青山ですこし時間があいた日があり、そばを通った。何度この辺を歩いたかわからないのに、初めて中に入った。アトリエの隅のピアノがちょっと素敵な佇まいだった。いつの頃だったか忘れたが、岡本太郎がグランドピアノを弾いてパッとこちらを見つめて何か叫ぶ、そんなコマーシャルを見た憶えがある。そう言えば岡本太郎の絵はどこか音楽のようでもあると僕は思う。空間や精神の内部で鳴り響いている音楽が色彩やフォルムになってこの世に飛び出てきているようだと思うことがある。この人の絵の前でいつか一度ダンスを踊ってみたいとも思う。そういえば、なんという文章だっただろうか、ああ、見事に忘れているけれど、岡本太郎の書いた文章の何かのどこかの部分に、つみへらす(積み減らす)、という言葉を見つけてストンときた憶えもある。積み重ねる、という言葉を彼なりに変化させて錬金術のように生み出したのだと思う。何かをやればやるほど経験が新しくなる、というようにもきこえる。いい言葉だと思う。本当は、岡本太郎についてはたくさんいろいろな憶えがある。書きたいこともいっぱいある。けれど、まるでまとまらないまま時が過ぎている。彼の絵を見るたび、彼の文章を読むたび、新しく思うことが出てきてしまうからかもしれない。

 

 



stage 櫻井郁也/十字舎房:ダンス公演情報

lesson 櫻井郁也ダンスクラス、オイリュトミークラス

アート・音楽・その他

 

 

 

 

 

 

 

 


耳を澄ますだけでは聴こえないものがある。

そう思えてならない。


肝心なのは全身を鼓膜にすることだ。

心臓も鼓膜で、それは自ら刻む時の音をはかり、

太陽の音や月の音を重ね聴いているのにちがいない。


足もまた鼓膜だとすれば、、、


さて、いまここから、

イマ立つこの床の奥から、

何がきこえるだろうか。


(櫻井郁也 Notes 2019:次回作へのメモから)

 

 

 

 

 

 

 ▶︎次回公演=2019年11月9~10(土日) 開催決定

 

レッスン(櫻井郁也ダンスクラス) 

 

 

 

分たれているがゆえに、私たちは触覚をもっているのではないだろうか。

そう思うことがある。

眼を凝らし、耳を澄まし、鼻をひくひくさせ、指先で、鼓膜で、何かをさぐる。

おびえ、渇き、ねたみ、威嚇し、吠え、逃げ、戦う。

それでいて、いつも接触を求めている。

ひとり泣く。

ふと笑う。

ただ、さまよう。

そのようなとき、私は、どこかに他者を感じている。

分たれているがゆえに、私たちは触れ合いを求めているのかもしれないと思う。

触覚は、分たれたものを再び結びつけるためのものなのではないだろうかと思うことがある。

触覚は、痛みと快楽、苦痛と癒しにつながっている。

僕の場合はダンスは、全身にひろがる触覚と関係が深い。ダンスは僕にとって触覚による思考ともいえるかもしれない。

(from Notes by  Sakurai  Ikuya)

※まえに知覚のことを書いて、上のメモを思い出した。もう10年とか、かなり前のノートだが、最近感じていることにも重なる。

 

 

 

 

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「人間は自分に従う限り自由であり、自分を従わせる限り不自由なのだ」

自由の哲学、という本をまた読んだ。上は同書よりの言葉、写真は横尾忠則氏の装丁による版。読むたび自問が湧く。近年つとに湧く。自由な存在としていまあるかどうか。


 

日々とはじゆうに使って良い時間のことであるはずだがそれを本当に自由に使って、生き得ているか、生き得てきたか。なんとなく、なしくずしに、妥協して、こわばって、一日を通過したことがなかったか、イマどうか。

 

日々の一日今日というのは生の限りあることを考えれば二度とない、貴く重い。囚われていないか、縛られていないか、服従していないか、支配されていないか。何かに、何者かに。過去に、現状に、さきざきのことに。つまり、自分を従わせてはいないか、いま。と、今さら思うのはたてつづけに逝った人があったからかもしれない。このような本をまた読んだのもそうかもしれない。

 

つねひごろについて、いまひとときについて、つい顧みる。この本の内容に合点がいくか著者のシュタイナーが何を意図したのかという以上に、文字列を追いながらさまざまな問いが己の身に及ぶ。

 

自ら考え、自ら決定し、自ら行動する。というヨゼフ・ボイスが語った言葉をおもう。本当の資本とは貨幣ではなく人間の創造力だ、とも彼はたしか言ったのではないか。そこに自由は関わっていると思う。人はものごとの基準を更新することができる。

 

この本をボイスも当然読んだのだろうと勝手に想像する。どこか通じるものがあるように感じる。1984年のボイス体験がなければ僕のダンスがシュタイナー思想と共感したり反発したり、つまりはカンケイしようとしたかどうかわからない。

 

ボイスの作品で充満した西武美術館や草月ホールで、視覚や聴覚よりもずっとビンカンな感覚を刺激されている気がして、どうじに、考えていて、考えているというそのコト自体が非常にたのしいという感覚に、はじめて襲われた。

 

何かをワカルために考えるという習慣があったが、ワカラナイものことがそこにあることがこんなにも考えることを楽しくしてくれるという、そういう初めての経験をボイスの形成した空間や空気は与えてくれた。

それからしばらくして、自由の哲学を読んだ。1987とか88年とか、そんな頃だった。はじめはタイトルに魅かれた。じゆうのてつがく。しかし読み進むにはかなり時間がかかった。あれから30年以上たつ。まだ読む。まだ読めない。

 

自由について考える。考えずにいられない状況がいま大きくなってあるように思う。空気を読め、忖度せよ、つながれ。言葉が変わってきた。世の中が変わってきた。私、というよりもミンナという回数がいつしか増えたのではないか。そう思えてならない。

 

自由なるものについて思考停止するとき、たぶん自分の中の人間として大切な何かが終わる。

 

「自由である限りにおいてのみ、われわれは真に人間であり得る」


という一文も同書にある。読むたびふと目が止まる。

 

 

 

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ひとりの人間の心には

世界より広い別世界がひろがっているのではないか

と、僕はときどき思う。

いくら世界のことを知っていてもすぐそばの人の心を理解できない奴がいる。世界のことなんかよく知らないけれど誰か一人の心を深く理解している奴もいる。で自分はどうなのなんて、ちょっと思うこともある。

そんなことをふと思ったのは、春先に青山に出たときに寄ったジョン・ルーリーの展示のせいかもしれない。下はそのチラシの一部で書かれていることが気になり行った。ふた月ちかく前だけれどその場で感じた感じをおぼえている。

ルーリーは50代前後の人にはミュージシャンとして有名と思うし、ジャームッシュの映画を思い出す人も多いはず。だけど、この人の絵は作者が何者だったかということを忘れさせる。

それらを見たことで、胸の奥で渇いていたものが少し濡れた。同時にズキズキとするようなものも心に入ってきた。それから、不安になるような暗さが、絵のむこうがわからコチラを視ているようにも思えた。

美しいものの底には見知らぬものが棲んでいるのだろうか。と思った。どこかに連れていかれそうな感じもあった。深い水をのぞきこんだ時みたいな感情が、わいた。

イマをときめく現代アートの巨匠展も歴史に残る名作展も素晴らしいけれど、それらとは異なるストレートな衝動が、そして優しくかつ鋭いメッセージが、心に刺さった。

七夕までワタリウム。

 

 

 


 

 

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稽古中に、錯覚があった。

パッと目の前が、いや、まわりぜんたいが真っ暗になってスグ元に戻った。劇場でもないのに暗転したように感じた。記録映像では動きにハプニングは見えないが、意識にはたしかに錯覚があった。

ながいじかん踊っていると、たまにある。ながいと言っても運動の持続のみで考えれば大した時間ではない。おなじだけ走ってもそうはならない。集中力とか体力とか色んなものの加減なのか。感覚の変化か。知覚がすこしバランスを崩すのか。

一瞬、どこまでも深い黒色のなかに居た。暗室の中の知覚にちかいが、じっさいは暗くなんかなかった。

知覚がズレていた。虚に落ちて居たということか。しかし、その虚の暗闇には何か大切なものがひそんであったようにおもえてならない。かの一瞬のなかには無限の底知れない時間があったようにも感じる。

音や臭いが強くなってくるときも、たいていは一定以上の時間を踊り続けているときだ。あれは何なのだろうと思う。踊りは知覚になんらかの変化をあたえるのだろうか。

気になる。

知覚の変化といえば、もうひとつ、踊りによって主体がずれて客体になってゆく感覚がある。おどればおどるほどカラダがカタチと速さになってゆく。

自分の心をどこかに明け渡さないと、この身体にはタマシイが宿らないのではないか。

そう思うこともある。ワタクシというものがこの身体に居座っていると、獣の心や花の色彩が侵入してこないのでは。そう思うこともある。

唖然としていたり混沌がはげしくなっていたり、極度にシュウチュウしていたり、というなかで、ワタクシが一瞬遠のいてゆく。そういうことだろうか。踊るときは、身体が僕個人から切り離されて独立しようとするのだろうか。物質に感情がやどってゆくのだろうか。踊る、というのは日常的な個人とは別の身体が出現する状態なのだろうか。

 「人を泣かせるようなからだの入れ換えが、私達の先祖から伝わっている」

という言葉をときどき思い出す。土方巽の有名な言葉だけれど、この言葉を思い出すとき僕はなんだか汗が出てくる。おそろしいような気がして少し寒気もする。からだの入れ換え、とは何か。

踊りのさなかで、たとえばワタクシというものが確かでなくなることは多い。たとえばアナタとの境目が確かでなくなることもある。確かであったはずのものが不確かになる。そのような瞬間を踊りのなかで味わうことがある。知性と感性がバランスを崩す。そのようなときにかぎって、身体は面白い景色を醸し出すのかともおもう。
 
知覚と踊りの関係に興味がある。

 

 

 

 

レッスン(櫻井郁也ダンスクラス)