チュニジアやエジプトにおける反政府闘争もそうだが、大衆暴動は、常に暴力的である。途上国、先進国を問わない。腐敗政府転覆という正義の名分の下に、決まって略奪・放火・私刑という不正義が発生する。そして細部ではその国の文化も露呈する。

1992年4月、ロサンジェルス暴動があった。人種対立が主因で、白人警官対黒人社会、黒人社会対在米韓国人社会の対立であった。
しかも、日本叩きが最高潮の頃で、日米関係は、戦後最悪と言われ、在留邦人・企業への影響も懸念された。その2年前には某閣僚の黒人蔑視発言で全米規模の反日デモがあり、ロサンジェルスのデモが最大であったし、その翌年は真珠湾50周年と湾岸戦争で、日本は卑怯な拝金主義者と非難ゴウゴウであった頃である。

暴動の発端は、ロドニー・キング事件である。暴動の前年、スピード違反の黒人ロドニー・キングを逮捕する際、多数の白人警官が彼を殴打し、その画像が近隣住民のビデオカメラで撮影され、全米で放映された。
暴動発生は、訴えられた白人警官が陪審員により全員無罪と評決された直後に起こった。陪審員には黒人がおらず、白人居住者の多い地区での評決であった。

加えて、黒人地区に店をかまえた韓国系商店が極度に黒人客を警戒し、強盗と勘違いして店から摘み出した客が黒人市長だったり、無実の黒人少女を銃殺したりで、韓国人社会への怨念も横溢していた。

そこで、少年ギャングの登場である。ロサンジェルス郡で当時10万人と言われ、数においても重武装においても警察を凌駕していた。
彼らは、小さなグループに分かれてお互い対立していたのだが、突如団結し、皆で手分けして、韓国人地区を組織的に放火・銃撃・略奪したのである。しかし、その中にあった日系人の商店だけは無傷で残した。

これがロサンジェルス郡全体に拡大していったが、20数万人の日系、在留邦人の被害は、間違えてコカコーラの瓶を投げつけられ、顔に傷を負わされた1件のみであった。
被害が少なかったのは、日頃から黒人社会との融和、協力、支援に努められた現地の邦人の皆様のご努力の賜物であった。全米黒人協会から感謝状も頂いた。

暴力ばかりではなかった。袋叩きにあって瀕死の重傷を負った白人青年を身を挺して救ったのは黒人だった。また、暴動がおさまった翌日には、どこからともなく三々五々あらゆる人種の若者達が集まって、道路の清掃を始めた。これもまた米国なのである。