立冬。
今日から冬ということらしい。
大安だし明日は満月だし
なんとなく節目感。
いいことあるかも。
大吉はともかく
他のはそういうあれだっけか?
そろそろシリーズの続きを・・・
と思うものの
いったん中断すると
同じテンションに戻るには
助走がいりますね。。。
何をどこまで書いたっけ・・・
とちょっと読み返したのですが・・・
うーむ。
続きを書き始める前に
何を書こうとしていたか
整理しよう。
え
えーっと、まずは・・・。
自分はネガティブだな
と思うことがあるかもしれないけど
それは
性格とか、考え方とか、価値観とか
そういう問題じゃないかもよ?
からスタートしたのでした。
日ごろ自分の
性格とか、考え方とか、価値観とか
”そういう人間だから仕方ない”
と思っていることは
何かしらの症状やもしれぬぞ?
諦めるのはまだ早いやもしれぬぞ?
思い込みやもしれぬぞ?
ね?
ね?
ちょっと立ち止まらない??
の思いから書き始めました。
自分では気づかないほど
小さな、だけど無数の傷によって
影響を受けた結果かもしれない。
いわば ”後遺症” のような
ものかもしれない。
だとしたら、
性格とか、考え方とか、価値観とかいう
『動かしがたい何か』
と捉えるのではなく
『回復可能な何か』
と考えられないだろうか。
その可能性を
検討してもらいたいな
そういう思いです。
小さくて無数の傷は
ひとつひとつのインパクトは
気づかれもしないくらい小さいけれど
着実にインパクトを与え続け
いつかすりガラスのように
雲って見えづらくなるとか
金属疲労のように
最後の一押しでポキンと折れるとか
そういうことが起こりうる。
それは
「あの人のあの振る舞い」とか
「あの時のあの出来事」とかいう
原因がはっきり特定できる
比較的単純な構造の傷つき体験とは
また別の構造です。
それは
どこか一つの点に責任が収斂するような
分かりやすさを備えていない分
時に理解しづらく見逃されやすい。
こういった構造で起こる傷つき体験は
いろいろな条件が重なって発生するし
それが長く続くことによって
傷つける側も
傷つく側も
相互に影響しながら
意図せずとも共にその環境を支える
役割りを担ってしまう。
そう簡単に変えられない構造の中で
それぞれが適応し、
環境を維持していく。
それは、長い目で見れば
健全な適応といえないかもしれなくても
差し当たり生き延びるには有用な
適応であることが多い。
この『差し当たりの適応』が
逆境を生き延びた後にも援用されると
どうなるか。
・・・それは
とても、
とても生きづらくなるはず。
戦争中に警戒モードなのは
生き延びるのに有用な適応だけれど
平時にまで警戒モードであれば
敏感すぎる反応や
(心配、不安、イライラ、怒り、落ち込み・・・)
過剰なエネルギー燃焼や
(頑張りすぎ、忙しさ、大きな声、早歩き、短眠・・・)
疑り深い態度などは
(信頼関係を築きづらい、行動しづらい、考えすぎ・・・)
平時をのんびり暮らしている他者と
生活温度が合わなくなり
有用とはいえなくなってしまう。
ふだん、
性格とか、考え方とか、価値観とか
”そういう人間だから仕方ない”
と思い込んでいる自分像とか・・・
そういったもろもろは
その当時は必要だった、
だけど今では有用ではなくなった
戦後の ”後遺症” かもしれないよ?
という所以です。
もちろん、
今が頭では ”戦争中” ではないことは
分かっています。
分かっていても
心がそのように反応してしまう。
もしそうなら、
そのズレを縮めていきましょうよ。
そんなことをね、
このシリーズでは書いていこう
・・・と思っていたのでした。
再開にあたって助走できた・・・かな。
ぼちぼち進んでいきますね。
根気よくお付き合いくださいませ。
ここまでの
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