昔の人の踊りを実際に観ることは出来ない。しかし遺されたわずかな断片に魅了され、そこから想像がどんどんひろがって、観ることも会うことも叶わない昔のダンサーに気持ちをとられそうになることがある。
マリー・ヴィグマンもその一人で、そのそんざいに僕はなぜか魅かれてしまう。ナチ台頭を目前にしたドイツの革命的なダンサーだ。
フィルムがのこっているものにヘクセンタンツというソロがあり、魔女の仮面をかぶり座ったまま踊る。一度も立たない。稲妻のような音とシンクロして、丸めた背中から手や足が空を刺す。その指先の強さに、その肩を怒らせる勢いに、息をのむ。背中が、足首が、、、あちこちの部位に激しい生命がある。ひとりの女の身体が噴火するみたいだ。
主題がつよくて動きのいちいちに意味合いが濃くとれるのに、それ以上に、踊っている身体の存在感に僕はやはり気持ちがうごく。
初めて知ったのはフランスの古本屋だった。いい写真集があった。大きく腕を広げて、鷹のような眼で空の彼方を射ている。しかし浮くことなく地上に食い込むように立っている。そんな写真に眼が釘付けになった。
生々しい。凛とした姿でいながら実に官能的に感じる。何者なのだろう。その姿態の美しさ、その表情のおそろしいような深さに衝撃を受けた。
この人が踊るとき、いったいどんな場が生まれたのだろう。この人の呼吸から、いったいどんな時間が聴こえていたのだろう。たびたびそう思いながら、この人の写真をみる。
まえの夏、とても工夫された演劇を観て気持ちが引き締まったことをおぼえている。それは都内のマンションの一室を手作業で劇場に仕立てて上演されていた。玄関が受付、手作りのひな壇にいくつかの客席。座ったとき、未知数の何かに接してゆくような気持ちが湧いて、期待とも不安とも区別がつかない感覚で開演を待った。粗作りの道具や音。照明は家庭用の電気器具だが細かく工夫されている。そこに役者の声が入ったとき、急激に何か激しい緊張が襲いかかってくるのだった。演目は『マクベス』だった。よこしまな精霊がひしめき合い、人間の悪が地響きをたてる。一つの身振りにしっかり重さがあり、一つの言葉が深く響くのだった。経験豊かな演技で構築されたものだった。日常が非日常に移ろいゆく。まさに劇だ。すべてがふきすさぶ嵐だ。そう思った。底知れぬ闇に荒野の寒風。それらは言葉の力と俳優の存在感によって醸し出されたもので、人間なしには成り立たない空間を感じた。物理的に足りないものがハッキリあるからこそ、する人の表現力も観るわたしの想像力もフル回転するのかもしれない。物がないからイメージが湧き、歌がないから心が歌うのかもしれない。役者やスタッフといった人たちの営みがとても近くて、演劇というのはいいなあと久々に感じていた。
このマンション劇を観たあと、数年前の僕が長崎公演をさせてもらったあのときのことを思い出した。あのときは学校の運動場が地元の方々の知恵と行動と工夫で劇場になっていった。劇場はつくるものだということを理屈でなく思い知った。それからもっともっと前の、新宿花園神社で唐十郎さんの状況劇場を初めて観たときのことも思い出した。雨でずぶ濡れの紅テントの床は泥だらけで、そこに膝を抱えて興奮しつづけていた。興奮と不安定とが劇を激しく劇的にしていた。この十数年踊らせていただいているplan-Bにも場づくりの熱がなまなましく息をしている。打ちっぱなしの地下空間が工夫に工夫を重ねて表現場として継続されている。その床を踏んだ方々の行為の軌跡が、あちこちに残って、実に特有の現場感がある。空間が生きている。生身の人間と関わるように空間に関わらなければ何もできない。与えられた劇場で何が出来るか、という以上に、何によってそこに劇場を発生させることができるか。ということのほうが大事に思える。立派に建築されたシアターとは異なる興奮が、いろいろな場所に生まれてゆく可能性が、すごくあると僕は思う。
もう本日6/2(日)19:00まで。とのことですが、銀座メゾンエルメスのガラス壁がまるごと美術作品になっています。
ビルの外壁に直接に描かれた巨大な絵。あるいは巨大な筆跡というか。写真は先月GWに撮ったものでお昼の表情だが、銀座に出るたび眺めると色んな表情があるなあと思いました。とりわけ、日が暮れてゆくと内部から発光するみたいに見えてきます。湊 茉莉さんの≪Utusuwa≫という作品です。
カラフルなのだけれど派手ということではなく、なぜそう感じるのでしょうか、すこし、はかない感じが僕には感じられてなりませんでした。何か消えゆくものの痕跡のように、、、。
消えゆくもの即ち命あるものの、命あるゆえいつか死するものの、痕跡。ちょっと禅画みたいにも感じられるのでした。
おもえばしかし、当たり前なのかしらん。美術に限らない、僕らの表現というのは何かしらの仕方でのこされる命けずりで、その痕跡が眼や心に焼き付けられるのですから。だから何か芸術を見るというのは、ほんとうは命を呼吸するということに、つながるのだと思います。そう思わせてくれるプロジェクトとも思えました。
5丁目近辺の道路に出たらすぐに見えます。
こないだ写真を(たしか去年も、、、)upしたけれど、、、。
いつのまにこんなにたくさん、と、
ドクダミの花が咲いていることに気付きました。
ある日ふと気付いてはっとするのです。足もとに点々とひろがっている小さな白いドクダミの花たちに、その可愛らしさに。そしてなぜかホッとしてしまうのです。
ドクダミのまわりは静かです。空き地に、裏庭に、ちょっと日陰の道路の片隅に、点々と広がるちいさな白い十字架のかたち。
地底にいきている精神が、小さな十字架を沢山たくさん地上に花咲かせているのでしょうか。
地底からヒカリが生まれているみたいにも思えます。
もう春ではなく、まだ夏ではしばらくなく、かといって梅雨ともいえず、という、このいまのようなうつろいの日々に静かに咲き広がってゆくドクダミの白い小さな十字架たち。
足もとから、そっと、日常への愛おしさを、教えてくれているのでしょうか。
lesson 櫻井郁也ダンスクラス、オイリュトミークラス
stage 櫻井郁也/十字舎房:ダンス公演情報
身体の現在からしか作品はうまれない。ダンスの宿命だと思う。
僕の場合、発想は運動からしか起きないから、いつも徹底的に動くしかなく、動くとき初めて考えも働き始める。身体に向き合う、などと格好良く語る感じでもなく、ただただめちゃくちゃに動きまわっている毎日が、いまこの季節である。
カラダとの付き合い方からおのれの根性がいかほどか自らに透ける。そう何度も何度も感じてきたが、稽古というのはいまだやはり、わからない事だらけになる時間でもある。わかった気になっていたのが実はわかっていなかったとわかる。曖昧にしていることが目立って気になる。カラダは誤魔化せない。ダンス作品を作るのは自分を試される。
面倒なことが沢山で、心配がつのる時間だ。その割に目立って何かが起きない時間だ。しかし、ささやかな出来事が起き続けている時間でもあるのではと、思う思いもする。
過ぎてゆく時間。つまり、人生の多くを費やす地味な時間。これらの時間こそがダンスの根っこなのだと最近になって実に思う。日常こそ宝か、そう思うことが増えている。
舞台の方向性が次第にみえてきたか、、、。
いよいよ作品が芽を出すかどうか、、、。
※文章=稽古ノートより
身体
空間
物質
生命
とき、、、
そのようなことを考え思い、しかし、やはり、いまはここで、
ひたすら動くだけなのだ
※文章は次回作への創作ノートから引用、写真は公演『青より遠い揺らぎ』舞台美術より。
lesson 櫻井郁也ダンスクラス、オイリュトミークラス
stage 櫻井郁也/十字舎房:ダンス公演情報