金角湾のど真ん中に作られた、メトロのハリチ駅から歩くたび、いつも気になっていた建物がありまして…。
見た目は明らかに正教会風なんだけど、モスクかしら教会かしら?中はどんな感じかしら?と思っていたら、オットが場所を知っていました。
しかも場所、我が家がよく行くヴァレンス水道橋沿いの東トルコ市場のすぐそば。なんでもっと早く連れて来なかったんだよ〜!
建物の正体は、モッラ・ゼイレク・モスクMolla Zeyrek Camii。
やはりビザンティン時代の教会が、コンスタンティノープルを陥落させたメフメット2世の時代にモスク🕌に変えられたものでした。
厳かな外観に期待はいやが上にも高まりますが…
あ…れ、なんか、中は想像に反してバロック調?
淡い色づかいで清潔感あるけれども、ビザンティン時代から残ってる感は皆無だなぁ…。
そしていつものことですが、修復されすぎて新築感✨が漂いすぎているのも、ちょっと味気ない。
後方には、スルタンが礼拝するための個室hünkâr mahfiliが残っています。
むむ?!なんだこの、手描き🎨の「なんちゃって大理石」風な壁は…!
この建物、12世紀前半にビザンティン帝国の皇后が、パントクラトール(全能者)ハリストス修道院の併設として南側に教会を建て、
後に皇帝が北にもう1つ教会を建て、
この2つをつなげるために、中間にもう1つ教会を作ったので、こういう複合的な形になったそう。
この修道院、神学校🎓や病院🏥などもあり、ビザンティン朝末期に医師長👨⚕️を務めたのはなんと敵方のトルコ人だったとか。やぱその時代、医学はイスラームが優っていたか
教会の内部は、ヴェネツィアなどヨーロッパ各地から取り寄せた資材で作られ、壁はアヤソフィアやカーリエと同じく色の違う大理石パネルが貼られ、上部はモザイクに覆われていたそうです。
モスクの絨毯で見えないけど床はこんならしい。当時の豪華さが偲ばれる。
コンスタンティノープルの陥落後☪️、修道院はマドラサ(イスラーム神学校)📖として使われ、教会は学習室や礼拝所として使われたそう。
「ゼイレク(賢い、理解のあるの意)」と呼ばれていたマドラサの教授が、モスクの名前の由来だそう。
※モッラの方は、イスラーム用語のムッラー。宗教指導者のこと
15世紀にファーティヒ・ジャーミーのキュッリエ(複合宗教施設群)が作られると、モッラ・ゼイレクのマドラサは不要になり、教会部分はモスク🕌になりました。
ファーティヒ・ジャーミーのキュッリエ
メッカの方向を表すミフラーブとミナレットをつけただけで、建物はビザンティン時代の姿のまま使われてたそうなんですが、
1766年の地震で、大理石パネルとモザイクの装飾はほとんど崩壊してしまったそう…残念。
現存するミナレットはメフメット2世時代の煉瓦製のものとか
地震のあとにされた大修復の際、内装は18世紀当時に流行っていたオスマン・バロック調の壁画で彩られましたが、
下方の壁は、もともとのビザンティン時代のオリジナルを再現するため、大理石を真似た手描き🎨の装飾をほどこしたんだそうです。
これは、オスマン帝国の異なる時代・宗教・民族の文化への敬意🙏と理解されているそうですよ!!
えっ?てことは、ここ数年の修復でピカピカに塗られた「なんちゃって大理石風」の壁画は、この18世紀の姿を忠実に再現したものだったんですね!! うむむ…そっかぁ。
しかも、同じ18世紀に作られたミンバル(説教台)は、ビザンティン時代の大理石パネルのかけらを集めて作られていました。当時のものがこういう形で残してあるっていいですね。
しかし、ここらへんはさすがにザツすぎない?なんか私でも描けできそうな…汗
…と、思ったら、これは19世紀の修復で追加されたもので、私が参考にするトルコ宗教基金のイスラーム事典サイトでも、「あまり上手とは言えない」と書かれています。で、ですよね…
中はすっかり18世紀オスマン・トルコの、ヨーロッパ趣味なモスクになっていたモッラ・ゼイレク・モスクですが…
18世紀といえばヨーロッッパではア・ラ・トゥルク(トルコ風)が流行しましたが、トルコではヨーロッパ風が流行っていたのですよね…
外観と内部がまったく違う時代・まったく違う様式になっている建物…
っていうのも、長い歴史を持ち様々な帝国の首都となった都市ならではで、面白いんじゃないでしょうか?!
このモスクのすぐ向かいには、自治体が運営している絶景カフェがありました。
後ろにモッラ・ゼイレク、前に金角湾を臨みながら飲むチャイはオツですな。。。
ビル群の中に我が家も見えましたよー