花になりたくとも、なれるものではない。
月にも、風にも、石にも、なりたくともなれない。
ひとはあくまでひとであり、
だけどせめて、
うつくしいカタチになりたい
と思うのも、ひとならではなのかしら、
と思う。
(テキスト=櫻井郁也/次回作稽古日記から 2019.)
半年ほど前に、西荻のプラサード書店から何か推薦図書をと言われて『ニジンスキーの日記』にしていただくようお願いした。
ニジンスキーは天才とか伝説と言われる。いまニジンスキー自身のダンスを体験することはできない。が、この日記を読んでいると、想像が非常に細かくひろがってゆく。
迷路のように言葉がさまよう。言葉は声だ。つまり体内の熱の一部だ。言葉は映像よりもリアルだ。しばしば親近感さえおぼえる。声をも思い浮かべてしまう。
多くの言葉は遠くにあるが、ほんとうにそうだなあと頷いてしまう言葉がたまにある。それが胸に刺さる。
生命について、惑星について、太陽について、地球の資源や地震について、書き続けている部分がある。冬だったと思うが、そのうちの一言について書いたことがある。それは「知性は火が消えて分解した太陽だ」という一言で、僕にはずっと気になる一言だ。それはやがて「私の中の火は消えない」という一言に続く。
1919年といえばロシア革命が勃発した頃だが、ニジンスキーは妻に「私は神と結婚する」と告げ、取り憑かれたように戦争を主題に踊ったという。ちょうどその公演日からチューリヒの精神病院に行く前まで書かれた日記がこれである。
のちに狂気と結びついた人だが、ここに書かれている言葉はその精神がこわれてゆく前のぎりぎりの日々に、正直に心の中をそのまま書いたように思える。
道徳とか常識とかに合わない点もあるかもしれないが、これは日記なのだから社会とは別の、個人空間の言葉なのだから、あたりまえだとおもう。かえってまともに思える。
本は、じつは二種類出ている。ひとつは市川雅先生の訳。もうひとつは鈴木 晶さん訳の新しい完全版。前者の原本はニジンスキーの妻が多少の編集を入れているらしく、後者は書かれたままを翻訳されたのだという。両方とも読むのが面白いと僕は思う。印象がちがう。この数日で双方をまた読んだが、やはり良かった。
新潟・北陸の皆さま、さきほどの地震のほう大丈夫でしたでしょうか。さまざま情報見ながら、みなさまのご無事をお祈りしております。ご心配と存じますが、ひきつづき、くれぐれもご注意くださいますようお願いいたします。とりいそぎ、、、。
身体のなかは、まだ意識にのぼらない未知数のもので満ちている。
出来事以前の出来事、とでもいうようなものがひしめいていると思う。カオスのような混沌にも感じるし、無限に関係しながら連続する対流のようにも感じる。
ウゴキの無限連鎖がにんげんの身体にはぎっしりなのだ。ときに凝固し、ときにカタチになりかかったものが再び砕けたり、水溶したり、言葉となって消えたりもする。
身体は何かのメッセージをたずさえていると思う。耳を傾けようとする。
きこえないゆえにきく。
(テキスト=櫻井郁也/次回作へのメモ 2019.初夏)
よく物忘れをする。いまに何もかも忘れてしまうだろうと思っている。だからかもしれないが、たまに記憶をたどる。その必要をたびたび感じる。
ブレードランナーのなかで人造人間が記憶を欲しいから写真を好むというシーンがあって、これは別に人造人間じゃなくたって僕だって同じだなあと感じたのをおぼえている。その人の未来はその人が記憶といかに関わるかによって左右されるとも思う。
過去作を踊ってみることがある。あるときは一部分を、あるときは全編を。このサイトに「private rehearsal」と表記して掲載している写真には、そういう1シーンが多々ある。
踊りは上演が終わっても踊ることができる。思い出し検証すると同時に、踊るたびに感じるものが新たに出る。幻滅もある。ゆえに新作への欲にもかかわる。じっさい、過去作を踊ることから新作の構想が芽生えてゆくことは多い。繰り返すこと。これが僕には必要なのかもしれない。
動画を見て反省するのも便利だが、上演後に何度か踊りながら反省する方が面白く思う。客席の人は眼で見ているだけでなく全感覚で感じている。ダンスは踊り手じしんには見えないが、舞台では踊りながら同時に踊りを感じ経験している。そういうこともあって、ふとアレはどんな心地だったかなと思い出したくなるとき、僕の場合は、録画を見るよりは身動きしたほうが鮮明になる。
踊りは連続してゆくものと実感する。舞台は一回一回が独立した時間で二度と無い。だが作品が残り、思考をうながしてくる。その連続から生み出す。紡ぐ作業に似ている。踊りの中で、この肉体に残された時間が呼吸をつづける。踊る肉体は、年々変化して一定することはあり得ない。人生にのこされた時間が減ってゆくなかで、踊る。
積み重なり降り積もってきた無数の何かと、全く予想できない空洞の未来のはざまで、踊る。切れてしまいそうな糸をたぐるような思いもある。