【400文字作文】悲しいこと 嬉しいこと

キッチンからリビングを眺めると、彼はソ
ファの左側に座っていた。いままで、その空
いている右側は私のための空間だと思ってい
た。でも今日は、彼の右側に座る自分をイメ
ージできなかった。
ケータイを閉じる音がして、私は彼と知り
合った時のことを思い出した。この人はきっ
と寝る時もケータイを離さないんだろうな、
と思ったのが、最初の印象だった。
私はリビングへ行き、テーブルの上に黒い
スパークリング・ワインのボトルを置いた。
彼と初めて寝た時も、これを一緒に飲んだ
後だった。覚えているだろうか……。
この男に、ずっと触れていたい。と思った
ことは、いくつもあった。この恋もそうだ。
でも、この男の文化にずっと触れていたい、
と感じたのは、その男が初めてだった。
キッチンへ戻り、私は天気の話しをするよ
うなトーンで彼に言った。
別の人と、結婚することにしたの。
【400文字作文】嬉しいこと 悲しいこと

私の耳と耳の間では、まだグラスが砕ける
暴力的な音が響いていた。そして、その音は
ゆっくり遠ざかり、自分の荒い呼吸の音しか
聞こえなくなった。
その遠ざかる音は、夜の波の音に似ていて
私は、女と行った夜の海を思い出した。妻が
いることを女に打ち明けると、女は何も言わ
ず砂浜に打ち上げられた淫らなゴミを、白く
泡立つ海へ投げつけた。その時私は女に言っ
た。そんなことをしても何も変わらないと。
その言葉は、今の私にも似合っていた。
女から、別の男と結婚することになったと
聞かされ私は、グラスを床へ投げつけた。
その破片を集めながら、飲むでしょ?と女
は言ったが、私は「別の」という女の言葉が
喉につかえ、返事ができなかった。
テーブルには、黒いボトルが立っている。
女はいつも、嬉しいことや悲しいことがあ
ると、このスペイン産のスパークリング・ワ
インのコルクを、静かに開けるのだ。