『荘子』外篇「馬蹄篇」の最後に出てくる寓話を

取り挙げてみたい。


これは四字熟語「含哺鼓腹(がんぽこふく)の出典

となっている話です。



含哺鼓腹の意味は、

人々が豊かな生活をして、平和な世の中を楽しむ

こと。

類義語に「鼓腹撃壌」があります。


「含哺(がんぽ)」は、口に食べ物を含むこと。

「鼓腹(こふく)」は、腹鼓を打つこと。

食に満ち足りているさま。また、平和な世の姿

表す語。




原文は『新釈漢文大系 荘子 下』市川安司・遠藤

哲夫著(明治書院)より引用。

意訳は同著書の他、『荘子・外篇』金谷治著

(岩波文庫)、『荘子 寓話選』千葉宗雄著(竹井

出版)を一部引用・参考にさせていただきながら

私なりの解釈も併記しています。









夫赫胥氏之時民居不知所爲行不知所之

含哺而熙鼓腹而遊民能已此矣

及至聖人屈折禮樂以匡天下之形縣跂仁義

以慰天下之心

而民乃始踶跂好知爭歸於利不可止也

此亦聖人之過也




太古の帝王赫胥(かくしょ)氏の時代、

民は日常なすべきことを知らず、

外に出かけても行き先がわからない。



日常の中に“社会”という枠組みが無い時代。

自分(人間)と自然との境界線(区別)は無く、

“自然と対峙する”、“自然と一体化する”といった

不自然な見方も持っていない。

“平和”という言葉もその意識すらも無かった頃。


そもそも民に“仕事”や“労働”という発想は無く、

お金や地位や権力、信仰、契約、所有、 … … …

そういった概念自体存在しない。

無理に自然に手を加えることはせず、

建前とか本音とかいうおかしな処世術も知らず、

あるがまま、素顔のまま、

みな自分にできることや得意なことを活かして

生活を補い合っていた。ごく自然に。


“定められた時間や距離”の無い暮らし。

一分一秒という窮屈な観念に振り回されることは

なく、わざわざ遠く離れた場所へ出かける用事も

ない。急ぐ必要もないし、“煩わしい予定”も一切

なかった。




食べたいときに食べたいものを食べて満足し、

腹つづみを鼓って遊んでいた。

民のやることはこれくらいのものであった。



お腹が空いたら食べて、眠たくなったら寝て、

起きたいときに起きて。

“自由・不自由”を知らない“真の自由”の中で、

自分のリズムにしたがい日々を過ごしていた。

相手を干渉することなく、互いを尊重し合って。

それでよかった。




それが聖人の時代になると、

礼楽に身をかがめて世の風俗を正そうと人々の

姿かたちを無理にととのえようとしたり、

仁義を高く掲げて世の人の心を無理に和らげよう

とした



ところが、後世聖人とかいうわけの分からない

ものが現れると、

世の人の身ぶり手ぶりや言葉遣いを“正そう”と

したり、

あるいは仁や義によって人々の心をつなぎとめ、

それで歓心を買おうと、なにやかやと作為をする

ようになった。


“正しい”がつくられたことで“間違い”が生まれ、

文言や形式、数といった表面的なものばかりに

とらわれるようになり、

その結果、世に“ウソ”が蔓延っていった。




そのために、

純朴な民ははじめてあくせく努めることを覚え、

かえって心をすり減らすことになった。

力を尽くして知識を追い求めるようになり、

ひいては、しだいに競争心をつのらせて利欲や

名誉欲にはしるようになった。

もはやその勢いは、どうにも止めることができ

なくなってしまった。

これは聖人のあやまちにほかならない。



“自然”に“人為”が混じりだした。


“自ずから然り”に沿った在りかたから遠退いて

しまったことで、人は自然を“自然”として強く

意識するようになり、

自分と自然を区別しはじめた。


“社会”がつくられ…  生活が階層化され…  貧富の

差が生まれ…  優劣を論じ合うようになった。

そして、偏った区別が差別を生み、差別は争いを

誘発した。


いつしか世は巧言令色で溢れかえり、

心は儲けの計算に疲弊し、

複雑怪奇な人間関係に悩まされて ・ ・ ・









荘子は具体的な寓話を用いて論を展開します。



“一切をあるがままに受け容れる”


“自ずから然りに沿った在りかた”




紀元前からこうしたことが言われています。

ということは、もっと昔から同じようなことが

言われ続けていて…


栄枯盛衰。

人の文化(かたち)は変化しながらも、

やはり歴史は繰り返す。




“平和”が叫ばれるのは、“争い”があるから。


世に“争い”があるかぎり、

“平和”という言葉は無くならない。


真の平和は、

“平和”という言葉の無い世界。





数が増えるほど空気は淀む。

決め事が増えるほど質はおちる。


「正そう」とする人間ほど厄介な存在はいない。

彼らはルールをつくり(ルールによって)人々を

矯正し、統制をとろうと目論む。

そうした“勝手な善意の作為”は大迷惑、と。


荘子が言いたいのは、

仁義が現れたから道徳が廃れたということです。





最近では

「丁寧な暮らし」といったよくわからない言葉を

耳にしますが…

これほど気持ちの悪い言葉はありませんね。




“大道廃れて仁義あり”





ここまでお読みいただき有難うございました。



甲辰立夏前二日

KANAME



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