コロナ、いつまで続くのか。

新作公演が延期になったばかりか、関わる催しも何もかも、お察しの通り。

この苦しさ怖さをなんとか乗り切って、心からの舞台をつくりたいと、毎日思い悩む。

予測がつかないなか、僕は困窮しているが、

あせっても、不安がっても、何一つ変わるわけがないし、

踊るために生きてきたのだから、いまこの状況でこそ、と、身体に対峙。

白紙の身体。

息をととのえ、姿勢をスッとして、音に聴き入っていると、次第次第に、

自分の中の固いものが、ほどかれ、変化してゆくことを、あらためて感じる。

こういう感覚は、やはり特別だ。

僕の場合は、結局のところ、まず気持ちを静かにすることからダンスが始まってゆく。

そしてダンスとともに、ぐらぐらと何かが熱を帯び、やがて爆発寸前になってゆく。

とても内向的なところから、ダンスは始まる。

そのことを、あらためて思っている。

とても内向的なところに、自分自身の裸の姿があるように思う。

裸の姿。

それを発見することほど大切なことはない。

稽古は、色々と気にしていることや心配していることを、断つことでもある。

稽古は、音や、沈黙や、身体を、受容してゆくことでもある。

囚われている心配事や不安を、ひととき断ち切って、

いまという刹那を感覚してゆくことは、命を聴くことに等しいのでは、などと思う。

さて、、、。

 

 

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つけっぱなしのテレビにちらっと映った宇田川榕菴(うだがわようあん)という人のことが、気になっている。

コーヒーに珈琲という字をあてたのが、この人なのだとかそんなことをやっていたみたい。で、榕菴は江戸時代の蘭学者なのだけど、この人がこしらえた造語に、僕らはずいぶん世話になっているみたいなのだ。

宇田川榕菴。なんと彼は、「物質」という言葉を造った人だという。

これは、ものすごいことだと思う。逆想すれば、榕菴以前のひとびとには物質という言葉が無かったということだ。物質という言葉が無かった、というのは、物質という概念もまた無かったということに近いのだろうか。う~む。いまとなっては想像しにくい状況である。

「酸素」という言葉も榕菴がつくった言葉だという。「水素」「炭素」「窒素」もしかり。そして「細胞」も「結晶」も「法則」も「圧力」も、いづれも彼の造語なのだ。

もう、びっくりである。

ものすごいクリエイティビティーだと思う。

言葉を造るというのは、人の思考回路を大きく変化させることなのではないか。

もしや、それは人間の認識や考えに対する、一種の革命行為なのではないだろうか。

なんて、思えてくる。

 

これはなんだろう?これを何と呼ぶべきか?

呼びようのない何かが、目の前に出現する。

そのことごとくに対して、誰かが興味を深め、考え、言葉をいっぱい造りだしてきた。

その恩恵にあずかって、僕らは何かを考えたり何かと関わりを深くしてきたのだろう。

 

思えば、言葉というものは最初からあるものではない。

言葉というのは、全て、

ひとつひとつ、誰かが造ってきた一種の作品だったのではないかなあ、

と、思えてくる。

 

 

 

 

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稽古場のすぐわきが桜の名所になっている。

 

きのうはまさに花見日和で、

それで、きのう土曜日のレッスンは、フィールドワークでもしようということになり、

まず稽古場から外に出て、花を見に行った。

 

さいしょは花を見て、少し話し合って短い踊りをつくってみるつもりだったが、

稽古場に帰って、もう、すぐに踊ってもらった。

満開手前の桜にかこまれていると、とにかく黙って踊るほうが良いと思えてきた。

 

クラスメンバーの立ち居振る舞いには、やはり花の気配を吸い込んだ身体の、なんともいえない感じがあった。

 

言葉にしてしまう前に、解き放ったほうが良いものが、身体にはたくさんある。

花は、そういうものを誘い出してくれる。

 

かなり踊ったあと、自然に話もした。

 

いま、ウイルスから始まって心配事がたくさん増えて、窮屈になっている。

だけど、花からこぼれだしてくる光を浴びて、

そして、身体からこぼれだしてくる動きをすべて受け容れてゆくとき、

僕ら自身もまた、なにか明るいものを生み出すことが出来る存在であることを、

なんとなく思うことができた。

 

世情にふりまわされたり、まわりに気を使ってばかりいると、

日常に閉じ込められて、まわりが澱んでゆく。

 

自由であることも、なんだか難しいもののように感じ、

思えば思うほど何かが遠ざかってゆくような心境になることがある。

そして、いつのまにか、自分で自分を束縛してしまう。

そうすると、ダンスはどんどん遠ざかる。

 

かたく萎縮してしまわないように、僕らは身を振り動かす。

 

踊りを大事にできる人は、好きなものや、好きなことを大事にできる人だ。

自分の好きなことを大事にできる人は、家族やまわりの人の好きなことをも大事にできると思う。

 

踊るということに懸命になってゆく人は、いつか必ずやわらかくなる。

自分自身に対しても、まわりに対しても、やわらかく接するようになると思う。

 

踊りの稽古は、素直に感じることを繰り返してゆく稽古だ。

見えるもの聴こえるものを大切に受け止めてゆく。

そして体の中であたため、ふたたび外の世界に還してゆく。

 

花を見ることから、そんなことを、あらためて思った。

 

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▶︎定期クラス春季募集中(4月以降に受講を開始する方)

※ただいま、講師がマスク着用のまま稽古進行をさせていただいたり、設備消毒をする場合がありますが、ご理解をお願いします。また、稽古場設置の消毒薬の使用や、入室前などの手洗いを心がけてください。

 

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▶︎新作公演は10/3〜4の開催になりました。ぜひご注目ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

メメント・モリ(死を想え)という言葉を、思う。

だれもがいつか死をむかえる、そのことを忘れてはいけない。という意味らしい。

中世ヨーロッパでペストが大流行したころ、さかんに語られたというこの言葉に、僕はしばしばクッとした引っかかりを感じてならなかった。

疫病をモチーフとして人間社会を描いた芸術や文学が多数あるが、その根底にあるのは、この「メメント・モリ」というロゴスなのではないかと思う。

以前のダンス作品でモチーフにしたリストの『死の舞踏』や、デフォーの古典文学『疫病流行記』は、なかでも僕には特別なものだし、ブリューゲルやベックリンの絵にはメメント・モリの気分が強烈に満ちあふれているものがあって有名だ。

とりわけ忘れがたいものの一つが、ヴェルナー・ヘルツォーク監督のドイツ映画『ノスフェラトゥ(Nosferatu: Phantom der Nacht)』で、まさに、メメント・モリの精神に満たされているようだった。

ある日、ある街、港に船が着き、その船には病気が蔓延している。やがて、その船から鼠が街に逃げ出す。そして、その鼠が疫病を媒介して街に疫病があふれてゆく。こわれてゆく街に吸血鬼があらわれ、夜ごと家に忍び込み、女から血をすすってゆく。

有名な怪奇物語だが、ありていのことではすまない。描写が凄い。パンデミックを思わせる映像、街に人々が飛び出して乱痴気騒ぎをして踊り狂う映像。大量のネズミがペストをのせて道路や広場を埋め尽くしてゆく映像。あらゆる映像が、人間社会の危機を思わせるのだが、それらは同時に、精神のすさびゆく有様にも見える。

ダスティン・ホフマンの『アウトブレイク』もさることながら、ヘルツォークのこれは、深層の恐ろしさが映像に音に演技に染み付いて怖い。さすがだ。ドイツ表現主義の名作であるムルナウの『吸血鬼ノスフェラトゥ』をリメイクした映画なのだけれど、ただごとではない雰囲気が漂っていて、いま僕らに警告を与える。芝居はイザベル・アジャーニ(乙女)とクラウス・キンスキー(吸血鬼)が組んで無敵。観れる方法があれば、ぜひご覧いただきたい。

それから、カミュの小説『ペスト』が、今すこぶる売れているらしい。

なんだか、わかる。

家にあったのを引っぱり出して一気読みしたが、この本の凄いところは、疫病にからんで現れてくるさまざまな状況描写を借りて、実はファシズムの到来と人々の変化を描いてゆくところなのではないかと思う。

疫病そのものよりも、疫病にあおられて人々が知らず知らず自分自身を見失ってゆく姿が、そこには描かれている。

感染のみならず、ウイルスが巻き起こす不安のほうが、よほど恐ろしいことなのだ。

ということを、この本は教えようとしていると僕は感じる。いまこの状況のなか、この本から私たちは何を読み取るか。

上の写真はベックリンがペストを描いた作品だが、この怪物は疫病が運んでくる死の影でもあるのだろうが、いま眺めていると、どうもそれだけではないのではないか、という気がしてくる。

疫病が運んでくるのは、何よりも不安という怪物である。世の不安が自らの心に入り込むと、大切にしてきたものを、ないがしろにして目の前の事にばかり気を取られる。余裕がなくなるとエゴが増大し、他人の心に興味を注ぐことが出来なくなってゆく。そんなとき、世界に何が起きるのかを、文学や絵画は教えようとしていると思う。

コロナウイルスによって、案外、いま僕たちは知性や文化をいかに保つことが出来るのか、ということを試されているのかもしれないと、思う。

 


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みなさま

新型コロナウイルス感染症の現在状況および終息時期の不確実性にかんがみ、来る5月30~31日に予定しておりましたダンス公演を、下記のとおり延期することにいたしました。楽しみにしてくださっていた皆様には大変申し訳なく存じますが、以下の〈ごあいさつ〉にてお伝えいたしますような考えにて、延期の決断に至りました。

〈公演日程変更情報〉

新規開催日程:2020年 10月 3日(土)~ 4日(日)

公演内容:櫻井郁也ダンスソロ新作公演2020

会場:plan-B(東京都中野区弥生町4-26-20-B1)

主催:十字舎房

共催:plan-B

主な情報告知など:櫻井郁也/十字舎房webサイト(LINK )

(内容やチケット販売などの準備が整い次第、上記サイトおよび当ブログにて、ご案内いたします)

 

〈ごあいさつ〉

 みなさま、いつもありがとうございます。今回の決定にいたるまで、非常に悩んだのですが、すこしでも安心してご鑑賞いただけるように、という気持ちで、上記の決断をいたしました。日常の学びやコミュニケーションは、なんとか工夫して続けないと壊れてしまうものが多々あると存じますので、公演やライブ以外の活動は、衛生管理を徹底してつづけてゆく所存でおります。しかしながら、「公演」あるいは「ライブ」と名打っての催しに限りましては、実際の集客人数がどの程度といたしましても、上演中お客様が自由に出入りしたり動き回れるような性質のものでもありませんし、ご来場されるにもご不安があるのではと推察され、この状況下では積極的に沢山の方々にご来場くださいとお願いできないと考え、早い時点での判断とさせていただきました。5月なら状況も好転しているのでは、という思いも少しは脳裏をよぎりましたが、ここは、やはり、少しでも安心できる時期にご鑑賞いただきたく、いまは大事をとって、秋まで延ばさせていただく、という考えに至りました。経験したことのない事態のなか、本当に悔しい思いでいっぱいではありますが、この状況を乗り越えながら稽古を積み重ね続け、より深まりのある踊りを楽しんでいただけますよう、そして、これまで以上に作品を詰め、味わい深く質の高い公演を準備してゆく所存でおります。全力をかけて集中し、状況を克服した作品を秋の舞台として、皆様にお届けしたいと存じます。申し訳ありませんが、公演の実現まで、いましばらく、お見守りいただけますよう、心よりお願い申し上げます。

櫻井郁也、十字舎房、plan-B 関係者一同

 

※一部劇場にて、変更前の会期が記入された告知フライヤーが配布される可能性があります。もしお手元に届きました際は、何卒ご容赦くださいませ。

 

stage 櫻井郁也/十字舎房:ダンス公演情報  

 

 

 

やるべきことはやり、控えるべきことは控える。

そんなことを真剣に考えていると、稽古というものの大切さに思いが行きます。

劇場が閉じても、稽古場のドアは開きつづけます。

美術館が閉じても、アトリエの扉は開きつづけます。

戦時中もそうだったと、教わってきました。

日々つづけてきたことを、こういうときこそ中断してはならないと、

ほとんど動物的な直感で、そう思うのは、震災のとき以来です。

芸術芸能関係の打撃は皆さまご存知、僕も御多分に漏れず。

公演やライブを控えなければならないのが、震災の時との違いです。

あのときは、むしろ、そういったことをするべきだった。

祝祭的な力が必要だったから。

でも、今回は、むしろ、もっと地道で日常的なものが大切になっていると思います。

学びの場、対話する場、コミュニティー、、、。

なんとかして働き、学びつづけなければ、大切に育ててきたものが病気になります。

文化の根っこを絶やさないこと。個人の文化を、、、。

思いを蓄える。思考を整理する。

これまで、大切にしてきた何か。積み重ねてきた何か。

不安に惑わされないように気をつけねば。

世相不安が自らの心に入り込むと、

大切にしてきたものを、ないがしろにして目の前の事にばかり気を取られる。

やがて足も取られるにちがいありません。

 

きのうは3月11日でした。

しばらく眼を閉じて、そのあと、お稽古をしました。

写真は、あの年の桜です。

東日本大震災から9年たち、僕らは、また新たな困難のなかに立っています。

 

あの日から始まった試行錯誤がたくさんあります。

あの喪失から始まった努力が沢山あります。

いま、僕らは道の途上にいます。

あの日、そして、その数日後、ここに書いたことを引用します。

 

あの揺れを追うように

道路に水があふれ出してきました

ひび割れや、きいたことがない、低い音がしました

ひとがさけんでいる

なのに しんとして感じてしまう・・・

そんななか、湾岸から都心へ、都心から家路へ。

朝がくるまでのあいだ、ほんとうにいろいろなことを見てしまった

そして、ほんとにいろんな感情がココロの中をかけめぐってゆきました。

とても怖い、ほんとうに大変なことになってしまったけれど、

ここから始まってゆく新しいものがきっとあるはず。(2011年3月11日〜12日)

 

いま私に出来ることは何だろうか、

日本中の人がそんな思いで過ごされていると思います。

地を踏み鎮め、天に手を伸ばして祈り、

身を寄せあい、たがいの命をよろこびあって、

つらいこと、かなしいことを乗り越えてゆく。

そんな行為を、いつしか私たちはダンスと呼ぶようになり、

そんな行為のつながりのはじっこに触れたくて、

少しくらいはつながりたくて、

踊りの学びをしているんだと、あらためて感じています。

地がゆらぎ、水がさかまき、放射能におののき、

この国がはじめて経験するのだというほどの、

世界にも例がないのだというほどの危機。

どうすればいいのかわからないことが、

山のようにでてくる毎日、

刻一刻・・・

深い深い不安だけれど、

でも、

人と人が支えあおうとしているのだということも、

だんだんと肌身に迫ってくる。

そんな現在を、

捨てたもんじゃない、

新しい時代が始まっているのではないかと、

こころひそかに感じてもいます。

とてもちいさな一人一人が、

ちいさくとも一人一人の力を信じて、

歩いてゆけば、

きっと大丈夫だと思う。(2011年3月16日)

 

 

 

 

 

 

どんなときにも存在として存在し続ける。

ここに居る。

その受け止めが稽古の重要な体験のひとつになる。

踊る、とは、正確に真摯に正直に「居る」ことだったり、

自分をごまかさずに正確に立つことだったり、

必ずしも動くことがすべてではない。

そのようなことを、このごろ、あらためて思う。

 

 


lesson 櫻井郁也ダンスクラス  

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前回の記事を書いた直後に金曜「ダンス/舞踏クラス」と土曜「レギュラー&基礎」の稽古があり、僕の眼には、まさに稽古らしい稽古と思えた。

体の動きという以上に、ひとりひとりの心のうごきが、ぐっと迫ってくるような空気感だった。踊りは空間との対話、踊りは自己との対話、踊りは時間との対話。無数の対話との連続が、踊りの身体を育ててゆく。あらためて思わされるような空気感でもあった。

がらんとした稽古場に数名があつまり、掃除をしたり少し話したりして、稽古が始まる。

はげしく動く人もあれば、じっと動かない人もある。それはいつも通りだ。しかし、ひとりひとりが、それぞれ自分を、自分と他との関わりを、探り問うているのが、見てわかるのだった。

よく見ていると、ひとりひとりの身体のまわりで空気が微細に動いて空間全体に影響している。それによって、空間が明るくなったり暗くなったり、している。人の感情が空間や空気や時間に作用するのが、感覚される。言葉にならないものが、そこには確かにあるのだと思う。言葉以前のもの、言葉を超えるもの、そのような、僕自身では公演の作品に託してきたような雰囲気や感覚を、クラスの稽古のなかで、あらためて感じる。

ところで、、、。

音楽をきいたり、人の言葉をきいたり、というなかで、私はいま何を感じ何を思っているのだろうということを鮮明にとらえてゆく作業が、実はダンスの稽古のいちばん有意義な側面なのだと僕は考えてきた。カラダがよく動く、とびぬけたイメージがでてくる、、、。そんなのは、自慢につながるだけではないか。そこに囚われてしまうと、ダンスの魅力は半減する。動きたければ思い切り動き、動きたくなければそうすればいいのが身体。あるがままにしないと心の動きが身体にうつらない。

なにかと寄り添ってゆくこと。なにかと関わってゆくこと。なにかと共に、なにかを生み出してゆくこと。それらの苦楽が肉体を揺さぶってダンスになるのだと思う。それらは簡単にカタチになるものではないが、とても確かなエネルギーを体内に育てる。ダンスとは何かとともにあることから始まるものだ。

意外と思われるかもしれないが、踊りには人を冷静にする要素があると思う。(長くなるので詳しくは機を見て書くが)踊りには我を忘れさせるような一体感をもたらす集団舞踊もあるが、その正反対に、見つめる側には、これは何なのかと考えさせられたり感性を拡大されたり、踊る側には、いま私は本当は何をしたくて何を考えているのかということを解き明かすようなハタラキが、踊りにはある。いま感じていること、いまイメージしていること、考え、感情のうごき、意思のありかた、それらを意識化し伝達してゆく。踊るというのは、そういう作業でもある。ただ無意識に体を動かすのとちがっている。自分を見つめ直したり社会の状況を見つめ直したりするきっかけを、踊りがもたらすことが多々ある。それは、陶酔とは別の、覚醒、という側面だ。踊りは陶酔と覚醒の両サイドに人の心を振ってゆく。振り、ゆさぶり、かたまってしまいそうなアタマやカラダやココロやカンケイを柔らかくほぐしてゆく。

 

 


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▶︎次回公演は10/3〜4です

 

 

 

 

 

こよいかぎり。という気分がダンス公演の大きな魅力の一つだと思う。一期一会ともいえるかしら。

あと何回、舞台で踊れるのだろうか。私の命と踊りはどこまで一緒にいることができるのだろうか。そんなことを思う日が増えてきた。

去年は同じ年のダンサーが亡くなった。年が明けて大先輩にあたる人が亡くなった。親友や肉親をふくめ、亡くなる人がまた増えた。反面、まだここに居る、そう感じることも、増えた。年とともに、あるいは喪失とともに、積み重なって重くなってゆくこの感覚は、そんざい、というものに関わっているのだろうか。

ダンスは生きているからこそ踊れるもの、生きた肉体のものだ。しかし肉体が生きていても心が生きていないと踊ることは出来ない。心が生きている、ということについて、人間の心の生き死にについて、真剣に考える時期が来ているのではないかと思えてならない。

ダンスの公演というのは、大げさに言えば、目の前で命が変化してゆくのを目撃する現場だ。肉体の動きはダンスの重要な要素だが、もっと重要なのは、舞手と観手のあいだに生み出され刻々と変化する緊張感や感情のうねりだと僕は考えている。踊りは場を生む。場全体が生まれて変化してゆく感覚のなかに、身を置く。

一回の舞台は、演者にとっても観客にとっても二度とない瞬間の連続だと思う。舞手も観手も生き物。同じ夜はもう来ない。だから、夜を惜しむように踊る体があり、その踊りに立ち会い観る眼差しがあるのだと思う。

こよいかぎり、という刹那を、もういちど、もうすこし、と重ねてゆく。そこにダンス、いや、踊り、というものの特有の楽しみ方があるように思えてならない。

二度ない瞬間。それをまざまざと感じることができるようなダンスの舞台をやりたい。このごろ、ひどく、そう思うようになっている。

 


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▶︎次回公演は5/30〜31です。