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2016/3/31
私の作る料理の中でオットがとくに好きなのは餃子。
手作りの薄い皮に、ニラや長ネギ、白菜の刻んだのをこれでもかと入れて、肉よりも香味が口いっぱいに広がる我が家の味。
オット好みに羊の挽肉を使うけど、香味野菜を沢山入れるのは大叔母の餃子の影響なのだ。
祖父母の家族は、どちらも台湾で生まれ育った日本人家庭。
戦争中の日本の版図を象徴するように、台湾で育った大叔母(祖父の姉)は、成人すると満州国の、ある高官(満州人)のもとへ嫁ぐことになった。
結婚生活の最初は幸せなもので、ライラックの咲き乱れる庭のある屋敷で、大叔母は絹のチャイナドレスと貂の毛皮を纏って暮らしていた。
満州の言葉も覚えて、高官の妻として家の中を取り仕切っていた大叔母だったが、日本人女性としてこれだけは譲れないとして、トイレの掃除と自分の下着の洗濯だけは、決して沢山いる女中にはまかせなかったという。
召使いにすべての身の回りの世話をさせて当然だった満州の上流社会で、大叔母のそういった大和撫子的振る舞いは驚かれたと言う。
しかし戦争が終わると、大陸では親日派と日本人を敵視する勢力が台頭するようになる。
日本人狩りがすすむ中、大叔母は屋敷から僅かな荷物だけを持って逃げ出さねばならなくなった。
最終的に大叔母が日本にたどり着いたのは終戦から七年後。
台湾から日本に引き上げていた家族は、こんなに時間が経つ中で、大叔母が満州で死んだものと思っていたらしい。
大叔母が一足先に逃亡している七年の最中、夫であった満州人高官が、親日のかどで責められ処刑されたいうことは、後に知った。
戦後の何も無い時代、大叔母はやっとのことで都内に小さな店を手に入れ、大陸時代に覚えたラーメンと餃子の店を始めた。
店の名前は「丁花(ティンシャン)」。満州の言葉で、あの懐かしい屋敷に咲いていたライラックの花を意味する。
大叔母の店は大陸仕込みの本格的なもので、ラーメンも餃子も、注文が入ってから丸めておいた生地を製麺したり、麺棒で皮を延ばしたりして作られるものだった。本格的な味と大叔母の気さくな性格のおかげで、すぐに人気店になった。
子供のいなかった大叔母は、結婚はせず、店をやりながら養子をもらって育て、彼女が高齢になって店を引退した後はその息子が店を引き継いだ。
養子の息子が結婚してから一人暮らしをしていた大叔母は、十数年前のある日そっと息を引き取った。
生前から身辺整理をしていたらしい大叔母は、部屋に大した荷物を残さなかった。
我が家にやって来た遺品は、茶箱が一つだけ。
中に大切そうに入っていたのは、黒い絹のチャイナドレス、真珠のネックレス、キツネの毛皮のショール。どれも満州時代の品だった。
いつもしゃっきりとしていて、壮絶な人生に泣き言など言わなかったけれども、店にライラックと名付けたり、チャイナドレスを後生大切に持っていた大叔母は、人生の中で一番幸せだった満州時代の想い出と悲しみを、肌身離さず心の中に抱きしめていたのかもしれない。
棒状にまとめた生地を、包丁で輪切りにして、それを一つずつ麺棒で延ばしては餃子の皮にする。
その作業をしながら、時々そんな大叔母のことを思い出す。
そして、壮大な事実に気づいて、ちょっと目眩を覚える。
この世界に生きるすべての人の人生それぞれに、こんな深くて長い物語がきっと秘められている。そして、どんな料理の一つ一つにも。