[西魏:大統十五年 東魏:武定七年 梁:太清三年]



┃新城・呉の抵抗
 侯景の将軍の宋子仙が新城に拠る戴僧逷5月30日参照)を攻囲したが、陥とせなかった。
 丙午(22日)考異曰く、典略には『戊子(4日)』とある。今は太清紀の記述に従った】、海塩の人の陸緝考異曰く、典略〔・梁27陸襄伝〕には『陸黯』とある。今は太清紀・南史(? 梁56侯景伝には『緝』とある)の記述に従った】・戴文挙ら(通鑑は彼らの肩書を『呉盜』とする)が義兵数千(梁56侯景伝では『万余人』)を集めて呉郡を夜襲し、太守の蘇単于5月30日参照)を殺害した。緝らは故郷に逃れてきていた直事中省の陸襄字は師卿。鄱陽内史として鮮于琛の乱を平定した。535年〈2〉参照)を行呉郡事とした。襄はこのとき同じように呉に逃れてきていた前淮南太守の文成侯寧鄱陽王範の弟。淮南姑孰を守備していたが、侯景に敗れて捕らえられた。548年〈3〉参照)を盟主とし、緝と兄の子の陸映公侯景軍が呉郡に迫った際、開城を主張した。549年〈3〉参照)に兵を与えて子仙の軍を防がせた《梁27陸襄伝》

○梁56侯景伝
 郡人陸緝、戴文舉等起兵萬餘人,殺景太守蘇單于,推前淮南太守文成侯寧為主,以拒景。宋子仙聞而擊之,緝等棄城走。景乃分吳郡海鹽、胥浦二縣為武原郡。

┃荊・湘の争い

 梁の湘州刺史の河東王誉字は重孫。昭明太子統の第二子)は馬上にて弩を引けるほど驍勇で、胆気があり、兵をかわいがって彼らから絶大な信頼を得ていた。〔これと対立関係にあった〕使持節・都督荊雍湘司郢寧梁南北秦九州諸軍事・鎮西将軍・荊州刺史の湘東王繹字は世誠、武帝の第七子。549年〈4〉参照)は、諮議参軍の周弘直字は思方。大学者の周弘正〈549年(2)参照〉の弟)を誉のもとに派し、侯景を討つという名目で兵糧と兵士を寄越すように言った。すると誉は答えて言った。
「みなそれぞれ軍府を持っているのに、なんで急に人にそんな事を言うのか!」(繹は都督荊雍司郢寧梁南北秦九州諸軍事なので、求める権利はある
 使者が行き交うこと三度に及んだが、とうとう最後まで誉は督府の令に従わなかった。激怒した繹は、世子の蕭方等字は実相。母が不細工で淫乱だったために繹に疎まれた。549年〈3〉参照)が誉を討伐したいと求めてくるとそれを許し、都督として精兵二万を率いさせ、使持節・督湘郢桂寧成合羅七州諸軍事・鎮南将軍・湘州刺史とした末子の南安侯方矩を護送させた。
 方等は出立する際、親しい者にこう言った。
「私は今回必ず死んでくるつもりだ。ふさわしき場所で死ねるなら本望だ!」

 方矩は字を徳規といい、繹の第四子である。母は袁貴人。若年の頃から学問に勤しみ、容貌や立ち居振る舞いが美しかった。初め南安県侯とされ、繹に従って荊州に赴いた。

○資治通鑑
 湘州刺史河東王譽,驍勇得士心,繹將討侯景,遣使督其糧衆,驍,堅堯翻。使,疏吏翻;下同。譽曰:「各自軍府,何忽隸人!」使者三返,譽不與。方等請討之,繹乃以少子安南侯方矩為湘州刺史,使方等將精卒二萬送之【《考異》曰:《太清紀》云:「初,上遣諮議參軍周弘直往湘州,報河東王譽云:『侯景旣須撲滅,今欲遣荊州兵力,使汝東往,但使諸蕭有一人能匡國難,吾無所惜。』譽對弘直攘袂云:『身始至鎭,百度俱闕,征伐之任,便未能行。』又遣舍人虞預至譽所曰:『周弘直還,知汝必不能自出師,吾今便長驅席卷,還望三湘兵糧以相資給。』譽又拒絕,意色殊憤。上又遣錄事參軍劉瑴往雍,宣旨於岳陽王詧曰:『吾舟艦足乘,唯糧仗闕少。湘州有米,已就譽求;雍部精兵,必能分遣;行留之計,爾自擇之。』詧答曰:『兵馬蕃扞所須,非敢減撤;襄陽形勝之地,豈可蹔虛!』瑴出,謂雍州別駕甄玄成曰:『觀殿下辭色,曾無匡復之意;卿是股肱所寄,可相毗贊邪?』答曰:『樊、沔衝要,皇業所基,人情驍勇,山川險固,君其雅識,寧俟多言!』瑴曰:『本論東討,共征獯逆;義異西伯,非敢聞命。』於是湘、雍二蕃成亂謀矣。是月,上遣世子方等往湘州,具陳軍國之計,誡方等曰:『吾近累遣使往湘,並未相脣齒,今故令汝至彼,必望申吾意,若能得相隨下,可留王沖權知州事。』譽遂不受命,潛圖構逆。」此皆蕭韶為元帝隱惡飾辭耳。今從《梁書》、《南史》】。方等將行,謂所親曰:「是行也,吾必死之;死得其所,吾復奚恨!」【方等不死于救臺城之時而死於伐湘州之日,可謂得其死乎!】
○梁元帝紀
 是月,世祖徵兵於湘州,湘州刺史河東王譽拒不遣。六月丙午,遣世子方等帥眾討譽【[二]「六月」各本作「十月」。按下文出「九月」,十月不應在九月前。南史但云「七月」,不書日。是年七月甲寅朔,無丙午,亦不合。通鑑作「六月丙午」,其月乙酉朔,丙午為二十二日,今據改】。
○梁8愍懐太子方矩伝
〔袁貴人生愍懷太子方矩…〕愍懷太子方矩字德規,世祖第四子也。〔少勤學,美容止。〕初封南安縣侯,隨世祖在荊鎮。太清初持節、督湘郢桂寧成合羅七州諸軍事、鎮南將軍、湘州刺史。
○梁44・南54忠壮(武烈)世子方等伝
 時河東王為湘州刺史,不受督府之令,方等乃乞征之,世祖許焉,〔謂曰:「汝有水厄,深宜慎之。」〕拜為都督,令帥精卒二萬南討。方等臨行,謂所親曰:「吾此段出征,必死無二;死而獲所,吾豈愛生。」
○梁55・南53河東王誉伝
 遣諮議周弘直至譽所,督其糧眾。譽曰:「各自軍府,何忽隷人?」前後使三反,譽並不從。世祖大怒,乃遣世子方等征之。〔…譽幼而驍勇,馬上用弩,兼有膽氣,能撫士卒,甚得眾心。〕


┃臨賀王正徳の死
侯景が長江や建康の内城を難なく突破できたのは、臨賀王正徳の手引きがあったからこそだった。景はその見返りに正徳を皇帝としていた。しかし建康が陥落すると景はがらりと態度を変え、約束に背いて武帝太子綱を殺さなかったうえ、正徳を皇帝の座から引きずり下ろした。〕
 正徳は景が自分を騙したことを怨み、密かに鄱陽王範字は世儀。武帝の弟の子。548年〈5〉参照)に書簡を送り、建康に兵を進めるよう求めた。景はその書簡を途中で手に入れ、正徳の企みを知った。
〔現在、鄱陽王範の弟の文成侯寧が呉郡に拠ると、景はいよいよ正徳を憎むようになった。〕
 癸丑(6月29日)、景は永福省にて正徳を縊り殺した。

 これより前、正徳の妹の長楽公主は陳郡の謝禧に嫁いでいた。正徳は公主と関係を持っており、〔公主を取り戻すため一計を案じた。即ち、〕ある下女を縛って動けなくし、玉釧(玉を繋いで作った腕輪)などきらびやかな装飾品を身に着けさせたのち、これを公主の屋敷ごと焼き払い、焼死体を装飾品と共に埋葬してあたかも公主が死んだかのように見せかけた。それから公主を柳夫人と呼んで妻とし、二人の子どもを産ませた。しかし暫く経つと次第に真実が露見していった。
 のち、正徳は黄門郎の張準の雉媒(狩りの際に囮とするために訓練したキジ)を強奪した。間もなく重雲殿にて浄供(喜捨式?)が催された。この集まりには皇太子以下百官がみな参加した。この時、準は公衆の面前で正徳を罵って言った。
「長楽主の略奪は見逃されたが、私の雉媒はそうはいかんぞ!」
 皇太子(綱の方か?)はこの事が武帝に知られて大事になるのを恐れ、武陵王紀に仲裁をさせた。退出する際、正徳は〔人に雉媒を取りに行かせて〕準に返した。

 現在、梁が正徳によって衰微すると、人々は臨賀郡の名さえ口にしたくなくなった。また、このような童謡が流行った。
「市中にて五虎に出くわすより、臨賀父子に会うほうが嫌だ。」
 正徳が人々に憎み嫌われる様はこんなふうだった。

 また、景は儀同三司の郭元建を尚書僕射・北道行台・総江北諸軍事とし、新秦[2]を鎮守させた。

 また、元羅北魏末の権力者・元叉の弟。梁州と共に梁に降った。536年〈2〉参照)を西秦王に、元景龍南史では『景襲』)を陳留王にするなど、元氏十余人を王とした[3]
 また、柳敬礼を使持節・大都督として大丞相()に隷属させ、軍議に参与させた。

○資治通鑑
 臨賀王正德怨侯景賣己,密書召鄱陽王範,使以兵入;景遮得其書,癸丑,縊殺正德。【《考異》曰:《典略》:「五月,正德死。」今從《太清紀》、《南史》】。景以儀同三司郭元建為尚書僕射、北道行臺、總江北諸軍事,鎭新秦【舊置秦郡於六合。新秦卽秦郡也。簡文帝之廢也,元建自秦郡馳還諫景,此可證也】。封元羅等諸元十餘人皆為王【《考異》曰:《太清紀》在八月二十八日。今從《典略》】。
○梁55・南51臨賀王正徳伝
 正德〔知為賊所賣,深自咎悔,〕有怨言,景聞之,慮其為變(密書與鄱陽嗣王契,以兵入。賊遮得書),矯詔殺之。〔先是,正德妹長樂主適陳郡謝禧,正德姦之,燒主第,縛一婢,加玉釧於手,以金寶附身,聲云主被燒死,檢取婢屍幷金玉葬之。仍與主通,呼為柳夫人,生二子焉。日月稍久,風聲漸露。後黃門郎張準有一雉媒,正德見而奪之。尋會重雲殿為淨供,皇儲以下莫不畢集。準於眾中吒罵曰:「張準雉媒非長樂主,何可略奪!」皇太子恐帝聞之,令武陵王和止之乃休,及出,送雉媒還之。其後梁室傾覆既由正德,百姓至聞臨賀郡名亦不欲道。童謠云:「寧逢五虎入市,不欲見臨賀父子。」其惡之如是。〕
○梁56・南80侯景伝
 六月,景以儀同郭元建為尚書僕射、北道行臺、總江北諸軍事,鎮新秦。…至是,景殺蕭正德於永福省。封元羅為西秦王,元景龍(襲)為陳留王,諸元子弟封王者十餘人。以柳敬(仲)禮為使持節、大都督,隸大丞相,參戎事【[一八]「柳仲禮」梁書作「柳敬禮」。按柳敬禮傳:「留敬禮為質,以為護軍將軍。」梁書侯景傳:「景以柳敬禮為護軍將軍。」則作敬禮是。】。

 [1]考異曰く、典略には『5月、正徳が死んだ』とある。今は太清紀・南史(梁・南侯景伝に『6月』とある)の記述に従った。
 [2]秦郡の事のように思われる。のち、元建が秦郡より景のもとに駆けつけたのがその証左である。
 [3]考異曰く、太清紀は8月28日の事とする。今は典略(侯景伝もそうである)の記述に従った。

┃永安侯確の死
 侯景は永安侯確字は仲正。邵陵王綸の子。文武に優れ、父に従って台城の救援に赴いたが、和議の際に侯景に警戒され、台城に入城させられた。台城が陥落すると景の手中に落ちた。549年〈2〉参照)の衆に勝る膂力を愛し、常に傍に置いた。ある時、景に従って外出した際、鳶が飛んでいるのが見えた。景の従者たちは争ってこれを射たがどれも命中しなかった。しかし確が射ると、鳶は弦の響きに応じてたちまち地に落ちた。従者たちは確を妬み、一様に殺すよう求めた。
 これより前、確の父の邵陵王綸字は世調。武帝の第六子。白昼堂々人を殺害させた事がある。侯景が乱を起こすと建康へ救援に赴いたが、鍾山にて敗れた。549年〈3〉参照は密かに典籤の唐法隆を建康に派し、確に自分のもと(建康の東に逃れていた)に逃げてくるように勧めていた。しかし、確は断ってこう言った。
「侯景は不用心な男でありますゆえ、〔軍勢に頼ることなく〕一人の力でこれを殺すことができます。残念なことにまだその機会を得てはおりませんが、〔もしその機会を得れば、〕私は死を賭して景を殺すつもりでいます。卿は還って、父にこう伝えてください。『たかが一子のことなど忘れてください』と。」《梁29永安侯確伝》
 のち、確は鍾山(建康東北にある山)にて景と共に狩猟を行なう機会を持った。確は景と飛鳥を追う最中に景に向かって弓を引いたが、弦糸が切れたために矢を放つことができなかった。景はこれに気づくと、確を殺した【考異曰く、太清紀には確の死が9月に書かれている。今は典略の記述に従った《南53永安侯確伝》
 
┃侯景、西方に侵攻
 侯景が趙威方前譙州刺史の趙伯超の子。寒山の戦いの際、父が逃げようとする中あくまで戦い続けようとした。武帝が侯景と和議を結んだ時も戦い続けようとしたが、景の策略によって台城に入城させられた。549年〈1〉参照)を豫章太守とした。江州刺史の尋陽王大心字は仁恕。もと当陽公。簡文帝の第二子。549年〈3〉参照)は軍を派してこれを迎え撃ち、威方を捕らえて州の獄舎に繋いだ。〔のち〕威方は脱走して建康に逃げ帰った(南54尋陽王大心伝には『景はしばしば西方に兵を進ませたが、大心の部将の荘鉄がこれを擊破し、景将の趙加婁を捕らえると、侵攻を諦めた』とある)。

○資治通鑑
 侯景以趙威方為豫章太守,江州刺史尋陽王大心遣軍拒之,擒威方,繫州獄,威方逃還建康。
○南54尋陽王大心伝
 初,歷陽太守莊鐵以城降侯景,既而又奉其母來奔,大心以鐵舊將,厚為其禮,軍旅之事,悉以委之,仍以為豫章內史。侯景數遣軍西上寇抄,大心輒令鐵擊破之,〔禽其將趙加婁,〕賊不能進。

┃方等と徐妃の死

 湘東世子方等が麻渓(長沙の近北?)にまで進軍したが、そこで河東王誉率いる七千の兵に迎え撃たれ、敗れて溺死した(享年22。この事が起こったのを、梁元帝紀は『〔6月〕丙午〈22日〉』とし、南史梁元紀では『7月』とする[1]南安侯方矩は残兵を収容して江陵に帰還した。
 湘東王繹は方等が死んだことを聞くと喜び、全く悲しみの色を見せなかった。また、その母の徐妃諱は昭佩。不細工かつ淫乱で、夫の繹と確執状態にあった。549年〈3〉参照)に対する憎しみの情をいよいよ募らせ、自殺するよう迫った。妃は死を免れられないことを悟ると、潔く井戸に飛び込んで死んだ(梁7徐妃伝には『5月』とある)。繹は庶民の礼を以て妃を埋葬し、息子たちが喪に服するのを禁じた。

○資治通鑑
 湘東世子方等軍至麻溪【據《水經注》,麻溪水口在臨湘縣北瀏口戍南】,河東王譽將七千人擊之,方等軍敗,溺死。安南侯方矩收餘衆還江陵,湘東王繹無戚容。繹寵姬王氏,生子方諸。王氏卒,繹疑徐妃為之【疑其毒殺之】,逼令自殺,妃赴井死,葬以庶人禮,不聽諸子制服【史言湘東猜薄】。
○梁・南史梁元帝紀
〔七月,〕遣世子方等帥眾討譽,戰所敗死。
○梁44・南54忠壮(武烈)世子方等伝
 及至麻溪,河東王率軍逆戰,方等擊之,軍敗,遂溺死,時年二十二。世祖聞之〔心喜〕,不以為慼。後追思其才,贈侍中、中軍將軍、揚州刺史。諡曰忠壯世子。并為招魂以哀(葬)之。方等注范曄後漢書,未就。所撰三十國春秋及靜住子(篤靜子),行於世。〔元帝即位,改諡武烈世子。〕
○梁55河東王誉伝
 乃遣世子方等征之,反為譽所敗死。
○南12元帝徐妃伝
 既而貞惠世子方諸母王氏寵愛,未幾而終,元帝歸咎於妃;及方等死,愈見疾。太清三年,遂逼令自殺。妃知不免,乃透井死。帝以屍還徐氏,謂之出妻。葬江陵瓦官寺。帝制金樓子述其淫行。初,妃嫁夕,車至西州,而疾風大起,發屋折木。無何,雪霰交下,帷簾皆白。及長還之日,又大雷震西州聽事兩柱俱碎。帝以為不祥,後果不終婦道。

 [1]方等は台城を救援した時に死なず、湘州を討伐した時に死んだ。果たしてふさわしい場所で死んだと言えるだろうか!

●陳覇先動く

 侯景が広州刺史の元景仲徐州と共に梁に降った元法僧の子。531年〈4〉参照)のもとに使者を派し、こう言った。
「元氏である貴方を皇帝に戴きたく存じます。」
 景仲はこれを信じて景に付き、密かに振遠将軍・西江督護・高要太守・督七郡諸軍事の陳覇先字は興国。時に47歳。交州に起きた李賁の乱を平定した。548年〈2〉参照)を亡き者にしようとした。覇先はこれを事前に察知すると、成州(隋書地理志曰く、梁代に蒼梧郡に成州が置かれた)刺史の王懐明や行台遷郎の殷外臣らと共に密かに準備を進めた。
 秋、7月、甲寅(1日)、覇先は兵を南海(広州の治所)に集め、景仲の兵に檄を飛ばして言った。
「朝廷は元景仲を賊に与した危険分子とみなし、その鎮撫のために曲江侯勃定州刺史。武帝の従父弟の子。545年〈1〉参照)を新たに広州の刺史として派遣なされた。討伐軍はもう朝亭(広州に朝亭寺がある)にまでやってきているぞ(出典不明)。」
 景仲の兵はこれを聞くと、武器や鎧を棄てて逃げ散った。〔敗北を悟った〕景仲は州庁にて首を吊って死んだ《梁39元景仲伝》。覇先は定州刺史の曲江侯勃を迎えて広州刺史とし、広州を鎮守した《梁簡文紀》。任免権を代行していた湘東王繹は〔僻遠の地にまで手が回らず、〕やむなく勃の刺史就任を黙認した《南51蕭勃伝》

◯梁簡文帝紀
 秋七月甲寅,廣州刺史元景仲謀應侯景,西江督護陳霸先起兵攻之,景仲自殺,霸先迎定州刺史蕭勃為刺史。
◯陳武帝紀
 二年冬,侯景寇京師,高祖將率兵赴援,廣州刺史元景仲陰有異志,將圖高祖。高祖知其計,與成州刺史王懷明、行臺選郎殷外臣等密議戒嚴。三年七月,集義兵於南海,馳檄以討景仲。景仲窮蹙,縊于閤下,高祖迎蕭勃鎮廣州。
◯梁39元景仲伝
 侯景作亂,以景仲元氏之族,遣信誘之,許奉為主。景仲乃舉兵,將下應景。會西江督護陳霸先與成州刺史王懷明等起兵攻之,霸先徇其眾曰:「朝廷以元景仲與賊連從,謀危社稷,今使曲江公勃為刺史,鎮撫此州。」眾聞之,皆棄甲而散,景仲乃自縊而死。

●嶺南相い呑併す
 建康陥落後、嶺南(現在の広東省・広西省に相当)の地は分捕り自由の無法地帯と化し、蘭欽梁の名将。544年参照)の弟で前高州(梁代に高涼〈広州の西南〉に置かれた)刺史の蘭裕が始興(広州の北)内史の蕭紹基南史では『昭基』)を攻め、これを下した。裕は監衡州(梁代に含洭〈始興の南〉に置かれた)事の欧陽頠字は靖世。548年〈5〉参照)が兄の欽と親しかった(頠は蘭欽と年少の頃から仲が良く、その征討に常に付き従っていた)ことから、使者を派して味方になるよう説得した。すると頠はこれを拒絶して言った。
「高州兄弟が富貴となれたのは、国家のおかげではないか。その国家がいま危機に陥っているというのに、これを救わず、却って己の勢力拡大に狂奔するとは何事か!」《陳9欧陽頠伝》
 すると蘭裕はその弟の(出典不明蘭京礼らと共に始興など十郡を扇動して兵を集め、頠を攻めた。定州刺史の曲江侯勃はこれを聞くと、覇先に頠を救わせた《陳武帝紀》。覇先は主帥の杜僧明・周文育を先鋒として蘭裕を攻め、始興にて捕らえて斬った【考異曰く、太清紀は『8月』の事とする。今は陳書の記述に従った(陳武帝紀の事だろうが、今回のことをはっきりと7月の事としているわけではない《陳8杜僧明・周文育伝》
 勃は覇先を監始興郡事とし《陳武帝紀》王懐明を衡州刺史、頠を始興内史とした《陳9欧陽頠伝

●王僧弁流血

 方等が敗れた報に接すると湘東王繹は激怒し、竟陵太守の王僧弁字は君才)と東海の人で信州刺史の鮑泉字は潤岳)に兵糧を与え、即刻湘州攻撃に向かうよう命じた。僧弁は自軍の兵が全て集結し終わってから攻撃に向かおうと考え、鮑泉にこう言った。
「私たちは南討を命じられたが、まだ準備が整っていない。君はどうするつもりなのか?」
 泉は言った。
「朝命を受けた我らが兵を率いて戦えば鎧袖一触だ。ぐだぐだ考える必要は無い。」
 僧弁は答えて言った。
「いや、違う。君の言っていることは、文士の常談(ありふれた平凡な話、決まりきった言い草、机上の空論)にしか過ぎない。河東王は年少の頃より軍才があり、その率いる兵もみな驍勇である。そのうえ官軍を破ったばかりゆえ、士気も高い。その彼らが待ち受ける所に飛び込んでいくのは自殺行為だ。一万の精兵でかからねば、撃破することはできぬであろう。我が竟陵の兵士は幾度も実戦の経験を積んでおり、〔精兵といえる。〕その彼らが集結し終わるまで、なんとか期限を延ばせぬものだろうか。私は王に延長の具申をしに行きたいと思っている。どうかご助力願いたい。」
 泉は了解して言った。
「こたびの一挙が成功するかどうかは、今回の説得如何にかかっている〔ということが分かった〕。出立の時期については、君の意見に従うことにする。」
 湘東王繹は風の便りで僧弁の言葉を耳にすると、持ち前の疑い深さが爆発し、僧弁は〔湘州と戦いたくないがために〕わざと出撃を引き延ばそうとしているのだと考えた。かくて、繹は僧弁と会う前から既に怒りを心に孕んでいた。
 僧弁は繹と謁える前、泉にこう言った。
「私が先に発言するから、君はその後に続いて援護してくれ。」
 泉はこれも了解した。繹は僧弁らと会うと、こう質問して言った。
「準備はもう終わったのか? いつ出発するつもりなのか?」
 僧弁がそこで泉に話したことを述べると、繹は激怒し、刀に手をかけ、声を荒らげて言った。
「この臆病者が!」
 繹はそのまま席を立つと、奥の部屋に入った。泉は震え上がり、とうとう何も言えずじまいに終わった。間もなく繹は左右数十人を派し、僧弁を引っ立ててこさせた。僧弁がやってくると、繹はこう言った。
「卿が命に背いて出立せぬのは、賊に内通せんとしているからに他ならぬ。叛逆者には死あるのみだ!」
 僧弁は答えて言った。
「久しく国家の禄を食み、大任を任された身なれば、今日刑に処されても恨みは一つもございませぬ。ただ、最後に老母に会えなかったのが心残りです。」
 繹が手ずから振り下ろした刀は僧弁の左ももに当たり、血は床にまで流れた。僧弁は悶え苦しんで気絶したが、暫くして蘇生の兆しが見えると、直ちに牢獄に入れられた。僧弁の子どもたちも牢獄に入れられた《梁45王僧弁伝》
 僧弁の老母がかんざしや耳飾りを外して赦しを請うと(通鑑では『歩いて繹のもとに赴き、自分の育て方が悪かったせいだと言って泣いて謝った』とある)、繹は勘気を解き、僧弁に良薬を与えた。僧弁はこれによって死の淵から生還することができた《南63王僧弁伝》。僧弁を売った泉は酈寄(前漢の将軍。専権者呂禄と仲が良かったが、周勃らのクーデター計画を知ると、禄に嘘をついて都の外に出した。その間にクーデターは成功し、禄は破滅に追い込まれた)に比せられた《南62鮑泉伝》
 丁卯(14日)出典不明。梁元帝紀には『七月』とだけある〉、鮑泉が単独で湘州の討伐に赴いた【考異曰く、太清紀には『八日』とある。或いは、8日に命を受け、丁卯の日に出立したのかもしれない《梁元帝紀》

●呉郡再び侯景の手に落つ

 これより前(6月22日〈4日?〉)、海塩の人の陸緝陸黯?)・戴文挙らが呉郡を占拠して、直事中省の陸襄字は師卿。鄱陽内史として鮮于琛の乱を平定した)を行呉郡事としていた。襄は前淮南太守の文成侯寧鄱陽王範の弟。淮南姑孰を守備していたが、侯景に敗れて捕らえられた)を盟主とした。
 陸緝らはあちらこちらで狼藉を働いたため、呉の人々から反発を受けていた(出典不明)。銭塘を攻めていた侯景の将軍の宋子仙侯景軍随一の猛将)は転進して呉郡を攻めた。陸緝と襄の兄の子の陸映公侯景軍が呉郡に迫った際、開城を主張した)はこれを松江(呉郡の南にある川)にて防いだが、撃破された。呉郡の守兵たちはこれを聞くとてんでばらばらに逃走した。
 壬戌(9日)、緝らは呉郡を放棄し、〔故郷の〕海塩(呉郡の南)に逃亡した(出典不明)。陸襄は墓の下に隠れたが、その日の夜の内に憤死した(享年70《梁27陸襄伝》。子仙は呉郡を占拠し、再び侯景の支配下に置いた(文成侯寧は逃亡した)。
 戊辰(15日)、侯景は呉郡に呉州を置き、安陸王大春字は仁経。簡文帝の第六子。549年〈4〉参照)をその刺史とした。
 
 庚午(17日)、侍中・司空の南康王会理字は長才。もと南兗州刺史。抵抗することなく侯景に降った。549年〈4〉参照)を兼尚書令、南海王大臨字は仁宣。簡文帝の第四子。台城攻防戦では城南諸軍事とされた。549年〈4〉参照)を揚州刺史、新興王大荘字は仁礼。簡文帝の第十三子)を南徐州刺史とした【考異曰く、太清紀には『八月二十六日』とある。今は典略の記述に従った】。《梁簡文紀》

●鄱陽王範の西走
 これより前、合州(合肥)刺史の鄱陽王範は建康が陥落したのを聞くと戒厳令を発し、建康の救援に赴こうとした。すると幕僚の一人が諌めて言った。
「大王が建康に向かえば、その隙に寿陽にいる魏の騎兵が必ずや合肥を狙うでしょう。もし前方の賊を平らぐこともできず、後方の合肥も陥ちてしまったら、どうなさるおつもりですか! ここは四方の兵が集まるのを待ってから、良将に精鋭を与えて建康の救援に向かわせた方がよろしいでしょう。さすれば、上手く行けば勤王の挙を成し遂げることができ、上手く行かなくても本拠地を守ることができます。」
 範はそこで出陣を取り止めた。
 このとき、東魏が西兗州刺史の李伯穆陜州刺史の李裔〈537年(2)〉参照の弟)を派して合肥を圧迫すると共に《出典不明》魏收字は伯起。魏書の編纂者。544年参照)に作らせた書を送って説得した(恐らく合肥を明け渡せば後は悪いようにはしない的なことを言ったのであろう《魏104自序》。範はそこで東魏の力を借りて侯景を討つことを考え、合州を放棄して東魏に献じ(魏104自序では『□州刺史の崔聖念(528年〈4〉参照)に接収させた』とある)、諮議参軍の劉霊議に子の蕭勤・蕭広出典不明)を人質として鄴に送らせ、東魏の出師を求めた。自らは二万の兵を率いて東関(濡須。合肥と建康の中間)に出て上流の諸軍(湘東王繹ら)を待ち《梁22鄱陽王範伝》鄱陽世子嗣字は長胤。合州刺史の鄱陽王範の子。大兵巨漢で勇猛果断であり、兵士に善く死力を尽くさせることができた。549年〈3〉参照)に千余の兵を与えて安楽柵【範が作った砦】を守備させた。しかし上流の諸軍は来ず(内部抗争中のため)、そうこうしている内に兵糧が乏しくなると、範は自生している苽(マコモ)・稗(ヒエ)・菱(水草。種子が食べられる)・藕(ハス。地下茎がレンコンとして食べられる)を採って餓えを凌いだ。また、勤・広が鄴に着いても《出典不明》、東魏から援軍が来ることはついぞ無かった。かくて進退極まった範は【進もうにも侯景を破るほどの力が無かったために進めず、退こうにも合肥は東魏のものとなっていたために退けなかったのである】長江を遡上して〔上流に向かい、〕樅陽(濡須と江州の中間)に駐屯した《梁22鄱陽王範伝》
 範の部将の裴之悌裴之高の第六弟。549年〈2〉参照)・夏侯威生は姑孰(長江東岸)にまで〔進出していたが、〕侯景が軍(任約?)を派遣してくると、兵と共に降伏した《梁56侯景伝》
 東魏の大将軍の高澄魏収にこう言った。
「今一州を平定できたのは、卿のおかげである。」魏104自序

 これより前、台城が陥落したのち、南安侯駿は捕らえられて任約に礼遇されていた。
 この時(推定)、密かに鄱陽王範と組んで約を襲撃しようとしたが、露見して殺害された。

○南51南安侯駿伝
 城陷,為賊任約所禮。謀召鄱陽嗣王範襲約,反為所害。

 ⑴南安侯駿…字は徳款。武帝の兄の蕭懿の孫。臨汝侯淵猷の子、長沙王韶の弟。文武に優れ、永安侯確に類似していた。超武将軍・南安侯とされた。邵陵王綸と共に台城の救援に赴いて戦ったが、景軍がやや退いたのを逃げたものと見なして追撃してしまい、全軍崩壊のきっかけを作った。のち柳仲礼の軍と合流したが、仲礼が戦おうとしないのを見るとこれを諌めたが聞き入れられなかった。549年(1)参照。

●伊・霍に倣え
 この月、東魏の大将軍の高澄が潁川討伐より帰還して鄴の朝廷に参内し、王思政西魏の将軍。潁川を守備していた)の罪を赦すよう孝静帝元善見。時に26歳)に求めた。
 また、爵位と特別待遇を辞退すると共に、皇太子を立てるよう求めたが、返答は無かった。

 澄はあるとき済陰王暉業三代太武帝の太子晃のひ孫。544年参照)にこう尋ねた。
「最近は何を読んでいるのだ?」
 暉業は答えて言った。
「伊・霍の列伝をよく読んでおります。曹・馬の本紀は読んでおりません。」【伊尹・霍光は〔暗君を退位させて〕幼主を立て〔国家を盛り立てた者たちで〕、曹氏・司馬氏は〔禅譲を行ない、〕国を簒奪した者たちである(高澄に対し、暗に簒奪をするなと言っているのである《魏19済陰王暉業伝》

 この月、梁の九江(江州)に大飢饉が発生した《梁簡文紀》

○魏孝静紀
 秋七月,齊文襄王至自南討,請宥思政之罪。
○北史北斉文襄紀
 七月,文襄朝于鄴,請魏帝立皇太子,復辭爵位殊禮,未報。

●呉興の攻防
 これより前、侯景は行台の劉神茂もと梁の馬頭戍主。548年〈1〉参照)に義興(建康の東南)を攻め陥とさせていた。神茂は次いで呉興の守将の張嵊字は四山。549年〈4〉参照)に説得の使者を派してこう言った。
「早く降れば、太守にするし、爵禄や賞賜も与えるぞ。」
 すると嵊は使者を斬り、軍主の王雄らに迎撃させた。両軍は鱧瀆にて激突し、結果、神茂軍が敗れて退いた。侯景は神茂が敗れたのを聞くと、中軍〔都督〕の侯子鑑に二万の精兵を与えてその助勢をさせた《梁43張嵊伝》
 8月、甲申朔(1日)、子鑑(549年〈4〉参照)らが呉興を攻めた《出典不明》

●荊湘再戦
 これより前(7月14日)、湘東王繹の部将で信州刺史の鮑泉が、湘州の河東王誉の討伐に向かっていた。泉は進軍すると共に書を誉に与えて利害を述べ、降伏すれば罪を赦すことを伝えた。誉はこれに返事をせず、城を補修して徹底抗戦の構えを示した。〔それから〕泉にこう言った。
「敗軍の将がどうしてそう居丈高に物を言えるのか。来るなら来い、御託はいらぬぞ。」
 己亥(16日)出典不明〉、両軍は石槨寺(長沙の北?)にて激突した。結果、誉の軍が敗北した。
 辛丑(18日)出典不明〉、泉が勝ちに乗じて橘洲(長沙の西四里)にまで進んだ。誉はそこで精鋭を全て投入して再戦を挑んだが、再び敗北を喫した。このとき既に日は暮れていたが、〔泉は誉軍の〕疲弊を見て追撃をかけ、大勝を博した。誉軍は三千人が戦死し、溺死した者は一万余人に及んだ。追い詰められた誉は長沙の郭邑(郊外にある住宅地)を焼き、その住民を〔守兵にするために〕城内に駆り立てた。泉はこれを包囲した《梁55河東王誉伝》

◯梁55河東王誉伝
 又令信州刺史鮑泉討譽,并與書陳示禍福,許其遷善。譽不答,修浚城池,為拒守之計;謂鮑泉曰:「敗軍之將,勢豈語勇。欲前即前,無所多說。」泉軍于石槨寺,譽帥眾逆擊之,不利而還。泉進軍于橘洲,譽又盡銳攻之,不剋。會已暮,士卒疲弊,泉因出擊,大敗之,斬首三千級,溺死者萬餘人。譽於是焚長沙郭邑,驅居民於城內,鮑泉度軍圍之。
 
●舌禍
〔東魏の七兵尚書の〕崔㥄はいつも自分の家柄(清河の崔氏)の良さを誇りにし、〔尊大だった。〕蕭祗明少遐らとよく一日ぶっとおしの盛大な宴会を開いたが、その時いつも無言だった。日が暮れた時、少遐が㥄にこう言った。
「驚風白日を飄し、忽然と西山に落とす(突風が太陽を西山に落とした)。」(《箜篌引》曰く、『驚風飄白日,光景馳西流。』
 㥄はこの時も殆ど何も言わず、ただ、「そうか。」とだけ言った。
 㥄は盧元明にこう言った。
「天下の名門は、ただ私とお前だけだ(盧元明は名門・范陽の盧氏の出)。博崔(博陵郡の崔氏。崔暹らがいる)・趙李(趙郡の李氏。李渾らがいる)など、何ほどのものでもない!」
 崔暹はこれを聞くと恨みに思った。
 高歓が亡くなると、㥄は私的な場でこう言った。
「黄頷小児(くちばしの黄色い小僧っ子。高澄)に後継が務まろうか?」
 暹の外兄の李慎がこれを暹に告げ、暹がこれを高澄に伝えると、〔澄は激怒し、〕㥄の参内を禁じた。㥄は〔朝廷の外にある〕道の左側に立って澄を待ち、跪いて許しを請うた。すると、澄は激怒して言った。
「黄頷小児ごときに跪く必要は無い!」
 かくて㥄を鎖に繋ぎ、晋陽に連れて行って発言の有無を問い質したが、㥄は発言を認めようとしなかった。暹は邢子才に証言をさせたが、子才は〔㥄を擁護し、〕言っていないと主張した。㥄は監禁されている部屋の中で子才にこう言った。
「卿は我が意が太丘(陳寔)に在ることをご存知ないのか?」
 子才は部屋を出ると、㥄の子の崔瞻字は彦通。生年519)にこう言った。
「尊公(お父君)は陳元康と婚姻を結びたいと考えておられます。」
 瞻は生まれたばかりの娘を元康の子に嫁がせることを許す代わりに、元康に父の釈放を求めた。元康はそこで高澄にこう言った。
「崔㥄は非常に名声があります。その㥄を、私的な場での失言を理由に殺すのは良くありません。」
 澄は言った。
「殺すのが駄目なら、流罪にするべきだろう。」
 元康は言った。
「㥄が辺境の地に置きますと、亡命する恐れがあります。賢人を敵に与えるような真似をしてはなりません。」
 澄は言った。
「㥄の罪は、季珪(崔琰)の罪と同じだ。ゆえに、季珪と同じ懲役刑に処するのが良いだろうか?」
 元康は言った。
「私は崔琰伝を読むたび、魏武(曹操)の不寛容さを遺憾に思っていました。今もし㥄を懲役刑にして、仕事場にて亡くなったりしたら、後世の人はきっと公が殺したのだと考えて、〔公の不寛容さを遺憾に思うでしょう。〕」
 澄は言った。
「ならどうすればいいのだ?」
 元康は言った。
「崔㥄の罪が万死に値することは、誰でも知っている事です。もしいま公が寬大を用いて厳格を調和し、特別にその罰を軽くしてやれば、公の仁徳はいよいよ明らかとなり、天下の人々は心から公に服することでありましょう。」
 段孝先(11)も㥄が国家の功臣であることを言って擁護したので、そこでやっと㥄を釈放した。㥄が澄に会って礼を述べると、澄はまだ㥄に怒ってこう言った。
「私は不才の身であるのに大任を仰せつかったため、卿に『黄頷小児』と呼ばれてしまった。金石は溶かすことができるが、この言葉を消し去ることは難しいぞ!」

○北斉23・北24崔㥄伝
 㥄每以籍地自矜,〔常與蕭祗、明少遐等高宴終日,獨無言。少遐晚謂㥄曰:「驚風飄白日,忽然落西山。」㥄亦無言,直曰「爾」。〕謂盧元明曰:「天下盛門,唯我與爾,博崔、趙李,何事者哉!」崔暹聞而銜之。高祖葬後,㥄又竊言:「黃頷小身(兒)堪當重任不?」暹外兄李慎以㥄言告暹。暹啟世宗,絕㥄朝謁。㥄要拜道左,世宗發怒曰:「黃頷小兒,何足拜也!」於是鎖㥄赴晉陽而訊之,㥄不伏(服)。暹引刑(邢)子才為證,子才執無此言。㥄在禁,謂子才曰:「卿知我意屬太丘不?」子才出,告㥄子瞻云:「尊公意正應欲結姻於陳元康。」瞻有〔新生〕女,乃許妻元康子,求其父。元康為言之於世宗曰:「崔㥄名望素重,不可以私處言語便以殺之。」世宗曰:「若免其性命,猶當徙之遐裔。」元康曰:「㥄若在邊,或將外叛,以英賢資寇敵,非所宜也。」世宗曰:「既有季珪之罪,還令輸作可乎?」元康曰:「〔元康〕嘗(常)讀崔琰傳,追恨魏武不弘。㥄若在作所而殞,後世豈道公不殺也?」世宗曰:「然則奈何?」元康曰:「崔㥄合死,朝野莫不知之,公誠能以寬濟猛,特輕其罰,則仁德彌著,天下歸心。」〔段孝先亦言㥄勳舊,〕乃舍之。㥄進謁奉謝,世宗猶怒曰:「我雖無堪,忝當大任,被卿名作(以為)黃頷小兒,金石可銷,此言難滅!」
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 ⑴崔㥄...字は長孺(儒)。名門の清河崔氏の出身。非常に立派な容貌をしていて、立ち居振る舞いも見事だった。教養が深く、文才に優れ、口数は少なかった。高歓が北魏の実権を握ると楊愔と共に公文書の作成を任された。ただ性格が傲慢で自尊心が強いという欠点があった。543年(2)参照。
 ⑵蕭祗...字は敬式。梁の武帝の弟の南平王偉の子。定襄侯・北兗州刺史となったが、侯景が都の建康を陥とすと東魏に亡命した。549年(3)参照。
 ⑶明少遐...字は処黙。聘問の使者として東魏に赴いたことがある。青冀二州刺史となったが、侯景が都の建康を陥とすと東魏に亡命した。549年(3)参照。
 ⑷盧元明...字は幼章。名門の范陽盧氏の出身。容姿や立ち居振る舞いが見事だった。教養が深く、文才に優れた。李神俊・王元景・楊愔・崔贍らと風流さで肩を並べた。ただ性格が傲慢で、家柄の高さを自慢するなど自尊心が強い所が欠点だった。537年7月に梁に副使として派遣された。
 ⑸崔暹...字は季倫。名門の博陵崔氏の出身。高澄の腹心。澄の意向を受けて容赦なく勲貴を弾劾した。
 ⑹高歓...字は賀六渾。496~547。爾朱栄の部将だったが、その死後急速に台頭し、爾朱氏を滅ぼして東魏を建国した。
 ⑺李慎...李曒[皦]の子。名門の趙郡李氏の出身。東平太守を務めた。
 ⑻邢子才...邢卲。子才は字。名文家。同じく名文家の魏収と『大邢小魏』と並び称された。
 ⑼陳元康...字は長猷。生年507。孫搴に代わり、高歓父子から非常な信任を受けた。547年(3)参照。
 ⑽崔琰...字は季珪。直言の士。曹操が冀州を陥として三十万の軍勢を得たことを喜ぶと、「住民の慰撫よりも、兵数の調査を優先するとは何事か」と非難した。のち、推挙した人物が曹操におもねる軽薄な上奏文を書いたという非難を受けると、「内容がいいからそう思うだけだ。みな、後になって分かるだろう」と言ったが、これが曹操に自分への非難だと誤解されて懲役刑に処され、のち反省の色が見えないと難癖をつけられて殺された。
 (11)段孝先...本名は韶、字は孝先。高歓の妻の婁昭君の姉の子。知勇兼備の将。韓陵山の戦いでは歓を勇気づけ、邙山の戦いでは賀抜勝に追われた歓を助けた。歓の死後は澄に晋陽の留守を任された。549年(4)参照。


 549年(6)に続く