体には匂いがある。他人の匂いだ。それを受け容れることができるかどうかで、人と人には特別な好意や敵意が生まれてしまう。なぜだろう。理性の制御が、体の匂いには通用しないのだろうか。

体の匂いには、その人の生活の根っこが染み込んでいる。いろんな感覚があるなかで、嗅覚ほどごまかせないものが他にあるだろうか。匂い、嗅覚、これが映像にも言葉にも非常に強烈に描かれている映画を観て、やや、ひるんだ。ポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』のことだ。

悲喜劇、とはこれかと思った。希望をちらつかせるようなこともなく、脳髄に直接電気が走る。さすが。初めて見た『グエムル』以来、やられっぱなし。

昨秋に流行したアメリカ映画が絶望しつつもどこかで革命を信じている人の物語だとすれば、この『パラサイト』は革命など信じないけれど決して絶望もしない人の物語だと思った。それゆえ、ぬるさがなく、共感できた。

ここには階級や格差がモチーフとして登場するのだけれど、怒りをバネにした階級闘争の果てに何があるのかを、人物はとっくに見透かしているように見えるのだった。38度線がすべてを傷つけているのだろうか。

これはヒエラルキーの物語ではなく、人と人のあいだに生まれる「裂け目」についての物語だと思った。同時に、シェルターつまり「逃げ場」をめぐる物語なのかしら、とも感じた。

半地下の家、高級住宅街の邸宅、その地下に造られた核シェルター、洪水の緊急避難所。あらゆる場所が、どこかしら逃げ場のように見えたし、同時に、それら全てが閉ざされた牢屋のようにも見えた。逃げ場に辿り着いた人は、そこで、避けがたいもの、つまり、人の本性に出会ってしまうのだろうか。

安部公房のさくら丸、J.G.バラードの高層マンション、大江健三郎の燃えあがる緑の木の教会、ドストエフスキーの、ソルジェニーツィンの、さまざまな場を思い出した。

まず金を稼ぐのだ、と主人公が言うそのカットは、ヴィスコンティの『地獄に堕ちた勇者ども』のあのラストにもどこか重なるような重さが来て、こたえた。

 

 

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