舞台公演でもレッスンでも、場が生まれる。

踊りは場とともに生じてゆく。

なぜダンスはライブが決定的なのか。この長い自粛期間のなか、一人稽古したあと、そのことに思いが行くことが多い。

公演では、みせる、ということだけでなく、同じ場所・同じ空間・同じ瞬間を、ともにする、ことが舞台のたび非常に大切に思えてならなかった。

レッスンでも、なにかしらの方法を情報的に教えるというのはあまりにも簡易で失礼と思い、そこに一緒に居る、ということから通じ合ってゆくものをこそ決定的に重要なものと考えてきた。

現場制。ということを大切にダンス活動をしてきた。それが根本的に否定された状態で、早春から過ごしすでに初夏となった。

おんらいん、なる方法にいつしか慣れたが、どうしても疲れがある。

ツナガル、という言葉があるが、ツナガルどころか、ぷつりと切れている距離を生理的に感じ、それを埋めるためにかなりのエネルギーを使うのだろうか。

本当はナマで話したかったね、とか、今度はホントに会いたいね、とか、そんな言葉をこの春に何回聞いたかなあと思う。

視聴覚だけで関わるとき、とても集中力が必要になり、気遣いやちょっとした言葉の配慮に大変な落差があらわになる。

そして、なんとなく一緒にいるうちに、いつのまにか仲良くなるというようなこととは異質の、独特の緊張感があるようにも感じてしまう。

あれは、そこに肌が介在してないゆえの独特の渇きが絡んでいるのではないかと僕は想像する。

いっしょにいるようでいっしょにいない。

触覚や嗅覚や味覚が欠落すると、関係そのものが(つまり世の中の根本が)変質してしまうのではないか。そんなことにも考えがおよぶ。

関係なるものについて、いまこの時期にこそ、もう少し考えてみたいと思う。

 

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5月30〜31日に予定しておりました櫻井郁也の新作ダンス公演は、新型コロナ感染症の対策のため、本年10月3日〜4日に延期となっております。くわしいご挨拶や前回公演の記録などを、上記サイトにて掲載中です。ぜひ、ご一読ください。

 

 

 

 

 

 

ドクダミの花が咲いてる。

可愛い。

なぜかしら、ほっとする。

 

この小さな白い花は雨を呼び、

その雨は夏を呼ぶのだろう。

 

自粛生活が始まった頃はまだ寒かった気がする。

そして、桜花をながめながら、溜め息をついた憶えがある。

もう、こんな季節になっている。

 

僕らがどんなに停滞しても、季節は、時は、流れている。

この花をみて、なぜかそんなことを思ったりする。

たぶん、いま生きているというのは、運がいいのだ。

生き延ばされてここに居る、ということでもある。

 

(大げさかな)

 

去年のいまは何をしていたか、

来年のいまは何をしているか、

と、思ったりすることもある。

 

だけど、花の可愛さのまえでは、

そんなこと全てを、ふと忘れてしまう。

 

 

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数日前のこと。かかわっているダンス学校の学生のために「舞踊史」についての話を動画収録した。思いのほか大変だったが、良かった。

僕のメインの受け持ちは「創作・振付」なのだが、こちらは実技ゆえ「同じ場所に居る」ということの大切さが多大、なので、ウイルス状況をにらみつつナマで人数限定レッスン。それに先行して、「歴史」のレクチャーをオンラインで集中的に勉強してもらうつもり。

奇しくも、現代ダンスの生成期にもスペイン風邪のパンデミックが重なっている。第一次大戦、スペイン風邪、世界恐慌、、、。激しく世界が揺れるなかで、踊りもまた激しく生まれ変わっていったのだろうか。

ダンスの歴史は私たちの悲しみ喜び苦しみの歴史でもある。いま、こんな今を生きながら、祖先を想う。

発想にとって、過去への興味や感情はとても大切なのではないかと僕は思うし、過去は良くも悪くも僕らの原点なのではないか、とも思う。

僕自身、いまこの状況だから、ダンスというものの本来をさえ考えずにいられないし、創作や発表に対する取り組み方も連日あれこれ考える。そういうなかで、集中して歴史を話す時間を得たのは、大切な作業になった。

アフリカのドゴンやヌバのこと、トルコの旋回舞踊や足踏みによる祈りのこと、タリオーニ、ニジンスキー、ヴィグマン、ホートン、エイリー、カニンガム、土方さん、ピナ、、、。たどれば数知れない人のことがあり目眩がしたが、その目眩の中で、なんだかまた血が騒いできた。

人は本当に遠い昔から、この地上の隅から隅まであらゆる場所でダンスをしてきた。喜び苦しみ悲しみがある場所すべてにダンスは生まれるのだ。すべて素敵だったんだろうなあ、すごかったんだろうなあ。そう想像し妄想し、踊りたくなる。踊っても踊っても、もっと、としか言いようの無い誘惑が、ダンスというものには確かすぎるほど、あるのだ。

(僕のクラスやワークショップは全て実技だけれど、いづれ、舞踊史のレクチャーも一般の方向けに数日間やってみたくもあり、もし興味ある方がいらしたら、ぜひ声をください、企画します。)

そういえば、ナチョ・ドゥアートが改訂振付した「ラ・バヤデール」を数日前にテレビで観てとても良かった。もとはマリウス・プティパの有名振付だが、このようにして生まれ変わるのを見ると、なんだか、歴史というものの意味が伝わってくるように肌がざわめいた。少し前に観たアクラム・カーンの「ジゼル」でも歴史的なダンス作品が生まれ直す瞬間を深く感じた。

僕が学んだ師は日本に舞踏を生成したメンバーのひとりでもあり、そのすぐ先をたどればノイエタンツがあるし、その先をたどればクラシックも縁遠くはない。なんて思えば想像力がひろがる。学びと創りは刺激し合うのだろう。

踊りは、踊るという行為は、どこかで祖先に繋がっているにちがいない。ダンスは世代から世代へと何かを渡し繋げながら、新しく生まれ変わってゆく。

ダンスの身体は歴史を呼吸している身体でもある。

そう思う。

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音が与えてくれる心、というものがある。

ダンスを通じて、そんなことを思うことが多かった。

 

活動自粛となって以来、

公演作品とは別に、

ただ純粋に音楽を踊りたくて、ひとり稽古をしている。

 

そのなかに、マーラーの亡き子を偲ぶ歌」という題名の曲集があり、

新しい思いを導いてくれた。

 

長く、ずっと心にあった曲だが踊ることはこのたびまでなかった。

壮大なシンフォニーにもかかわる歌・旋律・情。

 

踊らなければ聴こえてこないものが、

この音楽にはものすごく詰まっている。

 

受容。

 

音楽に射つらぬかれることから、はじまる。

 

いまはスタジオがないから、自宅の片隅で稽古する。

生活空間の一部で我を壊しくだくのはなかなか難しい。

発表とか作品とか言う前に、ただただ「聴く」ために稽古する。

 

修業時代の感覚に戻っている。

さぐる。さがす。

というようなことを、なぜか無性にしてしまう。

 

踊りの種はあらゆるところにあるが、

聴覚と舞踊感覚との関係には特別なものがあるように思う。

過去作の「かなたをきく」という公演の根にあったテーマにもつながる。

 

 

存在することについて、

希望について、

とてつもない深さと広さを、

マーラーのこの歌はあらわし響き渡る。

 

音楽にひたすら溶け込もうとする。

それは、タマシイに身をゆだねることにも似ている。

これは、ダンスの醍醐味のひとつかもしれない。

 

音楽はタマシイの声で、踊りをおこすのだ。

 

自分のナカを表したい気持ちとは別に、

他なる存在に近づきたいという気持ちが、

踊るとき大きい。

 

きこえるものに、身をよせる。

心身をいったん他者に預けてみる。

他者のココロに溶けてゆこうとする。

音楽に溺れる。

感極まった時に、自分の中に「誰か」が入り込んでくる。

 

それは、新しい心の「たね」が宿ることに、ちかい。

我を消す試み、と言うと大げさか、、、。

 

ダンスの作品をつくるとき、

僕はたいてい自分で音や音楽をつくる。

だから、

誰かの作曲した音楽を踊るときは、

特別その人の音楽でなければならない、というときだ。

 

他者の音楽を踊るというのは、

他者のタマシイを呼吸するようなもの、だ。

 

そう思う。

 

踊ることは、タマシイの呼吸

とも言えるのではないかと、

いま、本気で思う。

 

踊る、ということを考え直す時間。

生きる、ということを考え直す時間。

ここにいる、ということを考え直す時間。

 

そんなふうに、いまこの異様な状況の、時の流れを噛み砕いている。

 

※東京ではまだ緊急事態宣言が解除されない状況で、窮地が続くなか、僕が現在確信をもって出来ていることは、結局は、淡々と稽古する、個というものを確かめ直す、ということにつきております。

表には出なくとも、止まらないこと。持続。ということなのでしょうか。

少なくとも、いまの「この時間」から何か深まってゆくものはあるはずとの思いで、ここは、時間をかけた作品づくりの期間と認識しております。

じっくり温めたものでないと、自信をもってお見せすることが出来ないので、じたばたせずに稽古を重ねるしか、能がありません。

疫病による中断と危機は、少なくとも、自分の中身が枯渇して何も出来ないのとは、まったく違う状況です。

生活は困難ですが、どんどん何かが溜まり高まり、うねってゆくのを感じます。

 

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前の写真の数日後、同じ場所なのですが、

なぜか、

じっと見入ってしまいます。

風にのこされた花びらひとつ。

なぜか、心を刺します。

いま、、、。

 

 

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世界中が同じことで困って長い。

こんなことは初めてだ。

深刻、とはこのことか、、、。

 

このウイルス状況を「戦い」と呼ぶ人の気持ちはわからなくないけれど、

でも、僕は、あんまり「戦い」という言葉を使いたくない。

 

荒ぶる言葉をつかうと、すさんだ心になってしまう。

気持ちを引き締めなければならない状況だけれど、心がすさんではいけない。

人間は心の生き物だ。

心がすさぶと、なにもかも、本当に壊れる。

言葉には心をつくってゆく働きがある。

 

大変な状況でも、良い言葉によって、人は静かな心になれる。

静かな心からは、必ず知恵が生まれてくる。

すさんだ心からは、必ず破壊が生まれてくる。

 

言葉に敏感でいたい。

心は言葉によってつくられる。

 

このウイルス地獄のなか、

知恵を出し合って、協力しあうべき事柄が、刻一刻と増えている。

戦争と真逆に、かつてないほど人と人が支え合う心が試される。

 

世界は長いあいだ対立と競争の図式で過ごしてきたが、

ここからは、共感と友愛が、重要なテーマになる時代がくると思う。

 

だけど、それは同調圧力を生みやすい状況でもあると思う。

いつのまにかトップダウンによる行動が増えてゆくことも、こわい。

ひとりひとりが自分の考えを失わないように工夫しなければならない。

 

いかに個としてあり、かつ、互いに尊重しながら共通の困難を乗り越えてゆくか、、、。

 

コロナ後には大きく世界が変わっているだろう、という意見があちこちから聴こえる。

どう変わるのか。

どう変わるべきなのか。

その鍵を握っているのが、いま刻一刻の行動や考えなのだと思う。

 

僕自身がなんとなく予感しているのは、これは単なる災いではなくて、さまざまな価値やシステムや思考回路や生き方などの、

「再構築・再編成」への準備期間なのではないかということだ。

 

(引き続き、いろいろ考えてみたい)

 

 

 

 

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負けたくない、と思いながら過ごしている。

 

「命からがら踊る」

 

そうとでも言うしかない姿を観たことがある。

1985年の早春、土方巽さんが亡くなる直前のこと。

有楽町に出来たばかりのマリオンで『舞踏懺悔録集成』と題するフェスティバルがあって通った。

ざんげ、という言葉がダンスに結びついている。そこに誘惑された。

そのなかで、大野一雄さんが『ラ・アルヘンチーナ頌』を踊った日があった。

土方さんが演出した中でも特に有名なひとつだが、その冒頭部分で「命からがら」という感触を強く受けた。

 

ものすごい音圧でパイプオルガンの音が鳴り響くなか、老いたダンサーが必死になって立っている。

 

舞台の始まりの、そのわずかな時間が、本当に心に残った。垂直に立っている、ということ自体が、ものすごく劇的なことなのだと思い、立つ、あるいは、立とうとする、ことこそが人間が人間として生きている証拠の姿なのではないか、と思った。あの舞台を観たことは、僕のダンスに少なからず影響しているかもしれない。

 

「立つ」

 

ということは、僕にとっては「抗う」ということに、びっちり重なっている。

襲いかかってくる何者かに対して、立つ、立ち続けようとする、ということは何よりの抵抗なのだ。

僕は強さというやつに恐怖を感じてきた。怒りと反抗をも、感じてきた。どこにもないオドリを踊りたいという欲望も、強いものへの抵抗心ゆえかもしれない。

他者に対しても、自分自身に対しても、正確に立っていることは、僕にとって半世紀以上生きてなお簡単でない。

いま、現在の、この、どうにもならない危うい日々、のなかでそのことをまた思う、思い続ける。

 

「僕は必死でないと立っていることさえ出来ない」

 

どうすれば、堂々と、きちんと、立っている、ということが出来るのだろうか。わからない、わからない、と思いながら、へんちくりんな畏れと執念がないまぜになって、ダンスという場所に迷い込んだ。執拗にダンスを信頼するのは、ダンスが立つことをめぐる芸術だからだ。

 

「命は形に追いすがる、形は命に追いすがる、、、」

 

そんな言葉がある。

ダンサーにはあまりにも有名な、土方巽さんと大野一雄さんの対話の一節だ。

禅の公案を思わせるようなその言葉には、ダンスの心が見事に表現されていると、僕は思う。

カタチあるもの全てはイノチに関わっていることを、踊りは僕らに教えている。

 

危機のなかで、僕らはイノチに気付く。

もう少しでも生きていたい。生きて、何かやってみたい。

そう思う力が、僕らの身体と心を一つにして、エネルギーを発するのではないかと思う。

「いま、いかに立つか、、、。」

 

 

 

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