ミスター霞ヶ関への道
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新聞ってムズカシイ。

新聞を読め、と声高々に言う人っているけど、新聞ってきちんと自分で消化して読むのはけっこう大変な作業なのではないかと思います。

その日その日の出来事を追っていくスピードが重視される情報なので、静止画的というか、これがどういう背景のもと、どういう蓄積を経て、これが今後どのような意味を持っていく出来事なのかというのが立体的、動画的に把握するのは、かなり意識してやらないと難しい気がします。毎日見てることで、なんとなくそのムードを感じ取るという意味ではいい媒体なのかもしれません。

とは言うものの僕が新聞を読まないのは単に億劫がってる側面があると思うので、なるべく自分のフィルターで情報を意識しながらキャッチしようと思うのでありました。

いや、ほんとにムズカシくてよくわからないんですよ、新聞の内容。

タイトルを省みる。

仰々しくも、ミスター霞ヶ関などと銘打ってしまったものの、実際それがどのような人物を指すものなのかもよくわからない。

悪い官僚、なら何となくイメージがつく。

過剰接待、天下り、既得権益擁護、省利省益重視。。

では良い官僚とはその逆を指すのだろうか。

清貧を保ち、新しい市場の参加者を歓迎し、公平公正な政策を行ない、定年後は年金でひっそりと暮らす。

なんだか単純化しすぎな気もするけれど、僕の将来ありたい姿とは、あまり近いとは言えないと思う。

もっと野心、野望を持ったハングリーな奴でいたい。世の中の切った張ったの世界を垣間見てみたい。勝ち組でありたい。アンパイアではなく、プレーヤーでありたい。

公務員は僕には一生は続かない職業かもしれない。

納税の見返りには、何を期待しよう。

国民には3つの義務があるとされる。

子供に教育を受けさせる義務、労働する義務、税を納める義務の3つだ。

なぜこのように3つに分類されるのかはよくわからないけど、前者2つは義務であると同時に権利とも言い換えることができる。

しかし、税を納める権利、とはなかなか言わない。

では、ひとが税を納める義務に対応する権利とでもいうべきものはどのように表されるのだろう。

それはおそらく、公民権というものだと思う。これは辞書的な意味での選挙権や被選挙権といった参政権の他に、広い意味では警察や病院、道路や学校など社会生活上の公的サービスを享受する権利というものも含むとここでは考える。

これらの幅広い公的サービスというのは、市場原理に基づいた経済活動ではなかなか満たされないニーズだとされる。みんなにとって大事だけど、儲からないと。だから政府のような公的部門がみんなを代表して、税というかたちで財源を徴収して、一括的に公平なサービスを行う、とされる。

だから、ここで“納税義務と公民権”というかたちでフェアな対応関係が存在することになるし、その執行する主体である政府は、納税者に対してできるだけフェアになるように行政活動を行わなければならない、ということにもなる。(もうひとつ、税制にはお金持ちと貧乏なひとの資源の再配分という効果もあるのだけど、ここではさておき。)

これが一般的な民間のサービスだったら、コストとパフォーマンスの対価的関係がわかりやすい。払った分が、当然、商品やサービスという形で還元される。しかし、行政活動はなかなかそれが見えにくい。(そもそも行政法的思考からすると、税には公共サービスとの対価的関係は存在しない、という考え方もあるが、それはさておき。)

政府がお金を無駄遣いして、納税された分に対して十分な公民権をペイしてくれないかもしれない。とすると、この納税義務と公民権のフェアな関係の正当性はどうやって担保されるのだろう。

これは、三権分立のチェックアンドバランスの考え方からすれば、行政権に歯止めをかけていくのは、立法権や司法権である。一般の人は司法権にほとんどタッチできないから、やはり行政活動に対するメジャーな歯止めの手段としては立法権、つまり参政権の行使というのが一番身近なものだと思う。

というか、逆に言えば一般的には選挙での一票でしか行政に対する自らの意思表明を行えないのです。

ここが今回の考慮すべきところだと思うのです。

つまり、この国で普通に生活するだけで、所得税や固定資産税、消費税やガソリン税といった様々な納税行為が強制的に課されるにも関わらず、それに対する異議表明は、例えばデモやオンブズマンによるチェックなどもありますが、究極的に実効性があるのは選挙での一票という、非常に限られたものである点です。

あまりに当然と言ってしまえばそれまでなのですが、僕には納税義務という大きな負担と、その見返りたる参政権、異議表明のための権利の小ささがバランスとして釣り合わないような気がするんです。

ちょっとうがった見方をすれば、民主的選挙という装置が存在しているがゆえに、その納税義務がいつのまにか、いつも正統化されていまっているのです。「お前たちが決めた政治家の判断だ。文句あるまい。」と。

ただ、逆に今以上に一般のひとたちに税の使い道を決める裁量権を与えるから自分たちで決めてください、というようなシステムになったとき、はてどうしたものかと、もっと困ったりしそうだな、と思ったりもします。

つまり、国民は税さえ払っていればあまり細かいことを気にせずに・タッチせずに自動的に安全、安心を得られる、というのも行政のひとつのメリットでもあると思うんです。

このように、納税義務とそれに対する異議表明手段のアンバランスさというのは不条理に僕は思うわけですが、かといって税の使途を細かく裁定するような手間や専門複雑性の問題から、その裁量権の行政府への大まかな負託というのもまた、あまり軽視していいものでもなく、これがまた問題を難しくしているのだと思います。

流行とのつきあいかた。

時代が進むにつれて、社会、経済、技術の革新、蓄積が進み、新しいモノ、サービスがどんどん生まれていく。生まれでた新たなものを享受することで、地球規模で、あるいは個々人のレベルで、結果としてメリット、もしくはデメリットを受ける。メリットとなるものはおそらく受け継がれていくであろうし、デメリットとなるものは排除、もしくは改善されていくことだろう。

ただし、一見、その新たに生まれ出たものがメリットになるのかデメリットになるのかよくわからないことが少なくないんじゃないかと思う。というのは、その技術自体は革新的なんだけども、その導入コストや普及の見込みなどトータルで見ると微妙なライン…など、物事には長所短所複雑に交錯しあうのがむしろ自然だろうし、それは時間が淘汰してくれるものではあるかもしれない。

だけども。

経営者や管理職的な立場にあるひとは、新たなものを生み出すための事業計画に関して、判断に十分な時間を準備できないことも多いと思う。この場合、彼はどういう基準で当否を決断すべきか。

その新しいモノなりサービスなりが現在より、いいものかどうかを基準に、逆に言えばその新商品がさして現行よりよいものでもなければ変えずに、という基準、方向性で行くのがベース・モデルなのだと思う。つまり、新商品の<質のよしあし>で判断するということである。

だけど、僕はもうひとつの軸を加えてみる必要があるんじゃないかと思う。

それは、<時代性>という軸である。時代性という言葉には、「質のよしあしよりも、その時代に流行しているという事象」自体に着目する、という意味です。なんだ今更、と思われるかもしれないけど。。

注意したいのは、僕の嫌いな言い回しのひとつに『そんなXXは時代遅れだ。最新のトレンドは○○だ。』というのがあります。嫌いなのは、こういった論調の多くは、主張の理由・根拠が不十分なため、<時代遅れ>というマジックワードに頼ってしまうパターンが多いように感じられるからです。時代遅れと言うならば、従来どのような状況が、どのような原因により、現在、そして将来どのようになっていくから時代遅れなのだ、ということを可及的に説明すべきです。それを満たさない『そんなの時代遅れだよ、これからは○○がトレンド』論・流行至上主義は、説得力がありません。基本的には。

なんでこんなことを言い出したかというと、その新しいモノの質のよしあし如何よりも、その新しいモノを避けること自体に相対的なデメリットが生じる場合が多々あると思うからです。

というか、ここで僕は何を想定してこのようなことを書いているかというと、それは日本のFTA(自由貿易協定)構築に関する現状です。

国家の執る貿易政策パターンには大きく二つの形態があって、保護貿易と自由貿易があります。前者は発展途上国が、後者は先進国が主張する場合が多いのですが、世界的な状況を見ると、現在は後者の自由貿易への流れに向かいつつあります。ただし、自由貿易にもさらに二つのパターンがあって、一度に多数の国と貿易協定を結ぶマルチ型、および一度に一国としか協定を結ばないバイ型があります。マルチ型の典型例はWTO、バイ型の典型例はFTAです。

詳しい話はどうでもいいんですが、というか僕もよく知らないんですが、日本はFTA構築に関して他の国に遅れている現状があります。これは何を意味するか。

結論から言えば、相対的なデメリットを甘受せざるを得ない、というところだと思います。

そもそも、FTAという貿易システム自体が<質のよしあし>的な基準から判断して、質のよいものとは少なくとも僕には理解できません。コンセンサスも果たして得られているのか疑問です。せっかく築いたWTOという共通の土壌を骨抜きにしかねません。

しかし、僕自身、決してFTA自体がよいシステムだとは判断できていないのにも関わらず、僕はFTA構築は必要だと思います。それはなぜか。

<周りがやっているから>です。

周りがやっているのに、自分がやらないとどういうことになるかというと、周りはFTAによってその二国間において貿易障害は無くなり、もちろん貿易取引は盛んになるでしょう。するとそれは同時に、FTAに参加していない国にとっては、相対的に不利になるということです。だから、FTAというシステムの理念自体のぜひはともかく、<周りがやっている>というそのこと自体の影響を看過してはならないと思います。

ということで、結局、FTA問題から一般化できたかは自信がありませんが、流行には流されないポリシーも必要だと思うのですが、流行自体の効果にも留意してみると、流行に流されもせず、逆らいもせず、自然なつきあいかたというものができるのかもしれないなぁ、と思いました。

※タイトル等、一部修正しました。

めんどくさいパワー。

携帯電話の料金プランを変えた。

前月の半額近くになった。前から、プランを見直せば安くなるだろうとは思っていた。

ではなぜ今までむざむざと高い料金を払ってきたのか。

“めんどくさかったから”だ。

自戒を込めつつ、消極的行動要因としての“めんどくさい”のパワーには看過してはならないと思った。

いかに多機能のサービス、いかに安価なサービスを提供しようとしても、<一度慣れてしまったものから離れるのが億劫だ>ラインを突破しなければ、情報通、新し物好き、吝嗇家以上の顧客の開拓は望めないのかもしれない。

多くの企業、多くの官公庁が。

内定式だった。

寝不足のせいか、ひどく疲れていた。

これこれの態度を取れば、こういう風になる、ということを頭でわかっていることと、実際そのような態度を振舞うことができるのとは、大きく異なることを再確認してしまった。

日本社会主義国の変節。

日本は最も成功した社会主義国家だと揶揄なり自嘲なりされることがある。

雇用においては終身雇用、年功序列、金融においては護送船団方式、許認可行政で特定産業、特定企業の保護を厚くすることで、保護主義的な、<競争>を認めない環境で、自国の発展を行った、という意味においてである。

しかし――
今は、<競争>の時代、と言われる。
業界は能力別報酬を次々に導入し、銀行は統廃合を繰り返し、政府は基本的には自由主義を標榜している。

この<保護>主義から<競争>主義への変化は何を意味するか。

保護主義において、日本の多くの弱小産業が全体としてベースアップ、基礎的体力を持つことができた。逆に言えば、どんな経営をしていても、たいていは救われた。

競争主義は、成熟してきた日本の産業においては比較優位の観点から当然、主張されるものであると思うが、これによって不健全経営は市場からの退出を求められる。競争主義の生まれた理由は、日本の成熟化ともうひとつ、不況があると思う。

不況が、それぞれの企業が自らの経営の欠陥を懸命に探すきっかけを与えてくれたのだ。

不況の時代に生まれ育ってよかった。

本当に強いものが、強いと認められる時代だからだ。

村岡元長官の発言の孕む問題。

村岡兼造元官房長官は、日歯連の一億円不正経理事件で、「私は政治資金報告書など一度も見たことがない。私は無実だ。」と息を荒げて憤激していた。

このコメントを受けてのマスコミのこれからの追及姿勢の方向性は、本当に村岡氏が政治資金報告書の扱いにコミットしていなかったか、ということに行くのだろう。

僕が問題に思うのは、村岡氏のような自民党の重鎮が、「政治資金報告書など一度も見たことがない。」なんてことをあっけらかんに主張する点である。

むしろこれこそ恥ずべき行為ではないか。政治家であれば、政治資金は政治活動に欠かせないものであろう。だとしたら、誰からいくら献金を受けたか、に関して当然知っているはずだろうし、逆に何も知らないとすれば、それは献金したひとへ不誠実ではなかろうか。

政治資金報告書にコミットしていないという彼の主張は、不正経理にコミットしていた(とすれば、その)事実よりも、むしろ彼の築き上げてきた政治家としてのスタンスというものを著しく損ねてしまうような気がするのは僕だけだろうか。




よいマイナス思考と悪いプラス思考。

マイナス思考はダメだ、プラス思考を心がけよ、と言うのが一般的に考えられていることだろうと思う。

でも、ちょっとこの考えには注意したいと思う。

例えば、何かの案件で、トラブルが発生してうまくいかなかったとしよう。そのとき、プラス思考で考えるとすれば、ともすれば「色々忙しかったし、自分だけが悪いわけじゃないし、今回はしかたがない。」となってしまうかもしれない。逆に、マイナス思考によって「今回の失敗には必ず自分のミスが原因となっているはずだ。自分は元々ダメな人間だから、もっと細心の注意を払うべきだったはずだ。」と一歩立ち止まって、慎重に自省を促すことができるかもしれない。

要するに、自分の失敗を自己弁護するためのプラス思考は控えたい、ということだ。それは本来のプラス思考ではなく、単なる言い訳に過ぎない。

プラス思考とマイナス思考、うまく使い分けることができるようになりたい。

批判カタルシス効果。

物事の一面しか見ない批判は嫌いだ。

そういう批判はたいてい、批判によって物事を改善しようとする建設的なものではなく、批判自体が自己目的化した批判のための批判だからだ。自己満足なのだ。

ある事象が批判の対象とされているとき、その事象のデメリットを挙証するのが一般的な批判のあり方だとされている気がする。

しかし、その問題を改善しようとする批判は、問題があるとされる事象のメリットにも目を向けなければならないはずだ。なぜなら、その問題があるとされる事象が起こり、続いてきたのは、それなりのメリットがあるからこそ、その事象は成立、継続してきたはずだからである。

つまり、今こういう問題のある事象がある。これにはこういうメリット及びデメリットが存在する。この両者を比較考量するに、デメリットのほうがメリットを上回る。よって、この問題は改善の余地がある。というように、両者の側面に配慮した批判であって初めて、説得力を持つようになる、と私は思うのである。

しかし、言ってみただけ、と思えるような批判のいかに多いことか。

<批判のための批判>自体に、あるていどの需要があってのことなのかもしれない。自分が不満を(潜在的にでも)持っているとき、同じようなことを主張してくれるひとがいると、共感というカタルシス効果があるからなのだろうか。