◆柘殖久慶『ナポレオンの戦場』を読む



副題→「ヨーロッパを動かした男たち」




※要旨



・女性の運が、

ナポレオンの運命を大きく変えたとの、

驚くべき結果が見られる。

デジレ、ジョゼフィーヌ、マリー・ルイズ、

といった女性たちだ。



・彼女たちの運が、

この不世出の英雄の運を支配したのである。



・ナポレオンの、

自分のやるべき課題を決め、

そこにすべて関心を集中する性格は、

少尉任官後も少しも変わっていない。

読書が当時の最大の関心事であった。



・彼は俸給を節約して、

ジャン・ジャック・ルソーの本を買い、

ひたすら読み耽った。



・19歳のナポレオンは、

砲術学校で、実習を経験することになる。

ここで彼は集中豪雨のような読書を、

砲術に関して徹底して行った。



・1冊の書籍を読みつつ、

それをしっかりとノートにメモしていった。

だから内容がすべて彼の知識の血となり、

肉となっていた。



・自己を神格化し演出するという能力は、

ナポレオン・ボナパルトの持つ特性の一つであった。

それを大衆に伝達する手段として、

彼は新聞と絵画を選んだ。



・アウステルリッツの戦いは、

戦争芸術の粋ともいわれている。


→敗走したロシア軍が

凍結したテルニッツ湖を渡ろうとしたとき、

フランス軍の砲火が集中、氷を割った。



・ナポレオンが栄光の道を歩いてきた蔭に、

ジョゼフィーヌの影響力があった。



・1809年、かくして

ナポレオンとジョゼフィーヌの離婚が

正式に決まった。


→だが運命を知る人々のあいだでは、

ナポレオンの今日の隆盛をつくったのが、

ジョゼフィーヌとの相性のよさだと噂された。

自らの「幸運の女神」を手離す愚挙、

との声も一部にあった。



・新しい妃に、

オーストリアからの皇女はどうかと打診があった。

ナポレオンは、乗り気になった。

ハプスブルク家だから家系も文句なしだ。

政略結婚としての価値も第一級である。



・だが、マリア・ルイゼは、

ナポレオンの没落の引鉄となる。



★コメント

歴史は、さまざまな要因が重なり合い、

動いていく。

なにか一つではない。

そこに面白さがある。


 

 



 

 



◆松嶌明男『ナポレオン。政治と戦争』を読む



※要旨



・20世紀に2度の世界大戦で

100万単位の大量死を生み出した結果を見ても、

国民、国語、国旗、国歌という、

国民国家の根幹を構成する言葉やイメージが

現実を動かした力を侮るべきではない。



・統治上の都合に即し、

折に触れて引用される歴史的な先例や歴史小説、

神話、伝説の登場人物たち、

そしてそれらを表現するための言葉やイメージの集積を、

文化的資本およびその蓄積と呼ぶ。



・大国フランスは、

そのソフトパワーの強力さで知られるが、

その基盤を成す文化的資本の蓄積にも

富んだ国である。



・ナポレオンは、

メディアを政治利用する先駆者の一人であり、

自己演出にも長けていた。



・それゆえナポレオンは、

汎ヨーロッパ的に蓄積された文化的資本のなかから

適切な先例を引用することを

自らの重要な政策の構成要素として

常々意識し、実践していた。



・彼が選んだ偉人は、

いずれも偉大な将軍であり、

広大な領域を制圧した征服者であり、

新しい時代を切り開いた政治家でもあった。

それは、非の打ちどころのないアレクサンドロス大王と

ユリウス・カエサルであった。



・ナポレオン政権での外務大臣タレイランは、

大貴族の名門に長子として生まれた。

足を怪我したため、

父の命令で聖職者にさせられた。

しかし、司教区には赴かず、

パリ社交界やベルサイユの宮廷で

享楽的な日々を華やかに過ごしていた。



・タレイランはその頃から

社交界の寵児であり、頭の回転が速く、

寸鉄人を刺す毒舌の使い手として

フランス宮廷のエスプリを象徴する存在であった。



・タレイランが、

外交交渉で示した高い技量は、

史上最強の外交官としての名声と、

差し出されたらどんなに邪なカネでも

躊躇せずに受け取ったという汚名によって

支えられていた。



・1805年の第三次対仏同盟との戦い、

とくにアウステルリッツの戦勝は、

ナポレオンに最大の栄光をもたらし、

その威名は今なお輝きを失っていない。



★コメント

ヨーロッパの歴史は、

さまざまな形で分析されており、

読み応えがある。


 

 



 

 


◆田久保忠衛『戦略家ニクソン』を読む



★要旨



・ニクソンはデューク大学院を卒業後、ホイッティアーに帰り、

この地で最も古いウィンガード・アンド・ビウリー法律事務所で弁護士としての活動を始めた。



・政治に少なからぬ野心を持っていたニクソンが下院議員に当選したのは、

第二次世界大戦終了一年後の1946年で、33歳のときだった。



・彼の中国に対する戦略的な考え方が形成されるのは、副大統領になってからである、といってよい。



・ニクソンが会ったアウデナウアー西独首相は当時から地政学的な見地から、

またドゴール仏大統領は戦略的見地から、中国を孤立させてはならないと説いた。



・モイニハン大統領補佐官はニクソン大統領に

オックスフォード大学教授ロバート・ブレイクの著した『ディズレーリ』を読むように勧めた。


ベルリン会議に持ち込むまでのディズレーリの駆け引きの見事さは、

ブレイクの『ディズレーリ』伝であますことなく分析されている。



・ディズレーリは「国家」と「国民」の「価値」を守るためには、

手段を選ばぬ、冷酷非情な外交を展開したと考えていい。

ニクソン大統領の秘密裡の対中国外交によって日本は「ニクソン・ショック」を受けるが、

ニクソン外交とディズレーリ外交の類似点はこの辺にある。



・1971年7月15日という日を私は一生忘れないだろう。

当時、時事通信のワシントン支局長だった私は、

ニクソン大統領が重要演説を行うという連絡に接して、テレビの前で待機していた。


そこで、ニクソンの電撃的な訪中発表が行われた。



・キッシンジャー補佐官は、大統領訪中の下準備のため、極秘裏に中国へ行った。

そこで周恩来首相と会談が始まった。

世界情勢全般に関する意見交換をすれば、お互いに戦略を理解しているかどうかすぐわかる。

キッシンジャーは「私が公職に就いていた間に行った会談では、サダト大統領は例外として、

他のいかなる指導者との会談よりも長時間にわたり、深味のあるものになった」と書いている。

この訪問で、両者の会談は実に延べ17時間にわたった。




・「ニクソン訪中」ほど念入りに準備された旅行はなかったし、

これほど事前に中国の勉強をした大統領はいなかった、とキッシンジャーは回想録に書いている。


ホワイトハウスのスタッフであるロードとホルドリッジの二人が作成した訪問の主要目的や、

中国側と下打ち合わせした議題、関係論文などの膨大な資料、

キッシンジャーが周恩来と交わした2回の会談の内容が用意された。

毛沢東、周恩来に関する分析レポートもあった。



・ニクソンの外交戦略とはいかなるものであるかを彼の対中国政策を中心に観察してきた。

世界の勢力均衡を一夜のうちに一変させる大目標を実施に移すための周到な準備、

完璧な秘密保持、入念な実施など、すべてに舌を巻かざるを得ない驚きを感じる。


それよりも何よりも外交の規模の巨大さには圧倒される。



★コメント

ニクソンの大仕事は、彼のいままで築き上げた経験や見識の集大成ともいえる。

今後も彼の戦略的な思考などを調査したい。



 

 



 

 

◆播田安弘『日本史サイエンス邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵』を読む(その2)



★要旨



・200年以上も鎖国をしていた日本は、

科学や技術という点では欧米と比べるまでもない後進国でした。



・ついこの間までちょんまげを結っていた国が、

これほど急速に産業を成長させ、

経済を大きく発展させることができたのはいったいなぜでしょうか。



・それはやはり、ペリーが驚いたように、

武士階級は藩校で、

町民は寺子屋で学んでいた江戸時代の教育水準の高さがあったからでしょう。



・筆者はもうひとつ、

明治維新後の日本に急成長をもたらした重要な要因があったのではないかと考えています。

それは「暗黙知」によるコミュニケーションです。



・ポランニーは著書『暗黙知の次元』のなかで

「人の顔を区別できること」や「自転車に乗れること」

を暗黙知の例としてあげています。

イメージとしては、

長年の経験にもとづく「コツ」や「勘」といってもいいでしょう。



・反対の概念としては、言語化されている知、

マニュアル化できる知などとしての「形式知」があります。



・日本には、コミュニケーションにおいて話し手と

聞き手との間の文化的背景の共通性が高いという特徴があります。

このような文化をハイコンテクストの文化ともいいます。



・反対に、異民族どうしが共存しあう国では、

正確にコミュニケーションをとるためには曖昧さを排除して言語化する必要があります。

これをローコンテクストの文化といいます。



・昨今では、

暗黙知はノウハウを共有することができないとか、

相手の顔色や場の空気をうかがいすぎて、

「忖度」を過度にしてしまいがちになるなどと指摘され、

暗黙知を言語化して

形式知に置き換えることが推奨されているようですが、

情報には言葉だけでは伝えられないものも確実にあります。



★コメント

文化とは何か。

今一度、振り返りたい。


 

 



 

 


◆PDF小冊子『危機管理の研究』のご案内。



※お申し込みはこちらです↓




★金額
5,000円(PDF版のみ)


※ページ数
A4サイズ・105ページ



★小冊子『危機管理の研究』目次と内容★

◆『危機の心得:名もなき英雄たちの物語』(佐々淳行)
◆『人を助けるすんごい仕組み』(西條剛央)
◆『わが記者会見のノウハウ』(佐々淳行)
◆『東日本大震災:語られなかった国交省の記録』
◆『ダムと堤防。治水・現場からの検証』(竹林征三)
◆『危機管理。公務員研修双書』(佐々淳行)

◆『軍師・佐々淳行』
◆『首都感染』(高嶋哲夫)
◆『疫病2020』(門田隆将)
◆『後藤田正晴と12人の総理たち』(佐々淳行)
◆『「情報なき国家」がたどった運命を知れ』
◆『1991年・日本の敗北』(手嶋龍一)
◆『日本の存亡は「孫子」にあり』(太田文雄)
◆『インテリジェンスのない国家は亡びる』

◆『宰相のインテリジェンス。9・11から3・11へ』(手嶋龍一)
◆『内閣官房長官秘録』(大下英治)
◆『徹底検証・橋下主義』
◆『安倍官邸の正体』(田崎史郎)
◆『私を通りすぎた政治家たち』(佐々淳行)
◆『東電国有化の罠』(町田徹)
◆『政治の急所』(飯島勲)
◆『決断する力』(猪瀬直樹)

◆『指一本の執念が勝負を決める』(冨山和彦)
◆『異端児たちの決断:日立製作所・川村改革の2000日』
◆『でっかく考えて、でっかく儲けろ』(ドナルド・トランプ)
◆『絶滅企業に学べ:今はなき人気企業に学ぶ』(指南役)
◆『嫌われ者の流儀:組織改革と再生』(竹中平蔵)
◆『JAL再建の真実』(町田徹)
◆『小佐野賢治の知恵を盗め。10兆円を残した男の極意』

◆『官邸コロナ敗戦』(乾正人)
◆『実行力:結果を出す仕組みの作りかた』(橋下徹)
◆『修羅場のケーススタディ』(木村尚敬)
◆『逆境を乗り越える技術』(石川知裕)
◆『憎まれ役』(野村克也・野中広務)
◆『影の首相。官房長官の閻魔帳』(乾正人)



以上。


※ページ数
A4サイズ・105ページ


★申し込みはこちらです↓




 

 

◆山口周『武器になる哲学』を読み解く


副題

→人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50。




★要旨



・語彙の豊かさは、

世界を分析的に把握する力量に直結する。



・多くの言葉を知っていれば

より精密な世界が見える。



・なぜ、概念が洞察を与えてくれるのかというと、

それは新しい「世界を把握する切り口」を

与えてくれるからです。



・私たちは、

自分が依拠している言語の枠組みによってしか、

世界を把握することはできないということ。



・世界を精密に知るためには、

多様な語彙を身に付ける必要がある。



・初学者向けの哲学の教科書は通常、

年代順に編纂されており、

たいがいは古代ギリシアからスタートしています。


→ここに、

初学者が挫折してしまう大きな要因があると、

筆者は思っています。



・学びのミソは、

アウトプットではなくプロセスにある。



・「我思う、ゆえに我あり」

も意味自体は普通である。



・評論の神様と言われた小林秀雄は、

デカルトの『方法序説』について「これはデカルトの自伝である」と言い切っています。



→自伝、つまり

「私はこのようにして疑い、考えてきた」という、

「考察の歴史」を記したものだ、と言うんですね。



→これは本当にシャープな指摘で、私たちは、デカルトがどのように悩み、

考えながら、最終的に

「我思う、ゆえに我あり」という結論に至ったかを

知ることで、

初めてデカルトの「哲学」を学ぶことになるわけです。



★コメント

やはり、語彙力は、

出世するための貴重なスキルなり。


 

 



 

 

◆秋田茂『イギリス帝国盛衰史』を読み解く



★要旨



・イギリスにとって、

第一次世界大戦はどのような戦争だったのかというと、

「帝国防衛の戦い」といっていいだろう。



・イギリスにとってこの戦争は、後から迫ってきて、

領土拡張主義政策を取るドイツ帝国やオーストリア=ハンガリー二重帝国に、

帝国を侵食されるのをいかに防ぐのか、

という防衛戦争ということになる。 



・問題は、その「防衛戦争」という性格が、

途中で変化していったことである。



・開戦の翌年、

1915年に自由党・保守党・労働党連立によるアスキス挙国一致内閣が成立すると、

ロイド・ジョージは新設された軍需大臣に就任。

軍需産業への政府介入の強化に努めるようになっていく。 



・翌1916年に陸軍大臣に就任した彼は、

さらに挙国一致内閣の首相に推挙され、戦争を指導するようになっていった。



・その頃からイギリスの方針は少しずつ変わっていき、

それまでの防衛を主とする戦い方から、

むしろドイツの植民地を奪取するという方向に進んでいく。



・もともとは帝国防衛というディフェンスを目的とした戦いが、

ある時点から帝国拡張の絶好の機会であるという

捉え方に変化していったのである。 



・イギリスが中東での勢力拡大を狙った目的は、

オスマン帝国が中東に持っていた石油の権益であった。



・中東の石油資源を押さえるためには、

それまでのような経済力による非公式の支配よりも、

公式帝国か、それに限りなく近い保護国として直接支配下に置いたほうがはるかに有利なのは間違いない。



・そう考えると、この戦争は石油資源をイギリスが確保する絶好のチャンスなのではないか、と、発想が変化していったのだろう。 

ドイツとイギリスの勢力争いの場は、中東だけではない。 



・当時ドイツは自国の商船隊を介して、

ブラジルなどラテンアメリカ諸国と、非常に強力な貿易関係を構築していた。



・ラテンアメリカ諸国は、もともとイギリスが力を持っていた非公式帝国でもあった。

そこにドイツが影響力を伸ばしているというのも、

イギリスにとって脅威であったことは間違いない。 



・こうした脅威に対抗するためには、防御だけでなく、

積極的に権益を獲得していくことが重要だとロイド・ジョージは考えた。



★コメント

やはり、英国の歴史は奥深い。

調べ直したい。


 

 



 

 



 

 

◆中村淳彦『東京貧困女子。彼女たちはなぜ躓いたのか』を読み解く



★要旨



・AV女優や風俗嬢の取材、それと介護現場のことだった。

そこで、担当編集者から言われた。 



 「中村さんは貧困問題をずっとやっているわけですね」  



・そのときの会話で初めて、自分事として「貧困問題」という言葉を聞いた。  



・当時、取材対象者の状況や言葉、日常に接する人たちの変化や異変に疑問を抱くことはあったが、それが貧困問題とは思っていなかった。



・彼女たちの物語は平穏で幸せとは言い難かったが、貧困という社会問題より、痛快なピカレスクロマンだったのだ。  



・裸の世界はそれぞれの事情を抱えた女性たちが「最終的に堕ちる場所」という社会的な評価で、特殊な産業だ。



・しかし、覚悟を決めて堕ちてしまえば、貧困回避どころか中間層を超えて富裕側にまわれるという世界だったのだ。



・編集者に指摘されるまでまったく自覚はなかったが、

ずっとやってきた裸の女性たちの取材は、結果として「貧困」という社会問題のフィールドワークでもあった、ということなのだ。



・結局、私は自分の価値観を持ち込まない、徹底して傍観者であるべき、

取材以上の人間関係は培わない、

そしてケガしないギリギリのラインまで書いて伝える、という答えを出した。



・支援者ではなく、

彼女たちが直面している現実を可視化するための取材者だ。その意識は現在も徹底している。  



・それから取材現場では情報をつかむために必要な最低限の質問以外、

ほとんど自分からはしゃべらない。

ただただ聞くだけに徹している。



・どんな話が返ってきても否定はしない。

女性たちは、なぜか否定をしない相手にはしゃべる。



★コメント

中村氏の取材力には圧倒される。

知らない世界をわかりやす、解き明かしてくれる。

さまざまな社会問題を学ぶことができる。


 

 



 

 



 

 

◆河合敦『日本史の裏側』を読み解く



★要旨



・徳川家康の家臣の代表といえば、徳川四天王である。

酒井忠次、本多忠勝、井伊直政、榊原康政の四人だ。



・榊原康政は、

今川氏の吉田城攻め、姉川の戦い、長篠の戦い、

武田方の高天神城攻めなどで奮迅の活躍を見せた。



・小田原攻めで北条氏が滅ぶと、

秀吉は家康の領地を関東へ移封し、江戸城を拠点とするよう命じた。



・すでに東海地方を中心に五カ国の大大名になっていた徳川家ゆえ、

この転封という大引っ越しはさぞかし大変だったろう。

この関東移封の総奉行を務めたのが康政であった。



・家臣たちから文句が出ぬよう細心の注意を払って知行割りをおこなったのだった。

自身はこのとき十万石を家康から拝領し、館林城主となった。



・家康は関ヶ原合戦で三成ら西軍を倒し、覇権を握った。だが、この戦いで活躍したのは、

外様大名ばかりだった。

 


・総大将として徳川本隊を率いて西上していた家康の息子・徳川秀忠が、

真田氏の上田城攻めに手こずり、戦いに間に合わなかったのだ。



・家康は、後継者の秀忠に花を持たせてやろうと、参謀に自分の寵臣である本多正信をつけ、

榊原康政、大久保忠隣といった大身の猛将を配してやった。



・鬼気迫る表情で康政は、家康の落ち度や誤解を言いつらねていった。

懲罰を覚悟したうえでの言動だった。



・秀忠のために弁明し続けた。

そんな老臣の姿を見て、さすがの家康も気持ちがほぐれ、その翌日、秀忠に対面を許したと伝えられる。 



・この事実を知った秀忠は、

「此度の心ざし、我が家の有らんかぎりは、子々孫々にいたるまで、忘るる事あるまじ」

という自筆の感状を康政に与えたという。



・やがて家康が幕府を開き、平和な時代が訪れると、

「老臣、権を争うは亡国の兆しなり」

と言って、康政は宿老の身ながら政治に口をはさまなかった。

1606年、にわかに病を得て、59歳でその生涯を閉じたのである。



★コメント

今一度、きちんと日本の歴史を振り返りたい。



 

 



 

 

◆カテリーナ『ウクライナ女性の美しく前向きな生き方』を読む


サブタイトル

→「祖国を愛し、家族を守る。 

美人大国・ウクライナ女性の衣食住と恋愛・結婚のすべて」



★要旨



・戦争前には、

ウクライナの一般人の生活レベルと、

歌手や女優などのセレブたちの生活レベルには格差がありましたが、

戦争がはじまってみんな生活水準が同じになりました。



・ご近所だけでなく、

街で困っている人を見かけたら、

「何か手伝うことはない?」

と声をかけあうようになりました。



・戦争になったら、もう化粧しなくても、

きれいな服も着なくていい。

今の生きている時間を大切に、

一緒にいる人たちを大切にしながら生きていきたい。

そう思うようになりました。



・ただ、戦争が1年半も続くようになって、

少しずつウクライナの女性たちの意識がまた少し変わってきました。



・女性たちがまた化粧をして、

きれいな明るい色の服を着て、キーウにある独立広場を歩いたり、

バーやレストランに行ったりするようになったのです。



・ウクライナにいる友人たちに聞いてみると、

彼女たちの気持ちを明かしてくれました。 



・「今日、死ぬかもしれない。だったらきれいな自分で死にたい。

最後まで楽しく幸せな時間を過ごしたい」 

今日の夜まで生き残らないかもしれないのなら、

きれいにお化粧して、

友だちと一緒にバーやレストランに行って食事をして、

少しでも楽しい時間を過ごしたい、

という考え方が最近とても増えているのです。



・戦争前までは、

自分の人生の時間は無限にあると思っていました。



・今日やりたかったことができなくても、

「時間はたっぷりあるし、また明日からスタートすればいい」

と思っていました。



・もちろん前向きに計画しながら生きるのは大事ですが、

想定した未来が必ずあるわけではない、

ということを、

悲しいですが忘れてはいけないと思っています。



★コメント

戦争という非常事態のなかで、

彼らの語る言葉は、重い。