流行とのつきあいかた。 | ミスター霞ヶ関への道

流行とのつきあいかた。

時代が進むにつれて、社会、経済、技術の革新、蓄積が進み、新しいモノ、サービスがどんどん生まれていく。生まれでた新たなものを享受することで、地球規模で、あるいは個々人のレベルで、結果としてメリット、もしくはデメリットを受ける。メリットとなるものはおそらく受け継がれていくであろうし、デメリットとなるものは排除、もしくは改善されていくことだろう。

ただし、一見、その新たに生まれ出たものがメリットになるのかデメリットになるのかよくわからないことが少なくないんじゃないかと思う。というのは、その技術自体は革新的なんだけども、その導入コストや普及の見込みなどトータルで見ると微妙なライン…など、物事には長所短所複雑に交錯しあうのがむしろ自然だろうし、それは時間が淘汰してくれるものではあるかもしれない。

だけども。

経営者や管理職的な立場にあるひとは、新たなものを生み出すための事業計画に関して、判断に十分な時間を準備できないことも多いと思う。この場合、彼はどういう基準で当否を決断すべきか。

その新しいモノなりサービスなりが現在より、いいものかどうかを基準に、逆に言えばその新商品がさして現行よりよいものでもなければ変えずに、という基準、方向性で行くのがベース・モデルなのだと思う。つまり、新商品の<質のよしあし>で判断するということである。

だけど、僕はもうひとつの軸を加えてみる必要があるんじゃないかと思う。

それは、<時代性>という軸である。時代性という言葉には、「質のよしあしよりも、その時代に流行しているという事象」自体に着目する、という意味です。なんだ今更、と思われるかもしれないけど。。

注意したいのは、僕の嫌いな言い回しのひとつに『そんなXXは時代遅れだ。最新のトレンドは○○だ。』というのがあります。嫌いなのは、こういった論調の多くは、主張の理由・根拠が不十分なため、<時代遅れ>というマジックワードに頼ってしまうパターンが多いように感じられるからです。時代遅れと言うならば、従来どのような状況が、どのような原因により、現在、そして将来どのようになっていくから時代遅れなのだ、ということを可及的に説明すべきです。それを満たさない『そんなの時代遅れだよ、これからは○○がトレンド』論・流行至上主義は、説得力がありません。基本的には。

なんでこんなことを言い出したかというと、その新しいモノの質のよしあし如何よりも、その新しいモノを避けること自体に相対的なデメリットが生じる場合が多々あると思うからです。

というか、ここで僕は何を想定してこのようなことを書いているかというと、それは日本のFTA(自由貿易協定)構築に関する現状です。

国家の執る貿易政策パターンには大きく二つの形態があって、保護貿易と自由貿易があります。前者は発展途上国が、後者は先進国が主張する場合が多いのですが、世界的な状況を見ると、現在は後者の自由貿易への流れに向かいつつあります。ただし、自由貿易にもさらに二つのパターンがあって、一度に多数の国と貿易協定を結ぶマルチ型、および一度に一国としか協定を結ばないバイ型があります。マルチ型の典型例はWTO、バイ型の典型例はFTAです。

詳しい話はどうでもいいんですが、というか僕もよく知らないんですが、日本はFTA構築に関して他の国に遅れている現状があります。これは何を意味するか。

結論から言えば、相対的なデメリットを甘受せざるを得ない、というところだと思います。

そもそも、FTAという貿易システム自体が<質のよしあし>的な基準から判断して、質のよいものとは少なくとも僕には理解できません。コンセンサスも果たして得られているのか疑問です。せっかく築いたWTOという共通の土壌を骨抜きにしかねません。

しかし、僕自身、決してFTA自体がよいシステムだとは判断できていないのにも関わらず、僕はFTA構築は必要だと思います。それはなぜか。

<周りがやっているから>です。

周りがやっているのに、自分がやらないとどういうことになるかというと、周りはFTAによってその二国間において貿易障害は無くなり、もちろん貿易取引は盛んになるでしょう。するとそれは同時に、FTAに参加していない国にとっては、相対的に不利になるということです。だから、FTAというシステムの理念自体のぜひはともかく、<周りがやっている>というそのこと自体の影響を看過してはならないと思います。

ということで、結局、FTA問題から一般化できたかは自信がありませんが、流行には流されないポリシーも必要だと思うのですが、流行自体の効果にも留意してみると、流行に流されもせず、逆らいもせず、自然なつきあいかたというものができるのかもしれないなぁ、と思いました。

※タイトル等、一部修正しました。