ルドルフ・ヌレエフの踊りは動画でぽつぽつと垣間みれるが、そのすごさとはまた別に、一人の人として彼のことを想い思える映画が「ホワイトクロウ」だった。

たまに面白く思うのが、ダンサーの演技、俳優のダンス。いづれも映画で楽しむ機会が多い。前者ではフェリーニ作品におけるピナ・バウシュの演技やルルーシュ作品でのジョルジュ・ドンの演技もなかなか素敵だったし、後者ではリリー=ローズが踊ったイサドラ・ダンカンのベートーヴェンなんか最近ちょっと嬉しくなった。

ダンスは一回で消えるが目の前で肉体が生命そのものに向き合う時間の濃密さは他で得ることが出来ない。映画には生身の存在こそ無いがスクリーンのなかでしか描き得ない虚実の世界はやはり愉しい。

それぞれの良さが活かされた作品に出会えたら楽しいが、先に書いた「ホワイトクロウ」はそんな一つかもしれない。ヌレエフ役はオレグ・イヴェンコで初めて知ったダンサー。友人役をヌレエフの再来とか言われたセルゲイ・ポルーニンがやっている。エルミタージュやルーブルで撮影された絵を見るシーンは実に美しいし、舞台の本番ばかり強調しないで練習風景のなかで多くを描く構成もまたいいなと思いながら見た。ほとんどが練習で過ぎてゆくのが踊り手の暮らしなのだから、そこに時間をとってあるのは共感できた。

面白いと思ったのは、ダンサーがダンサーの役を演じていることだった。わりと大変だと思うのだ。ダンスシーンでは他人の踊りを演じて踊るのだが、やはり本人の踊りが見えてくる。こちらも芝居の続きと知りながら、ついダンサーとして身体を見つめてしまう。さらにアタマのなかでは実のヌレエフが踊ってる映像も思い出してしまうから、まあややこしいけど、でも、芝居と記憶の行き来、これがまた面白かったりもするのだった。

そういえばニジンスキーの再来と言われたヌレエフがヴァレンチノの役をやり、その映画のなかでニジンスキー役と一緒にタンゴを踊るというのも、またまたややこしいけれど、たしかあったと思う。

まあ、色々おもいつつ、またヌレエフ本人の古い白黒映像をながめている。

 

 


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レッスン(櫻井郁也ダンスクラス) 

 

 

 

 

 

 

 

これは、、、。日曜の夕方、「木幡和枝さん お別れの会」にお伺いしました。その日の沢山のお花のひとつです。

東京・中野の「plan-B」でおこなわれました。ここは、田中泯さんと木幡さんが中心になって呼びかけ発足した大切な場所です。僕自身にとっては、ここでの体験なしに何をも語れない場所です。

2000年から踊らせていただいているこの舞台で、お別れのご挨拶をすることになるとは思っていませんでした。初めてお会いしたのもこの場所でした。つまり、初めてのご挨拶も「ここ」でさせていただいたのです。あの日、このあたりに、座っていらして、、、。そのときのお声やお話の内容がそのまま聞こえてくるようでした。そのあと「ダンス白州」でいただいた言葉には今も強く背を押されています。

去りがたく、壁面に映し出された記録フィルムを何度も見つめました。スーザン・ソンタグさんとの対談風景など、お二人とも颯爽とした凛とした姿で、見つめるうち、力が湧きました。

ここが挑戦と志の場所であることを、確かめ、つよく感じながら、また木幡さんに背を押されました。本当に力いっぱいの踊りを、ここで、信頼するスタッフの方々と一緒に、と思います。あらためて、心から、、、。

 

 PS※「VOGUE(ヴォーグ)」にも木幡さんの素敵な記事&写真があります。[ここ]








 

いい時間が流れた。もっと踊りたくもっと話したかった。

金曜夜のダンスクラス(コンテンポラリー/舞踏)はいつも時間がたつのが早く感じる。きょうは「インプロヴィゼーション」つまり即興で踊る稽古の日だった。イメージのひろがり、自由表現の楽しみ、身体の反応、集中とリラクゼーション、自己との向き合い方、なんて列挙すればきりがない。言葉に説明することが表面的に感じてしまう、ダンスならではの「踊るべくして踊る」稽古がインプロヴィゼーション。僕はこれがこのうえなく大切なことに感じている。

レッスン中、僕はピアノ演奏をしながら声をかけたり動きの提案をしたりするが、次第に声がけの言葉とピアノ演奏の境目はなくなってゆく。音で、グルーヴで、ダイナミクスで踊る人と関わる。そしてすこし休みつつ踊りについて皆で話すのだけど、踊りの話は当然のように様々な話に関連し膨らんでゆく。音楽のこと、暮らしのこと、哲学や歴史もたびたび話題にからむ。そしてまた踊る。

最初は、ひとり、またひとり、と稽古場に来て、アップをしながらあれこれ話す。前回の稽古について、さいきん観たり読んだりという何かについて、気になっていることについて、、、。そしていつしか稽古になって踊りに踊る。

ちいさなことが大きなことに広がってゆく。日常のことが芸術のことに膨らんでゆく。ワタクシのことが人間のことに関わってゆく。ふとした気分が音楽とシンクロして膨らんで、カラダが揺れうごきジャンプとか回転になっていたりする。大切なことは、言葉になんかならないのかもしれない。

なにげない今日このひと時が、ダンスに変換されてゆく、それは、なんとも貴重な一瞬だったりする。理想の身体が踊るわけではない。いまここにある身体が、いまほんの少し、おそるおそるおどる。それが始まりなのだ。なにかの始まりが踊りなのだ。そんなことを、ふと思う。

きょうは深く踊れた。きょうは軽やかに踊れた。きょうは動けたが踊れなかった。きょうはちっとも動けなかったがなぜか踊れた心地がする。きょうは、きょうは、きょうは、、、。踊りはいつも「きょう」に関わっているのだろう。

踊りが関わるものは人間が関わる全て。それゆえにキリがないが、キリがないから面白く、話し尽きない。そしてまた踊り、踊るうち気付けばもう時間。毎週、惜しむように稽古を終えてまた来週と帰路に着く。

あす土曜日は基本稽古の日。これは僕自身にとってもうれしい重要な稽古で勉強日です。

1時からの「レギュラークラス」はダンス表現の基本を、3時からの「基礎オープンクラス」では僕も一緒に動いて身体操作の基本とダンス感覚の開発を丁寧にやる。ストレッチ、筋トレ、リズムやウォーキング、そしてシンプルな振りでクロスフロア。程よい発汗とメンテナンス。そして活力の保持。基礎の基礎というのは本当にずっと飽きない。楽しみにしています!



lesson 櫻井郁也ダンスクラス、オイリュトミークラス

stage 櫻井郁也/十字舎房:ダンス公演情報

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イメージよりも速い速度の、これは


まだ言葉でご紹介できる状態ではないけれど、次回公演の案があり、その試作をいくつか踊りためしています。思いとか衝動が動きになったというより、これは火種です。新たなもの、ずっと温めているもの、短いもの長いもの、破片みたいなもの。いづれも日々の経験が反映しているだけではないと思います。生理的にじっとできないような状態から出てきているそれらの運動の奥には何があるのか。いやおうなしに骨や身を突き動かして現存在に語りかけてくるのは何なのか。肉体の側からの言語を解読するようなこの作業は重要な段階で、作品づくりの最初の山場とも思えます。もし無意味だとしても無意味のまま徹底的に動き続けてみないとわからないことがある。イメージよりも速い速度の、これは何なんだろう、このカラダの中から流出してくる熱や形や運動の絡まりは・・・。次の公演に練り上げたいと思います。


stage 櫻井郁也/十字舎房:ダンス公演情報

 

lesson 櫻井郁也ダンスクラス、オイリュトミークラス
 

photo=Sakurai Ikuya private rehearsal


『マックイーン:モードの反逆児』を観た。インタビューとコラージュされるように多数のショーが映し出されるが、彼のショーの美しさはそれらの根底にある彼自身の戦いの蓄積と激しく波打ち続けた心の投影なのだということを、強く感じた。だから美しさと同時に打ちのめされるような衝撃があるのだろう。とりわけそう感じたのは2001年の『Voss』の記録映像だった。ラストで大量の蛾が飛び立つなかに肥満した女性が裸体で横たわってチューブ呼吸をしている、つまり当時スキャンダラスな話題を得ていたJ.P.ウィトキンの写真『Sanitarium』(1983)の再現シーンが現れるこのショーでは、モデルたちはマジックミラーで囲まれた舞台の内部にいて観客のほうを見ることが出来ない。視線があることをアタマでは知っているが肌で感じとることが困難なのだ。孤独で、破壊的で、そして痛いほどリアルな情景だと思った。僕らの姿と重なるとも思った。しかしそれは、この映画にとってあくまで一部分で、全体像はむしろもっと淡々と彼個人の軌跡をえがいてゆくのだった。ひとりの男の子が真面目に身も心も投げ出して世界を引き受けてゆく過程が、巨大なスクリーンとスピーカーに、痛ましいほどに映写されるのだった。彼が布にハサミを入れるときの集中を、また、地道に磨きあげた針仕事の見事さを、この映画は見逃しはしない。そして、彼は周りの人との関係を持続し続けようとする人間だったことが、しっかりと描かれている。自分本位の人ではなく、気ままに生きた人でもなかったことが推測される。そこが、何より素晴らしく、この映画の神経だとも思った。 それは、言葉の選択にもあらわれていて、印象的だった。例えば「彼は遅刻をしない」という証言だ。さりげないが、この一言は彼の才能をはっきり物語っていると思った。もうひとつ印象的だったのは「彼は情報のフィルターで判断しない」という一言で、これは彼の先生の言葉だった。人間は時に奇跡みたいなことを起こすけれどそれは偶然ではなくて地味な地道な作業の積み重ねなのだ、ということを、また、素晴らしい出来事の多くは人と人の関係の結果なのだ、ということを、この映画はハッキリと映し出していると思った。

 



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