リリアナ・カヴァーニ監督の映画に、ダンサーがナチスに無理矢理踊らされるシーンがあって衝撃を受けたことがあった。

ホロコーストの渦中、殺されたくなければ踊れ、ということでそれは始まるのだが、ダンサーは強いられた踊りにも関わらずダンスを踊るほどに強く光り、対するナチの将校は踊りを見つめながら時に歓喜し時に打ちのめされたように溜め息を漏らす。

そのシーンに眼を凝らしながら、この異常な官能と不穏は一体なんなのかと、心が壊れそうになった記憶がある。

ショックなのに、なぜか魅かれ、それで、機会あるたび何回も観るうち、あるときから、ふと、もしかするとこれは「自由」なるものについて突き詰めたシーンなのではないか、と思うようになった。この荒涼としたダンスシーンを思い出すときなぜか、自由、という言葉のとてつもない広さを、同時に思うようになった。

近松門左衛門の人形文楽の惨劇を観る感じにも近い。サドの文学を読むときの感覚にも近い。宿命や抑圧や怒りや無念が、ある瞬間に振り切って、闇が逆に光を発し始めたり、逆境の中で存在が輝き始めたりする瞬間を、まのあたりにする感覚にも近い。

不条理とヒューマニズムとエロチックと怒りと悲しみと無力感と絶望と渇仰と、、、書き出せば切りがなく、言葉に書けば書くほどに混乱が生まれるような、無数の感情と感覚とがひしめき合っているような、だからこそ、生理的とも言えるような反応が、からだにこころに、湧く。

このシーンは何度観ても心の根っこに揺さぶりをかけてくる。なんだろう、この感覚は。と思い感じるまま、ふとまた思い出す。

 

(追伸:「自由」という言葉に引っかかるのはダンス創作の現場でも頻繁。活き活きと踊る、のびのびと踊る、心底から踊る、、、色んな言い方はあれど、踊る、というのは「自由精神」と不可分なのではないかと僕は思えて仕方がない。自由精神、フライガイスト。その規範があるわけではない。しかし人間は、心のどこかに自由を衝動しているにちがいない。自由の問題は、芸術を通過して、やがては教育や経済におよぶ問題に近づいてゆくのではないか、と、漠然とだが最近そう思うことがふえている。)

 

 

 


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2/11の舞踏クラスで、ベートーヴェンの第九交響曲の一部分(第一楽章および第二楽章の冒頭部)を踊った。チャンスがあれば稽古で紹介したいと思って音源を持ち歩いていたのだけど、この日の稽古の空気感のなかで、今この曲を、と思って鳴らした。

立ちあがる、ということを捉え直してゆく稽古だったのだけれど、その一人一人の人が自分の身体を立ててゆくプロセスが、とてもドラマチックに感じたのだ。

僕らは毎日まずは立つ、あるいは、立とうとする。立つ、ことから一日は始まる。しかし、その行為を意識的にとらえ、そのプロセスを解体し再構築するとなると、思いのほかいろいろなことを考えたり経験したりすることになる。

単純な行為なのに、実に面白いプロセスが、そして学ぶべき力学が、立つ、という行為の中には含まれている。自重を感じ、空間を感じ、バランスを感じ、何よりも自立への衝動を感じ生み出しながら、身体を垂直にみちびいてゆく。

私はどのようにして立つのか、と同時に、ヒトはいかにして二足で立ち歩行に至るのか、という問いが、稽古の根にはある。そしてそれは、ダンスの最も基本的な美意識にも結びついてゆく。立ち方には心が反映され、立ち方には生き様が反映される。

稽古では、あなた自身がしっかり表現されている立ち方、を、さがすことになる。いい立ち方、ぴたっと来る立ち方、それが決まったとき、ダンスは始まる。そういうことを、僕は教室で言葉にして語るわけではないが、この日の稽古では、非常に沸き起こっていた。そこに、とても本能的に鳴らしたくなったのが、ベートーヴェンの第九の、それも、いちばん最初の持続音から4度下降の繰り返し、それが重なり合って音の波がどんどん分厚く力強くなってゆくところなのだった。

原爆はボタン一つで世界を絶望に陥れることしか出来ないが、音楽はボタン一つで世界を感動で満たすことができる。その典型のひとつが、この第九シンフォニーだと僕は思っている。

エネルギーが発熱して火になり爆発して光になる、そのプロセスが魂の奥底から現れ出てくる音楽だと、僕は第九のことを思う。その音を、と思えるような空気感が生まれているのを、この日の前半の稽古で感じたのだった。

音が鳴り、その波が身体に伝わり、うねり、揺れ、跳ね、まわる。そのプロセスを目の当たりにしながら、踊ることの素晴らしさを、あらためて感じた。次のレッスンがまた楽しみになった。

 

 


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踊りは人を変えてゆく。それを見てきた。

レッスンや稽古の繰り返しのなかで、気付かないくらいスローな速度で、肉体とともに心や人となりも変わってゆく。若い人はしっかりしてゆくし、中高年の人はたいてい明るく朗らかになる。

テレプシコラ(ダンスの喜び)が宿ってゆくのだろうか。

舞台活動やクラスのほかに、ダンスと音楽の専門学校で教えていて、その卒業公演があった。沢山の作品が上演される、その振付や踊り方を指導しながらダンスパート全体の監修・演出を行なう係をつとめた。

正直大変だったけれど、長い期間つづく稽古に寄り添いながら、実は、ずっと心動かされていた。作品の生成とともに、一人一人の学生さんが日々変わってゆくのがとても感じられたのだ。

舞台はプリミティブなドラムと群舞のセッションから始まり、クラシックバレエの名作をへて、モダンダンス、ジャズダンス、ストリートダンス、そして現在進行形のコンテンポラリーダンスを片っ端から踊ってゆく。クラシック(今年はジゼルのペザントだった)をのぞいて大部分はオリジナルの振付作品による。舞踊のたどった時間軸を自らの身体で捉え直し、そして自分たちの現在やるべきことを見つめ直してゆこうという課題だった。

そのなかで、3.11とその復興経過に関わる大きな作品がひとつあった。あの直後に音楽科の学生が作曲した曲を被災地に送り何度もラジオから流されたその楽曲を30人以上が踊り歌い演奏する作品だった。もとより、この公演が始まったキッカケが3.11だった。好きなことをすることに罪悪感を感じてしまう学生が沢山出たのだった。こんなときに歌い踊っていいのか、と、、、。

9年経ったいま、心の状況をダンスで表現しようということになった。震災後という時間のなかで思春期をすごし成長してきた彼らが、復興や放射能の問題をふくめた様々な思いを、いや、そのような直裁的なことでなくとも、なにかを、過ごしてきた夜や朝の底に感じていたなにかを、いかに踊りに託すことができるだろうかということもあった。

皆で揃って踊るというよりも、一人一人が自分の想像力で何かを表そうとする力が一つの波を生み出すようなことができないだろうかと考えたが、その稽古で、個としての立ち居振る舞いに、なかなか力が出てこなくて、苦しくなっていった。いろんなステップを覚えこなすことができる人が素敵な踊りを踊るとは限らないことに気付き、ぐらつき始めたのかもしれない。

一人一人が自分自身に対する向き合い方に、あるいは自らの心に対する向き合い方に、どこか歯がゆさを感じ始め、不安定になっていたが、いらだちや迷いをかかえつつも踏んだその本番が、とても良いものになった。人が本気で考えて何かひとつひとつの行動を起こしてゆく場を共有した感があったのだ。これは僕自身にとっても貴重な体験になった。

震災直後に行なったレッスンやワークショップを思い出した。あの張りつめたような空気の、とても不安な状態のなかで、体をいっしょに動かすことから、いい大人が何か落ちつきを取り戻したり、言いようの無い感情が共有されてゆくのを感じた。昔の人が、なぜ踊りを大切にしたかということを垣間みたような気持ちもあった。

3.11をめぐるダンス作品の上演は僕自身のソロ公演でも何度かこころみた。『TABULA RASA 2011』『かつてなき結晶/3.11サイレント』『HAKOBUNE(方舟)』の3作を震災直後に立て続けに上演したが、そこから始まった思考や試行錯誤が、いま進行中の作品でもまだ続いている。そのことを、近いうちに、このブログでもしっかり言葉にしておきたいと思っている。

※写真=『TABULA RASA 2011』より(ホームページ表紙に使用している写真です)

 

 


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「危機に立つ肉体」という言葉を、よく思い出す。土方巽さんの言葉だ。1月21日が命日だった。

 

僕が舞台を観ることができたのは、もう亡くなる前だった。有楽町で行なわれた大規模な公演週間(舞踏懺悔録集成)を観たあとだったかもしれない。スタジオ200という、池袋の西武デパートにあった小さなスペースで続けられていたシリーズに通った。『東北歌舞伎計画』と題されていた。

 

ただならぬ雰囲気がたちこめ、何者かが出てきそうな、そこはかとない予感がただよっていた。本人は舞台に出てこなかったが、なぜか存在感がする。何人もの人が舞台に立っているのに、一人の個人に向き合っているような、とても個的な空間にいるような気持ちになった。

 

何回目だったか、暗転の暗闇が、緊急事態のように深く果てなく感じられたことがあった。おそろしいスピードで裸の女の人が走って消えたら、真っ暗になった。そのとき、もう明るくならないのではないか、、、と感じ思った。いや、もう明るくならなくたっていい、と思ったのかもしれない。

 

あの闇は、ひどく緊迫感があったのだが、同時に、溜め息のような甘美な闇でもあったのだと思う。狭い会場に仮設された舞台は、黒い十字架のカタチをしていた。

 

舞台で踊る土方巽さんを見ることができた人たちのことが、ちょっとうらやましかったりするが、それはどうにもならない。ダンカンもニジンスキーも、ドンも武原はんも、同じ時を生きた人でなければ、観ることができない。同時代性が舞踊の宿命なのだからしかたがない。

 

踊る人と観る人が、同じ空間・同じ時間のなかで息を交わしながら、いっしょにひとつの場を生成してゆく。踊りという行為を通じて、場の生成を通じて、僕らは生命を体験するのだし、同時に、現在という刹那を味わうのかもしれない。そのようなことが、ずっと長いあいだ、受け継がれ伝わってきているのではないかと思う。

 

土方巽さんの舞台に出会ったのは大学に入った直後だったが、それは春闘さえなくなりつつあった80年代の始まりの頃で、情念から逃げ出すような雰囲気が時代に充満していた。時代という言葉それ自体がなんだか古びてきていて、実体のない頼りない時間の流れのなかに漂っているように感じ始めていた。

 

何に対してだかわからない怒りが僕にはあった。その怒りに冷水を浴びせるようなぴしゃりとした感じを、土方巽さんの舞台に感じた。肉体、存在、そのような言葉が消し去られてゆくように感じた。映像でもないのに、現実がフラッシュバックのように短い断片に切断され、めちゃくちゃにモンタージュされてゆくようにも見えた。

 

思い出す。地鳴りのような音、唐突な転換、じっとしている人間の体、、、。暗闇の中で、圧倒され、しかし、なにか不可解な欠落感をも感じていた。会場には独特の興奮がいつもあって、入り込めない感じもあった。しかし、土方巽という存在がなければ僕の現在は大きく違っていたかもしれないと今は思う。

 

舞踏、という言葉を通じて、あるいは態度を通じて、この人は何を僕らに突き付けようとしていたのだろうか。亡くなった、という貼り紙がスタジオ200のロビーに掲示されていたような記憶がぼんやりある。あれから30年以上になることが信じられない。当時の舞台で味わった感覚が生々しいまま消えない。

 

亡くなった冬、僕はまだ踊りを学び始めたばかりだった。

 

 

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体には匂いがある。他人の匂いだ。それを受け容れることができるかどうかで、人と人には特別な好意や敵意が生まれてしまう。なぜだろう。理性の制御が、体の匂いには通用しないのだろうか。

体の匂いには、その人の生活の根っこが染み込んでいる。いろんな感覚があるなかで、嗅覚ほどごまかせないものが他にあるだろうか。匂い、嗅覚、これが映像にも言葉にも非常に強烈に描かれている映画を観て、やや、ひるんだ。ポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』のことだ。

悲喜劇、とはこれかと思った。希望をちらつかせるようなこともなく、脳髄に直接電気が走る。さすが。初めて見た『グエムル』以来、やられっぱなし。

昨秋に流行したアメリカ映画が絶望しつつもどこかで革命を信じている人の物語だとすれば、この『パラサイト』は革命など信じないけれど決して絶望もしない人の物語だと思った。それゆえ、ぬるさがなく、共感できた。

ここには階級や格差がモチーフとして登場するのだけれど、怒りをバネにした階級闘争の果てに何があるのかを、人物はとっくに見透かしているように見えるのだった。38度線がすべてを傷つけているのだろうか。

これはヒエラルキーの物語ではなく、人と人のあいだに生まれる「裂け目」についての物語だと思った。同時に、シェルターつまり「逃げ場」をめぐる物語なのかしら、とも感じた。

半地下の家、高級住宅街の邸宅、その地下に造られた核シェルター、洪水の緊急避難所。あらゆる場所が、どこかしら逃げ場のように見えたし、同時に、それら全てが閉ざされた牢屋のようにも見えた。逃げ場に辿り着いた人は、そこで、避けがたいもの、つまり、人の本性に出会ってしまうのだろうか。

安部公房のさくら丸、J.G.バラードの高層マンション、大江健三郎の燃えあがる緑の木の教会、ドストエフスキーの、ソルジェニーツィンの、さまざまな場を思い出した。

まず金を稼ぐのだ、と主人公が言うそのカットは、ヴィスコンティの『地獄に堕ちた勇者ども』のあのラストにもどこか重なるような重さが来て、こたえた。

 

 

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とても遅ればせながら、新宿の花園神社に初詣しました。

 

周辺にはゴールデン街、にちょうめ、末広通り、以前は小劇場演劇のタイニーアリスもあった、さらに以前は、、、と、いろんな思いや思い出が密集する場所です。

 

唐十郎さんの紅テント、蜷川幸雄さん演出の王女メディア、はじめ、たくさんの経験を、たくさんの揺さぶりを、この場所で得ました。

 

新宿の人混みと喧騒のど真ん中なのに、この敷地の中は、なんとなくホッとします。毎年、そう感じます。

 

いろいろなことが動き始めております。

 

 

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映像作家の保山耕一さんが撮影された映像に感銘を受けた。

 

黄昏のころかしら、どっしりとした寺院のシルエットのむこうがわに、空と同化してしまうほどうっすらとした光の弦が、細く細く、見える。それは、生まれたての月、つまり、新月の翌日の月を撮影した映像なのだという。三日月になる前の生まれたての月で、日没を追うようにすぐ消えてゆくそうだ。気付かないほど淡い輝き。繊細な、じっと眼を凝らしていないと見ることが出来ない美しさ。なにかが現れて消える「一瞬」なるものの尊さ。月が、空が、時が、こんな表情をすることを、はじめて知った。それらはいつもそこにあるのに、、、。

 

身の回りにはうつくしいものが沢山あるはずなのに、その存在のどれほどを体験してきただろうか、と恥じた。遠い所や珍しい花に憧れる前に、見るべき光景や聴くべき音が暮らしとともにあることを、ほんとうに大切にしてきただろうか、と我にかえった。

 

美しいものに限らず、目の前にあるのに気がつかないことが、実にたくさんあるのではないだろうか。あるものをあるがままに見ているわけではないのだろう。視覚だけではないと思う。聴覚でも、皮膚感覚でも、果ては、心でも、僕らはあるものをあるがままに感じとっているわけではないのだろう。

 

日々のくらしのなかで、知らず知らず常識や先入観がたまりにたまって、色んなことを知った気になって、いつしか「自分なりの」ものごとの見方聴き方に支配されてしまう。ものごとを新しく体験できなくなってしまう。なにげなく過ごしていると、僕らの知覚は鈍くなる一方なのかもしれない。

 

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夜中に雪が降った。氷の粒のような感触があった。

きのう昼すぎに、ひとりで初稽古をしたのだが、そのときに感じたものが、ふとダブった。

冷たいのに熱いもの。暗いのに明るいもの。消えてゆくのに確かなもの、、、。

正月明けの稽古で踊ってみようと楽しみに選んでおいた音楽の中にシューベルトのソナタが幾つかあって、それを聴き、稽古をした。

いづれも比較的おだやかで静かな音楽だが、踊っていると、熱というのか、激しい感情のうねりが肚の底からこみあげてくる。そして、時折、なんだか怖いものに追いかけられているような感覚が襲ってきて不安になる。しかしまたすぐに、もとの感情のうねりがもどってきて、身体が熱く激しい感覚になってゆく。

雲の隙間から日が射すように感情が見え隠れする。今までに無い感覚だった。後期のソナタは特に気持ちがぐらぐらして、深い森に迷い込んだような感覚におそわれた。

むかし、舞台でこの音楽を踊ろうとしたときに友人から停められたことがあった。あんなおそろしいものをやるのは、まだしばらく先にしないとだめだよ、まだオマエはあの曲をわかってないよ。と。

その意味がうまく呑み込めないままだったが、いま急にその友人の気持ちが腑に落ちた。耳が変わってきたのだろうか。それとも、年齢や経験とともに少しづつ敏感になってゆくような部分が、心臓や神経のどこかにあるのだろうか。

踊りながら音楽を聴くのは、測り合うようでもあるし、問答しているようでもある。耳を凝らしている。何一つ聴き逃さないようにと思う。音楽と対峙することに、どうしてもなる。音楽には、聴く者の心に眠っている感情を呼び覚ます力を宿しているものがあるが、それは作曲家が音楽に注入した魂の力が働くからなのかもしれない。

踊りながら、聴きながら、もしかすると、シューベルトはこの最後のソナタで、心の暗部や底なしの穴を音のなかに響き入れてしまったのだろうか、と思えて仕方がなかった。

暗さゆえに感じるかすかな光の美しさに似ている。底のない果てしなさを想う。そのなかに消えてゆく響きの切なさを感じる。

音が自分の身体に入ってくる一瞬、そのシューベルトの音といっしょに、見知らぬところに落下してゆくような感覚がうまれてきた。

新作への試行錯誤の途中だが、音楽なるものとの出会い直しが、自分のなかで始まっているようにも感じた。

 


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