ぶ覇先の猛将。549年〈5〉参照)・胡穎字は方秀)らに二千の兵を与えて大庾嶺に進駐させると共に、郡中の豪傑を募って義挙への参加を求めた。これに侯安都字は成師)・張偲らが応じ、それぞれ千余人を率いて馳せ参じた。
 広州刺史の蕭勃武帝の従弟、呉平侯昺の子。覇先に盟主に担ぎ上げられた。549年〈5〉参照)は鍾休悦を派して覇先にこう言った。
侯景は驍雄で天下無敵〔の難敵〕である。〔景が台城を囲んだ時〕、救援軍は十万にも及び、しかも精強であったが、それでも勝つことができず、羯賊(北方の胡虜。侯景)に志を得さしむる結果に終わってしまった。だのに、君は区々の衆(寡兵)を以てどこに行こうとするつもりなのか! しかも、今、嶺北の王侯たちは互いに相い争い、河東王)・桂陽王)は相い次いで屠戮せられ(誉はまだ存命、慥は3月辺りに繹に殺された。549年〈3〉参照)、邵陵王)・開建侯)は自ら兵を率いて刃を交え、李遷仕高州刺史。台城の救援に赴き、青溪の戦いにて活躍したが結局宋子仙の軍に大敗した。549年〈1〉参照)は当陽(江陵西北の当陽とは恐らく異なる?)に拠って馬や武器を奪っているという。王族でない貴君なら、尚更すぐ淘汰されるのが落ちだろう! ここは始興に留まり、遠くから侯景を威圧するだけにした方がいいだろう。さすれば、貴君は命を全うし、幸せになることができよう。」
 覇先は泣いてこう言った。
「それがしは一介の凡愚でありましたが、国に引き立てられて今の地位にまで至りました。侯景が長江を渡ったと聞いた時、某は〔その恩に報いんとして〕直ちに都の救援に赴こうとしたのですが、不幸、中途にして元(景仲)・蘭()の乱に遭い(549年〈5〉参照)、行くことが叶いませんでした。今、京都は賊の手に落ち、天子は恥辱を蒙られております。なれば、臣下たる者は命を投げ出してその恥辱を雪ぐべきであり、命など惜しんでいてはなりません! 皇族の一員で、しかも刺史の重任を仰せつかっている君侯なら、尚更のこと! 万里を踏破して陛下の恥辱を雪いで然るべきであります! それなのに、ただ傍観しているだけとは、何事ですか! 某を派遣すれば、何をしないよりましなはず。〔それがしが上手く行ったのち、〕追って兵を派すれば、人を感動させることもできましょう。それがしの意志はもう決まっております。卿はそれがしの代わりにこの意志をお伝えください!」
 かくて間道より使者を派して江陵に到らせ、湘東王繹の指揮下に入った《陳武帝紀》

●勇敢仲遵
 西魏の都督三荊等十五州諸軍事の楊忠は下溠城を降したのち、更に南下したが、隨郡太守の桓和の抵抗を受けた。すると忠は諸将にこう言った。
「我らの目的は仲礼を討つことであって、隨郡を陥とすことではない。もしこれと戦えば、時間を浪費し、無駄に兵を疲れさせることになる。ゆえに、ここは隨郡を無視し、仲礼を討つことを優先しようと思う。もし仲礼を討てば、戦わずとも、桓和の方から降ってくるだろう。諸君の意見はどうか?」
 儀同三司の泉仲遵邙山の戦いの際、緒戦で活躍した。543年〈1〉参照)が答えて言った。
「蜂やサソリの毒を軽視すべきではありません。もし桓和を棄てて敵中深く入り、仲礼を捕らえることができたとしても、和が降るかどうかは未知数です。また、もし仲礼に勝つことができなければ、前後に敵を受けることになります。ゆえに、これは危険な方策と言っていいでしょう。ここはまず一気呵成に和を攻め降し、それから後顧の憂いなく仲礼と戦うべきであります。」
 忠はその意見に従った。仲遵は言い出しっぺの責任を取り、先頭に立って城壁に登り、和を捕らえた《周44泉仲遵伝》。以後、忠軍の行く所、降らざる城戍は無かった《周19楊忠伝》

 東魏の司空の潘楽らが五万の兵を率いて梁の司州を襲撃し、刺史の夏侯強を降伏させた。ここにおいて淮南の地は全て東魏の手に帰した《出典不明》


 550年(1)に続く