すこし前にとった写真です。

美しいものは、生きる力をくれます。

そのことを強く強くおもう毎日です。

いきものが美しいのは、互いに力を与え合うためだと思います。

 

 

lesson 櫻井郁也ダンスクラス
4月8日から5月6日まで、新型コロナ対策のために臨時休業中です。再開のお知らせは当ブログに掲載させていただきますので、いましばらくお待ちください。

 

stage 櫻井郁也/十字舎房:ダンス公演情報

5月公演は、新型コロナ対策のため、10月3日〜4日に延期いたします。くわしいご挨拶や前回公演の記録などを、上記サイトにて掲載中です。ぜひ、ご一読ください。

 

daily 日々のこと

 
 
 
 
 

ただいま、きんきゅう、じたい、せんげん、が、だされて、います、ふよう、ふきゅうの、がいしゅつを、、、。

という、ゆっくりとした女性の声が毎日決まった時間に僕の街に響き渡る。

緊急事態宣言が出されて一週間を越え、僕の住む東京は、ずいぶん変わった。

すでに沢山のものを失っていたが、きんきゅうじたいせんげん、というその一つの「言葉」の影響は、さすがに大きかった。やはり言葉は世の中を変えてしまうのだなあと思った。

不安と困窮のかわりに、ウイルスは、とても特殊な時間を僕らに与えている。

休止、という時間。

休息ではないし、停滞でもない、予測ができない宙ぶらりんの時間。

この時間をどう使うか。この時間のなかで、なにを考えてゆくか。

そこに、もしかすると、何か非常に大切なものがあるかもしれない、と思う。

 

未来は予測できない、ということを、この状況から僕は本当に理解し始めている。

この状況によって、僕は僕の根っこを揺さぶられていると思う。

僕らの行動の多くは、ある程度の予測から生まれていたのだから。

いま、この休止の時間には、楽観できる要素もないし、絶望する根拠もない。

状況は深刻だが、心配し過ぎては僕らの力が萎縮してしまう。

人間は、萎縮すると、出来ることも出来なくなってしまう。

いま、それが一番こわいと思う。

いかに自分を保つか。そこが大切だと思う。

そのためには、好きなことを、きちんとやる。好きな人と、何とかしてコミュニケーションをする。そういうことが必須だと思う。

素朴だが、それ以上に大事なことがあるかしら。

それに、思えばそれらは、つい最近まで、少なからず我慢したり、後回しにしてきたことかもしれないし、、、。

 

先が見えないときは、やるべきことをやり続ける以外に何があるだろう。

困難のなかでこそ、やるべきことが、見つめるべきことが、きっとあると僕は思う。

いま僕たちは裸なのだ。

もしかするとこれは、人間性を取り戻すための時間になるかもしれない、なんて思ったりもする。

いつも何かに追われていて、自分の考えをゆっくり温める時間も足りていなかったのだから。

いま、たぶん誰一人として一週間先がどうなっているかを確信できない。

世界の危機と国家の危機と企業の危機と個人の危機が、ひとつの線上に並んでいる。こんなことは初めてだ。

経済のこと、健康のこと、文化のこと、科学のこと、労働のこと、すべてが現在の考察の対象だ。

いま僕らは、新型コロナウイルスという「知らないもの」に向き合っている。

そして「予想がつかない時間」のなかで生活している。

未来の子どもたちは、たぶん、僕らの立ち居振る舞いを、何らかの参考にするのだと思う。

身動きできない状況のなかで、僕らは歴史を変える時間を作っているのかもしれない。

 

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カールソンとエヴァ・イェルバブエナがデュエットを踊る映像を見た。

時を忘れた。

毅然としたコンテンポラリーダンスにスパニッシュの叫び。

シンプルなギターの音に寄り添うように、黒髪のイェルバブエナが踊り始め、いきなり泣ける。

踊りのなかで、優しさと痛みが絡まり、渾然となって乱れてゆく。

その踊りと距離を置いて、もうひとつの踊りがある。

金髪長身のカールソンだ。

かなり長い時間、後ろ姿のまま踊っている。息を殺して踊る。

そして、パっと振り向いた時、あらゆるものをつらぬく眼が刺さった。

たくましく、かつ、デリケートの極みと思えるような運動といっしょに、

彼女から、まっ赤に溢れ出てくるものが、迫ってくる。

僕には、本当の心の底からの声に感じられて仕方がない。

映像にのめり込み、見とれながら、現場はどんなかと想像する。

ナマの場に行くことが出来ない現在のことも当然思う。

踊る人と同じ場所に居たい。そして、たくさん拍手をしたい。

若いころ、パリの市立劇場でソロを観て彼女に惹かれた。

あれから20年以上たって、きょう、もっと好きになった。

そして、体の中がむずむずしてきた。

コロナをやっつけたら、思いっきりダンスをしよう。

きっとだ。

 

 

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レッスン(櫻井郁也ダンスクラス) 

 

  

 

この状況のなか、政治の力、そして政治家の思考回路がどうなっているのだろう、というようなことに、つい思いが巡る。

緊急事態宣言とならび提示された補償案で、日本政府は困窮のレベルに線引きをしようとする。納得がいかない。

ハンガリーでは首相権限で緊急事態宣言が無期限延長が出来るようになったという。イスラエルでは議会閉鎖まで起きそうになったが阻止されたと知った。

民主主義は大丈夫だろうか。みんなが感染と失業の恐怖にさらされる現在について、力をもつ人たちの本音はどうなのだろう。不安になる。

かたや、コロナ対策の一環としてベーシックインカムの導入を意識し始めている政治家がアメリカやイギリスやスペインなどに出てきているという報道が見られ、驚いた。UBIがどの程度の実現性や影響があるかはまだわからないけれど、この状況下だからこそ意味ある政治実験になると思う。

僕が教えているダンスの一つにオイリュトミーというのがあるが、これを創案したルドルフ・シュタイナーは、芸術や教育の実践とならんで社会や政治に対する意見が多数あることでも知られてきた。その思想の中で僕は「経済の友愛化」という考え方に興味をもってきた。お金とは何か、ということを考えずにいられないからだ。

いかにしてお金を稼ぐか、ということにアタマを悩ませてきたが、お金の役割は何なのか、ということを、もっと考えなければならない。いま経済は競争の道具になっているが、元々は、お金というものは助け合いのための発明だったのではないかと僕は想像する。

いまここにきて、UBIの可能性も含め、このコロナ状況は、友愛と経済の関係をさぐってゆく通過点にもなるのではないかと、思えてならない。政治と私たちの関係に加え、私たち一人一人が経済に対する考え方を変えてゆくチャンスかもしれない。

非常事態を背景に、各国が、そして各国それぞれの国民一人一人が、政治と経済と国民の関係をめぐって、何かしら考えざるを得ない日々がめぐっている。新しい社会について真剣に考える時期が突然に来た、そう思えてならない。地球規模で、だれもが同じことに困り、同じことを解決しようとしている。

人と人は、いかに助け合うことが出来るか。というミッションを世界中が共有してゆくことになると思う。

危機の時代には友愛精神が試されるにちがいない。そして、おなじくらいに、危機の時代は全体主義を生みやすい。

ひじょうにびみょうな状況を、僕らは漂っているのかもしれない。

ウイルス状況のなかで、国民の声を、世界の声を、人間の声を、政治家はどのような思いで聴いているのだろうか。

国家と国民と経済の関係については、どのみち変化を考えなければならない地点に来ていたのかもしれない。もう、資本主義の競争社会のままでは未来は明るくないのでは、なんてことも、とても思う。

いま僕らが困り果てながら考えていることすべてが、未来を構築する導線になるのではないか、とも思える。

新しい時代は、いつも困難から生まれてきた。

 

 

lesson 櫻井郁也ダンスクラス

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daily 日々のこと

 

 

 

 

 

 

 

 

どこへ、、、。

  行くべき所へ、、、。

 

 

「もうすぐ誰もが通訳を必要とする。自分の言葉を理解するために。

 

「人は生まれてすぐに他者になる。

 

「私は、ノン、というために居る。

 

「私たちは互いが夢見る人だ。

 

いづれも、『さらば愛の言葉よ』という映画の台詞。ゴダールの映画のなかで、僕が好きになれた一本。勝手にしやがれ。パッション。ドイツ零年。そしてこれ。

 

空の雲の陰影、川の流れ、男と女の居場所、それらに言葉が重なってゆく。これは言葉についての映画。つまり関係についての、愛についての映画だ。

 

ウイルスによって切断の危機にあるものについてのさまざまを、この映画から感じてならない。おもえば映画とは切断されたものの再構築でもある。

 

結末から逆算したような映画が多くていやになるが、この映画には結末がない。あらゆる会話にも結末がない。

 

会話は会話を生みつづけ、イメージはイメージを生みつづける。

それが僕らのいまの日々にダブる。

 

僕らにとって、すべては始まりの連続なのだということを、この作品から確かめる。

これはダンス的な映画だと思う。冒頭5分そこそこで、そう感じる。

 

愛の問題と政治の問題、政治の問題と現在の問題が、混在する。

僕らの現在に関係している。

 

多くの映画が世界を解釈しようとするのに対して、この映画は解釈を捨てる。

 

これは、ひたすら世界を見て聴いている映画だと、僕は思う。

 

画面のどれもが、これみよがしでない。

すべては通過点、流れのなかにある。

そう感じ、そこに共感する。

 

ゴダールは、クリエイターではなく「引用者」であろうとする。

これが、すこぶる重要だと思う、連帯する。

世界を聴きたい、世界を見たい。

 

「おお言語よ」という台詞もあった。

心に焼き付く。

言葉について考える、ということは、革命者であろうとすることに近しいと僕は思う。

 

ふと思う。現代史は革命史なのかもしれない。

停滞や絶望もふくめて、どこかでなにかに抵抗するかぎり、革命は現在進行中なのではないか、、、。

そんな声が、画面から聴こえてくる。

 

ゴダールの映画の奥には、反抗がある。

尊敬する。

 

 

【追記】

トップダウンによる東京自粛に震えつつ、いくつもの映画やダンス映像を見まくり本を読みあさる、そのなかの一本が上記の映画だった。

ときめいたものについて順次書きたい。

 

 

 

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レッスン(櫻井郁也ダンスクラス) 

 

  

 

 

「私たちは未来のために良いものを創造するあらゆる機会をつかむべきだ。そのため、次のことが言える。アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要なのだ。特に今は」(ドイツ文化相モニカ・グリュッタース)

 

3月30日のNewsweekで知った。すでに多数の方々が話題にされているが、ドイツ政府が、新型コロナ対策のひとつとして、芸術関連の個人や組織に対する非常に強力なサポート体制を組んだ。日本政府は報道で知るかぎり芸術家どころか国民に寄り添う態度を未だ示してくれない。

 

健康、というものに精神的な健康をしっかりと含めているドイツ政府の認識に、さすがと思う。芸術家たちが商業性よりも大切にしてきたものを、ここにきてドイツ政府は重視しているように思える。美は命を支える重要なファクターだ。コミュニケーションは社会のエネルギー源でもある。その両方を担うのが、芸術とエンタテインメントだ。

 

美術館も劇場もカルチャーセンターも個人スタジオもすべて、じつは、医療と同じくらいの立場で心の健康を担っているのではと思う。そう考えれば、極端な例え話をすれば、がらんとした劇場で数名の観客のための公演を継続的に行うことが出来るくらいの経済サポートを、政府やそれに準ずる力をもった人たちが打ち出すことが出来れば、このウイルス騒ぎは未来のために役に立つ結果をもたらすと僕は思う。

 

日本では都市封鎖に罰則が伴わないのだから、ほんとうは世界トップクラスの経済サポートを全国民に行うべきなのだと思うのだが、現金給付をすると金を貯め込んでしまうのではないかというような発言をきいてしまうと、日本政府は国民のことを信用していないのかな、とも思えてしまう。

 

充分な経済サポートなしに、さらなる自粛を進めることには限界がある。この状態を思えば、経済や社会活動や文化活動を止めない状態で、いかに乗り切るか、というのが日本の、いや、日本国民一人一人のコロナに対する挑戦になるのではないかとも思う。この、ほんとに困った状況、なんとかうまく助け合えないものだろうか。

 

 

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春の雪が降った。

人影まばらな東京が真っ白になってゆく。

まるで、古いフィルムで見た戒厳令の日みたいで、美しさと不安が入り乱れて、無口になった。

 

この異様な空気の中で思ったのは、悲観的にならないで、毎日してきたことを毎日やり続けよう、という、とても小さな決心だった。

 

僕らはいま萎縮してはならない。

 

できないことを考えたら震えが止まらないし、じっさい生活も危うい。

けれど、何かできることを行い続けねばならないと、すごく思う。

 

僕の場合、公演をはじめ多人数の方々との関係は難しいが、個人稽古やクラスレッスンを切らさない、ということは、なんとかして出来るはずで、そして、そこに、とても重要なものがある。

 

修練と伝承を切らさないこと。つつましく、きまじめであること。

 

という、舞踊において最も大切と言われてきたことが、いま急に身に迫る。

 

出会った先生のなかに、第二次大戦中の稽古について話してくださった方があり、ドイツの先生だったから、ご経験はホロコーストと芸術弾圧に触れていた。

絶望と恐怖のなかでも踊りたいという人が少数あって、隠れて稽古と指導を続け、そのときの関係と内容が戦後の核になっていった。というその話を、いま、心し直す。

 

つらい時にも続けたことが、本当の力になるのだと思う。

 

 

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桜の花が美しいのに、目に見えないウイルスに僕らは困り果てている。

かなしい。

 

 

ちょっと前の、「オイリュトミー」のレッスン日のことを思い出した。

参加者が流れる音楽や声に身をまかせてゆこうとする姿に、あらためて感慨をいだいた。

状況のなかで、固く萎縮してしまいそうなものに、

音楽や言葉が、もういちど息吹を与えているように感じたのだ。

 

(オイリュトミーというのは、僕のダンスに強い影響を与えたメソッドの一つであり、ダンスクラスの一つとして長く教室を続けている。僕にとっては、土方巽の「舞踏」とマーサ・グラハムの「グラハムテクニック」に並ぶもの。独自のダンスを探すうえで、技術的にも思想的にも、最も力強い道しるべの一つになった。)

 

レッスンの様子をここに書いたことがある下記LINKが、オイリュトミーは言葉や音楽を呼吸するように踊る。

 

たとえば基本練習のなかに、こんなのがある。

身体からいちど力を抜いて、あらためて床を踏み、じっくりと背筋を垂直に立ててゆく。

ただそれだけのことなのだが、レッスンでは、生の声の響きをききながら、これを行なう。

人は、空気を体内に吸い込み、呼気に思いをのせて言葉を発声する。

それに気持ちを合わせて、身体を動かしてゆくのがオイリュトミーだ。

 

上記の練習は、その最も初歩のひとつ。原点。

ずっと続けていると、聴くことから、体内に独特の感覚が生まれてくるのがわかってくる。

レッスンを始めるとき、僕は毎回これを行なってきた。

この練習をしているうちに、身体のこわばりが少しずつやわらいで、再びまた引き締まってゆく。

そのたび、ちょっとづつ、その日の雑念が身から離れ、同時に何か新しい気分が湧きあがってくるように感じる。

 

僕は初めてオイリュトミーを観たとき、踊り手の足が地面から遊離していてジョットォの絵に似ていると思った。空から降りてきて、まだ少し浮いているような感じで、繊細に足を動かして、あちこちに舞い移ってゆく。

身体が空中に抽象絵画を描いてゆくようなその手法は、ダンスというより一種のドローングのようにも見えたし、地水火風のような元素の姿をイメージしようとしているようにも感じた。

しっかりと地に足をつけエネルギーを放つ身体に僕は魅力を感じてきたが、それとはまた別の、より空間のひろがりへ向かおうとするような身体の魅力を、僕はオイリュトミーから教わった。

三島由紀夫が「イカロス」という詩を書いたが、そこに歌われている一節をオイリュトミーに思い重ねることが、いまもある。

人が地に足をつけるのは宿命だが、飛ぶ夢を見てしまうのも、もうひとつの宿命かもしれない、とも思う。

地に足をつければつけるほど、空や宇宙や光の世界に対する憧れもまた強くなってゆく。

 

僕のダンスは好き勝手に創作しているし衝動のままに踊ることを旨としているが、身体や感覚を磨いてくれるオイリュトミーの稽古が楽しく、ダンストレーニングの重要なループのひとつになっている。

音楽に身を任せるとき、僕らは音に溶け込んだエネルギーを吸い込んでゆくのではないか。誰かの言葉に身を委ねるとき、僕らは人生に耳を澄まそうとしはじめるのではないか。

そのようなことを、僕はオイリュトミーのメソッドから教えられているように感じてならない。

そして、なぜかしら、こういう不安で困難な時代にこそ、オイリュトミーは有効になってくるのではないかという、直感が、してならない。

 

オイリュトミーは人間の結びつきをめぐる踊りなのだが、僕らはいま、どんどん結びつきを失いそうになっている。コロナウイルスはその象徴のようにさえ思えてしまう。

 

オイリュトミーは、ふんわりとした優雅さや柔かさが特徴的な踊りなのだが、思えば、危機の時代を予感するようにして生み出された。1912年ごろのことだが、大恐慌やナチズムや戦争に向かってゆこうとする世界を、創案者たちは予感していたのだろうか。

この優雅さや柔らかさは、危機の予感のなかで生まれた、ある種の「希望の形」なのではないかとも思える。それは、人間の根本にある何かを信じてゆこうとする態度に、どこか通じるのではないか。と、いま、僕には思えてならない。

稽古を始めて37年になるが、いまほどそう思えることは、かつてなかった。

 

※関連記事( LINK )

 

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