まずはサラエヴォに残るオスマン帝国時代の香りを感じる散策に。
サラエヴォ観光の中心である、オスマン帝国時代に作られた商業地区バシュ・チャルシヤBaščaršijaへ。
1463年に、ボスニア貴族出身で、オスマン帝国のボスニア総督であったイーサ・ベク・イシャコヴィチIsa-Beg Ishakovićが、商店街と隊商宿、モスクなどを建てたのが始まり。
バシュ・チャルシヤとは、トルコ語で「主要な商店街」を意味するbaş çarşıバシュ・チャルシュから来ています。
いまでも広場を中心に、モスクや隊商宿、マドラサ、小さな木造の商店が連なって、まるでオスマン帝国時代にタイムスリップしたみたい。
売られているものも、銅のお盆に、トルココーヒーのセットに、二段式のチャイ用ポットに、キリムだったり毛糸の靴下だったり…トルコと完全に一緒!
れっきとしたボスニアの伝統工芸なのですが…トルコから来た我々には、まったくもって物珍しさゼロ!
ヨーロッパからの旅人にはかなりエキゾチックに映るんでしょうね
広場に建つのは、18世紀に建てられ、19世紀に移築されたセビリsebilj。
トルコ語でいうセビルsebilのことで、オスマン帝国時代に、飲料水や祝祭日のシェルベットなどを市民に振る舞った慈善施設。
現代トルコではウォーターサーバーのこともセビルと言いますが。笑
公共の水飲み場チェシメと違って、内部に配布係がいました。
モスク🕌はいくもあったけど、コロナ対策か?入れないようになっている所が多くて、外から見るのみ。
この国のモスクは、ボスニア紛争の時にセルビア系勢力から徹底的な破壊攻撃💣を受けたので、ほとんどが近年になってから修復されたもの。
しかも、修復費用を提供した国の嗜好に合わせて、本来の姿とは違ってしまったものもあるらしい…。
ガーズィ・ヒュスレヴ・ベグ・モスクのシャドゥルヴァン(沐浴用手水舎)
上の写真のモスクのほか、周辺のマドラサや隊商宿、ハマムに名前を冠しているガーズィ・ヒュスレヴ・ベグ Gazi Hüsrev Begは、都市整備を進めてサラエヴォを発展させ、今の街の形を作った人。
ガーズィ・ヒュスレヴ・ベグ・マドラサ(神学校)。ここもコロナ対策か?中に入れませんでした。
この方も16世紀のオスマン帝国のボスニア総督ですが、父親はボスニア貴族、母親はなんとスルタン・バヤズィット2世の娘セルチュク・ハトゥンだそうで、スルタンの孫!
同じくバヤズィット2世の孫にあたるスルタン・スレイマンの最も信頼する家臣の1人だったとか。イトコですもんね。
ガーズィ・ヒュスレヴ・ベグ・ハマム。博物館だそうですが閉鎖してました
オスマン帝国はバルカン半島の人々を、男子は軍隊や役人用👳、女子はハーレム用👰に徴用しましたが、逆にバルカンの支配者に降嫁して親族関係が結ばれたり、双方向の結びつきがあったのですねぇ…。🤔
しかし私がスルタンの娘だったら帝都コンスタンティニエ🏙から、地方都市サライオヴァ⛰に嫁ぐのヤダなぁ…😅姫君も大変ね。
17世紀初頭に建てられたという時計台は、文字がアラビア語数字
ガーズィ・ヒュスレヴ・ベクのベズィスタン(屋根つき商店街)Gazi Husrev-begov bezistanは、今ではお土産屋街になっていて、トルコのエジプシャンバザールのような雰囲気。
トルコ語ではベデスタンbedestanになりますが。
これに隣接して、石造りの隊商宿タシュリ・ハンTašlihanも彼によって作られ、この地域で最大のハンだったそうですが、19世紀の火事で廃墟になっています。
ベズィスタンはもう1つ、スルタン・スレイマンの宰相で、クロアチア出身のリュステム・パシャが建てた、ブルサ・ベズィスタンBrusa bezistanと呼ばれるものがあり、中は博物館になっています。
当時は、トルコの絹の産地ブルサの絹製品が売られていたそうです。今でいうアンテナショップ?笑
ブルサのスペルはBursaですが、ここではBrusaとuの位置がズレます。
バシュ・チャルシヤの奥まで進むと、道に「Sarajevo meeting of cultures」と書かれていて、
このラインから東はバシュ・チャルシヤなどトルコ風の街並み、西はオーストリア・ハンガリー帝国時代の洋風の街並みに、ガラッと変わります。
というわけで、次の記事では洋風なサラエヴォについて書きますね!
…と、来るかと思わせて、
まだオスマン帝国の面影さがしが続きます‼️
余談ですが、何日目かに雇ったドライバーが、このガーズィ・ヒュスレヴ・ベクを、「100%ボスニア人で、オスマン帝国に対抗した人」とメチャクチャな説明してたHüseyın Paşaとごっちゃになってたのかと思うが。テキトーな事言わんでくれぃ。