(78) 大国主の系譜-再考[4] カンサヒの副マスヒトとなったツハモノヌシは大国主である

"(76) 大国主の系譜-再考[2] 沼河比売の父はカンサヒである"において
カンサヒが沼河比売の父であると結論付けました。

ミカサフミによるとカンサヒはサホコチタル国のマスヒトに任命されています。
そして、その副マスヒトであったツハモノヌシは
シラウドとコクミの非道を知りながら放置しているとして
カンサヒをタカマに告発しています。
その後、ツハモノヌシはムハタレの乱を霊還しにより収め、
その功により磯城県の主に封じられ、
『アナシウヲカミ (阿無し結守)』の名を賜り、
『写し日代治人』として穴師に据えられています。
(※参照資料1)

私はカンサヒの副マスヒトとなったツハモノヌシは大国主であると考えます。

(仮説) カンサヒの副マスヒトとなったツハモノヌシは大国主である

ツハモノヌシが据えられた穴師というのは
奈良県桜井市にある穴師坐兵主神社に関係すると考えられています。
穴師坐兵主神社は元は以下の3社だったのが室町時代に合祀されたとのことです。
・穴師坐兵主神社(名神大社)
・巻向坐若御魂神社(式内大社)
・穴師大兵主神社(式内小社)
祭神については諸説あって、はっきりしていないようです。
(※参照資料2)

"(6) ツハモノヌシはスサノオとオオナムチである"において
示したように兵主神社に祀られているのはスサノオか大オオナムチでした。

八千矛神は大国主の別名ですが、

古事記でヌナカワ姫に求婚する際に出てきますが、
八千矛神を祭神とする兵主神社があります。
滋賀県野洲市にある兵主大社です。
社伝「兵主大明神縁起」によれば景行天皇が

穴師坐兵主神社に八千矛神を祀らせたのことです。
(※参照資料3)

「カンサヒの副マスヒトであったツハモノヌシが大国主であった」という仮説が

正しいとすると
大国主は上司であるカンサヒの娘であるヌナカワ姫と結婚したことになります。
上司の娘と結婚するというのはありそうなことです。

ツハモノヌシに告発されたカンサヒはマスヒトを解任されたとのことですが、
ホツマツタエには詳しいことは書かれていません。

"(76) 大国主の系譜-再考[2] 沼河比売の父はカンサヒである"でも紹介したように
奴奈川神社の社伝では
「多布勢(たぶせ)の神沼山に岩隠れした。」
というような曖昧な表現になっています。
(※参照資料4)

気多本宮縁起に大己貴命が大鷲を退治した話が残っています。
この悪鳥の骸を埋めたところを鷲嶽の宮といい、
現在の櫟原北代比古神社の地にあたるとのことです。
(※参照資料5,6)

そして、この大鷲というのがカンサヒだと考えられます。

カンサヒの父のヤソキネがタカミムスビですが、
タカミムスビは名称に"タカ"が付いているからだと思いますが
"鷹"に例えられことが多いようです。
父がタカミムスビであるからカンサヒが鷲に例えられているのだと思います。

タカミムスビと"鷹"の関連について書いた文章はネット上で

多く見ることができますが、
「『偲フ花』英彦山 高木神考:高住神社 :秦ノ千々姫 03」のサイトが

わかりやすかったので参照させて頂きました。
(※参照資料9)

このサイトは高木神についての記述ですが、高木神もタカミムスビとされ、
ホツマツタエでも第七代タカミムスビとされています。

英彦山東麓の霊峰を「鷹巣山」ということですが、
悪鷲の骸を埋めたという鷲嶽の宮の近くにも「鷹の巣山」があります。

鷹の巣山 石川県輪島市三井町仁行

また、「その第一の末社を「鷹栖宮」(高住神社)と呼んでいました。」

とのことですが、
鷲嶽の宮のすぐ近くにも"高洲神社"があります。

高洲神社 石川県輪島市大野町

"高洲"は"こうのす"と読み、
祭神も"久久能智神 外四柱"ということですが、
鎮座している場所は"高洲山(高巣山)"ということで、
やはりタカミムスビと関係があるのではないでしょうか?
"外四柱"が誰であるのかが気になるところです。
(※参照資料8)

奴奈川神社の社伝でも「意支都久辰為命(オキツクシイ)が高志国に降臨し」

とあります。
(※参照資料4)
"(76) 大国主の系譜-再考[2] 沼河比売の父はカンサヒである"において
書いたように意支都久辰為命は六代タカミムスビ(ヤソキネ)であると

考えられますので、
ヤソキネが高志国に来ていたのは確かです。

気多本宮縁起には大蛇退治の話も残っています。
その場所が能登鹿島路の湖水(現・邑知潟)ということです。

出雲風土記に大穴持命が、高志の八口(こしのやぐち)を平定したという話が

残っていますが、
これが気多本宮縁起の大鷲退治と大蛇退治に相当するのだ思います。
(※参照資料7)

大国主は妻であるヌナカワ姫の父であるカンサヒを告発し、

そして退治したことになります。
上司を告発しただけではアナシウヲカミとまでは呼ばれないのではないでしょうか?
義理の父を告発し、退治までしたのだからアナシウヲカミと称えられたのだ

と思います。

実際は、アナシウヲカミ(穴師結尊)という役職(?)が先にあって、
ホツマツタエまたはその元となった話の作者が
アナシウヲカミにかけて阿無し結尊という意味で称えたということだと思いますが。

古事記に大国主の別名として宇都志國玉神()というのが出てきます。
ホツマツタエでも大国主の別名と同じウツシクニタマが出てきます。
この「ウツシクニタマ」というのも
ツハモノヌシが賜ったという『写し日代治人』と同じ意義なのだと思います。

    大国主=ウツシクニタマ=写し日代治人=ツハモノヌシ

その後、ホツマツタエによると大国主はあまりにも強力になったため、
謀反の疑いをかけられ、日隅国 (津軽:アソベのアカル宮) に国替えされます。
古事記や日本書記に書かれている大国主の国譲りです。
ホツマツタエは「満つれば欠くる 理か」と表現されていますが、
これは「アナシウヲカミ(阿無し結尊)」と対になっているのだと考えられます。
ホツマツタエまたはその元となった話の作者は
「アナシウヲカミ(阿無し結尊)」と称えられた大国主でさえ
「満つれば欠くる理」には勝てなかったという展開にしたかったのだと思います。

ミカサフミによると副マスヒトのツハモノヌシはヤソキネの末の弟とされていますが
これはスサノヲと取り違えているのだと思います。
前の方で書いたようにスサノヲもツハモノヌシでした。
ツハモノヌシがヤソキネの弟ということは
ツハモノヌシは豊受大神の子ということになります。

この豊受大神の子にツハモノヌシがいたというホツマツタエの記述は
私説である「スサノヲの父は豊受大神である」を裏付けてくれています。

古事記によるとスサノオの娘であるスセリ姫は大国主の正妻です。

"(77) 大国主の系譜-再考[3] 大国主と沼河比売は、はとこ同士である"の

[系図3]にスサノオとスセリ姫を追加すると次の系図になります。

[系図1]

 豊受大神─────┬ヤソキネ──────カンサヒ───────沼河比売─────┬建御名方
 (五代タカミムスビ)│(六代タカミムスビ) (俾都久辰為)      ||       │
          │(意支都久辰為)               ||       └御穂須須美
          │                      ||
          ├カナサキ──────キサカヒメ──┐    ||
          │                 │    ||
          ├イサナミ──────ヒヨルコ───┴───大国主
          │                     (八千矛神)
          │                     (ツハモノヌシ)
          │                      ||
          └────────須佐之男─────┬───須勢理毘売
                   (ツハモノヌシ)  │   (狭姫)
                            │
                   神大市比売────┘
                   (和久産巣日神)
                   (大気津比賣)


穴師坐兵主神社の祭神については諸説あるようですが、
以下が正しいと思います。

・穴師坐兵主神社    ... スサノオ
・巻向坐若御魂神社 ... 神大市比売(和久産巣日神)
・穴師大兵主神社    ... 大国主

穴師にはもともとスサノオがツハモノヌシとして祀られていて、
その後、大国主をツハモノヌシとして祀るにあたって、
2人のツハモノヌシを区別するために大国主の方を
オオツハモノヌシとして祀ったということではないでしょうか?

このオオというは意宇郡の意宇に関係しているのだと思います。
なぜなら、出雲風土記によると大国主の出雲の本拠地は意宇郡であったと

考えられますから。

結論 

★カンサヒの副マスヒトとなったツハモノヌシは大国主である

 

[参照資料]

※参照資料1. ホツマツタエ/ほつまつたゑ/秀真伝 解読ガイド

1-1 カンサヒ【神狭日】
カンサヒ

神狭日。 
タマキネの子。ヤソキネの弟。ツハモノヌシの兄。 
アメオシヒの父。
タマキネ(トヨケ) の死後、アマテル自らがサホコチタルをしばらく治めた後、
後任として任命されたマスヒト (副マスヒトはツハモノヌシとコクミ) で、
根の国のマスヒト・シラウドと共に西日本の統治に当たった。 
シラウドとコクミの非道を知りながら放置しているとして、
弟のツハモノヌシがタカマに告発している。
この事件によりマスヒトを解任され、代わりに息子のアメオシヒがサホコの新マスヒトとなる。

1-2 ツハモノヌシ・ツワモノヌシ【兵主】
ツハモノヌシ・ツワモノヌシ

兵主。
タマキネの子。ヤソキネ・カンサヒの弟。 
タマキネ(トヨケ)、アマテルの後を受けて、サホコチタルの副マスヒトになる。
シラヒト・コクミの非道を、マスヒトのカンサヒが放置しているとタカマに訴えている。
アマテルがソサノヲの乱行を恐れて結室に隠れたときに、
「真榊の上枝は瓊玉 中つ枝にマフツの鏡 下 和幣 掛け祈らん」と提案する。 
イツナミチのモノマに対して、フツヌシ・ミカツチと共に、初めて霊還しを行った。
その功に対し、磯城県の主に封じられ、『アナシウヲカミ (阿無し結守)』の名を賜り、
『写し日代治人』として穴師に据えられる。
  
1-3 アナシウヲカミ【穴師央尊 (阿無し結尊)】
アナシウヲカミ

穴師結尊 (阿無し結尊)。
阿(=隈) の無い人の道を植えた尊。

ツハモノヌシは、イツナミチのモノマに対して、フツヌシ・ミカツチと共に初めて霊還しを実践する。
アマテルはその功に対し、ツハモノヌシに『アナシウヲカミ (阿無し結尊)』の名を賜り、
『写し日代治人』として穴師(=磯城県) の領主とする。

1-4 ウツシ【現・顕】・ウツシクニ【顕し地・現し地】・ウツシクニタマ【顕国玉・(現し地尊)】・ウツシヒ【写し日/現し日】・ウツシヒカンヲチ【写し日代治人】
ウツシクニタマ

顕国玉 (現し地尊)。
この世 (現象世界・物質世界) での尊者。
オホナムチの尊称。

ウツシヒカンヲチ
写し日代治人。
ツハモノヌシはイツナミチのモノマに対して、フツヌシ・ミカツチと共に初めて霊還しを実践する。
アマテルはその功に対し、ツハモノヌシを磯城県の主に封じ、
『アナシウヲカミ (阿無し結尊)』の名を賜り、『写し日代治人』として現地に据える。

1-5 オホナムチ・オオナムチ【大己貴神・大穴牟遅神・大汝神・大名持神】

『イツモ八重垣 オホナムチ 満つれば欠くる 理か 額を玉垣 内宮と これ九重に 比ぶなり』10文

※参照資料2. 穴師坐兵主神社 - Wikipedia
所在地    奈良県桜井市穴師1065

穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)は、奈良県桜井市にある神社である。
式内社で、旧社格は県社。
元は穴師坐兵主神社(名神大社)、巻向坐若御魂神社(式内大社)、
穴師大兵主神社(式内小社)の3社で、室町時代に合祀された。
現鎮座地は穴師大兵主神社のあった場所である。

元の穴師坐兵主神社は、垂仁天皇2年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、
景行天皇が八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったともいう。

※参照資料3. 兵主大社 - Wikipedia
所在地    滋賀県野洲市五条566
祭神
  主祭神 - 八千矛神(大国主神)
  配祀神 - 手名椎神・足名椎神
  
社伝「兵主大明神縁起」によれば、
景行天皇58年、天皇は皇子・稲背入彦命に命じて大和国穴師
(奈良県桜井市、現・穴師坐兵主神社)に八千矛神を祀らせ、
これを「兵主大神」と称して崇敬した。
近江国・高穴穂宮への遷都に伴い、
稲背入彦命は宮に近い穴太(滋賀県大津市穴太)に社地を定め、遷座した。

※参照資料4: 奴奈川神社(糸魚川市田伏〈たぶせ〉)
 高皇産霊尊(タカミムスヒ)の子・意支都久辰為命(オキツクシイ)が高志国に降臨し,
 その子の俾都久辰為命(ヘツクシイ)とその子の奴奈川姫命がこの地を治めていたが,
 八千矛神(大国主)が来て,ともに国造りし,それが終わるや多布勢(たぶせ)の神沼山に岩隠れした。

※参照資料5. 気多本宮縁起 - 御祓ぐらし 【御祓地域づくり協議会】
気多本宮縁起
~大鷲・大蛇退治、創建の由来、所口の名の由来など~

本社に鎮座する神は三柱で、中央は大己貴命、左右は素戔嗚命と稲田姫命の両尊神である。
先の大鷲退治で大己貴命がおおとり鳳鳥に乗って至った地を今はふげし鳳至と呼び、また鷲を退治なされた所を鷲嶺(鷲嶽八幡神社と呼ばれたこともある。
 櫟原北代比古神社の地・輪島市深見町と思われる)といい、(大鷲を)蔵して治したところ(退治し埋めた所)を重蔵宮(鷲蔵宮)と称号し、大己貴命を奉崇。
 文明18年(1485)の重蔵宮の社記にも気多本宮より分祀された神であるという記述が見える。
 第10代崇神天皇の御代に、能登鹿島路の湖水(現・邑知潟)に毒蛇が棲み、住民らを殺害し、人々の行き来を絶った。
 この時大己貴命は当社(気多本宮)よりその地に赴きなされ、その毒蛇を退治し、遂に羽咋郡竹津浦に垂跡神として現われになった。

※参照資料6. 櫟原北代比古神社 (輪島市)
石川県輪島市深見町40-60乙町

-境内案内より-
この宮は、鷲嶽八幡宮と言われた時期もあり、その後、 明和五年(1768)に社号を現在の櫟原北代比古神 社にもどした。
 鷲嶽という名前は、往古この所に鳳至比古の神が 悪鳥大鷲を退治した時、
 その羽に八幡の文字があっ たので、これを勧請した社ともいい、
 又、この悪鳥の 骸を埋めたことから鷲嶽の宮ともいわれ、
 鷲嶽地区 の後方の背嶽が崩壊して、前面の海を埋めて現在の 社叢が出来たとも言われている。
 
※参照資料7. 意宇郡条:【二】 意宇郡の郷 - 1-出雲国風土記・現代語訳
所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)の大穴持命(おおなむち)が、
高志の八口(こしのやぐち)を平定なさってお帰りになる時

※参照資料8.高洲神社
御祭神 > 久久能智神 外四柱
鎮座地 > 輪島市大野町院内90

※参照資料9.『偲フ花』英彦山 高木神考:高住神社 :秦ノ千々姫 03
(前略)
英彦山の本来の祭神が高木神であり、英彦山の神が「鷹」の姿で現れたということは、「鷹」の神祇が、高木神に由来するということを示しています。
小郡にある「隼鷹神社」の由来でも、高木神は「鷹」の姿で神功皇后の元へ現れたと伝わります。
高木神の神名は、天に届く高い樹を示すとともに猛禽類の「鷹」を意味していました。
そして英彦山周辺から朝倉・久留米に至る邪馬台国想定域の間に「高木神社群」が存在し、「鷹」に由来する地名もまた数多く残っています。
英彦山東麓の豊日別神降臨の地と伝えられる霊峰を「鷹巣山」といい、その第一の末社を「鷹栖宮」(高住神社)と呼んでいました。
また、英彦山がある田川も古くは「鷹羽郡」であったと云います。
(後ろ略)