稽古中に、錯覚があった。

パッと目の前が、いや、まわりぜんたいが真っ暗になってスグ元に戻った。劇場でもないのに暗転したように感じた。記録映像では動きにハプニングは見えないが、意識にはたしかに錯覚があった。

ながいじかん踊っていると、たまにある。ながいと言っても運動の持続のみで考えれば大した時間ではない。おなじだけ走ってもそうはならない。集中力とか体力とか色んなものの加減なのか。感覚の変化か。知覚がすこしバランスを崩すのか。

一瞬、どこまでも深い黒色のなかに居た。暗室の中の知覚にちかいが、じっさいは暗くなんかなかった。

知覚がズレていた。虚に落ちて居たということか。しかし、その虚の暗闇には何か大切なものがひそんであったようにおもえてならない。かの一瞬のなかには無限の底知れない時間があったようにも感じる。

音や臭いが強くなってくるときも、たいていは一定以上の時間を踊り続けているときだ。あれは何なのだろうと思う。踊りは知覚になんらかの変化をあたえるのだろうか。

気になる。

知覚の変化といえば、もうひとつ、踊りによって主体がずれて客体になってゆく感覚がある。おどればおどるほどカラダがカタチと速さになってゆく。

自分の心をどこかに明け渡さないと、この身体にはタマシイが宿らないのではないか。

そう思うこともある。ワタクシというものがこの身体に居座っていると、獣の心や花の色彩が侵入してこないのでは。そう思うこともある。

唖然としていたり混沌がはげしくなっていたり、極度にシュウチュウしていたり、というなかで、ワタクシが一瞬遠のいてゆく。そういうことだろうか。踊るときは、身体が僕個人から切り離されて独立しようとするのだろうか。物質に感情がやどってゆくのだろうか。踊る、というのは日常的な個人とは別の身体が出現する状態なのだろうか。

 「人を泣かせるようなからだの入れ換えが、私達の先祖から伝わっている」

という言葉をときどき思い出す。土方巽の有名な言葉だけれど、この言葉を思い出すとき僕はなんだか汗が出てくる。おそろしいような気がして少し寒気もする。からだの入れ換え、とは何か。

踊りのさなかで、たとえばワタクシというものが確かでなくなることは多い。たとえばアナタとの境目が確かでなくなることもある。確かであったはずのものが不確かになる。そのような瞬間を踊りのなかで味わうことがある。知性と感性がバランスを崩す。そのようなときにかぎって、身体は面白い景色を醸し出すのかともおもう。
 
知覚と踊りの関係に興味がある。

 

 

 

 

レッスン(櫻井郁也ダンスクラス)